24 枯れた噴水のある公園
ずいぶん前に枯れてしまった噴水だけが残っているという、人知れず哀愁を誘う名もなき広場。
かつてはアヴェルレス市民にとって数少ない憩いの場であった公園も、今では薄汚れて寂れている。
現在、ここにはアジトから駆けつけた市民革命団のメンバーたちが即席のバリケードを作っており、逃げ後れた避難民を魔獣の襲撃から守っていた。
とはいえ、ただの人間である彼らには魔法など使えず、正面切って魔獣と戦うだけの能力はない。
だからこそ彼らはアレスタたちに魔道具の調達を期待していたのだが……。
「皆さん、お待たせしました!」
「おお、まさしく待ちに待っていた! 一日を千日に感じるほどに待たされた! しかし必ず助けに来てくれると信じていたとも! 逃げずに待ったかいがある!」
名もない公園の周囲を無秩序に徘徊する魔獣の群れをかき分けて、ようやく市民革命団のもとにたどり着いたアレスタたち。
もちろんハルフルートから調達することを期待されていた魔道具も持って来ている。それを確認したハルフルートはすっかり舞い上がって喜んだ。
あまりに騒ぐものだから、周囲の魔獣を刺激して興奮させかねない。
「落ち着いてください、とりあえず適当に武器を配りますので! 魔法を使えない人にも扱える魔道具なので安心してください。けれど魔獣と戦うつもりなら、決して無理をなさらずに!」
いよいよ自分たちの出番が来たと浮足立っている彼らを心配したアレスタがそう言うと、それを聞いて不適に笑ったハルフルートが革命団の全体を鼓舞するように叫んだ。
「我々を侮らないでいただこう! ここで魔獣を相手に恐れていては、もっと残酷な存在であるブラッドヴァンに立ち向かうことなどできない!」
「よく言った、ハルフルート! それでこそ革命のリーダーだ! さあ、我々の主催するパーティーの始まりだ! ものども続け、続け!」
ハルフルートの隣に並んで、意気揚々と声高に煽ったのはヒゲ面のピアナッツだ。市民革命を指揮する二人の勇ましい言葉に励まされたのか、彼らの部下たちも腕を振り上げて応答する。
見事に発破をかけられた格好だ。
実際の戦力はともかく、見かけだけならマフィアにも引けを取らない。
「頼もしい威勢だね。やる気が空回りしなければいいけれど、少し心配だな……」
「心配は当然。不安も当然。でも背中を預け合うことだって大切なこと。さ、私たちも魔獣退治に移るよ。ただし、アレスタは私だけじゃなくて全員に目を光らせること! 治癒魔法のこと頼んだからねっ!」
バシッと元気づけるようにアレスタの肩を叩いて、人当たりのいい笑顔を意識して浮かべているイリシアはぱちりと左目を閉じてウインクを見せる。ちょっとばかり不自然で、ぎこちない仕草に見えたのはご愛嬌。
そして颯爽とバリケードを飛び越えては、二本の剣を鞘から引き抜いて魔獣退治に切り込むのだった。
「よし、それじゃあ俺は俺にできることに専念しよう」
今回も敵のいない後方に位置して、治癒魔法を用いたサポートに徹することにしたアレスタ。どんなに心配しようとも、勇ましく一人で飛び出していった彼女を追うことはできない。勇気や度胸が足りないのではなく、それが求められた役割であるからだ。
誰かが傷つくまでは後方から見守るしかない己の立場を苦々しくは思いつつも、彼女たちと一緒になって前線に出て無理をすれば、最悪の場合には治癒魔法が間に合わず全滅する可能性も捨てきれない。
万全の状態で治癒魔法を使うためにも、まずは自分の身を守ることが一番だ。
「恐れるな! 続け! 続け!」
……と、そんなアレスタの横を意気揚々と通り過ぎていく市民革命団の団員たち。
短時間で配り終えたのか、それぞれに思い思いの魔道具を装備している。
革命団のリーダーであるハルフルートが持っているのは、矢を必要としない魔導ボウガン。ヒゲ面のピアナッツは、持てば軽く、振れば重い摩訶不思議な金棒。その他のメンバーたちは魔力で強化された鉄パイプとか、しびれ爆弾とか、毒の霧吹きとか、とにかくそういった津々浦々の魔道具を手にしている。
「イリシアたちと一緒に戦えないからといって悔やんでいる時間はない。俺も治癒魔法に集中しないとな」
