40 最終決戦(2)
アヴェルレスの位置する異次元世界ユーゲニアは、その異空間ごと激しい揺れに襲われた。
立っていられなくなるほどのそれは長続きせずに短時間で停止したが、地の底からの爆撃にも似た震えが制止したとき、そこは直前までの世界とは何かが決定的に違っていた。
閉ざされた地下の大広間に集まるアレスタたちには知りようもなかったが、このとき、オドレイヤ邸を取り囲む湖全体が紫色に怪しく光り輝き、危険な瘴気混じりの魔力が大量に流れ出し始めていた。
オドレイヤ邸を中心とした巨大なゲートの発生である。
その先は異界の果て、人知の及ばぬ魔界。
自身を「怒れる悪霊」と名乗ったフーリーの生まれ故郷だ。
「魔界生まれである私の力をもってしても、そう長くは扉を開いていられない。ゲートが朽ちる前に急がないと駄目ね。さあ、覚悟なさい。決して緩まぬ頑丈なる魔界の鎖を、あなたたちの首にもくくりつけてあげるわ」
フーリーの掲げる右手を中心として、邪悪なる瘴気の渦が発生する。
それは見る見るうちに巨大化して、やがて天井へ届くほどになった。
その渦の中心から飛び出すように、いくつもの鎖が現出した。
「苦々しいのよ、私は。あまりにも、ね」
すでに重傷を負って床に倒れたまま動けずにいるイリシアとナツミの二人へと、肉食動物が飛び掛かるように伸ばされた魔法の鎖が絡みつく。
「くっ! ううっ……!」
まとわりついて全身をぎちぎちと締め上げる鎖に耐えきれず、二人の発する小さな悲鳴と唸り声がフーリーを高ぶらせた。
「そう、もともと私は魔界を牛耳る魔族どもの奴隷だった。ハクウノツルギとやらのおかげで魔界を脱出した今も、こうして目には見えぬ魔界の鎖につながれている捕らわれの身なのよ。だから次元の傷が存在するこの館から遠く離れることもできずにいる。けれど……そう、このアヴェルレスは私にとって最高の世界だよ。魔族なんて一人もいないのに、魔界にも似た心地よさで溢れているじゃないか。人間同士の争い、裏切り、欺瞞、血と憎悪のエネルギーが足りなくなることはない」
「あなたが……あなたが!」
強靭な鎖に自由を奪われながらも、意識だけは手放さずにイリシアは血を吐き出しながら叫んだ。
アヴェルレスを苦しめ続けている諸悪の根源を見据えたと、露悪的に冷笑を浮かべているフーリーへの敵意や闘志をむき出しにした。
けれど、そんな彼女に向かってオドレイヤが否定の言葉を投げかける。
「いや、この街の争乱を生み出しているのは人間の欲望だ。彼女はそれを後押ししているにすぎん」
「ああ、そうだとも、オドレイヤ……。貴様の一族に暴力の行使と支配を任せている限り、私はこの小さな箱庭で約束された幸せを得られるのだろう」
オドレイヤの一族……その初代当主であるエンブ・オドレイヤは、当時の流刑地である異次元世界ユーゲニアに追放された犯罪者であったが、彼は人並み外れた野心と才覚でアヴェルレスを支配するに至った。一代でマフィアの基礎を築き上げた彼は組織の頂点に立ち、ユーゲニアに保管されていた魔剣ハクウノツルギを奪い取り、より深い異次元の世界を覗こうとした。
結果、魔力適性の高かった彼は次元の壁を切り裂くハクウノツルギの実力を出し切って、人の手では届かぬとされていた魔界へとたどり着く。それは魔界でも辺境の、ほんの入り口に過ぎなかった過疎地域ではあったものの、魔族を恐れぬ彼は魔界でも大暴れしたのちに一人の少女――それは奴隷として扱われていた人型の精霊であった――を戦果に持ち帰ったのだが、その少女こそフーリーであった。
以来、助け出されたことを恩義に感じた彼女はエンブに魔力的な恩恵を与え、ますます彼の異界における天下は盤石になった。
だが、自らを異次元世界の流刑地に追放した帝国政府への復讐を果たす前に、老いた彼はあっけなく病死を迎えてしまう。
エンブの死後、支えるべき主人を失って眠りについたフーリーは自身の魔法によって長らく水晶の間の水晶球に閉ざされていたが、数百年後、幼き日のオドレイヤが彼女を見出した。
