05 ベアマーク(1)
閉めているはずの窓の外から遠くさえずる小鳥たちの声が耳に届き、ぐっすり眠っていたアレスタは朝の到来を知った。
色とりどりの花が咲き誇る、とても穏やかで暖かい季節であるスプリールの心地よい朝。まだ夢見心地の眠気に包まれて視界のぼやけている目を指でこすり、あくびをしながら上半身だけを持ち上げる。
それからベッドに足を組んで座って視線を横にめぐらせると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。どうやら昨日に続いて天気はいいようだ。
「ん、んん~!」
誰もいないのをいいことに遠慮なく両腕を頭の上に伸ばして、もう一度あくびをして目を覚ます。
思えば昨夜は普段より早くベッドに入ったので、いつになくたっぷりと睡眠時間を確保することが出来た。ここまでくると長く眠りすぎて、逆に体力を奪われてしまった気がしてならないアレスタである。
後ろ髪を引くように執念深く襲い掛かってくる二度寝の誘惑に負けじと頬を叩いて抵抗しながら、大きな音を立てないようにそっと開けた扉から部屋を出る。いくつもある他の部屋からは人の気配が感じられない二階の廊下を進んで、一階に続く階段を一歩ずつ慎重に歩いた。
うっかり踏み外してしまってはたまらない。
転んでしまわないようにとアレスタは手を壁に当てて自分の体を支える。
「ようアレスタ、お目覚めか?」
ふらふらと覚束ない足取りでリビングに出ると、とても寝起きの顔には見えない爽やかな笑顔を浮かべるサツキが待っていた。
もしかして客人であるアレスタに気を遣って早起きをしてくれたのか、それとも普段から規則正しい生活の習慣でもあるのか、どちらにせよ昔から朝に弱いアレスタには信じられない話だ。
ひょっとすると睡魔は眠気に弱い人間ばかりを襲っているのかもしれない。
「おはようございます、サツキさん。いい朝ですね」
もしかすると寝坊して待たせてしまったかもしれないと思い、謝罪する意味も込めて丁寧な挨拶をするアレスタだが、まだ眠くて仕方がない。
小さく頭を下げただけのつもりが、ちょっとだけバランスを崩して体が傾いた。
それを見たサツキが肩を揺らして笑うので、アレスタは頭をかいて誤魔化すしかなかった。
「まだ眠たいみたいだが、朝食の用意はできてるぜ。立って食べる習慣がないのなら、とにかく座れよ」
半ば促される形でソファに腰をかけると、目の前のテーブルには手前と奥で二人分の朝食が置かれていた。分厚いサンドウィッチと適当に野菜を詰め合わせた乱切りサラダ、それから薄い色合いのこれはコーンスープだろうか。
食欲をそそる香りが寝起きだったアレスタの頭を一発で覚醒させ、空腹状態であった彼の食欲を刺激した。
「ありがとうございます。いただきます」
考えてみれば昨日はアップルパイと紅茶以外には何も食べずに眠ってしまったので、森の中をひたすら逃げ回っていたアレスタにとっては久しぶりのちゃんとした食事だ。
ゆっくりと舌で味わう暇もなく、嘘のように食が進むアレスタ。あまりにお腹が空いていたせいか朝食を食べ終えても少し物足りない気がしてならなかったが、これ以上サツキに甘えるのも申し訳ない話だ。
彼にも常識はある。おかわりは我慢して遠慮することにした。
「なんだよアレスタ、お前は朝から元気がいいな」
「落ち着いた食事は久しぶりだったので、なかなか手が止まらなくて」
「だからってあんまり朝から食いすぎるなよ? お腹がいっぱいになって気持ちよく二度寝をされる前に今日の予定を言っておくと、可能なら正午前には街に到着しておきたい。もう少ししたら出発するぜ」
「了解です!」
きれいに朝食を完食したアレスタはすっかり元気を取り戻した。
根が単純なのか、気力や体力もほとんど回復している。
もう何も心配することはない。食後の休憩を挟んだ後、早速出発だと急いだ様子のサツキの後に続いてアレスタは家を出た。
「ところで、お前はこれから行く街のことは知っているのか?」
「えっと、そもそもなんて街でしたっけ?」
そういえば食事中に街の名前や概要を軽く教えてもらっていたアレスタだが、もう全然覚えていない。興味がなかったわけではなく、さっきは朝食のことで頭がいっぱいだったのだ。
おいおいと呆れたように肩をすくめたサツキが鼻で笑う。不真面目さを注意されたわけではないにせよ、自分のいい加減さが原因で落胆されても困ると恐縮したアレスタは姿勢を正した。
二度目の説明だ。
「お前が忘れているだけで本当はさっきも言ったんだがな、これから行くのはベアマークっていう名前の商業が盛んな街だよ。さすがに帝都と比べると規模は小さいが、それでも人が多くて賑やかな街だな。一度でも訪れたことがあれば忘れないと思うぜ」
ベアマーク、商業が盛んな街、人の賑わう街。
どんな街なのか想像もつかないけれど、それを聞いたアレスタは期待に胸を膨らませた。同じ年代の友達もろくにいなかった田舎育ちの彼にとって、たくさんの人が集まる都会は初めてだ。
不安がないと言えば嘘になるが、せめて今くらいは楽しみにしていいだろう。
「でもここが辺境の地ということは、それなりに遠い場所にあるんですよね? もしかして歩いていくんですか?」
