16 しがない場末の酒場にて
来るものは拒まないアヴェルレスの街だが、去るものは絶対に許さない。
ベアマークとつながる異次元間ゲートまで戻ったアレスタたちだったが、そこを管理するブラッドヴァンの構成員たちは民間人が通過することを認めなかった。
あまつさえ、話にならぬと魔法で攻撃して、問答無用で排除しようとする始末。
あいにくゲートを警備する人間はブラッドヴァンの魔法使いであり、強引に突破するにはリスクが高い。後ろ髪を引かれつつ、アレスタたちはゲートから退くことを余儀なくされてしまった。
先ほどからイリシアに体を支えられているカズハは体調が優れず、魔力を大量に消費していたのもあって、すぐにはヘブンリィローブの魔法を使えない様子だ。これでは全員の姿を見えなくして秘密裏にゲートを通過することもかなわない。
なんにせよ彼女の回復を待たなければなるまい。
そもそもカズハ本人の意向としては、何一つ問題が解決していない今はベアマークへ戻るつもりなど一切ないようであった。誰に何と言われようと、この街へ踏み込んだ彼女としては逃げ帰りたくないらしい。
どんなに最低最悪の街だとしても、こここそが彼女の故郷なのだ。
ギルドで襲撃者に殺されたカロンの仇を取るまでは、そして母の形見であるハクウノツルギを取り返すまでは、このアヴェルレスを立ち去りたくはなかった。
それがカズハの本心である。
「近くに酒場があるんだ。いろんな人が集まる裏路地の店で……。そこなら身を隠せるし、ついでに情報も集められると思う」
「わかった。だったら行ってみよう」
不安を胸の中に隠したアレスタは笑って答える。くたびれた様子のカズハを少しでも安心させるためだ。
いかにも治安が悪そうな裏路地にある酒場と聞いてイリシアは難色を示したものの、そこは能天気なニックが「まあまあ」と彼女をなだめた。一般論や常識の通用しないニックが相手ではイリシアも反論する気が失せたらしく、しぶしぶ納得する。
そんなこんなで警戒しつつ薄汚れた酒場に入ると、すでに数人ほど先客の姿があった。しかもいい具合に酔った連中である。
マフィアの構成員に共通するような極悪さは感じられなかったものの、赤ら顔の男たちに絡まれたくはない彼らである。言葉の通じない酔っ払いの相手ほど面倒なことはない。
「おっと、可愛いお客さんじゃないか。いらっしゃい。うちにはジュースもあるからゆっくりしていきな。はっはっは!」
愉快かつ豪快に笑ったのは、屈強な体つきをした酒場の主人だ。
威圧的だが優しい目はカズハを見ていて、まだまだ幼い彼女にはアルコールなど似合わないと笑い飛ばしたのだった。
このアヴェルレスにおいて、アルコールの入った酒は現実逃避に走る情けない大人たちの恋人だと相場が決まっている。せめて子供くらいは現実に希望を持っていてほしいというのが、見た目に反して平和主義の彼が願う日常である。
「やったね! じゃあ、味は何でもいいから、とにかく甘いジュースを四つ!」
「へへっ、あいよ!」
ところが、ここで年少者のカズハより先に全員を代表して注文したのはニックだった。おいしいジュースが飲めると喜色満面な青年である。
これには強面のマスターも苦笑を隠せなかったが、おかげで初見の客に対する警戒心は消え失せたようである。
のんきなニックを警戒する無意味さを彼は直感したのだ。
「ねぇカズハ、ここが君の生まれ育ったアヴェルレスって街なんだよね?」
「そうですぜ、兄貴。こここそがアヴェルレス、いつだって夕焼け色に包まれた異次元世界の暗黒街さ。すっかりマフィアに支配されちまって、自由と平和からは程遠い、つまらない街だ」
「マフィア? もしかしてさっきの人たちのこと?」
「うーん……いや、どう説明したらいいのやら」
彼女の故郷であるアヴェルレスの情勢――つまりオドレイヤのブラッドヴァンとファンズのマギルマなどについて、何も知らないアレスタたちに教えるのは大変なものがある。
殺傷能力のある魔道具で武装しているマギルマも間違いなくマフィアの一つと呼べる組織だが、基本的には市民に危害を与えることを避けており、暴力によって街を支配するオドレイヤを倒すために戦っている対抗勢力だ。しかもファンズはカズハにとって、同じカロンを師匠にもった義兄に当たる。