高い魔力を持ち、幼くして野心にも富んでいたオドレイヤ。その姿にエンブの面影を見た彼女は彼の後見人となり、魔法の術を教え、陰ながらサポートすることで彼をアヴェルレスの闘争における勝利者にしたのであった。
ある意味では、強大すぎるオドレイヤの魔力や魔法はフーリーに依存していると言っても過言ではない。これに生まれ持っての才能と、アヴェルレスに張り巡らされていた魔力吸収システムが組み合わさり、最強最悪の魔法使いが誕生したのである。
「さあ、フーリー。このままファンズにも鎖を頼もうか。二度と我々に反逆できぬように」
「精神が壊れてしまわねばいいが」
うなりを上げる瘴気の渦とつながったフーリーの指先から飛び出す魔界の鎖が、獲物へ飛び掛かる蛇のように勢いよくファンズへと伸びる。
すでに魔導書もなく、ファンズの回避は間に合いそうにない。
このまま彼までもが鎖に縛られてしまえば、完全にアレスタたちの敗北が決定するだろう。残された三人では逆転を狙うことも難しく、勝ち目がなくなってしまう。
――だが、ではどうすればいい?
カズハの展開する魔法のベールに隠れながら、状況の推移を見守るしかないアレスタは固唾を呑んでいた。
「……く、くそ! なんとかしなきゃ!」
すでに縛り上げられているイリシアとナツミに続いてファンズが窮地を迎えたことにより、たまらず動き出そうとしたのはカズハだ。
「待って」
けれど、考えもなく見切り発車で飛び出そうとした彼女の気配を察知したアレスタは反射的に腕を伸ばして、その場に立ち止まっているようにと彼女を抑えた。
臆病になっていた自分を情けなく思いつつ、一方では冷静でいられる自分を頼もしく感じながら。
……そうだ。そうなのだ。
まだ負けたわけではない。
あっさりと諦めていい状況ではない。
「ごめん。いつしか俺は自分が前に出ることを忘れていた」
治癒魔法使いとしての役割を期待されるあまり、自分が守られて後方にいることを当たり前のように感じていた。敵との戦闘そのものは自分のやるべきことではないと思い込み、いつもイリシアたちに任せてばかりいた。
肩代わり妖精のテレシィが奪われても、治癒魔法そのものが使えなくなったわけではない。
己に対してならば、今も変わらず治癒魔法を使うことができるのだ。
ならば結論は一つである。
フーリーが転移してきてからというもの弱気になっていた心に鞭打って、自分が矢面に立って戦う決意をしたアレスタは一度ゆっくりと深呼吸をした。それから汗ばんだ手でジャーロッドを握りしめ、ヘブンリィ・ローブの庇護下から飛び出す。
今の自分に何がどこまでできるかはわからない。
けれど、傷ついたイリシアたちをかばうことくらいはできる。
何度となく、幾度でも、絶え間なく間断なく、どうしようもなく痛みが我が身に降りかかろうと、それでもアレスタには屈さずに立ち向かえるだけの力があった。
精神果樹園の魔力が続いて治癒魔法が発動できる限り、誰かを助けたいと願う自分が真っ先に倒れるわけにはいかなかった。
「……誰?」
突如として虚空から姿を現したように見えたアレスタにフーリーは警戒した。転移魔法の発動は感じられなかったため、アレスタが別の空間から転移してきたのではないとフーリーは理解したが、それはつまり、高い魔力を誇るフーリーにさえ見抜けぬ方法でずっと姿を隠していたという意味になる。
もはや逃げも隠れもしない心積もりでいるアレスタ。心に巣食う死への恐れを勇気によって投げ捨てて、なるべく勇ましく見えるような顔つきで真正面からフーリーに対峙する。
「彼女たちの鎖をほどけ。その魔法を解除しろ」
「いきなり何を、馬鹿なことを……」
当然これに素直に従う理由もなく、アレスタのことをよく知らぬフーリーは頷かない。
ただし、己の邪魔をするために現れたらしいアレスタを敵と判断したことだけは事実だ。魔界の鎖なのか、別の魔法なのか、とにかくアレスタに向かって攻撃することを選んだフーリーは右手を掲げた。
