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治癒魔法使いアレスタ  作者: 一天草莽
第三章 そして取り戻すべき日常

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34 炎の魔法使い、あるいは怪物

 イリシアは追われていた。

 誰に? その問いは正しくない。何に? のほうが説得力がある。

 それは炎の塊に、である。

 オビリアの火炎魔法が彼女を全身火だるま状態の「炎の魔人」に変貌させていて、それがイリシアを執拗に追っているのだ。

 魔物ではなく魔人というだけあって、かろうじて人型を保ってはいる。木材で作った巨大な人形に火をつければそうなるだろう、というくらいの「かろうじて」ではあるが。

 ニックにカズハ、ナツミやキルニアたちは、すでにイリシアのそばから離れていた。追いかけてくるオビリアは意志を持って動く火砕流と化しているようなものなので、噴火活動真っ最中の噴火口が歩き回っているにも等しいのだから、はぐれるもなにも、彼らにとっては「こんなところにいられない!」というのが本心であろうが。

 けれど、彼らは敵の姿に怖気づいて逃げ出したわけではない。

 なにしろここはアヴェルレスの北部、ブラッドヴァンのお膝元なのだ。一度そこにいるとばれてしまえば、逃げている最中であろうと遠慮なくマフィアの横やりが入ってくる。それらに応戦したり回避したりしながらオビリアから逃げている間に、当然のように彼らはばらばらにはぐれてしまったのだ。

 高速化魔法で逃げるイリシアは「どうやら自分が追われているようだ……」と判明した時点で、あえて一人になれるような道筋を選んだ。街にはマフィアと無関係の市民も住んでいるのだから、なるべく犠牲者の出ないように人気のない道を選ぶ。

 だが、実を言えば逃げる彼女の進路を決めているのは彼女の意志とは言えなかった。

 走り続ける彼女の視線の先には、妖精のように輝く一つの光がある。

 オビリアの炎とは違う光。そう、先ほど彼女をアレスタたちのもとへ導いた探索型の魔道具による光が、今度は彼女に逃走経路を教えてくれているのだ。これはきっと事態を察しているファンズの差し金だろうと、他にすがるものもないイリシアは彼を信じて光についていく。

 すでに敵も一人。側近であるはずのメイナの姿は見当たらない。むしろ近くにいると邪魔だと判断したのだろう。

 反撃したくとも、もはや炎と化した今のオビリアは斬撃に対して無敵である。

 下手をすれば、多くの魔法に対しても。

 まさかオドレイヤを弱体化するための作戦によって、逆に強化される敵が出てこようとは思ってもみなかったので、これはもう不慮の事故のようなものだ。

 だがしかし、こんな異次元世界に来ておいて事故で死んでしまうなんて、イリシアはまったくもってごめんであった。

 死ぬと言えば――。


「アレスタはっ?」


 彼の姿はとっくの昔に見当たらない。あまり足が速い印象もないし、ちゃんと無事でいるといいけれど……と思って、治癒魔法の使い手なのだから、彼ほど無事でいてくれることについて信頼感のある相手もいるまいと思い直した。

 どちらかといえばニックのほうがずっと危ない。カズハもだ。

 だけど何とかなるだろう。


 ――彼らはあれで、たくさんの修羅場をくぐってきた経験があるのだから……うん、ある?


 走りながらイリシアは小首をかしげる。

 ニックってくぐれる? 人生の悲惨なことリストって、どうせしょうもないことばっかりで埋め尽くされているんだろうし、ほんとに命がかかった修羅場って、これが生まれて初めての経験だったりして……。


「――!」


 もはや人語を発することのできない怪物が後方で何かを叫んだ。


「左に来るっ!」


 と自分に言い聞かせるように口にして、地面を蹴ったイリシアは右に避ける。

 直後というよりも同時に巨大な火の塊――火球といってもいいかもしれない――がイリシアの脇をかすって前方に飛んで行った。風を切る鋭い音と大気を焼き払う鈍い音をミックスして直進すると、それは正面に見えていた建物の壁にぶち当たって、轟音と衝撃を周囲に爆発させた。

