33 救出へ
メイナに捕まった二人を残してではあったものの、魔導書による転移魔法で全員を無事に帰還させることに成功したファンズ。出発したのと同じ拠点にて彼を出迎えたのは、香ばしい湯気を立ち昇らせるティーカップを片手に抱えた執事兼参謀のブリーダルであった。
悲喜こもごもといった一行の様子を見て、万全の勝利とはいえないまでも圧倒的な敗北ではなかったと見抜いた彼は、その戦果を率直に尋ねる。
「どうでしたかな?」
周りのメンバーには休んでいるように言って、素直に従った彼らが自分たちのもとを離れたのを見たファンズが答える。
「オドレイヤの魔力吸収システムは破壊された。だが、ナツミを連れ去られた」
「なるほど……詳しくは?」
「ああ、手短に話そう」
そしてブリーダルはファンズから詳しい戦況とオドレイヤの状況を聞かされる。
それを聞き終えて、参謀である彼が判断した内容はこうだ。
「今こそ攻勢に出るべきでしょうな。その魔力吸収システムというのが再び組み直されては厄介です。このチャンスを逃すべきではないでしょう」
「うむ。それはもちろん、そうなのだが……」
視線が泳ぎ、煮え切らない態度で答えるファンズ。
彼の心中を察したブリーダルはティーカップを渡して苦笑する。
「敵を倒すことよりも、まずは救出作戦が第一ですよ。ナツミさんも、治癒魔法の使い手も」
「うむ、そうだ」
パープルティーを受け取って頷くファンズ。
そう言ってくれたことに安堵を隠さず素直に微笑んで、すぐに顔を気難しいものに改める。
「しかし、彼女らを助けるにしても場所がわからないのでは……」
「ご安心を。これからの街は魔法による索敵の目が、ある程度は有効になります」
「……というと?」
ファンズの疑問に対して、ブリーダルは言葉よりも先に行動で答えた。
これまでアヴェルレスを覆っていたブリーダルの「広域かく乱魔法」を解除したのだ。
確かに、そうすることによって、連れ去られた二人を探す方法はゼロではなくなる。
ただ、そうするということは、こちらの位置が敵に知られてしまう危険性が生まれてしまうということだ。
「さて、長らく発動したままであった私の魔法は解除しました。ゆえに、これからはマフィアに対して先手を打ち続けなければなりません。その覚悟と実力がおありですかな?」
問われたファンズはパープルティーをぐっと一息に飲み干してから、高々とカップを掲げた。
「そのことを問われれば私はいつだってこう答える。覚悟も実力も当然ながら”ある”と!」
オドレイヤを運んだフーリーの転移魔法だが、それはアヴェルレスに循環する特殊な魔力の流れを応用したものであった。パープルティー・ヒルに立つ魔力吸収システムの根幹である幻想樹が失われた現在、それは予測のつかない不安定なものとなり、オドレイヤの側近たるフーリーといえども制御が難しく、全員を狙った地点に転移させることに失敗した。
転移の途中でオドレイヤと別れたらしいオビリアとメイナの二人が到達したのは、仕事に不熱心なマフィアが途中で放棄した建設現場だ。建物の地下と一階部分は完成しているものの、二階から上は骨組みしかない。いっそ戦闘に巻き込まれ荒廃した廃墟だと言われたほうが納得できただろう。
スライムと化したメイナの腕に巻き取られる格好となったナツミとアレスタの二人も、彼女らと同じ場所に降り立っている。おとなしく彼女たちに付き従っているのではなく、現在進行形でなんとかしようと風魔法を発動しては脱出を図っているナツミだが、半分は液体のスライムが相手ではうまくいかない。
直前の戦闘で魔力を使いすぎたのもあるし、メイナはスライムの腕で人を捕まえておくことが誰かを攻撃するよりずっと得意なのもあった。
「かといって、ずっとこのままというのもね……」
スライムに変化した状態でいるのは多少なりとも魔力を消費する。本気を出せば数十日間はスライムのままでいられると豪語するメイナだが、それはそれとして疲れるのも事実なのだ。
できることなら人間状態でいたい彼女である。
「一体どこに転移しちゃったのかと思っていたけれど、ここなら一度、部下の仕事ぶりを見に足を運んだことがあるわ。私の記憶が確かなら牢獄代わりの頑丈な地下室があったはず。そこに二人をぶち込んでおきましょう」
「それはいいですけど、オビリア様。殺さなくてもいいんですか?」
「だって、その二人を生かしておけばファンズをおびき寄せる餌になるでしょ? 今からこの場所にマフィアの人間を集めて、しっかり罠も張って、遅れて救出に来た彼らをぶちのめすのよ。それに……」
怪しく光ったオビリアの目がアレスタを射抜く。
「なんだか彼、そのまま殺すには惜しい力があったみたいだし。今すぐには無理でも、時間をかけてあなたが篭絡しなさいな。私たちの部下にするわ」
「オビリア様ったら素敵!」
くねくねと身をよじったメイナの動きに応じるようにスライムの腕がぎゅっと絞られて、ほとんど同時にナツミとアレスタは苦しがる。