ならば、やはり彼女を止めるためには戦うしかない。
アレスタは治癒魔法の準備をしながら、力強く一歩前に足を踏み出す。
「何をするつもりかは知らないが、そう簡単に俺は屈したりはしない! 並大抵の攻撃では止められないと覚悟してくれ!」
もちろんこれは自分を鼓舞するための言葉でもあったが、このとき、小さな奇跡が起こった。
大蛇の姿をかたどった形状の杖であるジャーロッドが、それをかざすアレスタの強い意志と魔力に反応したのだ。
「なっ!」
シュルシュルと音を立てながら杖の先端が伸びていき、あたかも意志を持った縄が絡みつくようにフーリーを拘束するジャーロッド。
もちろんそれはフーリーが呼び出した魔界の鎖に比べれば非力でしかなく、通常であれば足止めにもならない。
なのに彼女はそれを即座に振り払えず、抵抗するどころか、かえって迎え入れるように一種の快感に陶酔した。
「あ、ああ、ああ……っ!」
自分の身体を縛り付けるジャーロッド越しにアレスタと触れ合うことで、秘められた彼の魔力を感じたのだ。
アレスタの使用する治癒魔法の力、その奥にある鮮烈なる創造の力、それは魔族の支配する魔界には存在しない「人間」と「奇跡」の力……。
あえて身動きせずジャーロッドに縛られたままで、喘ぎ声を漏らし恍惚とするフーリーは対峙するアレスタの目を覗き込んだ。
その視線に含まれるのは敵意や軽蔑ではなく、誘惑と、獲物を狩る意志である。
「なるほど、ああ、なんということ。お前が不思議な治癒の力を使う魔法使いか。ならば殺すのは惜しい。殺さずして、お前を手に入れたい。魔界の鎖で……いや、お前の意志で私を選べ」
その場で両腕を強引に広げたフーリーはジャーロッドの戒めを解いた。
攻撃はせず、今はまだ敵対するものではない。
あくまでも友好的な姿勢を装って、上から目線でアレスタに語り掛ける。
「来い、私とともに。これから私はオドレイヤを先陣とする手勢を率いて、生まれ故郷である魔界へと侵攻する予定だ。魔族どもは難敵だが、従順になった貴様らが手駒となれば、群れることを嫌う魔族を一人ずつ殺していける。魔界を手中に収めた時、私たちは貴様らの世界も支配できるだろう」
「支配して、どうする……」
「すべてを得られる。支配するとはそういうことだ。貴様の使う治癒魔法も、魔界の力と組み合わせれば、より強力なものとなるだろう」
「より強力な治癒魔法……?」
「そうだ。治癒魔法の極致である、蘇生の魔法……。つまり死んだ者を生き返らせることができるに違いない。世界の法則を破壊する邪法。それは瘴気の渦巻く魔界でこそ到達できる。さあ、私のもとに来るのだ」
ある意味では、抗い難い魅力に満ちた提案だった。
己の才能や恵まれた運命、過ぎた力に溺れることほど気持ちの良いものもない。純然たる悪であればあるほど、突き詰めれば正義よりも刺激に満ちたものとなる。
強さは快感だ。
支配は心地よい。
しかしアレスタは誘惑の一切を拒絶する。
「断る! それらすべての悪意に基づく野心など、俺の求めるものじゃない!」
言葉には力がある。想いのこもった言葉には、より強い力が。
知らず知らずのうちにアレスタを取り巻こうとしていたフーリーの邪念が、それを否定する彼の一喝によって振り払われる。多種多様な魔法を得意とする彼女の誘惑や暗示も、仲間を想うアレスタの意志を打ち砕くことはできなかった。
だからこそ、信頼を受ける仲間たちも彼の想いに応えるのだ。
「アレスタ殿、よくぞ申された!」
「また新手か! ええい、次から次へと!」
身を隠すカズハの魔法、ヘブンリィ・ローブの効果範囲から単身で飛び出してきたブリーダル。そんな彼へと射殺さんばかりの怒りに満ちた目を向けるフーリーだが、すぐにその姿を見失った。
それまで耐えに耐えてきたブリーダルによる、認識を阻害する魔法が発動したのだ。年老いた彼の生半可な魔法ではフーリーにもオドレイヤにも通用しないが、最大限に効力を発揮するであろう最適のタイミングを見計らった。