 あまりの爆風に危うくイリシアも吹っ飛びそうになる。

 というか、容赦のない熱風に見舞われて身体の半分がやけどを負った。

 足を止めたくなるほどの激痛が走る。

 鈍痛ではない、刺すような鋭い痛み。左半身を無数の剣で貫かれたような痛みだ。

 けれどそれは、


「ダイジョーブ!」


「ありがとう! テレシィちゃんと、どっかにいるアレスタ!」


 アレスタの治癒魔法によって瞬時に治癒された。テレシィは彼女の精神果樹園の中にいて、姿の見えない彼はいまだにイリシアのため治癒魔法をかけ続けてくれている。

 ただし、あの時ほど全力ではない。

 定期的に、微弱な治癒魔法を、つまり断続的に発動させてくれているのだ。

 それは彼の魔力が限界に達しつつある証拠なのかもしれないし、さすがに彼の治癒魔法が効力を発する限界距離に達しつつあるのかもしれない。どちらにせよ急いで状況を打破しなければ生き残れないのが事実である。

 ただ、今のオビリアには剣による物理攻撃が意味をなさない。炎そのものを刃物で何度切ったところで、結局は水でもかけねば消えてはくれないだろう。

 ならば剣しか武器のない彼女には厄介な相手である。

 いっそこのままファンズのところまで駆けて行って、すごい魔法を使えるらしい彼に相手をさせるほうがよほど現実的な考え方だ。それまで一体どれほどの距離を走らねばならないのかという問題に目をつぶることさえできるなら。

 いや、けれど、どうやら彼女の行く先を導く光は南へと、つまりマギルマの本拠地へと向かっているようにも感じられる。ならば本当にファンズによる反撃を狙っているのかもしれない。だとすると彼らはイリシアのことを買いかぶりすぎというべきか、いくら高速化魔法を使って人より速く走ることができると言っても、こちらを追いかけてくる相手は渦を巻き爆音を轟かせる炎となっているのだ。

 すでに人ではない。

 猛スピードで山を下る火砕流を相手に徒競走をやったことなんか一度もないので、高速化魔法に頼って生涯で一番の全力疾走をしているイリシアとどっちが速いかなんて予測もできないけれど、はっきり言って、ちょっと追い付かれつつある。

 アレスタの治癒魔法がなければ、すでに路上で火葬されていた。

 逃げるイリシアにしても、こんなところで死にたくはない。

 幸いなことに、時間とともにオビリアのほうでも疲れや魔力の枯渇はあるのか、ほんの少しずつではあるものの、火勢という意味では最初より弱くなっている。パープルティー・ヒルが消し飛ばされた爆発のように、街そのものを吹き飛ばすような爆発力はすでに感じられない。

 そうはいっても相手が相手だ。イリシア一人を焼死させる程度ならたやすくできるだろう。たとえ攻撃面の意味で多少なりとも弱くなっていたとしても、荒れ狂う炎と化した彼女が相手では戦いようもないのだ。

 おそらく完全に追い付かれた時点で彼女に勝ちはない。

 低級魔法であっても連発されれば脅威であるように、最後まで油断せず、とにかく追い付かれないよう逃げ続けるしかないだろう。


「けれど! ちょっと! やっぱり無理かも! 私のこれって! 実は短期決戦用だから!」


 イリシアのほうでも高速化魔法が切れかかっていた。実は今、とんでもない無茶をしている。

 そもそもそんなに長時間使用できるものであるなら、強敵と戦うときだけに限定せず、イリシアはいつも自分に高速化魔法をかけていればいい。それができないのは当然ながら精神果樹園の魔力が長続きしないからであって、短距離走が得意な人間に最初から最後まで全速力で長距離走をやらせてみればどうなるかを考えてもらえれば早い。

 序盤はともかく、中盤ごろには失速する。スタミナがないのだ。


「え、そっち?」


 心がくじけそうになっていると、行く先を導くようにイリシアの前を飛んでいた光が急に向きを変えた。路地の脇にある曲がりくねった階段を選び、ごうごうと水が流れる音を立てる薄暗い用水路のほうに降りて行く。

