64 もとかの目覚め
ハッともとかが目を開けると、家とは違う見知らぬ天井が瞳に映る。
自分は今日も同じ天井を見るはずだった、と記憶の片隅から誰かが囁きが響くがそれを意識する前にその囁きは遠くへと消えて行ってしまった。
目だけを動かして周囲を見ると、点滴のバッグやバイタルサインを取る機器が目に入った事で、どうやら自分は、聖典旅団の司教と戦った際に病院に担ぎ込まれる怪我を負ったらしい…と判断する。
「そうだ」
水分不足でかすれた声で呟いた後に、思考を纏める。
自分はここ数週間、同じ結末に至る夢をずっと見続けていた、今日も自宅のベッドで目覚めると確信していたが病院で目覚めた、それはどう言う事だろうか?
そして、あのザイツェフと名乗った司教との戦いで傷を負ったはずだが、その痛は全くない。
情報が足りない、自分の携帯端末が無いかを慎重に身を起こしつつ探すと病院のベッド脇の複合テーブルの上に充電ケーブルをつないだ状態でそれが置かれていた。
「何が起きたの…」
病院用のパジャマがはだけないようにしながら端末を取ると、天井のスピーカーから入院患者向けの朝のアナウンスが流れてくる。
時刻を見ると6時を過ぎた所、そして端末を開こうとすると病室のドアが開く音がしてカーテンが開けられる。
「あ、栗原さんおはよう。目が覚めたのね、はい検温と血圧を取るからよろしくね」
若い看護師が夜勤明けの顔で言って来るのに従いながら、言葉を紡ぐ。
「すみません、状況が呑み込めないのですが。ここは総合病院ですか?どうしてあたしがここにいるんですか?」
「あ、そっか。当然の疑問ね。あとで医師が回診にくるからそこで説明させてくれないかな?まず、あなたの安全は確保されているわ。そして、ここに運び込んだのは宝翔学園の養護教諭の方だから安心していいからね。今日は重傷を負ったあなたの検査を集中して頂戴。問題がなければ明日にでも退院ができるんじゃないかな」
「重傷ですか!?どこも痛くないんですけど」
「自分の感じる範囲で異常がない事はいいことよ。あたなの怪我はHSSの誰かが治してくれたみたいだけど、私が知っているのはそこまでだから、回診まで待っていてね」
そう看護師が検温と血圧測定を済ますと、各種処置用具やカルテなどの情報が入ったPCの乗ったワゴンを押して病室を出て行く。
1人残されたもとかは、中断された形になっていた携帯端末からの情報収集を始める。
ホーム画面を開くと、メール、ショートメール、HSS用の連絡アプリにかなりの数を表示しているバッジが付いている。
まずは、ショートメールを開き家族のものを探す。そこには、もとかを心配する両親の連絡が入っていた「目が覚めたら連絡お願い」と顔文字スタンプ付きのメッセージを見て、口元を綻ばす。
「ちょっと早いけど、いいよね」
そう言って、父親の端末に電話をするとすぐに応答があった。
「もとかか!?」
父親の勝俊の勢い込んだ声が聞こえる。
「うん、お父さん。心配かけてごめんなさい」
「そっか…目が覚めて良かったよ」
電話を通して、ほっと息をついた勝俊の息遣いを聞いて、心配させた事に胸がチクリと痛む。
「あたしは、怪我をしたけどもう回復してもらったみたいだから大丈夫。今日は検査をして医師と話をし退院するかがわかるって、看護師さんが言っていたから」
「本当か?どこか痛い所はないのか?」
「うん、大丈夫。腕が良い治癒魔法使いが治してくれたみたいだから」
「わかった、相手の名前が分かったら父さんと母さんはお礼を言いたいから教えてくれ…。あ、母さんっ」
ドザドサッという音がした後、スピーカーから母の恵美の声がしてくる、どうやら携帯を父から奪ったらしい。
「もとか、大丈夫なの?」
「うん、父さんにもったけど大丈夫よ。心配しないでね」
「もう、自分の娘が病院にいるのに、心配しない親はいないでしょ…。何か先生と話すみたいだけど詳しくあとで教えてよね」
「うん、約束する」
「それで、一つだけ聞くわよ。もとかはHSSで何回も危ない目に遭っている。それでも、まだ戦うの?」
心配の色を帯びた母の声に、それまで平静にしていた自分の仮面が崩れる。
「うん、確かに危険な事ばっかりだったわよね。でもね、ここで降りたらあたしが後悔するのよ。一般生徒に戻ったとしても、来訪者との戦いは終わらないし傷つく人はこれからもいるから、あたしはそれから目をそむけたくないの」
「ふう…頑固なのはどっち似なのかしら。わかったわ、もとかの好きしなさい。声が聞けてよかったわ、それじゃあね」
「はぁい」
電話が切れると静寂が病室に戻る、医療機器の音が響く中もとかは家族と話した事で社会的なつながりを実感し、自分が生きている事を確信する。
「こうしている暇はないわ」
瞳に強い光を取り戻したもとかは、携帯端末のアプリを開いて朝食が来るまで各所に連絡を始めたのだった。
…
5:20 如月家
美冬は、廊下を歩む兄の足音に気が付いて目を覚ます。
まだ暗い室内の天井を見つめてため息をつく、いくらルーティンとは言え激闘を繰り広げたその翌日に日向神社の稽古に行くのは、昨日の簡易診断をした兄の状態を考えるとオーバーワークだ。
