15 カズハとファンズ
ブラッドヴァンに伝わる大事な宝剣であるハクウノツルギが何者かによって奪われたことは、その場に居合わせた責任者のボスボローが自ら言いふらすまでもなく、ただちに広範囲へと知れ渡った。
当初の計画が失敗した時点で諦めがついたのか、不届きな盗人にしてやられたオドレイヤも魔剣が奪われた事実を隠そうとはせず、むしろ自身に不利な情報がアヴェルレスに蔓延する状況を楽しんでいるようだった。
それを聞いた人々は半信半疑のままに思う。
あっさり宝剣が盗まれたとなれば、つまり完全無欠だと思われていたオドレイヤにも付け入る隙があるという証拠ではないか。あの最強最悪の魔法使いが、たかが盗人一人を捕らえることもできないなんて……。
さすがに表立ってブラッドヴァンに楯突くほどではなかったが、アヴェルレスの街全体に「もしかするとオドレイヤを倒せるのではないか」との希望的な気運が高まりつつあった。
マフィアに対する勝利と、それによってもたらされるであろう平穏な日々を夢見る市民たちは、その夢を託す先を二つほど見つけていた。
一つは勇敢な市民らが自主的に集まって結成された草の根的な革命勢力であり、二つ目は元はマフィアの一員であったファンズが率いるマギルマだ。
しかし戦いに不慣れな市民革命団はいまいち波に乗れず、各地でマフィア相手に勝負を挑んでは痛い目を見て尻尾を巻いて逃げるといった有様で、なかなか形にならなかった。
小さな反抗作戦でマフィアにダメージを与えても、それだけではすぐに癒えてしまう程度の些細な傷である。年季の入った悪の組織は伊達ではなく、一気呵成に一網打尽にしなければ死滅しないのかもしれない。
正面突破の正攻法ではブラッドヴァンに対して勝ち目の薄かったマギルマも、このチャンスを逃しはしない。身を潜めて時間稼ぎをしていた構成員たちも、今こそ攻め時と攻勢に打って出る。
奇襲と、罠と、人海戦術と裏取引。
「打倒オドレイヤ」を合言葉にした一部の市民による献身的な協力もあって、全体的な戦況はファンズを優位に立たせつつあった。
だがそれも、最強を誇るブラッドヴァンの幹部連中が積極的に動かなかったからに過ぎない。とにかく自信過剰な彼らはこの期に及んでなお、本拠地であるオドレイヤ邸を中心に防衛策を取っていたのだ。
あえて自分たちから攻め滅ぼすまでもないということか。
きっとお手並み拝見のつもりだろう。
「しかし、こうして敵が黙って戦況を拝見してくれている間はたっぷり時間を稼がせてもらえるからな。時は金なり、なんて古いことわざがあるそうだが、それを思えばオドレイヤも太っ腹だよ。無垢なる市民たちから権利と財産を一方的に搾取して肥え太った結果だろうがね」
憎しみを込めて、皮肉たっぷりに嘲笑したのはファンズだ。
十分に稼ぐことのできた時間は必ずしも彼にとって心穏やかなものとも限らなかったが、手ごわい敵の主力が足並みをそろえて攻め込んでこないだけ、ほっと胸をなでおろすことが出来たのも事実である。
一時的に手に入れた安らぎの中で彼が思いを巡らすのはカロンとカズハのことだ。
ある事情により、一度でもマフィアに所属した人間はユーゲニアの外に出て行くことが出来ない。したがって、オドレイヤやオビリアなどの無慈悲な魔法使いが、逃げ出したカズハたちを異次元世界の外側まで追いかけていくことは不可能だ。
だからユーゲニアの外にさえ出られれば、ひとまずの安全は確保されるはずである。
それでも逃げた二人を執拗に追いかける手段があるとすれば、マフィアの構成員ではないアヴェルレス市民議会政府の関係者が駆り出されるだろうが、政治家を気取っている彼らはブラッドヴァンの操り人形であって、ただそれだけの存在だ。たとえ魔法が使えたとしても強くはない。