 追いかけてくる相手が炎の魔法を使ってくるから、逃げるなら用水路か……なんて、子供みたいに単純な計算では安心できない。この程度の水、今のオビリアなら炎で干上がらせることもできるに違いない。

 物理現象に左右された通常の炎ではなく、彼女が発生させているのは魔法による炎。常識的な考えや理屈はあまり当てはまらない。それこそファンズの魔導書で降らせた赤い雨のように、魔法には魔法で対抗しなければ。


「それにこれ! なんか逃げ道って意味では追い込まれてないかしら! 進んだ先が行き止まりって可能性がありそうなんだけど!」


 実際、進めば進むほど道は暗く細くなってゴミは散乱している。

 こちらの事情を何も知らないマフィアや市民とすれ違うこともあるが、これはイリシアが彼らの無事を願って用水路に流れる濁流の中に投げ飛ばした。


「しばらく頭は水面下に引っ込めておいて!」


 一応は忠告しておくのも忘れない。

 どんよりと濁った見るからに汚い水に流されていくのはかわいそうだが、追いかけてくる怪物のせいで焼け死ぬよりはましだろう。

 と、案内役となっていた光がいきなり空中で制止した。そこは入り組んだ用水路のトンネルとなった細い道の途中で、先はまだ続いているしゴールというわけではない。

 こんなところが終点ならイリシアは魔法による光が相手でも「ふざけないでよ!」くらいの文句を言っていた。


「あ、これ?」


 薄暗くて遠くからはわからなかったが、じっくり目を凝らして見てみると、光の前には壁と一体化したような目立たない扉がある。前傾姿勢で走っていたイリシア自身も急制動をかけて、息つく間もなく手をかけてドアノブをガチャガチャ回すが、開いてくれない。

 ご丁寧にも鍵がかかっているらしい。

 高速化魔法を余計にかけた全力の回し蹴りでぶっ飛ばした。

 上手く開いてくれた扉の向こう側は幅の狭い通路で奥には下り階段もあり、どうやらさらに地下へ続いているらしい。

 イリシアはその場で両手を組むと一瞬だけ目を閉じて、どうかここが袋小路の地下室ではなくて、希望へ続く地下通路であることを願った。

 すでにほこりまみれですすまみれ、おまけにクモの巣まで髪に絡んでいる。アレスタも治癒魔法ばかりじゃなくて洗浄魔法でも身に着けてくれないかしらと心の中で愚痴りつつ、傷が治るだけでもすごいことだと自分に言い聞かせる。

 もちろん彼には感謝しても感謝し足りないほどの恩がある。

 だけど炎の化け物に追われている今の状況ではイリシアもちょっと冷静ではいられないのだ。

 ふと何倍もの光度で周囲が明るくなった。天井に設置された魔力灯が光をともしたのではなく、背後で勢いづく炎――オビリア――が蹴り破られた扉をくぐって追い付いてきたのだ。