「よっと」
ベッドから起きて、フリルのついたお気に入りの寝間着のまま玄関へと向かう。
朝に弱い美夏は起きてきていないようだ、無理も無いなと思う。
「楓にい、今日は稽古を止めておいたら?」
予想通り、朝稽古と学校へ行く準備をした楓が闇切丸を携えて玄関で靴を履いていた。
「いや、今日は体を動かしたいんだ。無理はしないから」
振り向いた楓の顔色はいつもと変わらないようだ、目立った疲労が見られない。
「…本当に無理しない?」
「ああ、無理をすると美冬と美夏ねえを守れないから。自分の限界はわかってるよ」
そう言った楓の瞳に、白髪になった自分の姿が映っている。
「はあ。もう1度言っておくけど、わたしも美夏ねえも昨日のアレをした事は後悔していないし、この白髪も気にしていないわ。いつまでも引っ張らないでね」
「ああ、分かったよ美冬。それじゃ、また後で」
そう言って、楓はドアを開けて出て行く。その時に吹き込んだ風が意外に冷たくて美冬は軽く身を震わせる。
(楓にいにとっては、いつまで経ってもあたしは妹か…)チクリと自分の心を刺す痛みを振り払うように、別の事を口にする。
「楓にいのために、今日の朝食のお弁当は美味しいものでも作るかな」
すっかりと目が覚めてしまった美冬が居間に戻ると、美冬が起きて来た所だった。
ダボっとしたスウェットを着ているが、それは量感のある双丘がそれを持ち上げているからであって、袖は余っているが胸元はピッチリとしている様子に、昨日の入浴の事を思い出して同性であっても視線がそこに向かってしまう。
「おはよぉ美冬」
ゴシゴシと目をこすりながら、美夏があくび交じりに言う。
エルフ特有の長い耳が斜め下を向いている所を見ると、まだ眠いらしい。
「おはよ、美夏ねえ。楓にいはさっき出たよ」
「あーそう。無理しないといいけど」
「朝ごはんは、あたしが作るから美夏ねえは着替えてきたら?」
「美冬も、まだ寝間着じゃない…」
ぬぼーとした状態を引きずっている美夏を見ながら、手早くエプロンを付けた美冬。
「あたしは、朝ごはんの後に準備するから大丈夫、いつもの事でしょ」
「はーい」
素直に洗面所へと向かう美夏、まずは顔を洗う事にしたようだ。
その姿を見送って、美冬は冷蔵庫を開いて食材の吟味を始める、メニューはいくつかの候補を決めているのでその中から、厚切りハムとチーズ、キャベツ、食パンを取り出して手早くホットサンドメーカーに挟んで火をかける、何回かひっくり返し数分で香ばしい匂いがしたら出来上がり。
その間に昨晩の残り物の味噌汁を温める、パンに味噌汁は人によって賛否両論はある。しかし如月家は味噌味が好きなので全然気にしない。
牛乳、豆乳のパックを出してそれぞれのコップ、皿、箸を出している所に制服に着替えた美夏がやってくる。
テレビをつけて国営放送にチャンネルを合わせた所で、携帯端末を見ている美夏に声を掛ける。
「ご飯できたよー」
「ありがと」
端末をロックして美夏は席につき、いただきますをしてから食べ始める。
「美冬、さっきもとかさんから連絡があったわ。目が覚めたみたい、今のところ体の不調はないけど検査をするみたいよ」
「ああー…。目が覚めて良かった」
それを聞いて、テーブルに突っ伏す美冬、蘇生魔法が失敗してとは思いたくなかったが今の今まで不安だったのは確かだった。
「そうね。それ以外に連絡があったけど。今は私達の態勢を整えるが先、今回使った魔石や装備の修復などの金額の見積もりと、HSSからどれくらいの補償が出るかの話し合いをしないとね。あと、蘇生の件で母さんに報告しないと…」
ホットサンドを食べてから、美夏がぼやく。
戦闘は終わってもその後の処理を行う事の必要性、これはブレイカーとして最初に教えられる事だ。
もちろんブレイカーは来訪者や、犯罪者に対して戦う組織である。
ただ、初期の課程ではその後方支援にあたる部分から教え込まれる、その過程でブレイカーの多くは後方の重要さを学ぶと言っていい。
「ま、それはあたしがメインでやるから。美夏ねえは楓にいと話して方針を決めて?ギルドが出て来てもあたしが出るし」
そう控えめだが、愛嬌のある笑みを見せる美冬。
「そうね、美冬にまかせれば大丈夫だけど。昨日、蘇生魔法を使ったあなたも体調に気を付けるのよ、厳しそうだったらすぐに相談してね」
「うん、了解。じゃ、あたしは着替えてくるね」
エプロンを外して美冬が身を翻して自室に向かう、その姿を見て美夏は笑みを浮かべてから端末の画面に目を落とす。
その画面に今日の予定を素早く入れ、時空振動予報を確認してその変数も入力を済ませると画面閉じる。
そうして、もう一つ作っていたホットサンドを楓のために包み始める。
「あの子、無理してないといいけど」
そう、今は朝稽古をしている楓に思いを馳せる。
自分の大切な弟と妹のケアするのは、長女の自分だと言い聞かせながら美夏はパン用の保存ボックスをカバンに入れたのだった。
パンの朝食に味噌汁はいいのか、という命題で脳内会議をしたところ僅差で味噌汁派が勝った事を記しておきます