誰かに強制されたわけではなく、自分の意志で革命団に所属している彼らは覚悟と根性だけはある。
けれど、厳しく見積もれば、それだけである。
マフィアに隠れて訓練を重ねて来たとはいえ、さすがに初見の武器を手にしてすぐに活躍できるほど実際の戦いは甘くない。
見慣れぬ魔獣を相手に一進一退。
なんとか倒せることがあっても、暴れる魔獣の一体を相手に数人掛かりでようやくといったところだ。
当然ながら怪我人は続出する。どれほど注意しようとも負傷者は後を絶たない。
次から次へと、それこそ立て続けに救援を求める声が響く。そんな彼らのためにテレシィを呼び出したアレスタは治癒魔法を使い続け、休む暇なく引っ張りだこだ。
オドレイヤが放った魔獣は強く、異次元世界ユーゲニアに古くから生息し、アヴェルレスの周辺を徘徊している一般的な魔獣とは比較にならない凶暴さを秘めている。
本来ならば一般市民が相手をするなど無謀でしかない行為。
命知らずの蛮行と笑われても無理のない話。
それなりに場数を踏んできた魔法使いでさえ、気を抜けば臆病風に吹かれかねないほどの強敵である。
「侮ってもらっては困る! この程度で屈する革命団ではない!」
しかし市民革命団の彼らは違った。
獰猛な魔獣を前にして感じる本能的な恐怖。それを帳消しにしてしまえるほど強烈な、圧倒的なまでの自信や勇気を彼らに与える治癒魔法があったからである。
傷や痛みだけでなく、死さえも超越する万能感。
彼ら本来の力でないにも関わらず、どんな致命傷さえ瞬時に完治させる治癒魔法をやってのけるアレスタの存在が、もはや不可能はないのだと彼らを景気付ける。
おそらく彼らは誰一人として、一歩下がって懸命に彼らをサポートしているアレスタのことも、それを可能にしている肩代わり妖精テレシィのことも、それからもちろん治癒魔法そのもののことも、本当の意味では正しく理解していないに違いない。
それでも彼らはがむしゃらで、本質的には何も理解しないままアレスタを信頼するに至った。
それはほとんど依存と呼んで差し支えない。
素人の戦闘集団に治癒魔法を頼られたアレスタにとって、次第に負担は大きくなる。
「あまり無茶はしないでいてくれると助かるけれど……! 魔力の消費も激しくて、さすがにこれ以上はきつくなってくる……!」
息が荒れずにはいられなくなってきたアレスタ。負傷者の間を奔走するテレシィもひたすらに飛び回っていて大変そうだ。
このままでは、いつ魔力や体力の限界を迎えてもおかしくない。そんな危機的な瀬戸際、いったい何を合図にしたのか、それまで無秩序に暴れ回っていた魔獣たちが一斉に攻撃をやめて後ろに引き下がった。
しつけられた犬よろしく、次の合図が出されるまで距離をとって様子を見ている。
どうやら”飼い主”の気配を察したのだろう。
「ああ、痛ましい光景だ……。なんということだ。いざ現場に来てみれば、これは無慈悲なペットの虐殺だよ。こんなにも愛くるしいポチブルたちが何頭も殺されてしまうだなんて。……無惨、無惨、無惨! ひどくおぞましい! 私の繊細な心が、はち切れんばかりだ!」
わざとらしいまでに演技がかった嘆きの声が響く。言葉とは裏腹に悲痛さはなく、どこか愉快な笑い声にさえ聞こえてくる。
さらなる魔獣と下っ端のマフィアを引き連れて登場したのは、ブラッドヴァンのボスボローである。
彼がポチブルと呼んだ八つ目の六足魔獣の群れに混じって、人間の面影に重なる四本腕の骸骨の姿もあるが、あれも魔物の一種だろう。
「無秩序な市民どもの行動を制限するため魔獣を街に放つ、という素晴らしい計画の責任者となった私には、この双肩にオドレイヤ様の期待がかかっている。その期待は私にとって命令そのものであると言っても過言ではない。遂行せねばならない、絶対に。それを邪魔されてしまっては見過ごす訳にはいかぬ。貴様らの命を頂いて、オドレイヤ様への手みやげにさせてもらおう」
そう言ってボスボローがパチンと指を鳴らすと、何もなかった空間に扉が出現した。
彼の魔法である異空間クローゼットだ。
慣れた手つきで取り出したのはエレガントな青色の帽子。上下をひっくり返せばバケツとして使えそうな形をしているが、マフィアの間ではオシャレな一品として通りそうだ。