無事に向こうの世界で平穏な二人暮らしを送れていればいいが――と、彼は本心からそう思った。このときばかりはマギルマのことなど忘れて、ごく平凡な郷愁とともに。
ところが数日後、とある一報がファンズの元に届けられた。
オドレイヤがハクウノツルギを取り戻したというのだ。
まだ確定した情報ではなかったが、どうやらオドレイヤは人間の死体や魔物を魔法で操って、向こうの世界に隠れていたカズハたちを襲ったらしい。
「事実なら救いがたい話だ。だとしても救うがね」
緊急で入った報告を鵜呑みにすることを拒否したファンズは、その事実を自分の目で確かめるため、アヴェルレスの目立たぬ地点に開いたままの異次元間ゲートへと少数の部下を引き連れて向かった。
これはカロンとカズハの二人がオドレイヤから盗んだ宝剣を使って切り開いたもので、今もベアマークとつながっている暫定的なゲートだ。いつ消えるとも知れない不安定なゲートでもある。
新しく誕生したゲートの見張り役としてブラッドヴァンの構成員がいれば遠くから様子をうかがうことになるかもしれないが、誰か出入りするのか少しでも情報を集められればそれでいい。
そう思っていたが、果たしてこれは偶然か、あるいは必然か。
ゲートの様子を見るためファンズが向かったちょうどそのとき、マフィアに奪い返されたハクウノツルギを追うカズハが一人でアヴェルレスへと戻ってきたのである。
「これは敵討ちだ! 大切な剣だって絶対に取り返してやる……!」
アヴェルレスの薄汚れた土を踏んだカズハは胸に誓った。
高ぶる気持ちとは裏腹に発した声が小さくなったのは、すぐ近くにブラッドヴァンのマフィアたちがいたからだ。あくびをするくらいにいは気がそれているが、ゲートのそばに数人ほど立っている。おそらく一応は警備のつもりだろう。
しかしカズハの使用している魔法ヘブンリィ・ローブのせいで、なけなしの門番である彼らは侵入者の姿を発見することが出来なかった。そもそも彼らは街を出て行こうとする人間を見張っているのであって、わざわざ外から街に入ってこようとする人間がいるとは思いもしなかったのだ。
なにしろアヴェルレスは地獄の暗黒街。
こんなくたびれた異次元世界に外からの侵入者がいるとは、半ば自虐的だがマフィアの誰も予想しなかったのである。
「とにかく……うん。まずは情報収集だ」
まるで覇気の感じられない見張りのマフィアをやり過ごしてゲートを離れてから、そう考えるに至ったカズハはこれから向かうべき行き先をいくつか検討した。
もっとも確実で手っ取り早く済む目的地は、悪の総本山であるオドレイヤのもとだ。しかし、いくらなんでも単身かつ無策でオドレイヤ邸に忍び込むのは無謀すぎる。
どんなトラップが仕掛けてあるかわからない上に、もしも見つかった場合には命の保証はないからだ。最初にハクウノツルギを奪った街外れならともかく、警備が万全な敵の本拠地にはさすがに軽々しくは踏み込めない。
まずはブラッドヴァンの管轄する手ごろな施設に潜入して、ハクウノツルギに関する情報を集めるべきだろう。
そう考えたカズハだったが、無意識に思考を中断して鼻をひくひくさせた。
なにやら、なつかしいにおいがする。
「ファンズ兄ちゃん……?」
ゲートの様子をうかがうため、遠巻きに観察していたファンズ。
なぜかは彼女自身にもわからないが、不思議とカズハには彼の居場所がはっきりと感じられたのだ。
現在はマギルマに所属するファンズとナツミだが、かつてはカズハとともに、老人カロンのもとで生活をともにした仲である。三人ともカロンに拾われた孤児であり血はつながっていなかったが、それでも幼少のころを一緒に過ごせば家族も同然だ。