それに気づいたメイナはふふっと笑う。
「あら、ごめんなさい」
何でもないことのように言って、少しは縛り付ける力を緩めたものの、だからといって逃げられるものではない。
抵抗する二人の人間をスライムの腕で拘束したまま歩くメイナは地下室へ続く扉を開いた。手慣れているのは、これまで何度も同じようなことをしてきた経験があるからだろうか。
オビリアから離れたことを確認したからか、メイナが声を潜めて二人に尋ねる。
「ところで、あなたたちに聞いておきたいんだけど、さっきのあれは何?」
「……あれ、とは?」
「あの場所にあなたたちが攻撃を仕掛けた目的とか、よくわかんない大樹のこととか、無敵と思われていたオドレイヤがダメージを受けていたような感じとか、そういうのすべてよ」
問われたアレスタとナツミは至近距離で顔を見合わせた。
説明しようと思えば説明できないこともないけれど、ブラッドヴァンに所属するマフィアの人間に対して正直に教えていいものだろうか。先ほどの戦闘の結果としてオドレイヤが弱体化したことは察しているに違いないにしても、こちらの手の内を明かすのはまずいかもしれない。
「ま、いいわ。時間ならいくらでもあるでしょうし」
投げやりに言い捨てたメイナによって、どう答えるべきか悩むあまりに顔を見合わせていた二人は地下室に放り込まれる。
短いながらも階段は急だし、牢屋の床は石造りで優しくない。自分から下敷きになることで彼女をかばってアレスタは痛い思いをしたが、どちらにも怪我がなかったのでよしとした。
「おとなしくしておくことね!」
隙間の空いた鉄格子ではなく、分厚い鋼鉄の扉がすさまじい音を立てて閉ざされる。筋力に自信のないアレスタではもちろん、外側から厳重な鍵をかけられたようで、ナツミの風魔法を使っても脱出は困難だ。
狭くて暗い牢獄の中に閉ざされたとはいえ、ようやくスライムの腕から離れることができて自由の身になったアレスタとナツミ。誰もいない部屋に二人きりとなったところで穏やかに雑談を始めるほど仲よくもないけれど、この状況でまったくコミュニケーションをとろうとしないのは、お互いにとって不利益だろう。
暗闇のせいで相手の顔が見えないよりはと、近くの壁に魔力で動く照明装置を見つけたアレスタはそれを点灯させた。今にも消えそうな弱々しい光でしかないが、ないよりはいい。
いつも前向きで気の強い女性に見えていたナツミだけれど、こういう雰囲気の中にいると、アレスタの目にも弱り切ったように見えてくる。自分たちが置かれている状況はピンチに他ならないので落ち込んでいても当然なのだが、放っておいていいのだろうか。
とはいうものの、励ましたくてもアレスタにはどう声をかけてよいのかわからない。
いっそ寝たふりでもしていたほうがいいだろうか。
そう思っていると彼女がおもむろに口を開いた。
「あなた、外の世界から来たんでしょ?」
「……あ、はい。帝国にあるベアマークという街から来ました。実は異次元世界の存在を知ったのもつい最近でして」
「へえ、変なの。こんな救いのない暗黒街アヴェルレスに、わざわざ観光をしに来たってわけでもないでしょうし」
「観光ではないですね。夕暮れに包まれた世界って幻想的でもあるから、見た目は悪いところじゃないですけれど、治安がこんなに悪いなんて思わなかったです」
「ふうん、そんなに悪いの? 私たちにとってはこれが普通だから、必死で生きてるのがバカみたいね」
「馬鹿とか、そんな……。きっと不幸なだけですよ。アヴェルレスの人たちは理不尽な不幸に苦しめられているように見えます。そしてたぶん、あなたたちは、その不幸の原因を取り除こうとして戦っている。そうでしょう?」
「それは、まあ、そうね……。こちらこそ、オドレイヤとの戦いにあなたたちを巻き込んで悪かったわ。あのときのこともね」
ひんやりとした冷たい床に座っているわけにもいかないと、魔法で小さな風を発生させたナツミはたまっていたほこりを吹き飛ばして、そばに置き捨ててあった木箱に腰かけた。
一つの木箱に二人で並んで座るのも気まずいので、アレスタは近くの壁に背を預けておくことにする。
「あのときのこと……。あれってカズハを外の世界に追い返すためだったんですよね? つまり彼女をこの街の抗争から遠ざけたかった。それがわかっているから、一度は不意をつかれて攻撃された俺たちも、あなたたちのことを本気で敵対する存在ではないと思っているんです。平たく言えば、同じ目的のために協力できるんじゃないかって」
「……そう考えてもらってもいいわね。結局のところ、あなたがカズハに信頼されている限り、私はあなたを本気で裏切ったりはしないわ。オドレイヤを倒すまではカズハに街を離れていてほしかったけど、ここまで来たら積極的に手を取り合ったほうがいいのかもね。なにしろ、あなたには……」
ちら、とナツミが少し距離を置いて立っているアレスタを見た。
たぶん治癒魔法のことを言おうとしているんだろうなと察したアレスタは、改めて自分から説明しようと思って、背中を壁から離した。