「さて皆さん、この場で死んでもらうことに理解を頂こう。おっと、今は反論されても話なんて聞かないよ。どんな要求に対しても、返事は事後承諾でもらうことにしている。それがアヴェルレスでの最も『平和』なやりかたさ」
いつだって強い者が勝つ。これほどわかりやすい暴論はない。
彼らにとっての平和とは、強者が文字通りの強者でいられる時代のことだ。
虐げられる弱者が黙り込むしかなくなれば、波風は立たなくなる。悲しいことだが。
「ブラッドヴァンのお出ましか……」
さすがのハルフルートも怖じ気づいた様子で、ひそかに固唾をのむピアナッツも同様だ。
手足が震えるほどに怯える彼らの姿を見て、嗜虐心を刺激されて食指が動く人間こそ、生粋のマフィアであるボスボローであった。
逃げ惑うしか能がない雑魚と見下している相手に怖がられてこそ、どこまでも肥大化した彼の欲張りな自尊心が満たされる。
「法の執行!」
たぎる彼の宣言はためらいも迷いもなく、一方的に行われた。
前回の計画が失敗したボスボローにとって、これこそが千載一遇の汚名返上の機会であると張り切っているのだ。マフィアの人間が張り切ると大抵はろくなことにならないが、今回もまさしくそうであろう。
すなわち彼はこの場に集まった人間すべてを、一人残らず殺し尽くすつもりなのである。
戦いを前に愉悦を感じて顔を歪めた彼は傍らに出していた異空間クローゼットに手を突っ込んで、ごそごそと何かを取り出そうとした。おそらく武器だろう。
彼のクローゼットの中には驚くべきほど色々なものが入っている。夢や希望、幸せといったもの以外なら。
しかし、そうはさせぬと殺気を放ったイリシアが動いた。
彼女はマフィアによる虐殺を黙って受け入れるほど愚かな人間ではない。
「あなたの相手は私がつとめましょう」
「んむ?」
手を突っ込んだまま顔だけで振り返り、どこか不格好な姿でイリシアをにらみつける。
市民革命団の人間とは明らかに異なる風格。騎士に特有の戦い慣れした彼女のたたずまい。
したたかといえばしたたかなのか、自らが卑怯者であることを卑下しないボスボローは無駄な意地を貫き通さない。他人の命を奪うことにためらいはないが、自分の命をかけることにはためらいを覚える人間である。
要するに、何があろうと死にたくはないということだ。
責任者の仕事とは「先頭に立って命を捧げることではない」のだと、部下の手前もあって一応の言い訳を口にはするが、単純な正攻法ではイリシアに勝てない可能性を察しただけである。
「いや、いやいや! 困ったな! 私が馬鹿正直に強敵の相手をする訳がない。勝てそうにない相手が出てくれば、勝てる戦術に切り替えて対応するものさ。そう、このように!」
にやりと笑ったボスボローは異空間クローゼットから取り出したボール状の何かを投げつける。
不意打ちを狙ったつもりかもしれないが、何が出てきてもいいように気を張っていたイリシアにとって驚きに値することではない。
「たやすい!」
避けるまでもないと剣を振り上げて弾き飛ばす。
が、それはイリシアの目の前で破裂した。しかも中には液体が詰まっていたようで、破裂すると同時に飛び散った正体不明の液体がイリシアの体に降り掛かった。
その液体が発する不快なにおいは今までに彼女が嗅いだことのない種類のもので、そんなものを全身に浴びることとなったイリシアは顔をしかめずにはいられない。
「おめでとう。お前に浴びせかけたのは魔獣を引きつける香りだ。たくさんのポチブルたちが喜んで寄ってくるぞ。私の相手をしている場合ではないな」
興奮状態にある赤い目のポチブルたちが、そろいもそろってイリシアにむき出しの牙を見せつける。どうやら彼が言った通り、特殊な香りに引き付けられた魔獣たちはイリシアに狙いを定めたらしい。
人間よりも敏感な嗅覚を刺激されたのか、バラバラに散らばっていた魔獣がイリシアを中心に集まってくる。
こうなってはボスボローに構っている場合ではない。
覚悟を決めたイリシアは剣を構える。どこから飛びかかってきても斬り捨てることのできるように。
「やってしまえ! 食欲をそそるスパイスの香りに誘われて奴を食い殺せ!」
ボスボローが合図を出すと、ポチブルたちが遠吠えの合唱を奏でた。