――小さなころはこの魔法を使って、たくさんイタズラしたっけ。
そんなことを思い返したのは、子供のころからヘブンリィ・ローブを得意としたカズハである。
緊張感が解けて、頬を緩めた彼女はファンズへの接近を図った。
今ではマギルマのボスである彼の隣へと、魔法を使ってこっそりと歩み寄る。
その、まさしく手を触れるか触れないかという瞬間であった。
ちょっと脅かすつもりで、完全に姿を隠すヘブンリィ・ローブの魔法をかけたカズハがファンズに手を伸ばしたそのときである。
「おやおや、こんな場所で子供のイタズラをするなんて感心しないね」
しつけの悪いペットを軽くあしらうような雰囲気で、誰へともなく肩を揺らして笑ったファンズ。
すかさず彼は、そばに控えていた部下に命じた。
「そこのお嬢さんを捕まえろ。――見えない? ふふん、今に見えるさ」
と、それはもう愉快に言って、どこか嬉しさをにじませるファンズは指をパチリと鳴らした。その合図に従って小規模な風が巻き起こると、何かを取り巻いていた薄い霧のような“もや”が消え去る。
すると、次の瞬間にはカズハの姿があらわになった。
彼女の身を隠していたヘブンリィ・ローブの効果が打ち消されたのだ。
「え、アタシの魔法の効果が消えた? どうしてだ?」
いとも簡単に魔法を破られたカズハは動揺に包まれて混乱した。今まではただの一度として、この魔法の発動中にファンズに勘付かれたことはなかったのだ。
だからこそ簡単に見破られてしまって魔法に対する自信が揺らぐと同時に、ある種の距離感をファンズに対して抱いた。
もはや彼女が知っている彼ではなくなってしまったかのように感じられたのである。
「どうしてって、それは私の体質でもあるアンチマジックスキルのおかげだよ。もはや私に子供だましの手品は通用しないのさ。本物の魔法でなければ私をだますことなどできないよ」
ファンズのアンチマジックスキル。それは彼の魔法体質である。
魔法の効き目をやわらげる防護壁のようなものを、彼は生まれながらにして身に備えていたのだ。
「で、でも、でもでもっ! ファンズ兄ちゃんのアンチマジックスキルは昔っから全然……!」
「そうだね、ほとんど無力といっても差し支えないレベルだった。出来のいい虫除け程度の効果でね。とてもじゃないが君のイタズラを上回るなんて夢のまた夢、いつもやられてばかりだったよ。……だけど、今はもう昔じゃない。時が流れた」
すぐ目の前に立ったファンズは、動揺を隠せないでいる少女の頭にポンと右手を乗せる。
優しくもぶっきらぼうな、家族同然の懐かしさで。
「背が伸びるように、魔法の腕も上達するし、知識だって増える。努力と覚悟に応じてね」
「ア、アタシだって成長したぜ! 身長だって魔法だって!」
「ふふん、昔に増して可愛くなったようだね。魔法の腕も身体能力も確かに成長している。だけど私をここまで育ててくれた責任と立場には及ばなかったようだよ。まだまだ君は幼すぎる」
「だからもう幼くなんかっ!」
意地を張って反論を口にしかけたカズハの小さな唇に人差し指を当てて黙らせて、目の色を変えたファンズは微笑む。
「カズハ、悪いことは言わない。今すぐ外の世界へ戻るか、あるいは――」
「……あるいは?」
「おとなしく我々に捕まって、オドレイヤとの闘争が終わるまでじっとしているべきだ。どこか安全な牢の中でね。この街で君に自由な行動はさせない。君の命のためにも」
アヴェルレスは自由と平和が奪われた不幸な街だ。だから誰にとっても危険な街である。
しかし、だからといって牢の中に閉じ込められて喜ぶ人間がどこにいる?