 どうやってイリシアを正確に追ってきているのかわからないが、なんにせよ逃げるしかない。

 しばらく進むと、再び目の前に一枚の扉。

 これは鍵がかかっているのかどうか、わからなかった。

 ドアノブに手をかける前にイリシアは高速状態のまま飛び蹴りして、有無を言わさず扉をぶっ飛ばしたからだ。


「ギルドの鍵は私の蹴りにも耐えられるものに変えておくべきね。でないとアレスタのプライバシーがなくなっちゃう」


 冗談を言うくらいに余裕が出てきているのか、あるいはそれほど余裕がなくなっているのか。

 とにかく進む先を案内してくれる光を追って走っていたが、なんとその光が消えた。


「えっ?」


 ここが目的地なのか、通路も終わって行き止まりだ。

 それほど広くない、奥に向かって細長くなっている長方形の部屋。

 入ってきた扉以外には逃げ場もないし、炎対策に役立ちそうなものも見当たらない。すでに誰も使っていなさそうな古い机と椅子と、空っぽの棚が放置されているだけ。

 イリシアを歓迎する手料理の代わりか、机や椅子には埃だけが積んである。

 よく燃えそうだ。


「あっ」


 しかもタイミング悪く、ここまで続いていたアレスタの治癒魔法もついに切れた。

 逃げ場のない行き止まりで、最後の命綱もなくなった。

 背後からは敵であるイリシアを骨まで燃やし尽くそうと、手足のように火炎を躍らせながら迫りくるオビリアの気配。

 こうなっては不平の一つでも吐き捨てたい気分だが、


「ゴメンネ」


 と言われれば、不満を口にするわけにもいかない。

 謝ってすぐに再び精神果樹園へと潜り込んだテレシィが魔法の炎に負けるのかどうかイリシアにはわからなかったけれど、ここは小さな妖精を安心させてあげられるよう毅然として立ち向かいたい。

 彼女は人間であるから炎にこそ勝てないが、プライドを燃やすことにかけては得意なのだ。

 とにかく入り口を離れて部屋の奥まで進んでおいて、援軍の一人くらい駆けつけてくれることを期待しつつ、火を噴き炎を背負った紅蓮の怪物オビリアの到着を待つ。


「さぁ、かかって来なさい!」


 ここまで全身全霊で逃げておいてなんだが、とうとうイリシアは腹をくくった。

 もともと治癒魔法なんてものは、なくて当たり前なのだ。

 笑いながら追いかけてきているであろうオビリアの姿は見えなかったが、それより先に炎の熱と光が来た。床も壁も天井も、すべて石造りだというのに魔法の炎はお構いなしに灰に変えつつ近づいてくる。

 強烈な爆風とともに、崩れそうなほど部屋を震え上がらせる。

 さすがにイリシアも死を覚悟した。こんなのが相手では、まっとうな手段では勝ち目がないと今日これが何度目となる再確認を重ねる。いくら重ねたところで悲観と絶望が重くなるだけなので、やっぱりその考えは首を振って振り払う。

 最後の力を振り絞って高速化魔法をかけなおし、とにかく二本の剣を構えて活路を探す。

 いくら高速で突っ切って風になろうとも、触れれば終わりの炎が相手では無傷でもいられない。オビリアの腕を切り落とせたときはアレスタの治癒魔法があってこその作戦だった。

 治癒魔法がなければ一瞬のうちに彼女の体は灰と化すだろう。


 ――けど、一撃を食らわせるくらいなら!


 ――相打ち覚悟で突っ切れば!


 そして駆け抜けようと一歩を踏み出しかけたイリシア。


「なっ、後ろっ!」


 完全に彼女は不意を突かれた。いきなり背後が輝いたのだ。

 まさか反対側から炎の魔の手が襲ってくるとは。

 得意の回避も間に合わず、いよいよ万策が尽きてしまったか。

 しかし振り向いたイリシアは安全のために距離を取るどころか、むしろ輝きに向かって飛び込んだ。

 背後に敵の姿を見つけて飛び掛かったのではない。文字通りに飛び込んだのである。

 いや、くぐるといったほうが正しい。

 修羅場ではなく、それは輝ける魔法陣。

 そう、魔術的に作られたゲートである。


「無事だったか!」


 やや倒れこむようにゲートをくぐってきた彼女を出迎えたのはマギルマのボスであるファンズであった。隣には彼の腹心である老齢のブリーダルもいる。その背後には万全の状態ではない様子の用心棒、スウォラも控えていた。

 つまりここは……敵地ではない。

 まだ頭は混乱しているが、とにかく窮地は脱せたらしい。


「ええ! なんとかね! だけど私、ちょっと焦げてないかしら!」


 冗談半分のつもりだったのに、実際ちらちらと火の粉が散っていた。イリシアはびっくりして肩や二の腕を自分の手で払って、火の粉が燃え広がるのを打ち消す。ついでに顔を上げてみれば、なんと今くぐってきたばかりのゲートから、炎がいくつもの腕を伸ばすように飛び出してきつつあった。