したがって心情的には彼らのことを危険な存在だとは思いたくないカズハである。
理屈はともかく、マギルマとマフィアを同一視したくないのだ。
しかし実際問題、マフィアの支配を終わらせる正義の勢力として多くの市民から期待を寄せられているマギルマといえど、オドレイヤを倒すためなら非情にもなれる。状況次第では仲間を裏切ることだって、やらないとは言い切れないだろう。
絶対的な支配者であるブラッドヴァンを相手にしている限り、綺麗な手段だけを選んでいる余裕はないのだ。
マギルマに敵対しているつもりのなかったカズハだって、先ほどは囚われの身になる寸前だった。
……だとすれば、必ずしもファンズが善人であるとは限らないのだし、無条件で彼女の味方になってくれるわけでもないのだろう。
そういった点をふまえて、大まかにアヴェルレスの情勢を説明したカズハ。
悪の支配者としてアヴェルレスに君臨するオドレイヤと、彼を裏切ってマギルマを結成したファンズ。
そして現在、ブラッドヴァンとマギルマを中心とした二大勢力による対立構造が出来上がっているという異次元世界の物語。
「――ってことは、つまりさっきの人がファンズ? マギルマのボスで、オドレイヤとかいう危険な魔法使いと対立しているっていう……。でも、じゃあどうしてカズハにひどいことをしようとしていたの?」
「それは……アタシにもわからないんだ。まさか拘束されそうになるなんて予想外で驚いたぜ。隠れて近づいて脅かそうとしたから怒ったのかな」
「結局のところ、彼は味方なの?」
「アタシとしてはそう考えていたけど、今はどちらとも断言できないみたいだなぁ……。状況が状況だけに、ファンズ兄ちゃんのマギルマだって戦う手段を選んでもいられないのかも。それほど敵であるオドレイヤが強いってことだけどさ」
「なるほどね。さっきは見逃してやると言われたけど、だとすれば油断はしないほうがいいみたいだね」
ううむと唸ったアレスタは腕を組む。
気難しい顔を浮かべているが、実際に悩ましい問題なのだ。
負けず嫌いで意地っ張りなカズハは、敵に奪われたハクウノツルギを取り返すまではベアマークに戻らないと主張している。しかも、可能なら自分の手でオドレイヤを倒したいとまで息巻いているのだ。
それはきっと大切な師匠であるカロンを殺された恨みと復讐心が原動力となっているのだろうが、そうでなくとも、このアヴェルレスに住んでいる人々の抱いているマフィアへの嫌悪感は、彼女の比ではないのだろう。
――できることなら、ギルドとしてもアヴェルレスの平和のために貢献したい。
そう言い出したのは正義感に駆られたイリシアである。
もとは騎士の一人であったことからもわかるように、彼女はとかく悪と不正を見逃すことができない性格なのだ。思いつめた表情のカズハに同情したこともあって、いつしか彼女は打倒オドレイヤに燃えていた。
「私たちの力で、このアヴェルレスに自由と平和の風を吹かせましょう!」
などと、声も高々に彼女が宣言した直後である。
「そいつは無理だな」
隣の席で一人酒に酔っていた男がこっそりと四人の話を聞いていたのか、投げやりな口調で否定的な言葉を発したのだ。
「……おや、なんですか? 無理とは聞き捨てならない横槍ですね」
決意に水を差されたイリシアだが、見知らぬ男から野次を受けた程度で簡単に意志が折れるような人間ではない。
にらむように声がしたほうへ振り返ってみれば、隣のテーブルに座っていたのは意外にも若い青年だった。肝心なところで気が弱いのか、怒気を含んだイリシアの険しい顔を見た青年は臆してしまう。
ひるんだ様子で「喧嘩するつもりはない」と肩をすくめると、ばつが悪そうに小さく笑った。
「悪いな、茶化すつもりはなかったんだ。けど聞いちゃいられなかった。だってよ、オドレイヤを倒すったって、お前ら四人に何ができる?」
「何がって……それは今から考えますが」
「悪いことは言わない。何を考えてもいいが無理はするな。ブラッドヴァンを甘く見ていると殺されちまうぜ。きっと四人とも明日には打ち首だ。せめて戦いを挑む前に顔は洗って綺麗にしておけよ、その顔が晒される」