そしてイリシアへ向かって次々と襲いかかる。
「くっ、さすがに数が多い! ……けど、どのみち一人でもやるつもりだったから構わない!」
これはさすがのイリシアか、お得意の高速化魔法の効果もあって、止めどなく襲いかかってくるポチブルを冷静に素早く対処して一切の隙を見せない。
だが、ものの見事にぐるりと囲まれたイリシアは続々と集まってくる魔獣の群れに釘付けにされ、もはや自由に移動することができなくなった。
「いやあ、助かった。あれでは餌になるのも時間の問題かな」
匂い袋を投げつけて、周辺にいた魔獣を操ってイリシアを狙わせることに成功したボスボロー。
一番の戦力である彼女が自由に動けないとなれば、残るのは統制の取れていない烏合の衆だ。
所詮は無力な市民が中心となった革命団。マフィアの敵ではない。
「邪魔をしてくる恐ろしい敵さえいなくなれば私の仕事は早い。私が所有する自慢のコレクションの一つで、この場を奇麗に掃除してあげよう」
続いてボスボローが異空間クローゼットから取り出したのは、強烈な電撃弾を打ち出す魔道具だ。
小規模な稲光を発する特大のショックガンで一人ずつ狙い撃ち、容赦なく市民革命団を無力化していく。
「なんて奴だよ、まったくもって!」
彼が使用する魔道具の効果なのか、アレスタの治癒魔法を用いても意味がなく、ボスボローの攻撃を受けて気を失って倒れた人間を完全に助けることはできなかった。強力な電撃弾を受けた際に生じた火傷や怪我は治せるものの、一度でも気を失って倒れれば治癒魔法を使っても目を覚まさないのだ。
幸いなことに命までは奪われないようだが、このままでは戦闘員が減って劣勢になる一方。
いくら強いとはいえ、この場をイリシアが一人で対処するには荷が重すぎる。アレスタは手に入れたばかりのジャーロッドを所持してはいるが、これで戦いに出るには心もとないのも事実だ。
そもそもアレスタは治癒魔法に専念するので精一杯であった。
「お困りのようだな、我々が助太刀しよう!」
「なんと! 助かります!」
そんな折、あたかも救世主のように駆け参じたものこそ防衛騎士団である。
アレスタたちと出会った酒場では泣き言を漏らしていたナルブレイドだったが、この短時間でどうやって反オドレイヤの意志を持つ同士をまとめあげたのか、たかだか十人程度ではあるものの、即席の魔獣討伐部隊のリーダーとして立っている。
手入れの行き届いていない安物の武具ばかりが目立つ小さな部隊ではあったが、それでもこうして街の危機に立ち上がってくれたのだ。追い込まれていたこともあり、やはりアレスタも感銘を隠せなかった。
「何事かと思えば、ちょこまかと動き回るターゲットが増えてくれたか! 逃げ惑う獲物がたくさんだ! いやぁ、こんなに楽しい娯楽はない!」
対するボスボローは敵の援軍に動揺するどころか、むしろ狩猟の相手が増えて喜んでいた。
名ばかりの防衛騎士団など、敵のうちにも入らないと見なしているのだろう。
「ならば存分に楽しむがいい!」
一つの角を正面に向けた正三角形の隊列を組んで突撃する防衛騎士団。
鼻で笑ったボスボローは慌てず騒がず、まずは突出した一人の青年を狙って電撃弾を放つ。
「なんの!」
ボスボローのショックガンから高速で打ち出された電撃弾。
ところがこれを、先頭にいた青年は巧妙に盾で防いでみせた。
しかしさすがの威力、受け止めた盾は大きく欠けて亀裂も入り、たった一度で半壊してしまう。
同じことをしても二度は防げそうにない。
「さあ、今だ! 次の攻撃が来る前にかかれ!」
強力であるが故に連射はできぬショックガン。
電撃弾の発射後に生じたわずかな隙をついて、後方に控えていた騎士団員が続々と飛び出す。
まずはボスボローが連れてきたマフィアの部下たちに狙いを定め、これを数人掛かりで打ち倒す。
ボスボローの攻撃に対しては交代制で対処するらしく、まだ盾が無事である者が前に出て防ぐ。
そうして少しずつ敵の数を減らしていくのだ。
「ええい、仕方がない。こちらのドクロ人形も前に出せ!」
強くは見えなかったナルブレイドたちの意外な健闘に苛立ちを隠せないらしく、露骨に機嫌を悪くしたボスボロー。がなり立てて命令が出されるや否や、ガチャガチャと不気味な音を立てて動き出したのは四本腕の骸骨たちだ。