身の安全を大義名分にして無茶を押し付けるファンズに対して、カズハはちょっとした怒りと理不尽さを感じていた。
どうしてわかってくれないんだ、とも。
「さあ、誰か。相手を無力化して捕らえる魔道具があったろう? それを私に渡してくれ」
「やめてくれ、兄ちゃん。アタシの自由を奪う? そんな横暴あってたまるか!」
「……と、その前に眠らせておくかな。しばらく一人じゃ動けなくなるほど、強力なものを与えておこう。勝手な振る舞いができなくなるようにしておかないと。この子は強情だから」
「や、やめ――うぐっ!」
暴れて喚くカズハの首筋へと、あたかも意志を持ったヘビのように一本の太い縄がまとわりついて、彼女の呼吸を止めてしまうほど強く締め付ける。魔力を帯びた縄は長く丈夫なものであり、カズハの身体を這いずり回って、腕も足も締め付けていく。
蛇縄とも呼ばれるこの縄は相手を殺してしまう寸前まで締め付けて、身体の自由を根こそぎ奪うものであり、これはマギルマ御用達の拘束用魔道具である。
そして次に取り出されたものは薬だ。
小さなビンの蓋を開けると、いかにも怪しい香りが漂ってくる。
魔法の縄によって肉体的な拘束が終われば、今度はこの薬物で精神的な拘束をするのだといわんばかり。果たして正気を保っていられるものなのか。ファンズが何を考えているのか、もはや今の彼女にはわからない。
カズハにとって絶対絶命の大ピンチだ。
「その子から離れなさい!」
そう叫び、ファンズとカズハを取り囲んでいた人垣を掻き分けて駆け込んできたのは一人の女性。
金色に輝く髪をたなびかせ、軽装の鎧に身を包み、二本の剣をすらりと構えている。。
それは救いなき暗黒街アヴェルレスには不釣合いな、凛々しく勇ましい姿。
「――でなければ、この私があなたたちを切り伏せます!」
カズハのピンチに駆け参じたのは、威風堂々たる構えを見せたイリシアである。
彼女の後方からは若い男が二人、わずかに遅れて駆けつける。
誰であろうアレスタとニックだ。
「ふふん。勇敢なお嬢さんと、あとは二人の冴えない少年か。どうやらアヴェルレスの人間ではないようだ。わざわざ聞かなくたって雰囲気でわかる。しかも、驚くべきことにどうやらカズハとは顔見知りらしい」
言葉通りに驚いた様子を見せるファンズはちらりと後方を振り返って、魔道具の拘束から逃れようともがくカズハの顔色を確認した。
その顔には彼と同じように驚きがある。半分には、喜びと申し訳なさをごちゃ混ぜにしたような表情で。
これは本物の知り合いらしいと、ファンズは乱入者であるイリシアのことを判断した。しかも、お互いに多少なりとも信頼しあっている深い関係性だ。
ひょっとすると友人と呼べる関係かもしれない。
あるいは仲間だというのか。
――危険な異世界まで追いかけてきて、命を懸けるほどの仲間?
ほんの少しの短い期間を過ごしただけの「向こうの世界」で、このアヴェルレスまで追いかけてきてくれるほどの仲間を作ってきたとは。
だとすれば、頼れる仲間がいる彼女の身は安全かもしれない。無理にマギルマで匿ってしまうよりもずっと、オドレイヤから守り抜いてくれるかもしれない。
そう考えたファンズは変わり身も早い。
外の世界からやってきた三人に対して身構える部下たちに向かって、肩の高さまで挙げた右手で行動を制止するように合図する。
「ここは我々が引くことにしよう。無闇に敵対勢力を増やすべきではないからね」
何事にも拘泥しない口調で言い終えるや否や、それまでカズハの体を拘束していた魔道具が解除され、あっさりと彼女は解放された。
逃げ出さぬようにと四方を取り囲んでいたファンズの部下たちも、渋々ではあったが道をあける。
「さあ、とっとと彼女を連れて元の世界に帰ることをお勧めするよ。観光気分で寄り道なんてせず、きちんと家まで帰るんだ」
「そうさせてもらうわ」
毅然とした口調のイリシアが全員を代表して言って、よたよたとふらついたカズハの手をとった。そしてもう離さないとばかりに強く手を引いて、確かな足取りで歩き始める。
彼女らの姿が遠ざかって、そろそろ見えなくなるという間際、ほっと一息ついたファンズが近くにいた部下に向かってささやいた。
ひどく疲れた口調で、だ。
「あの子に気が付かれると決定的に嫌われてしまうだろうけれど、これも可愛い妹のためだ。どこへ向かったか、念のために追跡しておいてくれるか」
従順なる部下の一人は頷いて、家族を心配する彼の命令どおりに行動した。