「お気遣いをどうも。けれど私たちは悪人を放っておくほどお人よしではありません。それにこれはカズハという大切な仲間のためでもありますから」
「イリシアの姉御……」
正義と仲間のためなら巨悪にも立ち向かうというイリシアを見て、こんなにも強い人がいるのかとカズハは感銘を受けたようだ。
すっかり尊敬と親愛のまなざしをそそいでいる。
「正義感は結構。だが理想じゃなくて現実を見ろよ。圧倒的な暴力が人々の頂点に立っているとき、簡単には体制は覆らない。どんなにあがいたって殺される。誰の役にも立てず無駄死にをして、見せしめに市中引き回しの刑だ」
これ見よがしに人差し指をぐるぐる回して、その指をイリシアやカズハへと順番に向ける青年。
「俺だって女子供が残酷な仕打ちを受ける姿は見たくない。だからお前たちを止めるのさ」
きっぱりと言い切って、反論は受け付けぬとばかりに青年はさらに一杯のアルコールを喉に流し込んだ。
酒に酔った勢いで何もかもを忘れて、現実逃避しようと懸命になっているかのように。
「哀れな人……でも、きっと根は優しいのね」
生真面目な性格がそうさせるのか、騎士であったイリシアは他人の悪意に敏感だが、同じく善意にも敏感だ。優しくて現状を憂えているからこそ、この青年が自暴自棄に陥っていると看破したのである。
照れているのか酔っているのか、青年の顔はますます赤みを帯びていく。
「マフィアに比べれば、誰だって優しい人間さ。そして哀れな人間なんてアヴェルレスには腐るほどいる。つまり俺は凡庸でつまらない人間だってことだ」
「そんなことはないんじゃない?」
と、ここで彼の自嘲を否定したのはニックだ。
お世辞ではなく大真面目である。
「……なんだと?」
自分が褒められたのかどうかもわからず、どう受け取ればいいのか困惑した男は眉を吊り上げる。ふてぶてしく腕を組むと、いかにも優男といった風貌のニックを視界の正面にとらえた。
発言の真意を問おうという算段である。
当然、青年と向かい合ったニックは自説を披露することとなる。
「いやね、何をやっても失敗ばかりする僕は、目の前にいる相手が同じようにダメな人間であるかどうかを判断する才能があるんだよ。同類であるがゆえにね」
「え? ちょっと待ってよ、ニック。そんな才能があるなんて初めて聞いたけど、そうなの?」
不思議に思ってアレスタが小声で問いかけると、嘘なのか本当なのかもわからない調子で「まあまあ黙って見ててよ」とニックは続けた。
「それによれば……うん。あなたはダメ男としては弱い。つまり、ちゃんとしているってこと」
「俺がちゃんとしている? おいおい、何を根拠に言い出すんだ……。もうすでに酔っぱらっているのか?」
いやいや、これはジュースだよ、と答えてニックは話を続ける。
「たとえばその鋭い目。僕なんかとは目つきが違う。黙っていても胸のうちに信念を抱えていることが丸わかりだよ。それからテーブルに立てかけられている剣は見ただけで使い込まれていることが歴然だ。そして極めつけは服の下に感じられる筋力だよ。たぶん普段から鍛えているんでしょ? 違う? 違わないよね?」
物語に出てくる探偵気取りで披露した推理に自信があるのか、なにやら嬉しそうなニック。
相手がダメ人間かどうかを見抜く才能があると誇っているのだが、どうせ当てずっぽうだろう。
けれど完全に的外れな指摘でもなかったのか、青年はため息を漏らした。
「……お前らは何者だ?」
ようやく出てきた彼からの問いかけ。
本来であれば、最初に飛び出していてもおかしくない疑問である。
なにしろ、この街で堂々と「オドレイヤを倒す」と言いのけてしまう人間は非常に珍しい存在なのだから。
「何者か、といえば――」
みんなの視線が集まったせいで全員を代表して答える羽目になったアレスタは少し考えて、こう名乗る。
「虐げられる弱者を見捨ててはおけない、お節介なギルドです」
「ギルドだと? 風の噂に聞いたことはあるが、そんなものアヴェルレスにはなかったはずだが。だとすれば、もしかして、お前たちは……」
「お察しの通りです。異次元間のゲートを越えて、アヴェルレスの外から来ました」