 想定を超える威力を発揮するオビリアの魔法が、ゲートの向こう側から押し出されようとしているのだ。


「破壊します」


 つぶやいたブリーダルは返事も待たずに有言実行しており、あらかじめ爆弾でも仕込まれていたのか、輝き続ける魔術的なゲートが破壊された。

 これで敵の追撃は防げたと確信したファンズは、まだ火の粉と格闘しているイリシアの代わりに、ほっと一息をつく。


「本来は敵地へと隠れて攻め込むために用意しておいた秘密のルートだったんだけれどね。こうやって逃亡ルートにも転用できたわけだ」


 それを聞いてイリシアも遅ればせながら胸をなでおろす。


「それは本当にありがとう。おかげで助かったわ。だけど私を助けるために大切なルートの一つをつぶしてもよかったの?」


「いや、君を助けるだけで終わりではないよ」


「え……?」


 事前に用意されていた秘密のルートのおかげで、なんとか無事に切り抜けられたイリシア。

 しかし、このままオビリアを放置しておく限り、同じような窮地は誰にでも何度でも手当たり次第に際限なく訪れることとなる。

 仕留められるのであれば、この機会を逃すべきではない。


「やれ」


 との、短く命じられた声とともに、遠くで爆音が響いた。

 もともと街の向こう側はオビリアの炎魔法のおかげで煙だらけだが、それらを切り開くように、空に向かって黒い煙が立ち上がる。彼の合図で何かが行われたことがわかるが、事情を聞かされていないイリシアには、「きっとあそこが今まで私がいた地下室のあるところね」という推測を立てる程度しかできない。

 事情を知っているらしいマギルマの参謀ブリーダルが不敵にほほ笑む。


「爆破して開いた穴から、用水路の水をあの地下室に向かって大量に流し込むんですよ。そういう構造になっているのでね」


「だけど、彼女が今さら水ごときで止められるとは……」


「我々も思っていませんよ。ただ、これで少なくない時間稼ぎと、流れ込んでくる水に対処するしかない彼女を魔力的に疲弊させることは可能です」


 言い終えるかどうかという時、再び爆音。


「崩れましたな。さすがの彼女も水に続いて土砂が降りかかってくるのでは、脱出するにも骨が折れるでしょう。あまりにも燃えている様子なので、骨が残っているかはわかりませんがね」


 ぼんやりとイリシアは思い出していた。火災現場における消火活動には水をかける放水が一般的だが、酸素の供給を遮断するという意味では、大量の土砂をかぶせるのも効果的だという雑学的な話を。

 ただし、魔法の力で燃える炎に理屈は意味をなさない。なにしろ燃料は酸素でなく魔力。彼女が本気を出せば、たとえ窒息状態であっても、降りかかる大量の土砂を溶かして地上に生還するだろう。

 骨が残っているかはわからない……それこそ、火葬も土葬も通用しない炎の化け物であったなら。

 それをわかっているのか、ファンズが魔導書を開いた。


「さて、私の出番だ」


 パラパラと残り少ないページをめくって、お目当ての魔法を見つけると高らかに呪文を唱える。


「ドドルディオ・フィアゲン・ガッテオン!」


 呪文に応じて魔導書から光が放たれたと同時、遠く煙が上がっている地点から、一瞬だけではあったものの強烈な光が漏れた。

 今度は爆音がしなかったけれど、あそこで彼の魔法が発動したのだろう。

 上手くいっているのかどうか、ここからではよくわからない。

 剣をしまいつつイリシアは尋ねる。


「何をしたの?」


「大地を踏み固めた。酸素どころか魔力も通さないくらいに固くふたをした。魔導書の説明によると地ならしのための土木用魔法だったけれど、こんな使い道があったとはね」


「土木用……」


 イリシアはぽかんとした目で彼の持つ魔導書へ視線を注いだ。勝手に戦闘用の魔法ばかりを集めた魔導書だと思っていたけれど、実は百科事典的にあらゆる魔法を集めた魔導書だったのかもしれない。それがマフィアとの戦いで有利に働くのかどうか微妙なところではあったが、ここは前向きに考えるべきだ。