黒い霧が視界を閉ざすように周囲へと充満して、それは本当に短い間ではあったが、わずかな隙を作る。
「……いただきだ!」
ヘブンリィ・ローブの加護下からブリーダルが飛び出した直後、相手に気づかれない距離まで魔法のヴェールに隠れたまま接近していたカズハ。アレスタに抑えられてから辛抱強く今まで様子をうかがっていた彼女は、その一瞬の隙をついてオドレイヤから魔剣を奪い取った。
すべては形勢逆転を狙ってのことである。
このまま魔剣を誰かに手渡せば、少なくとも反撃の糸口にはなる。魔力に応じて威力を発揮する魔剣なので、カズハは自分よりもふさわしい使い手であるに違いないと判断して、アレスタにハクウノツルギを渡そうとする。
それに気づいたのか、手を伸ばしてアレスタも受け取ろうとするが――。
「待て! やらせはせん! ……が!」
即座に振り向いたオドレイヤは苛烈なる火炎弾を無数に放とうとして、その寸前、はっとした様子で彼女への攻撃をためらった。
それは、誰が見ても彼女をカズハだと認識してのことのように見えた。
「たかが盗人の小娘ごときに何をためらっている!」
しかし、魔剣を抱きかかえてアレスタのもとへ逃げるカズハを狙って、フーリーが魔法を発動した。よくわからぬ事情で攻撃に踏み切れなかったオドレイヤと違い、悪霊である彼女にはためらいなど存在しない。
いくつもの輝ける光の矢が殺意によって引き絞られ、幻想の魔弓からカズハに向かって次々と放たれる。
それらは意図的に急所こそ外されたものの、致命傷を避けつつも全身を貫かれたカズハは大量に血をまき散らして倒れた。
「カズハ――っ!」
心配のあまり声を枯らすほどに叫んだアレスタは彼女のもとに駆けつけたが、盾となるには間に合わない。
深々と突き刺さっていた魔法の矢が一本残らず消え去って、傷口から噴き出す血と痛みに、小さな身体を震わせるカズハ。今にも死に絶えてしまいそうな彼女を支えるようにして、強くも優しく抱きかかえるアレスタ。
慌てて治癒魔法を試みるも、やはりテレシィなしでは反応がない。
なのに諦めきれず、何度も何度も治癒魔法を発動し続けた。
それをあざ笑う声がする。
「くふふ……。この妖精の力なしでは、お前の治癒魔法も万能ではないらしいな。どうだ? 私のもとに来るというのなら、この妖精をお前に返してやってもよいのだが……?」
フーリーが言っているのはテレシィのことだ。アレスタにとって、治癒魔法を自分以外の誰かに使うためには必要な存在である妖精のことなのだ。
ほんの一瞬であっても、心が動いた事実を否定することはできない。
もしも傷ついた彼女たちを救えるのなら、悪霊とさえ契約しても構わないのではないか。
このまま全員が殺されるくらいなら、抵抗する余地もなく全員の自由が奪われるくらいなら、せめて自分の意志で彼女に降伏する選択肢もあるのではないか。
「いや、やっぱりそれは断る」
それでも最後にアレスタは首を横に振った。
今のままでは彼女たちに治癒魔法が使えずとも、現時点で他に残された方法が一つもないわけではない。
この場でフーリーを打ち倒し、悪の誘惑に屈することなく、自分の力でテレシィを取り戻す。
その先にこそ、人々のためにあろうとする彼の、本当に欲するものが待っているのだ。
フーリーの残虐性を拒絶するアレスタはカズハを抱きしめる腕に力を込めた。
すると、失いかけていた意識を覚醒させた彼女が目を開く。
「兄貴、アタシは足手まといになんか、絶対になりませんぜ……」
「カズハ!」
アレスタの腕の中であがいたカズハは身を半分だけ起こして、震える左手を床につきながら、懸命に右腕を前に伸ばす。
そして、血だまりの中に落ちていたハクウノツルギを拾い上げる。
「本当はこれをアレスタの兄貴に渡して後のことを任せたかったけど、そうじゃないんだ。母さんの形見、想い……平和をつかみ取るのは、誰かじゃなくて自分の力でないと! だから! だから……!」