「へえ、なるほどね。驚いたが納得だ。外の世界から来たからこそ、あのオドレイヤを倒すなんて言えてしまうわけだ。アヴェルレスに平和をもたらすなんて言えてしまうわけだ。……けっ。酔いもさめるぜ」
「それは助かります。オドレイヤを倒すためにも、今は真剣に真面目な話をしたいんです。あなたに酔われていると情報収集にもなりませんから」
「情報収集の相手は俺でいいのか?」
「食えない男ほど美味しいものを持っている――これは知り合いの情報屋から教えてもらった鉄則ですけど……」
「俺が持っているのは毒かもしれないぞ」
「ならば、なおさら知るべきでしょう」
「……いい心がけだ」
毒をもって毒を制すと言わんばかりなアレスタの返答を聞いた青年は、いっそ愉快さを覚えて笑った。
これほど前向きに強気で物事を考えられる人間は、このアヴェルレスにおいて希少価値がある。
そう気付いた時点で初めて、青年は自分が名乗る意味を見出した。
「俺の名はナルブレイド。これでもユーゲニア防衛騎士団の騎士だ」
「防衛……、騎士団ですって? あなたがっ?」
いつの間にか身を引いて二人の会話を静かに聞いていたイリシアだったが、ナルブレイドと名乗った青年の自己紹介があまりに予想外だったために驚きを隠せず、斬りかからんばかりの勢いで椅子から立ち上がった。
かつては同じように騎士を名乗っていたものとして聞き流せなかったのかもしれない。
「おいおい、落ち着けよ。防衛騎士団といったって名前ばかりの組織だ。上層部の人間がごっそりマフィアに買収されていて、最強最悪の魔法使いであるオドレイヤに服従しているのがアヴェルレスの騎士団だからな」
「兄貴と姉御、これは本当のことですぜ。アタシらみたいな街の人間から言わせれば、防衛騎士団はマフィアに癒着しているクズどもの巣だって」
「おっと、お嬢ちゃん、厳しいことを言ってくれるなぁ」
つっけんどんな態度をとりがちな青年ナルブレイドも、さすがにカズハくらいの年頃の少女には甘くなる。
そういった子供扱いがカズハを不満にさせることもあるが、へらへらした表情を浮かべる彼に対して言いたいことがあったのはカズハよりもイリシアだったらしい。
「こんなところで酔うまで酒を飲んでいるのですから、厳しいことを言われても仕方がないでしょう。仮にも騎士団の一員として、なんとかしようとは思わないのですか」
「もちろん街のために何も思わないわけではない。ちっともそうは見えないかもしれないが、今は水面下で同志を集めているところさ。防衛騎士団の中にもマフィアを憎らしく思っている奴は多いからな」
「だったら……」
「でもな、自分の命をかけてくれるほどの同士なんて簡単には集まらないのが現実なんだよ。仲間が集まらないんじゃ動き出せない。中途半端な戦力では絶対にブラッドヴァンを倒すことなんてできないからな。……俺は一人でも切り込む覚悟はあるがね、一緒に戦ってくれる同士がいなくちゃ意味もなく討ち死にして終わりだ」
「同士ですか……」
共通の敵と一緒に戦ってくれる同士や仲間。敵が強ければ強いほど、イリシアもその必要性を認めざるを得ない。そもそも騎士団がなぜ団を構成しているかといえば、そこに組織としての力を見出しているからである。
どれほど意志が強かろうと個人が発揮できる力には限界があって、身の丈に余る敵というのは確実に存在する。
相手が最強最悪の魔法使いと噂されるオドレイヤならばなおさらだ。
「ファンズ兄ちゃん――いや、マギルマは同士にならないのか? オドレイヤを倒すっていう目的は一致しているみたいだけど」
「馬鹿を言え、マフィアの人間に善人なんているわけがないだろ。今は解放勢力として一部の人々に期待されているマギルマだって、ブラッドヴァンを倒せば第二のオドレイヤになるだけさ。いいか、お嬢ちゃん。あれはマフィア同士の権力争いなんだよ。マフィアによる支配構造そのものを壊す戦いじゃない」
「そっか……」
ナルブレイドに自分の提案が一蹴されたカズハはうつむいて唇を結んだ。マギルマも所詮はオドレイヤと同じマフィアだとみなされ、昔の優しかったファンズを知る彼女には悲しくもあったのだ。
そのときである。
ドンッ、という大きな音とともに酒場の扉が開け放たれ、新しい客が姿を現した。