 ほら、マフィアとの戦闘でぼこぼこになった道路を修繕するのだって大事な仕事だし……などと、聞かれてもいないのに彼女は魔導書の使い道に思いを馳せる。根が真面目だからだろう。

 うつむいてぶつぶつやっているイリシアよりも先に前を向いたファンズは魔導書をぱたんと閉じた。

 自信にあふれている様子から察するに、手ごたえを感じているらしい。


「さあ、ひとまず現場を見に行こう。踏み固めたといっても、彼女の死体を確認するまでは安心して眠ることも難しそうだ」


「死んでいても悪夢を見ちゃいそうだけれど、私……」


 なんといっても、あんな炎の化け物に追い掛け回されたのだ。一歩間違えれば殺されていてもおかしくはなかった。しばらく安眠はできそうにない。

 これほどまでに過酷な経験は、騎士団に所属して多くの敵や魔獣と戦ってきた彼女にとっても初めてだった。


「悪夢を追い払う魔法でも使ってみるかな?」


「え? いや……。ごめんなさい、そういうのは、ちょっと」


 というか魔導書にはそんな魔法まであるのか、いよいよ本当に便利帳ね、などと驚きつつ感心するイリシア。魔法を使うたびにページがなくなるということで今は相当に薄くなっているが、もともとは分厚い魔導書だったのかもしれない。

 これがあれば多種多様な依頼にも対応できるし、ギルドにも一冊くらいほしいところだと彼女はうらやましく思った。

 とはいえ、本来なら魔導書を使えば使った者は強烈な呪いに苦しむので、呪いに対抗策を持たないアレスタやイリシアには使いこなせないものだ。それを知ったら彼女は不気味だと言って問答無用に切り捨てていたかもしれないが。

 そんなことを考えながら、やや時間をかけて目的地を目指す。

 魔力や酸素が届かない土の中に閉じ込めるのは長時間であればあるほど効果的なので、今さら急ぎすぎても意味がない。


「あら、みんないるみたいね」


 いやでも目立つ爆音や煙を目印にしたのか、ファンズたちと一緒にイリシアが現場に向かってみると、はぐれていた全員が集まっていた。

 もしかすると、いや、かなり高い確率で、ここにいるみんなはイリシアを助けるつもりで集まってくれているのだろう。

 ありがたい仲間たちだ。自分だけがオビリアに追われることになって恨み言の一つでも言いたかったのは忘れることにした。

 寛大な気持ちってこういうことね、と冗談じみて微笑んだイリシアは嬉しさをかみしめる。


「よかった、無事だった!」


 一番にそう言って駆け寄ってくるのは笑顔のアレスタだ。主人を見つけたテレシィが嬉しそうに彼のもとへ飛んでいく。そのまま遠慮なく胸に飛び込んだ小さな妖精の姿を見て、私もあんな風にアレスタに抱き着いてあげようかしらと思ったのは自分の胸に秘めたイリシアである。

 感謝や信頼を伝える手段は他にもたくさんある。

 ともかく、今は笑顔を返すことにする。


「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ。すごく無理をさせたと思う」


「そうそう、すっごく無理をした! だけどイリシアに何かあったら大変だから無理もするよ」


「これからもきっと無理をさせてしまうだろうから、申し訳ないわ……」


「いいんだよ、その分イリシアは活躍してくれるから! それに比べてニックときたら……」


 アレスタに続いてイリシアのもとへやってきていたニックが突然水を向けられて、いかにも不服そうな顔を見せる。


「え、僕? ちょっと待ってよ、僕だって今回は結構役に立ったと思うけど。ほらほら、アレスタたちの地下牢の鍵だって僕が開けてあげたんだしね」


 あまりにも誇らしく自慢するので、これにはイリシアも黙っていられなかった。


「それもほとんど私の手柄じゃない?」


「アタシの手柄でもあるぜ」


 ニックの手柄がなくなっていく。

 確かに一番に頑張っていたのは彼女たちだったかもしれないと二人の容赦ない言葉に同意しつつ、せっかく駆けつけてくれたのに責めてばかりもかわいそうなので、自分から言い出しておきながらアレスタはニックを励ましておくことにした。