機敏な獣であったポチブルに比べれば全身の動作が緩慢で遅いものの、敵であるからには油断することもできない。
「気色の悪い怪物め!」
まずは率先して前に出たナルブレイドが剣でドクロ人形の首を切り落とす。うまくいったと彼自身も惚れ惚れする一撃である。
けれど彼は驚愕することになる。
骨だけの魔物は首をはねても止まらなかったのだ。
これには防衛騎士団も苦戦を強いられる。
必然的に治癒魔法を使用する羽目になるアレスタも忙しくなった。
「さすがに敵は強いな……。そういえば、ニックはどこに行ったんだろう?」
一心不乱に治癒魔法を使っているうち、あたりにニックの姿がないことに気づいたアレスタ。
これは一大事かもしれないと、前後左右に首を振って彼の姿を探した。
けれど、どこを探しても見当たらない。立っていられないほどの傷を受けて地面に倒れているわけでもないようだ。
「こんなときにニックはどこへ……って、えっ?」
アレスタはあまりの出来事に言葉を失った。
なんと、突如としてニックがボスボローの背後に出現したのである。
一体どうして、いつの間に……? とアレスタは疑問に思ったが、これはすぐに答えを導き出した。
戦闘が始まる前のことだ。カズハには護身用のナイフを持たせて、バリゲードの奥に逃げ込んでいる避難民の護衛に立たせていた。なにしろカズハは小さな女の子。魔獣が相手とは言え、命をかけた危険な戦闘の前線に立つべきではないと考えてのことである。
おそらく、状況の不利を見たニックは打開策を考えた結果、そんな彼女を頼ったのであろう。
つまりヘブンリィ・ローブの魔法で姿を消したカズハに連れられて、こっそりとボスボローの背後へ接近したのだ。
すなわちニックによる起死回生の攻撃だったのである。
「これでも食らえ! ええい!」
「背後に敵か! 驚いたっ!」
しかしここで致命的な空振りが発生した。
この一振りに気合いを込めようとしたニックが叫んだせいで相手に存在を気づかれ、背後から斬りつける寸前のところで避けられてしまったのだ。
かろうじて九死に一生を得たボスボローは鉄製のブーツでニックの剣を蹴り上げる。憎しみを込めて力強く蹴り上げられた剣はニックの手を離れ、遠くまで飛んでいった。
唯一の武器である剣を失い徒手空拳となったニック。
丸腰の彼にショックガンの発射口が向けられる。
もはや絶体絶命、どうあがこうと敗北は決定的。
まさしくそんなとき、ぎりぎりまで追い込まれてこそ発揮される破れかぶれの一撃は、火事場の馬鹿力にして、窮鼠猫を噛む。
「僕だってやるときはやれるはずだ! どうとでもなれえっ!」
武器がなければ素手で殴り掛かるしかなく、雄叫びは右手に力を込めて発せられた。
さすがに素手の一撃ではボスボローを倒せないはず。しかし敵の顔面を殴ろうとしたニック自身も意図しないことではあったが、このとき、右手にはめていた彼の魔道具が反応した。
ニックが装着していたネプチュネイルから、突如として四本もの氷の爪が出現したのである。
凍える冷気をまとった魔法の爪。
ネプチュネイルから伸びたそれは、鍛え抜かれた短刀四本で斬り掛かるのに等しい。
至近距離からならば、十二分に深手を与えられる一撃だ。
「これは意外! この私が油断をして、しくじった!」
素手なら容易に避けられた。
戦闘に慣れていないニックの動きは完全に見切っていた。
ところがボスボローの心にあったその瞬間的な油断こそ、勝ち誇っていた彼を窮地に陥れた原因である。
まったくの予想外であったネプチュネイルの一撃になされるがまま、防御も回避もままならずニックの攻撃を食らってしまったのだ。
「なんだこれ……? 驚いたな、これは……」
奇襲に成功した自分でも驚いているらしいニックは、口をあんぐり開けたまま敵の前で立ち惚けている。
「不意打ちとは……! 小癪なことをしてくれる!」
負傷しておきながら闘志の衰えないボスボローはいち早く気持ちを切り替え、動きが止まってしまったニックへの反撃をためらわない。
「危ない!」
そのとき、攻撃に対して身構えもせず呆然と立ち尽くしていたニックは何者かの手によって後ろに引っ張られた。