そのときである。
「ゲンキダシテ!」
アレスタの胸元からテレシィが飛び出したのだ。
すっかり自分の居場所にしているアレスタの精神果樹園を出てきた小さな妖精は二人の間をくるくると踊るようにして飛び回った後、それを珍しがって眺めるナツミの肩に腰かけるように座りこんだ。
目を丸くする彼女の頬に身を寄せるようにして体重を預けているのは、なついている証拠かもしれない。
元気出して、と言ったように、落ち込んでいる彼女を励まそうとして姿を現したのだろう。
「この子、あなたが治癒魔法を使う時に出てくる妖精よね?」
今となっては彼女に隠しても意味がないので、アレスタは素直に頷く。
「そうです。俺はそのテレシィの力のおかげで自分以外の相手にも治癒魔法をかけることができるんです。それでカズハも助けられたし、他の人だって助けることができる。死んでしまう前なら、なんとか」
「ふうん、そうなのね……」
話を聞いているのかいないのか、すでにアレスタを見ていないナツミは子猫のように頬ずりしてくるテレシィの頭を人差し指で撫でている。口元が緩んで笑っているように見えるのは、もしかすると本人には自覚がないのかもしれない。
悪い人じゃないんだろうなと、アレスタはなんとなく確信した。
「あなたの治癒魔法があるならカズハのことは安心して任せられるわ。それに、魔力吸収システムを破壊してオドレイヤが弱体化した今は以前にも増して勝てる気がしてくる。もともとは外部世界の部外者であるんだから、私たちの抗争に協力しなさいと無理やり首を突っ込ませるのは気が進まないけれど、協力してくれるなら事実ありがたいわね」
「困っている人がいたら助けるのが仕事ですし、なんだかんだと俺たちはそういう性分だから、あまり気に病まなくても大丈夫ですよ。ただ、今はちょっと自信がなくなっているのもあって、期待されるほどの力になれるかどうかはわかりませんが……」
自信なさげな口ぶりに反応したのか、テレシィがナツミのもとを離れてアレスタの腕の中に飛び込んできた。
慰めに来てくれたであろう小さな妖精を大事に抱えつつ、アレスタは言う。
「マフィアたちの抗争に直面して、なんだか自分の無力さを痛感したんです。今までの俺は自分には特別な力があって、特別なことができるんじゃないかって思いあがりつつあった。だけど、治癒魔法は万能じゃない。死んでしまえばそこまでなんです。争いそのものを防ぐことができるわけでもないから……」
防衛騎士団のときも、市民革命団のときも、アレスタが駆けつけた時にはすでに組織としては壊滅していて、犠牲者をすべて救えたわけではなかった。ナルブレイドなど、まだ息のあった負傷者はできる限りの範囲で助けることができたものの、アヴェルレスに突入してきたばかりのころの自分たちは、もっとうまくマフィアの抗争を終わらせるつもりだった。
それが思い上がりであり、そうすることができない実力不足を痛感させられる。
自分たちは特別でも何でもない。
たった一人のちっぽけな人間なのだ。
「私たちも同じようなものよ」
そう言ったのはナツミだ。
いたずらを打ち明ける子供みたいに、彼女は悪びれたように笑う。
「つい最近まで、実は勝てるわけがないと思っていたの。だって敵はあのオドレイヤよ? ほとんど死を覚悟していたんだから。ファンズの前では絶対に言えないけど、彼にだって本当は戦うことより逃げ延びることを考えていてほしかったくらい」
冗談めかして言っているけれど、大部分では本音に近しいものであるのだろう。だとすれば彼女はアレスタを仲間と見て、今まで隠していた心を打ち明けてくれたのだ。
これまではお互いに詳しい自己紹介もなく、流れに身を任せて協力体制を取っていたが、今なら彼女についても、いろいろと教えてくれるかもしれない。地下牢に閉じ込められて気が滅入っているのに加えて、彼女と話す以外には他にすることもないのだから、ここは気になることを尋ねておくタイミングだろうか。
そう思ったアレスタは遠慮がちに質問してみることにした。
「ナツミさんとファンズさんのお二人は、もともとブラッドヴァンに所属していたとか聞いたんですけど、そうなんですか?」
「ええ、そうよ。もっとも、私は本気でマフィアに心酔していたわけじゃない。ただ、昔、ファンズがスカウトされたのよ。最悪なことにオドレイヤにね。あのころはカズハの身の安全を守るためにもマフィアの誘いに乗るしかなかった。そして私は彼についていったの。家族というより、あの人の恋人だったから」
カズハを含め、ナツミもファンズも盗賊団を名乗るカロンを育ての親とする家族だが、もともとは三人とも孤児であるため血のつながりはないという。
「それから、どうしてマギルマに?」
「幹部まで成り上がったファンズだったけれど、何かをきっかけにオドレイヤを裏切ったのよ。それが何だったのか、実を言えば私にもわからない。今に至るまで教えてもらえていないの。でも彼を信じるには十分だった。ブラッドヴァンが悪なのは誰の目にも明らかな事実だったし、オドレイヤを倒せるなら倒しておくべき。そうでしょ?」