「いや、でもやっぱり俺はニックに感謝してるから! 助けに来てくれたんだもの!」


「そうだよね! 助けに行ったって事実がなによりの手柄だよね! 僕も勇気を出したんだ!」


「助けに行ったって言うと自分の足で走ったように聞こえるが、道中は俺の背に乗ってなかったか?」


 何気なくキルニアが口を挟むと、ついにニックはしょげ返った。


「勇気は出したんだよ、僕……」


「いや、まぁ、うん、それって大事なことだよね! ニックもすごいよ!」


 半ば本当にそう思いながらアレスタはニックの肩を叩く。

 なんだかんだ言っても、アレスタにとってニックは大事な友人だ。いつまでも落ち込んでいるのは見ていて気の毒になるだけでなく、敵との戦闘が続く状況で集中力を欠いているのは危ない。いつもより治癒魔法の頻度が増える。やる気と元気を出してもらうのは必要なことだ。

 さて、そんな彼らとは別に、ファンズもナツミとの再会を果たしていた。


「いい仲間を得たわね」


「そう思えるのは否定しがたい事実だよ。ともに戦ってくれる彼らには感謝しよう。私にとっては君が一番だがね」


 それだけ言って二人は短い会話を切り上げると、隣に並んで立ち、魔法によって踏み固められた地面を見下ろした。

 彼らの前ではスウォラが片膝をついて、地面に手のひらを押し当てている。


「魔力の反応は……ほとんどないな。生きてはいないだろう」


「よし、では掘り返そう。圧死か窒息死か別の死因かは知らないが、彼女が逃げ延びたのではないということを我々は確認しなければならない。我々の身の安全のためにも、そして、ブラッドヴァンの戦意をそぐためにもだ」


 確かにオビリアがやられたとなれば、ブラッドヴァンとはいえノーダメージともいかないだろう。なにしろ彼女はブラッドヴァンの幹部。前線に出てこないフーリーを別にすれば、戦力的にも実質的にオドレイヤの右腕であったようなものだ。

 部下が運んできた工作用の魔道具を駆使して穴を掘り返していると、それほど時間もかからずに目当てのものが姿を現した。

 オビリアの死体――だけれども、それは目を閉じた顔以外のほとんどの部位が燃えていた。

 動かない彼女の遺体が炎に包まれていたのだ。

 土の中に埋もれた状態であってなお、彼女の魔法は止まっていなかった。


「触ってみても熱はない。木の枝を近づけてみても燃えない。これは炎ではなく、彼女の魔法の残照……あまりに強烈な魔力に染まった身体が、死後もなお自動的に魔法を発動させているのだ。幻影とまで言い切ってしまうと語弊があるがね」


「つまり危険性はないと? ふふん、なら、特別製の墓を用意する必要もなさそうだ。あらためて処刑する必要もね」


 しかし誰もが遠巻きに見ていた。警戒を忘れていないというよりも、単純に何かを恐れて。

 ほとんど炎に包まれているとはいえ、身体中に痛々しい傷を受けている死体なのだから、わざわざ近寄って見てみたいと思えるものでもないのだが……。

 ふいにブリーダルが顔を上げた。


「私に一つ、考えが」


「なんだろうか? まさか治癒魔法をかけて、傷が治らなければ死んでいる、傷が治れば生きているというように、彼女の生死を確かめてみるべきだとでも?」


 アレスタの治癒魔法は死者の蘇生をすることまではできないため、そういう確認の方法に使用することができる。

 わずかでも命が残っていれば、本人の意思とは無関係に治癒魔法が傷を治してしまうので、つまりオビリアの傷がアレスタの治癒魔法に反応するかどうかを見て、彼女が生きているか死んでいるかを確かめることが可能なのだ。


「いえ、それはそれでやってもらうべきでしょうが、それだけではありません。マフィアの人間だった彼女にふさわしい墓の用意ですよ。どうか私に準備させてください」


 常に夕暮れに覆われた異次元世界ユーゲニア。

 さらに一段と深みを増したように感じられたのは、果たして彼らの勘違いだったのだろうか。

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