すると直後に彼の姿は掻き消えてしまい、目の前にいたはずのニックを見失ったボスボローには手が出せなくなる。
もちろんこれはカズハの手柄だ。魔法を発動させたまま近くに隠れていたカズハがニックを引っ張り込んで、彼女のヘブンリィ・ローブの中へと避難させたのだ。
すなわちニックはカズハに助けられたのである。
「なるほど姿の見えない敵がいるのか……。これはそれなりの対処を考えねばならないな。残念ながら今の私には難しい戦いだ。この傷も放っておくには深すぎる。うむ、ここは堂々と逃げさせていただこう! オドレイヤ様には虚偽の報告でごまかす!」
うまく意表を突いたニックの攻撃によって負傷したボスボローは退散せざるを得なくなった。こういうときの引き際を間違えない彼だからこそ、競争の激しいアヴェルレスでも生き延びてこられたのだ。
現場の最高責任者だったボスボローが立ち去ると同時、役目を終えたのかドクロ人形は粉々に崩れ去った。
ほとんど時を同じくして、イリシアも群れていたポチブルを全滅させる。
「終わったか……。いやぁ、まったく! こんなにもくたびれるものだとは!」
大きなため息をついたのは、防衛騎士団に所属するナルブレイドである。木偶人形や同志たちを相手に戦闘の訓練は続けてきたものの、本当の意味での実戦はこれが初めての経験だ。
心配したアレスタは駆け寄って念のために治癒魔法をかけておくが、治癒魔法のことを知らないナルブレイドは自分の精神果樹園の中に潜り込んできたテレシィのことを人懐っこい妖精くらいにしか思わなかった。
「まさか来ていただけるとは思いませんでした」
「ならば次からは信頼してもらえるように実績を積んでいくしかないな。防衛騎士団が市民を防衛しないでどうする」
そう答えたナルブレイドのもとへ少し遅れて駆け寄ったイリシアが声をかける。
「助けに来てくれて本当にありがとう。私からも感謝を伝えておくわ。あなたたちのおかげで助かった。……それで、まずは確認しておきたいのだけれど、これがここの騎士団の全戦力なの?」
援軍に駆けつけてくれた彼らに感謝しつつも冷静に物事を考えるイリシアだ。
今後のためにも正確な戦力を確かめておきたいのだろう。
虚勢を張っている訳ではないにせよ、失望されるのは避けたいのかナルブレイドは多少なりとも見栄を張って答える。
「いいや、これはまだほんの一部だ。上層部の人間はブラッドヴァンに恐れをなして騎士団本部に引きこもっているが、まだまだ我々の同士は増える」
「それは頼もしいことね。期待してもいいのかしら?」
「当然だ。上乗せして大いに期待しておくといい」
根拠もなく強く言い切ったナルブレイドはくるりと背を向ける。
「騎士団本部へ戻るついでに街を見回っておく。ひとまず魔獣騒ぎは沈静化したと思いたいところだがね」
潔く去ろうとした彼に向かって、もう一言だけ伝えておきたかったアレスタが声をかけた。
「では、こちらも街の様子を見ながら、気を失っている彼らを市民革命団のアジトに連れて行くことにします。いずれ合流して、ともに戦いましょう!」
「ああ、そのときを楽しみにしているとも!」
そう言い残したナルブレイドは仲間を引き連れて立ち去った。
それを見送って、やがて姿が見えなくなったところで胸をなで下ろしたイリシアがつぶやく。
「なんにせよ、私はお風呂に入って体を奇麗にしたいわ。さっきから匂いがきついし……」
「さっき浴びた液体の匂い? 魔獣を引き寄せるとかいう。あー、確かにちょっと……」
「嗅がないでよ!」
「ごめん! だけどわざわざ嗅ぐつもりもないよ! なんか近くにいると漂ってくるんだもの! ……でもそれって今イリシアが着ている防具にまで染み付いているみたいだけど、代わりの防具とかあるの?」
「ない。……けど、ここから先は安物の防具でもいいわ。治癒魔法で助けてくれるなら布の服でも構わない。とにもかくにも臭いのはたまんない! 泣きたくなるもの! アレスタの馬鹿!」
「ひどいな」
さすがに同情しつつもアレスタはやれやれと肩をすくめるが、とにかく無事で済んだらしいイリシアが元気そうなのを確認して安心するのだった。
とにもかくにも、この戦闘で戦死者が出なかったのは不幸中の幸いだったろう。