傷だらけのカズハは自らの足で立ち上がった。
正面を見据えてハクウノツルギを構えた。
依然として止まらぬ血に震えそうになる足を踏みしめて、ジンジンする痛みと恐怖を勇気によって押さえつける。
このとき、覚悟を決めた彼女の身に一つの奇跡が――いや、ある意味では必然の変化が起こった。
カズハの血に濡れたハクウノツルギが、彼女の意志と魔力に反応したのである。
爆発的に刀身が伸びると、横幅も太く広がり、尋常でない魔力を帯びて輝きを放つ。同時に、魔剣を握るカズハ自身にも変化があった。オーラをまとうように黄金色の後光を放ち始めただけではなく、小さな彼女の背中から、左右へ伸びる二枚の大きな白い翼が飛び出したのだ。
あまりの出来事に気圧されたフーリーは事情もわからぬまま後ずさる。
「なんだ、その力は……。一体何が起こっている?」
「これは……お母さん? そうか、これがお母さんの力なんだ……」
母の形見だという魔剣を手に、その母の温かみを感じ取っているらしく、言葉にならない感慨に目をにじませるカズハ。
予想だにしない出来事を前にしたアレスタには何が起こっているのかわからなかったものの、彼女を警戒するフーリーは何らかの事情を察することができたらしい。
「ええい、貴様! ただの小娘ではないな! ……いや、そうか、オドレイヤ! 貴様が彼女への攻撃をためらった理由が今わかった! こやつ、お前の愛したサユリの娘……聖なる乙女の血を引くか! 魔族の天敵たる天孫の一族であるならば、ますます生かしておくわけには……!」
まっすぐに両手を突き出して、即座に魔法を発動させるフーリー。
空間を突き破って出現した無数の槍が、剣を構えるカズハへと襲い掛かる。
先ほど放った矢とは比べるべくもない。手加減なき速度と威力だ。
今度こそは本気で殺すつもりであり、まったく容赦していない。
「うるさい、邪魔だ! てやあっ!」
一方、ひるむことなく立ち向かうカズハは何か巨大な力に促されるように腕を振るった。
たった一薙ぎ、ただそれだけでハクウノツルギはフーリーの魔法すべてを打ち消した。
しかも迎撃したのはカズハに向かってくる魔法の槍だけではない。地下の大広間に充満していた瘴気を打ち消し、イリシアたちを束縛していた魔界の鎖を断ち切り、フーリーとオドレイヤにかかっていた加護や強化魔法さえ消滅させていた。
「まだ、まだだ……! アタシとお母さんの力、ハクウノツルギの力はこんなものじゃ……!」
再び大いなる一撃を振るおうと、すかさず剣を構えなおすカズハ。
魔法の右腕を失い、ボロボロになった左腕をぶら下げ、年相応に老けた風貌のオドレイヤが危機感をあらわにした。
これをまともに食らっては、さすがの彼らとて、ひとたまりもない。
「逃げろ、フーリー! それはもはや、ただの魔剣ではない! 天界の力を帯びた悪鬼払いの魔剣……いや、おそらく魔界送りの力さえ発揮するだろう! お前まで失ってしまう!」
「わかっているとも、オドレイヤ。……だが、今の一撃で力を奪われた! 転移もできぬ!」
魔法を使うことを諦めて、とっさに身を翻すフーリー。
この状況では勝ち目がないと見て、ひとまず足を使って撤退することにしたのだ。
「逃がしはしない!」
逃げるフーリーが一歩を踏み出すより早くカズハが踏み込み、前方へ向かってハクウノツルギが振り下ろされる。
魔法の剣先が通常の数倍にも伸びてフーリーを切り裂き、その背後には次元の裂け目が発生した。切り開かれた裂け目がつながる先は、もはや単なる異界ではない。
より深く、さらなる奥へと続く魔界。
閉ざされた地獄へと続く門だ。
ゲートの内側から赤々と熱せられた鎖が幾本も飛び出してくると、逃げる間もなくフーリーへとまとわりついて、彼女の身体を次元の裂け目の中へと引きずり込んでいく。抵抗することもできない彼女はやがて魔界の門へと飲み込まれ、その姿が見えなくなると同時に裂け目が音を立てて閉ざされた。