「街に来てほんの数日ですけど、そう思います」
率直な気持ちでアレスタが答えると、彼の頬を柔らかな風が撫でた。
「ふふ、だとしたらあなたの目は冴えてるわ。私たちではなく、あなたを頼ったカズハもね」
「私たちではなく……ということもないと思いますよ。素直な性格じゃないからカズハは口にはしないでしょうけれど、たぶんあなたたちのことを信頼しているんだと思います。今だって、きっと俺なんかよりもナツミさんのことを一番に心配してますよ」
それには直接答えないようにして、ナツミは頷く。
「ええ、私たちは一人じゃない。少なくない仲間がいる。それを信じられるなら、何度でも立ち上がれる。さぁ、立ち上がる時のために備えておきましょう? たぶんそれは驚くほどに早く来るから」
おそらくこれは、地下牢に閉じ込められた自分たちを鼓舞するための前向きな言葉だったに違いないが、ある種の確信をもってアレスタは同意する。
「イリシアが本気なら、すごい勢いで駆けつけてくれそうだ」
言いつつ苦笑する。半分は冗談であったけれど。
実際、それはすごい勢いだった。
カズハを背負ったイリシアは己に高速化魔法をかけて、全速力で駆けていた。
迷いなく走る彼女の目の前には、進むべき方向を示す光が見えている。ブリーダルの「広域かく乱魔法」が解けたことによって、魔道具による探索魔法が使えたおかげである。
先を行くイリシアを追いかけるのは同じくベアマークギルドのニックだけでなく、獣化して走るキルニア、そして魔道具で武装したマギルマの構成員たちだ。アレスタとナツミが捕らわれた場所はブラッドヴァンの支配する街の北部であったため、道中でも散発的にマフィアとの戦闘が始まる。それを彼ら魔道具を装備した後続の部隊に任せ、イリシア率いる本隊がアレスタたちの救出に向かっているのだ。
ちなみにスウォラは魔人化の影響でしばらくは休養が必要であり、ファンズは対オドレイヤ戦に専念するため拠点に残っている。ナツミのことを心配する彼だが、広域かく乱魔法が解除された今、マギルマのボスが不用意に動き回るのは危険だ。敵地に無策で足を踏み入れるわけにはいかない。
度重なる戦いで魔導書のページも残り数枚となり、一緒についていったところで戦力的にもあまり期待できないのだ。
「ここね!」
放棄された建設現場は夕焼け色に照らされ、戦火に破壊された廃墟じみていた。
周辺にたむろしていた雑魚のマフィアを問答無用で切り捨てておいて、彼女はその中へと慎重に足を踏み入れる。
そこにオビリアとメイナの二人がいた。先ほどの戦闘でたまった疲労を回復させるべく、作りかけの階段に腰かけて休んでいるらしい。
気配を消すためヘブンリィ・ローブを発動しているカズハがイリシアの背の上で顔を近づけて、そっと彼女に耳打ちする。
「イリシアの姉貴、まずは敵の様子を見るべきだ。そして後ろの奴らが追い付いてくるのを待とう。アレスタの兄貴たちが危険な状況だったらすぐにでも切り込むべきだけど、どうやらそうでもないらしいし……」
念には念を入れて、身の丈ほどの高さがある瓦礫に隠れる彼女たちの前で、こちらに気づくことなくオビリアとメイナは話し込んでいる。
途切れ途切れに響いてくる会話の内容から、アレスタたちの命が差し迫った状況でないことだけは伝わってきた。
「そうね、わかってる。私もそうするのが一番だと思う。奇襲ができても、たった一人で魔法使い二人を相手にするのって危険だものね」
そう言いながら、はやる気持ちを抑えられないのかイリシアは鞘から剣を引き抜いて構えている。
慌てたカズハは小声で叫ぶ。
「ねぇ、姉貴! せめてアレスタの兄貴たちがどこに捕らわれているかを先に確認してからでも遅くないってば!」
「それ、カズハに頼んじゃう。魔法で隠れたまま、近くにいるはずの二人を探して」
背中からおろしたカズハを正面に迎えて、ひざを曲げたイリシアは同じ高さで彼女の目を覗き込んだ。
子供を相手にしているのではなく、同じ目的を持った仲間としての信頼を託してくる。
「そうされちゃあ、断れないな。……姉貴、健闘を!」
「ええ、二人で祈り合いましょう」
勇ましく笑って、二人はこぶしをぶつけ合う。
カズハは音を立てぬよう抜き足差し足で廃墟の中へ入っていく。魔法の効果は絶大で、目を凝らしていたイリシアにも、どこかへ消えた彼女の姿はおろか気配さえ感じられない。
これなら大丈夫だろうと安心したイリシアは自分の仕事に集中することにした。
奇襲は最初が一番大事である。
出ばなでくじけば、二人を相手に苦戦は必至だ。
「くっ! げほっ! ごほっ……!」
「あらあら、オビリア様ったら大丈夫ですか?」
何があったのか、不意にオビリアが苦しそうに咳き込んだ。
あまりに激しく咳き込み続けるので、彼女を心配してメイナの意識もそれる。
――今!