「私が第二のオドレイヤになるとは、不愉快なことを言う人間もいたものだね」
「ファ、ファッ、ファンズ! なぜこんな酒場にマギルマのボスが!」
予想外の来客に度肝を抜かれたナルブレイドは大きく目を見開き、すっかり慌てふためいて椅子から転げ落ちそうになった。持ち前のバランス感覚によって背中からひっくり返ることは免れたが、その反動でうっかり立ち上がって気を付けの姿勢をとってしまう。
まるで上官を敬礼で迎える新兵の有様だ。
おそらく当人は意識していないだろうが、ファンズは悪逆非道なオドレイヤの対抗馬として台頭したおかげで人気はともかく街の有名人だ。良くも悪くも彼の存在感は大きく、その影響力は計り知れない。
街の将来を憂慮するナルブレイドはこの若きボスのことを幾度となく仲間との話題に出しておきながら、実を言えば一度も顔を合わせたことがなかった。そのため唐突に目の前に現れた彼に対して動揺を隠せず、どう対処するべきか混乱してしまったのだろう。
もちろん酒に酔っていたことも原因にある。
「まあ、座りたまえ。その代わり私も座らせてもらうとしよう」
「あ、ああ……」
やや茫然自失ではありながらもナルブレイドが椅子に座りなおしたことを確認して、ファンズも同じ席に着く。
「……なぜこんな酒場に? などと君は私が酒場に来たことを驚いていたが、失礼だね。人が生きるのに、なぜも何もない。こうして私たちが出会えたのも一つの縁だろう。ふふん、せっかくだからみんなで建設的な話をしようじゃないか」
「ファンズ兄ちゃん……」
「すまないな、できればカズハも座ってくれ。そこにいる“お仲間の三名様”もだ。……安心してくれたまえ。今の私は手ぶら状態で、部下も引き連れず、そして気分は良好だ。こんなときは平和的に話し合いをしたいわけだがね?」
そう言ってファンズはパチンと指を鳴らすと、テーブルに置かれていたメニュー表も見ずにパープルティーを注文した。口をへの字に曲げた店主からの返答は「そんなものはない、お前らマフィアが買い占めているからな」だったが、それを聞いたファンズは「なら今後は少量でも街の酒場に融通しよう、あれは値段の割に不味いからマギルマでも余りがちでね」と笑って流した。
皮肉で言ったつもりだった店主は「必要ない」と即答するしかなかった。庶民派をうたっている場末の酒場が高貴な香りで満たされれば、きっと常連客は嫌な顔をするに違いないからだ。
あきれ顔の店主からパープルティーの代わりに水を受け取ったファンズはぐびぐびと一息に飲み干して言う。
「一つ交渉をしよう。君たち、オドレイヤを倒すためにも我がマギルマに協力しないか?」
「……馬鹿を言え!」
誰よりも先に振り下ろした両手で机を叩いて、飛びかからんばかりに腰を上げたのはナルブレイドだ。
一度は椅子について落ち着きを取り戻したというのに、反論するときは立ち上がるのが規律だとでもいうのだろうか。相手の言動に過剰反応しやすいナイーブな部分があるところ、いかにも血気盛んな若者らしい反応である。
あまり褒められた性格ではないとはいえ、直情的なのは必ずしも致命的な欠点ではない。あらゆるものの原動力だ。
「おやおや、人の真剣な提案を指して『馬鹿』とは実にユニークな発想だ」
「これは失礼。マフィアのような非常識な連中にはユニークに聞こえただろう。だが正義を信じる新時代の騎士にとってはスタンダードな反応だ」
「ふふん、なるほど。そういえば君はユーゲニア防衛騎士団に所属しているんだってね? しかもオドレイヤを敵視する反体制派だとか。それが事実なら、我々に協力する価値はあるだろう? とにかく今は多くの人手がほしい私としても、君と同じような意志をもつ騎士団員を紹介してくれると助かるのだが……」
「確かに我々をはじめとする革命思想家たちがマギルマと協力すれば、お互いに助かる部分があるのは否定できない。けれど今ここでマフィアと癒着してしまえば、これまでの悪習を繰り返すだけの結果となる。マフィアに支配されているアヴェルレスを本当の意味で変えたいだろう? だから答えはノーだ。非常識な暴力的組織と協力することはできない」
「……協力できない? たとえば今ここで、私が君に向かって深々と頭を下げてもかな?」