「お前がそれでよければ俺たちの足を酷使して長時間の散歩に出たっていいが、それだと街にたどり着くまで無駄に時間と体力を使うだろう。最悪の場合はどっちかが途中でぶっ倒れる。……まあ、少し待ってろ」
そう言ったサツキは右手の人差し指と親指で小さな輪を作ると、それを口にくわえて指笛にして、遠くまで響くような甲高い音を鳴らした。
その音に呼び寄せられたのか、草原の向こうにある森から一頭のシカが駆け寄ってくる。
次第にスピードを落として手の届く距離で立ち止まったシカの頭をなでて、得意げな顔をするサツキがアレスタに向き直る。
「今日はこいつに乗っていこう。一人じゃなくて二人で乗るのは初めてだが、動物ってのは人間よりもしっかりしてるからな。つらい顔もせずに街まで俺たちを連れていってくれるだろう」
扱いに慣れているのか、言い終わると同時にサツキはシカの背中へと華麗に飛び乗った。言うことを聞かせるための手綱はないが、魔法か何かを使っているのか野生のシカはおとなしく彼に従っている。
どうやら本当にシカを移動手段にするようだ。
「わ、わかりました……。今から俺も乗りますから、どうか暴れさせないでくださいね?」
自然に囲まれた村で育ったアレスタではあるが、さすがに野生の動物に乗るのは初めてだ。人間に飼い慣らされていない動物の凶暴さも知っているので、ただ後ろに座っているだけだとしても、自分がうまく乗れるかどうかもわからない。
とはいえ街までの長い道筋を自分の足で歩いていくよりはずっといいだろう。
「……あっ!」
けれど、おっかなびっくりと表現するにふさわしい手つきでアレスタがシカの背にまたがろうとしたところ、うまくバランスが取れずに落ちてしまった。
かろうじて受け身をとったので大きな怪我はしなかったものの、ひっくり返った拍子に手のひらをすりむいてしまう。
これが意外と地味に痛い。
「おいおい、大丈夫かよ。先行きが不安になるじゃねえか」
「すみません。けど、大丈夫です。ちょっと待っていてください」
いつまでも地面の上に尻餅をついていられない。いそいそと立ち上がったアレスタは痛みに顔をしかめた。見れば怪我をした左手から血が出ている。このままではシカの背に乗ろうとしても力が入らず、再び落っこちて情けない姿を見せてしまいかねない。
そう思ったアレスタは治癒魔法を発動することにした。
「……よし」
まずは目を閉じて意識を集中し、高い柵に囲まれた精神果樹園の扉を開く。
そして近場にあった一房のブドウをもぎ取り、一粒残らず右手で握りつぶす。
すると飛び散った果汁が魔力となって精神を満たし、現実の世界にいるアレスタの右手も輝きを放ち始めた。
魔法の仕組みを完璧に理解できているわけではないが、その右手を傷口に当てると魔法が発動して、左手の怪我は跡形もなく消え去った。
何度目かの治癒魔法。
やはり問題はないようだ。
「……おい。今、お前は何をした?」
「何って、たぶん魔法ですけど……。それがどうかしたんですか?」
「だから、魔法で何をしたって聞いてるんだ」
どういうわけか、セオリー通りに精神果樹園を開いて魔法で傷を治しただけだというのに、それは許さぬとばかりにサツキは強い口調で尋ねてきた。アレスタの行為に苛立っているというよりも、すぐには理解できず困惑しているように感じられた。
自分のことだというのに自信がないせいで、恐る恐るアレスタは答える。
「治癒魔法だと思いますけれど……」
「は? 治癒魔法だと……?」
耳を疑ったサツキは身をかがめて地面に落ちていた鋭くとがった小石を拾うと、ためらいなく自分の左手の人差し指を傷つけて、痛々しく血が流れ始めた指先をアレスタに向けた。
「俺の傷を治してみろ」
「……え? いや、わかりました。やってみます」
事情はわからないが断る理由はない。
言われた通りにアレスタは治癒魔法を試してみることにした。
まずは精神果樹園を開き、先ほどと同じように果実から魔力を得る。
それからサツキの人差し指に右手を当てて、集中して力を込める。
しかし――。
「おかしいですね。なんだか駄目みたいです。ちゃんと精神果樹園にあるブドウを消費しているようなので、たぶん魔法が発動してはいると思うんですが……」
「確かに、何らかの魔法が発動している魔力の動きはある。ふむ、だとするとこの程度の傷も治せない低級の魔法なのか? それとも何か条件があるのか、あるいは自分にしか効果がないのか……。くそ、俺にもわからん」
どれだけ待っても治癒魔法が効力を発揮せず、ぽたぽたと血が出たままの指をひっこめたサツキはその指を逆の手で包んだ。
魔法の力に頼らず、血が止まるように抑えているのだろう。
しばらくそうしていたサツキだが、思考を断ち切るように首を振った。
「まあ、いい。今はのんびりと考えている場合じゃない。……いいか? ここで一つ忠告しておく。いや、命令だ。お前が治癒魔法らしきものを使えることは誰にも話すな。理由は街についてからゆっくりと教えてやるが、そのためにも今は出発することを優先しよう」
「あ、はい。わかりました」
「ほら、わかったなら早く乗れ。魔法が使えるからって、そう何度も落ちて怪我をするなよ?」
「はい!」
ひとまずは出発だ。
アレスタは今度こそシカの背に乗り、もう落ちてしまわないように、しっかりとサツキの腰に両腕を回すのだった。