イリシアは身を低く伏せて突撃した。
風を切るそれは突風そのものと言っていい。
まず狙うのはオビリア。強力な火炎魔法の使い手だ。
――彼女は慢性的に調子が悪く、とっさの事態には対応できない!
シュッ!
短く鋭い音が鳴った。
イリシアの剣が薙ぎ払われた直後に響いた空気の叫び声だ。
「痛い!」
剣で切られたにしては深刻さに欠ける声はオビリアのもの。
それもそのはず、彼女はイリシアの一撃をぎりぎりのところで回避したのだ。
剣先が届く寸前にイリシアの気配に気づいたメイナが、弾力あるスライムの塊で彼女を弾き飛ばしたのである。建設途中で放棄された廃墟の床は石造りで資材も散らかっていて、いきなり突き飛ばされたオビリアは腰を打ち、さらに激しく咳き込んだ。
顔を上げることもできず、これではイリシアに反撃するどころではない。
ならば敵はメイナだ。
当然のようにスライムの腕を振りかざしてきた彼女にイリシアは対処する。
「そう簡単に私は捕まらない!」
イリシアは的確に剣を振るって、メイナのスライム状に伸びる腕を切り払う。縦横無尽に無数の腕が伸びるスライムだが、冷静かつ迅速にイリシアの回避と迎撃が成功する。
得意のスライム攻撃で敵を捕まえようとするメイナの攻撃をものともしないのは、さすがに歴戦のイリシアである。
「あら、そう! けどね、私だって簡単にやられたりしないわ!」
負けじと叫んだメイナはスライム化した右足を使って近くに落ちていた石塊を拾い、左足を軸にして身体を回すと、遠心力を盛大に使ってイリシア目掛けて投げつけてきた。
「どれほど速くたって、そんな小石程度で! 私が!」
これは剣を使って切り捨てず、最小限の動作で避けるのは間に合ったが、実は危ないところだった。即死級の致命傷でなければ当たってもいいくらいの気持ちでいた彼女は、いつものように治癒魔法によるサポートが前提の負傷覚悟で戦っていたのだ。
彼が捕まっている今はアレスタの援護は期待できない。やみくもに傷を負うのは危ない。
アレスタと出会う前の慎重さを取り戻すべきだと、剣を握りしめて意識を改めるイリシア。
ただし、戦う相手がスライムだけあって、剣で与えた傷はすぐにふさがり意味をなさない。切り落とされたスライムの先端部分も、磁石に引き寄せられる砂鉄のように本体に飛びついて元に戻ってしまうのだ。
「相性は最悪みたいね」
「私にとっては最高よ」
にやりと笑うメイナ。おそらく彼女は剣の攻撃ではとどめを刺せないだろう。
体を変化させる特殊な魔法が相手では仕方がないので、勝ちたければ戦術を変えるしかない。
しかしイリシアはめげずに深く切り込んだ。一刀目は振り下ろし、二刀目は切り上げで、真正面から相手の顔を狙う。
これにメイナは後ずさるよりも身体全体をスライム化することで無効化した。
危険な斬撃をスライムとなって無事にやり過ごして、即座に人間状態に戻ったメイナは無傷で立っている。やはり攻撃は無駄だ。致命傷を与えることはできない。
しかし、イリシアの狙いは別にあった。
「いただいたわ!」
イリシアが掲げる剣先には、紐でつるされた棒状の金属が引っかかっていた。メイナが首に下げていた地下牢の鍵である。
おそらくアレスタたちを閉じ込めている扉を開くためのものだろう。
「あらあら、いただかれちゃったわね。……でも、どうする気? 鍵を手にしたところで、あなたを邪魔する私をどうにかしなければ扉にはたどり着けないわ!」
倒すのが先か、救出に向かうのが先か。
当然ながら敵の妨害があることを考えると、少なくとも彼女たちを無力化してからでなければアレスタたちを助けには行けない。
鍵を奪い返そうとするメイナの攻撃をいなしつつ反撃を加えていると、待ち望んだ援軍がやっと来た。
「イリシア、お待たせ!」
「え、ニック?」
最初に聞こえてきたのが彼の声だったので、まさかニックが一番に追い付いてくるとは予想していなかったイリシアは驚いた。失礼な言い方にはなるが、ニックにしては到着が早い。
――それとも私ってそんなに時間をかけていた?