「頭を下げられたって答えは変わらないさ。なんと言われようがマフィアの力は借りない。たとえオドレイヤに負けるとしてもだ。どれほどの美辞麗句で自己を正当化しようが、マフィアから分離独立した勢力は少なからずマフィアの血を受け継いでいる。本物の自由と平和を求める以上、マギルマの手を借りるわけにはいかない」
内心では強く言い切ってしまったことに後悔を覚えつつも、表面上は頑なな態度を崩さないナルブレイド。
それが彼なりの矜持だ。
これ以上の交渉は望めないと見て、たった一枚の小銭を落とした程度の損失を払拭するような心境になったファンズは鼻で笑った。
実績のない名前ばかりの防衛騎士団など、マギルマを指揮する彼にしてみれば最初からこだわるほどの戦力ではない。
「立派な答えだな。まるで英雄気取りだよ。さすがマフィアに飼いならされたユーゲニア防衛騎士団といったところか。自分たちのプライド以外には守るものがないから、意地を張ることしかできない。現実的な選択肢を、つまらない理想論で見えなくしてしまう」
「……くそったれ。なんとでも言え。だが、それが自分にとっての長い遺言と思うことだな。オドレイヤの次はお前を殺すことになる。それでマフィアは壊滅さ」
「ふっふん、それが事実なら頼もしい限りだね。あるいは自分を鼓舞するための虚勢であったとしても、むしろ私としては好ましいくらいさ。臆病風で進む人生のマストはない。己を奮い立たせるための大義名分や虚言は必要だよ。こうなったら私もマギルマの代表として、君たちのような影の抵抗勢力を見捨てず陰ながら応援させていただこう」
「応援されたって何が変わるものか。そんなものはいらない。……だがひとまずはブラッドヴァンが壊滅するその瞬間まで、お前たちマギルマとは一時休戦だ」
そう言って自分が呑んだ分の酒代をテーブルの上に置いたナルブレイドは、酔った足取りであったものの、普段よりも胸を張って酒場を後にした。これから騎士団本部に帰って彼なりの作戦計画を立てるつもりなのかもしれない。
あとは彼の物語だ。彼だけが語る資格を持つ。
「さて、そうなってくると今度は君たちとの交渉がより重要になる」
気前のいい店主から二杯目の水を受け取って上機嫌になったファンズは一足先に立ち去ったナルブレイドなど気にも留めず、友好的だが胡散臭いような笑顔をカズハたちに向けた。
真意はともかく、少なくとも表立って敵対するつもりはないらしい。
しかしこれがアレスタたちの油断を誘った罠でないとも言い切れない。腕のいい詐欺師ほど人当たりがいいものだ。
「わかりました。けど、ここはカズハの代わりに俺がギルドを代表して話をさせていただきます」
「兄貴……」
かばってくれたアレスタの姿に、すっかり弱気になっていたカズハは涙ぐむほど喜んだ。
そんな彼女の姿を見たファンズは一瞬ほど眉をしかめたが、すぐに気を取り直す。
「こちらとしては誰でもいいさ。ちゃんと話がわかる相手ならね」
「あなたこそ、交渉というからには自分の発言に責任を持つべきです。重大な嘘をついていると判断すれば、私が容赦なく斬り捨てます。……いいですね?」
「酒場の席には似つかわしくない物騒な申し出ではあるけれど、それでこそ交渉のしがいがある。大事な話を他人に任せてばかりで自分で考えることを放棄した人間は大嫌いなのでね」
相手のペースで議論が始まる前に先手を打って威嚇したイリシアだったが、気の強い女性に慣れていたファンズは彼女の迫力に萎縮するどころか、かえって親近感を覚えたらしい。
凛々しい雰囲気の女性が好きなだけかもしれないが、ひょっとすると彼が愛するナツミの面影をイリシアに重ねているのかもしれない。わずかに優しい目をしたファンズの顔を見たイリシアのほうが、逆に気勢をそがれてしまう。
ともかく、それから酒場の会議は夜が暮れるまで続けられ、結果、ひとまずのところ彼らは協力関係を結ぶこととなった。
とはいっても、マギルマに加入するわけではない。
あくまでもアレスタたちはマギルマと協力する独立した部隊として行動するのだ。
悪逆非道なオドレイヤを倒して、アヴェルレスからマフィアを駆逐するという目的のために。