すべての力を使い果たしたのか、魔力を失ったハクウノツルギも砕け散った。
それを最後まで見届けて安堵したのか、緊張の糸が切れたカズハは意識を失って倒れる。
この場で何が起こったのかを正確に理解できた者は少なかっただろう。カズハ自身でさえ、おそらくすべてを理解はしていまい。
だが、確かにカズハの力によって魔界の悪霊であったフーリーは排除され、これで大広間に残る敵は一人となった。
「く、くそ、なんてことだ……」
その最後の敵であるオドレイヤは普通に立っていることもできず、脂汗を額に浮かべ、膝を床についていた。フーリーとの契約を失い、ますます魔法の力を奪われたのだ。
どうやらすぐには攻撃に転じないらしいと判断したアレスタは、視界の端でオドレイヤの動きに注意しつつも動き出す。
先端の折れたジャーロッドを投げ捨てて、フーリーが消え去ったばかりの場所へ駆け寄ったアレスタは、そこに残されていた小さな妖精を抱え上げた。
両手の中に優しく包み込んで、そっと顔の前に近づけて確認する。
ひとまず外傷は見当たらないものの、テレシィは弱り切って眠っている。負傷したイリシアたちに治癒魔法を使うためだと言っても、さすがに無理をさせるわけにはいかない。
下手をすれば完全に魔力を失って消滅してしまうかもしれないのだ。
「ありがとう。しばらく休んでいてくれ、テレシィ」
それを受け取ったのかどうか、直後にテレシィはアレスタの精神果樹園に入って姿を消した。
ハクウノツルギを振るったカズハの不思議な力によって最大の障害であったフーリーが消え、彼女と同時に消失した魔界の鎖から解放されたイリシアとナツミも立ち上がろうとする。
ブリーダルは魔道具の武器を捨てて、気を失っているカズハの治療にあたっていた。
広い地下空間における戦場の様相は一変している。
いよいよこれが最終局面と見て、なおも激しく闘志を燃やし続けるファンズが全員に向かって宣言する。
「ここまで来れば誰も手を出す必要はない、こいつは私が一人でやる! 悪と暴力の連鎖はここで、この場で私が打ち止めにすることにしよう!」
「ほほう、それは面白い……」
さすがのオドレイヤも今度ばかりは余裕がない。多くのものを失った今、冷静に劣勢となった己の敗北を予感する。
それでも彼は今まで直面した数々の敵に対して求めてきたように、敗色濃厚であっても最後の最後まで戦う意志を失わなかった。
すでに満身創痍のファンズと、極限まで魔力を失ったオドレイヤの一騎打ちが始まる。
「さあ、ファンズ。最後に私と踊ろうではないか。私と対等に争ってくれるのは、もはやお前だけだ」
「難儀な男だな、お前は。結局のところ誰にも受け入れてもらえず、何も得られず、今までそうやって孤独を感じていたんだろうさ。……愛を得たければ、まずは自分から愛を与えるべきだったな。振るうのが力では、向こうからも力しか返ってこない」
「なっはっは! それで心が満たされるなら、私にとってこれこそが愛だよ! 殴る、なぶる、殺し合う!」
オドレイヤは傷だらけの左腕を持ち上げ、力の入らない左手を無理に固めて握りこぶしを作った。
振りかぶって走り出すのはファンズのもとだ。
「ふふん! そんなもの、魔力がなければ児戯に等しい!」
魔法の使えぬオドレイヤは以前ほどには脅威でなく、彼の攻撃を軽やかに回避したファンズ。しかし彼もまた魔法は使えず、戦闘において役立つ魔道具もない。
とどめを刺すために突きつけるのは、同じように己のこぶしだけだ。
両者のこぶしが交差するように互いを打つ。
「ふぬぅ!」
「覚悟してもらうぞ、オドレイヤ。力によって貴様が閉ざしてきた数々の可能性の報いを受けろ。貴様を殺さなければ、我々に未来はないのだから!」
何度も何度も殴りつけながら、ファンズはオドレイヤからの反撃を身をそらして回避し、あるいはかざした腕による防御で乗り切る。
魔力を失って魔法が使えないとなれば、もはやオドレイヤに優位性はない。はた目から見ていても、明らかにファンズの攻勢が続いている。