そう考えるイリシアだったが、戦闘の合間に振り返ってみて改めて驚いた。
なんとニックは獣化したキルニアの背に乗っていたのである。どうりでいつもの彼より早いわけだ。
キルニアもよく彼を背に乗せたものだが、彼らは何やら通じ合っているので別に問題はないらしい。
「とにかくニックはこの鍵でアレスタたちを助けてあげて!」
「わかったよ、それは大役だね! で、どこに扉があるんだろうか!」
「自分で! 探して!」
援軍が来たことで一瞬だけ止まっていたメイナの攻撃が再開して、しかもそれは先ほどに増して苛烈なものであったので、対処で精一杯のイリシアも彼にかまっている余裕がない。
鍵を投げ渡した後はニックの奮闘に期待するしかない。
「こっちだ、ニック!」
やや遠くから呼んだ声はカズハのものだ。どうやら地下室への扉を見つけたらしい。鍵を手にして喜んでニックは駆け寄っていったが、自分より年下の少女に呼び捨てにされてもしっくりくるのは彼だからこそだろう。
視界の端でニックを見送った瞬間、メイナとは別の方向から、イリシアを目掛けて新しい攻撃の気配が来る。
「燃えて散りなさい!」
長く続いていた咳が止まり、ようやく立ち直ったらしいオビリアの炎魔法だ。
これをイリシアは危なげなく回避する。幾分か威力が抑えられているのは、まだまだ体力や魔力が完全には回復していないことに加えて、攻撃の射線上にメイナがいて巻き込みかねないからだろう。
スライム状態に変身していても、魔法の炎は無効化できるものではないらしい。
「あなたはそっちをお願い! 私はこの炎の魔法使いをどうにかするわ!」
剣では埒が明かないスライム女のメイナはキルニアに任せておいて、イリシアは両手から火花を散らしているオビリアと相対した。万全でない状態の彼女が相手なら、一対一で優勢に勝負をつけることができると判断した結果である。
だが、隣り合って二者同士が向き合ったその時、スライム化を解いたメイナが待ったをかけた。
「私に提案があるわ!」
キルニアはそれをなんとなく察したが、彼女の声に反応して攻撃の手を止めたイリシアとオビリアは、それぞれ似たように怪訝な顔をメイナに向けていた。
地下牢の鍵も奪われており、きっと間もなくアレスタとナツミも相手に加勢する。
このままでは自分たちが劣勢に陥ると判断したメイナは真剣勝負ではなく、この場を安全に切り抜けられる妥協案を提示するのだ。
「オドレイヤがくたばるまで、私たちの間では一時的に休戦するってのはどうかしら! ふふ、いっそ手を組むってのも素敵ね! あなたたちが一緒にいてくれれば、確実に私たちがアヴェルレスの天下を取れるわ!」
「お前、それをさっきはなかったことにしたくせに! よく言えるな!」
と、キルニアはパープルティー・ヒルでのことを思い出して憤った。
そんなことあったかしらと言わんばかりに、飄々としてメイナは言ってのける。
「そりゃそうよ! 今になって改めて誘うことができるのって、あなたたちの頑張りのおかげなんだから! あのオドレイヤが弱っているように見えたんだもの! ついに、ようやく、アヴェルレスの親玉を倒せる現実味が出てきたわ!」
「調子のいいことを言ってくれるぜ! お断りだ!」
信頼できない人間と手を組むなんてありえないと断言して、キルニアは吐き捨てた。
これで交渉も決裂だ。
二人の話が終わったと見たイリシアも剣を構えなおして、戦いに備える。
しかし、そのとき異変が三人を包んだ。
「……メイナ、今、あなたは何を言ったの?」
異変の発生源には、尋常でない怒りに燃えるオビリアの姿があった。
めらめらと、それは目に見えるほどの激情である。
今度ばかりはメイナも焦りを隠せない。
「えっと、それはでも、オビリア様……!」
「まるで、オドレイヤ様を軽視するような言い草。いいえ、死ねばいいと思っているような口ぶり。信じがたいけれど、それって……」
額に青筋を浮かべて、殺気をみなぎらせるオビリアは目を見開いた。
「反逆! 裏切り! たとえメイナでも許せないわ!」
そして彼女は爆発した。
比喩ではなく、文字通りの爆発だ。
オビリアを中心に発生した荒れ狂う炎が周囲を焼き尽くす。
あまりに突然のことであったため、すぐ近くにいたイリシアとキルニアの退避も間に合わない。
「風で防ぐけど、一緒に飛ばされないように踏ん張って!」
危機一髪というタイミングで、背後から発生した強烈な暴風が激しく迫ってくる炎を寸前で追い返した。
地下牢を脱出してきたナツミの風魔法である。
「とにかく、ここはいったん下がろう! 今の彼女はちょっと危ないよ!」
そう提言するのは彼女の横にいるアレスタだ。その後ろには、いかにも同意するといった様子のカズハとニックがいた。
もちろん提案を受けたイリシアやキルニアも同感で、爆弾どころか火山の噴火にも似た爆発と炎を見せられて、この場から逃げる必要性を感じていないわけがない。
しかしすでに周囲はオビリアの炎によって包まれていた。
どこかに逃げたいと思っても、肝心の逃げ道がふさがれているのである。
「あはははは! なんだか初めて気分がいいわ! すごく調子がいい! このまま街ごと業火に包めそうなくらい! 魔力がとっても溢れてくるじゃない!」
四方八方へと、過去最大級の火炎魔法が吹き荒れる。
廃墟の壁も、階段も、容赦なく熱と衝撃で破壊されていく。
ただならぬ炎の熱により上昇気流が発生して、彼女のもとに引き付けられるような強風が巻き起こるほどだ。
「オビリア様……!」
炎の魔法使いどころか、もはや自然災害と呼べるほど危険に燃え盛る彼女の姿を目にして、恐れるどころか感激に震える存在が一人だけ存在した。
彼女を慕うメイナである。
荒れ狂う猛火の中にあって、メイナの周囲だけ、炎は意志を持ったように避けて広がっていた。炎による熱も魔術的に操作されているらしく、彼女の頬を赤々と照らすばかりでとどまっている。
直前まで本気で激高していたオビリアだったが、さすがに自らの魔法で大切にしてきた部下を殺せるほど無慈悲でも短絡的でもなかった。
「だけど二度目はないわ! メイナ、私たちはオドレイヤ様を勝利に導くの! それだけのために戦うのだから!」
「……はい!」
感涙に打ち震えるメイナはもう何も言えなかった。言う必要性を感じなかった。
これまでとは違って不調を感じさせない今の彼女なら、きっと一人でも街を支配することができる。
もはや小細工など意味がない。彼女はようやく最強の魔法使いになったのだ。
ごうごうと炎が渦巻く中、カズハがみんなに聞こえるように声を張り上げる。
「きっとオドレイヤの魔力吸収システムはオビリアの魔力も吸収していたんだ。しかも、あまりにも強力すぎる彼女の魔法を警戒して、不調をきたすほどに大量の魔力が吸収されていた! だからそれが破壊されて、あいつは初めて自分の全力を出せるようになったに違いない!」
「だったら……」
「これからは彼女の本気が来る。なんとかしないとまずい!」
確かにまずい。ますます温度を上げている炎は離れていても肌を焼いてくる。
まぶしい恒星がすぐそこに輝いているようで、顔をそらしていても目を開けていられなくなるほどだ。
なんとかならないだろうかとアレスタは考えて、この場における打開策を一つだけ思いついた。
ここは自分の得意技で活路を切り開けるかもしれない。
だが、一人では不可能だ。
「イリシア、俺を信じてくれる?」
これにイリシアは即答した。
「あなたを信じる!」
もうあまり時間がない。
すべてを焼き尽くさんとして踊り狂う炎が前後左右から差し迫っている。
だけどそれは状況にせかされた言葉ではなく、彼女本来の意志による言葉であった。
ならアレスタは、その期待に応えねばならない。
仲間として彼女の信頼に報いなければ。
「よし! テレシィ、彼女を頼む」
「マカセテ!」
踊るように姿を現したテレシィがイリシアの精神果樹園に入り込む。
「アレスタ、何をするつもり?」
ごくりとつばを飲み込んだイリシアはアレスタに目を向けている。
今にも自分たちを焼き殺そうとしている炎に囲まれて全員が見つめる中、アレスタは力強く宣言する。
「これから君に全力の治癒魔法をかけ続ける!」
「かけ続ける?」
「そうだ! かけ続ける! 俺の魔力が続く限り、あるいは相手から即死級の攻撃を受けない限り、君は一時的に治癒され続けることで無敵となる! この炎の壁を突破して、オビリアを止めてくれ!」
言っているアレスタ自身、これは一つの賭けであると自覚していた。
精神果樹園に蓄えられている魔力が尽きてしまえば、炎の壁に突っ込む彼女は無事では済まない。一瞬でも治癒魔法の効果が遅れれば、激しい炎に身を焼かれ命を奪われてしまうだろう。
一度でも死んでしまえば蘇生はできない。
治癒魔法を発動させ続けるからといって、絶対的に無敵となるわけでもなければ、不死の状態が約束されているわけでもないのである。
だけどイリシアは信じると言ったのだ。
一歩間違えれば死ぬかもしれない大胆な作戦を聞いて、恐れや不安が一切ないと言えば嘘になる。けれど、この期に及んでアレスタにも彼女にも迷いはない。
どうせ何もやらなければ死ぬだけだ。
「わかった! アレスタ、合図をお願い!」
「頑張れイリシア、俺も頑張る! さあ、行ってくれ!」
「うん!」
治癒魔法がかかると同時、イリシアは最大出力の高速化魔法を自分の身に発動させた。
そして炎の壁へと身を突入させていく。
わずかに踏み込んだ瞬間、炎にまとわりつかれた顔が、腕が、足が、焼け、ただれ、形を失って溶けそうになる。これまでに経験したことのない激痛が全身を突き刺すように襲い掛かる。
だが、その都度ごとに暖かい光がイリシアを包み込んで、あまりにも圧倒的な力で彼女を癒していく。
炎よりも熱いのではないかと思えてくるようなアレスタの治癒魔法が彼女を守る。