オドレイヤを殺さなければ、彼らに未来はない――。
マフィアに所属する人間は一人残らずオドレイヤの洗礼によって刻印を授けられており、魔術的な仕組みによって異次元世界ユーゲニアの中に束縛されている。その刻印呪術はオドレイヤのオリジナルではなく、もとは異次元世界に送られる流刑者に施した「鎖」だったが、それを応用したのである。
一度でもマフィアに所属して刻印を身に宿した人間は囚人そのものであり、その術者であるオドレイヤの支配下で、この閉ざされたユーゲニアの牢獄に捕らわれてしまうのだ。
アヴェルレスに張り巡らされ、オドレイヤに力を与えていた魔力吸収システムとは、本来、マフィアの人間だけを対象とする契約術式であった。
だが、より陰惨な地獄を望むフーリーにそそのかされ、さらなる力を望んでいたオドレイヤはその術式を改造して、全市民を対象にした強力な術式に拡大しようとしたのだ。
それは、一歩間違えればアヴェルレスの市民を一人残らず死体人形にしかねない危険な術である。その計画を事前に察知したファンズの決断は早く、即座に裏切りを決意した。
部下としてその場に居合わせたファンズのアンチマジック体質のおかげで非道な術式の発動は阻止したが、オドレイヤの反撃を受けた彼は暴走した術式の代償を一身に受けることとなった。
強力な呪術でもあった破滅をその身に宿す。
すなわち、半死状態にも似た「半霊体」となったのだ。
結果として、魔力的に特殊な波長を帯びたファンズのアンチマジック能力は強化された。魔法に対する耐性が極限まで高まり、それを知っているオドレイヤもファンズのことを警戒した。
しかし、その身に破滅を抱え込んでいるからこそ、ブラッドヴァンを離反した時点でファンズに残された命は長くないと見積もられていた。
マフィアを異次元世界に縛り付けている刻印の呪術は、術者であるオドレイヤを殺すと消滅する。
同時に、強力な術式で魂を束縛されているファンズも死んでしまうだろう。
それでも、ファンズはマフィアに足を踏み入れてしまったナツミを自由の身にするためにも、鎖を断ち切るべく打倒オドレイヤを掲げたのだ。
「あのとき貴様が私の魂に埋め込んだ殺人術式、今こそ受けてもらうぞ!」
魔法抜きでの単純な殴り合いを二人で繰り返したのち、ついに力尽きたオドレイヤが反撃を諦めた瞬間、ファンズはこここそが勝負の終着点だと見定めた。
自分の身体に抱え込んでいたオドレイヤの強烈な魔法を解き放つ。
束縛と魔力吸収の刻印魔術が放出されると一筋のまばゆい魔力光となって、ファンズの胸元からオドレイヤへ向かって放たれた。それはオドレイヤの身体を貫き、飲み込み、死体を残さぬほどの粒子状の物質へと分解したのち、最後に一度だけ激しく光り輝いて消え去った。
「ふふん、思いのほか、あっけなかったな。しかし、これで、今度こそ終わりだ……」
オドレイヤに勝利して刻印の呪術から解放され、浄化されるファンズ。
しかしそれは肉体の消滅を意味していた。
「ちょ、ちょっと、あなたの体、消えそうになってない……?」
何も知らないナツミが不安そうな声でファンズに語り掛ける。
実際、今まさにファンズの体は光の粒子に分解され消滅しようとしていた。
己の死を悟ったファンズは振り返り、イリシアと支え合うようにして立ち上がっていたナツミに別れを告げる。
「お願いだ、ナツミ。どうか君の手で平和を取り戻してくれ。今後の街を、それからカズハのことを任せる」
「そんな、そんな……! あなたがいてくれないと、私は……!」
突然すぎる出来事を飲み込むことができず、悲しみと焦りに涙をにじませるナツミのすがるような声は、それを届けるべき相手がいなくなって大広間に反響した。
オドレイヤとファンズ。
対立する二つの組織でそれぞれ頂点に立っていた二人が相打ちするように消え去ったことにより、この瞬間、アヴェルレスを苦しめ続けた一つの戦争は終わりを迎えたのだ。