ほんの少しでも火焔に触れれば高熱が皮膚を貫き、骨まで焼かれ、しかし瞬時に絶大なる治癒魔法があらゆるダメージをなかったことにする。
たった一本の髪の毛さえも、敵を睨み据える瞳さえも。
絶対に傷つかない。絶対に折れない。
どれほどの死地でもくじけない。
だから彼女は加速した。ぐっと身を乗り出して、奥へ奥へと踏み込んでいく。
その先に――。
「見えた!」
何も考えず、怒りに任せて爆発を繰り返す炎に包まれたオビリアの姿。
常時発動する治癒魔法に全身を守られたイリシアは彼女を狙って右手の剣を振り下ろした。
「なんて女! 危ない奴!」
けれど、すんでのところで躱された。攻撃の気配に気づいた瞬間、その場で転げ落ちるようにオビリアは身を引いたのだ。
反撃の炎が彼女から前方に向かって噴出する。
しかしそれは届かない。
高速化魔法を全開にしたイリシアの動きは常人の及ぶスピードではない。
それより早く回転する勢いで振り下ろされた左手の剣が狙う。
先ほどより一歩踏み込んでの深い一撃だ。
「んなあっ!」
痛ましい絶叫。防御のために突き出したオビリアの右腕が切り落とされたのだ。
激痛によって魔力の制御に狂いが出たのか、周囲へと吐き出されていた炎の勢いが目に見えて減衰する。
すかさず追撃。
今度は回避も反撃も間に合わぬ。
右手の振り上げとともに剣先が走る。音速にも迫る速度で切り上げられた剣によってオビリアの左腕は切断され、血と炎をまき散らしながら弾き飛ばされた。
「あ、ああっ! なんてことをしてくれるの!」
「今すぐ魔法を止めなさい! でなければあなたの命はないわ!」
イリシアは一方の剣を両腕を失ったオビリアの喉元に突きつけ、残る一方の剣を少し離れた位置で動けずにいるメイナに突きつけた。
周囲に溢れていた炎が風に吹き消されたように勢いを失っていく。
両腕を失うほどの負傷により、ついに魔法が停止したのだ。
「ふ、ふふ、ふふふ……」
ところが、絶体絶命のオビリアはくぐもった笑い声を響かせた。
空へと向かって高く燃え上がっていた炎の壁が消失し、吹き荒れていた熱波もなくなったことで、イリシアの勝利を確信して駆け寄ってきたアレスタたち。
そんな彼らの前で、地面に跪くオビリアは突きつけられた剣を一切恐れていなかった。
失った二本の腕を惜しがることさえ。
「残念ね。命がないのは、あなたのほうじゃないかしら!」
言ったそばから膨れ上がるのは、オビリアを中心に再び爆発する大量の魔力。
カッ――と灼熱。
「な、なにっ?」
正体不明の強い力によって、突きつけていたイリシアの剣が振り払われた。
同時に発生した爆風で、大きく後ずさることを余儀なくされる。
爆心地に立つオビリアからは、二つの燃え盛る炎が右と左で腕の形となって噴き出しており、腕を切り落とされたばかりの左右の肩から伸びていた。本来ついていた生身の腕よりも太くて長く、おそらく剣戟で切り落とされることもない、新しい二本の腕だ。
それは炎の魔法で作られた魔力的な腕である。
「いっそ両足も炎にしてみようかしら? ああ、私は、今度こそ本物の炎の魔法使いになれたのだわね……!」
息の代わりに口から火を噴きつつ出されたのは、おぞましいまでの凄みを感じさせる声。
ただならぬ彼女の様子にイリシアも警戒して距離を取る。
不用意に攻撃しても、今の彼女は「炎」となることでダメージを無効化できるのではないか。
それこそ、スライム化を得意とするメイナのように。
「オビリア様! ここはいったん引きましょう!」
彼女の部下であるメイナが駆け寄って退避することを進言したのも無理はない。
魔法を酷使するオビリアの顔は青ざめて脂汗がにじみ、いまだに消えぬ炎を背負っているとはいえ、見るからに苦しそうだったのだ。オビリアを苦しめていた魔力吸収システムが破壊されたにしても、彼女はまだ万全の状態とは言い難いのかもしれない。
だとすれば、これはチャンスか。
いや、違う。
現実的に考えると、ここで引くべきは炎への対抗手段を持たないアレスタたちのほうである。
「イリシア、戻ろう! あの二人を相手に俺たちだけじゃ危険だ!」
「負けを認めるってわけじゃないけど、すっごくそんな気がする!」
くるりと身を翻したイリシアは全員を護衛しながら駆け出した。
それを見たオビリアが眉を吊り上げる。
「だけど、それを許すような私じゃないわ! 今までは正体不明の不調のせいで、勝ち戦でも撤退しなければならなかった! でも、今なら全力の先にもたどり着けてしまえる気がする!」
「オビリア様!」
「決して逃がしはしない! 少なくとも私の腕を切り落としてくれた女騎士だけは、たとえ体が燃え尽きたって許さないわ!」
彼女を思って制止するメイナの声は届かない。
不調を覆い隠すほどの威力で魔法を発動させるオビリアは大規模な火炎を身にまとった。
炎の魔法使いというよりは、もはや業火そのものと呼んだほうがふさわしい姿となり、逃げる獲物の追撃を開始する。




