23 治癒魔法使いアレスタ
地響きを立てて去っていくクァ=トゥルーの巨大な後姿を見送りながら、多量の出血で意識が朦朧として半死状態だったアレスタはなんとか精神果樹園を開くと、手遅れになる前に自分に対して治癒魔法を使用した。
魔法の効力は絶大で、徐々に意識がはっきりとしてくる。
本来ならすぐにでも追いかけて怪物の足を止めなければならないが、今はそれよりも大事なことがある。
自分に対する治癒魔法が完了するとアレスタは急いで立ち上がり、わずかばかり離れていたイリシアのもとへと駆け寄った。
「イリシアさん! しっかりしてください、イリシアさん!」
力なく両目を閉じて死んだように倒れていたイリシアだが、まだ息はあった。
肩をつかんで至近距離から呼びかけても反応がなく、すでに青息吐息の危機的な状態だが、かろうじて生きているのだ。
しかし安心はできない。怪物の触手によって作られた傷は大きく、だくだくと大量の血を流しながら苦しむイリシアは誰の目から見ても瀕死状態であった。
傷口を両手で押さえても出血は止まらず、一刻の猶予もない。
――まだ死んじゃだめだ! 死なせちゃだめだ!
――なんとしても彼女を助けなければ!
――イリシアさんを助けたい!
アレスタは強く願った。精神果樹園に残る自分の魔力すべてを、今使える治癒魔法のすべてを、ただイリシアを助けるためだけに用いようと努力した。
しかし彼の治癒魔法は不完全な魔法だ。
どう頑張っても無駄に魔力を消費していくだけで、発動しているはずの治癒魔法はアレスタ自身にしか効果を示さない。
このまま続けていても無駄だ。意味がない。
頭ではそうわかっていても決して諦めることができず、デビルスネークの触手に投げ飛ばされ地面に倒れていたイリシアを胸元まで抱え上げると、両腕の中に包み込むようにして彼女を抱きしめた。
――自分のことはいい。だけど、だけど……。
――なんとかイリシアさんだけでも助けたい!
いつしかアレスタは左右の目に涙を浮かべていた。
――今すぐ彼女の痛みを取り除いてあげたい!
――たとえ、その痛みを俺が背負うことになったとしても!
心の中で叫んだ祈りが、ひょっとすると世界中を駆け巡る魔力の流れに沿って届いたのだろうか。
アレスタの献身的な自己犠牲精神が、一つの奇跡を起こす。
「アタシ、チカラニナッテアゲルヨ!」
ずっと探していたあの肩代わり妖精のテレシィが、どこからともなくアレスタの前に姿を現したのだ。
「えっ、テレシィ?」
「ウン!」
何もないはずの虚空から出現したテレシィは二人の周りを可憐な蝶のようにひらひらと飛び回ったあと、助けが必要だと判断したイリシアの胸元へと抱き着いた。肩代わり妖精と呼ばれた不思議な力を駆使して、なんとしても彼女を助けたいというアレスタの願いを叶えようとしているのだ。
以前、ひどい風邪を引いたアレスタが助けられた時と同様に、イリシアの体の中へと溶け込むようにテレシィの姿が消えてしまう。肩代わり妖精の特別な力が働いているのか、不可視の扉を開いてイリシアの精神果樹園の内部へと潜り込んだのだ。
すると、直後に発生した変化は治癒魔法を使い続けていたアレスタにも手に取るように理解できた。
理屈ではない。
感覚がアレスタに語りかけてくるのだ。
「治癒魔法がイリシアさんに伝わっている……? まさかテレシィが、俺の使っている治癒魔法の効力を彼女に届けてくれているのか?」
信じられないものを見るようなアレスタの驚きは、暖かな魔力に包まれて意識を取り戻したイリシアにも伝わっていく。
「なんだか不思議な感覚です。全身の痛みが鎮まっていきます……」
初めて自分以外の他者に対して発動した治癒魔法の効果は甚大だった。
いつ死んでもおかしくないほどの傷を受けていた彼女だが、テレシィを介したアレスタの治癒魔法によってすべての傷が完治したのだ。
それを最後まで見届けたアレスタが安心して治癒魔法を使うのをやめると、時を置かずしてイリシアの精神果樹園から出てきた妖精は喜んで空中を飛び跳ねる。
「ヨカッタ! モウ、ダイジョウブ!」
「……あっ、はい。あ、あの……」
全身を縛り付けていた絶望的な激痛が消え去り、ようやく落ち着いて頭が冷静になったのだろう。
致命傷を受けて意識がもうろうとしていたイリシアはアレスタに抱き抱えられている自分の状況に理解が及ぶと、恥ずかしさと申し訳なさから頬を朱色に染めて、慌てたように立ち上がった。
アレスタもアレスタで、そんなイリシアの反応を見ると急に照れ臭くなったが、それよりも心配なのは彼女のことだ。
「もう大丈夫ですか?」
同じく立ち上がったアレスタから尋ねられたイリシアは、ちょこんと自分の左肩にとまったテレシィを見つめながら答える。
「はい、もう大丈夫です。アレスタさんの治癒魔法のおかげでしょうか。それに、この子がいてくれれば、私はまだ戦えそうです。あの怪物を止めることができます。……もちろん、なによりもアレスタさんの力が必要ですが――」
「安心してください、イリシアさん。俺の力ならいくらでも貸してあげられますから。今までは戦闘に関してはイリシアさんに任せてばかりでしたけど、これからは俺も一緒に戦います」
今度こそ、ようやくアレスタは本当の意味で誰かの力になれるのだ。
それが嬉しくて、ぎゅっとこぶしを握り締めたアレスタは微笑んで続けた。
「俺はね、イリシアさん。いつだって誰かのために剣を取り、矢面に立って傷ついていくイリシアさんのためにこそ治癒魔法を使いたいんです。今までのように後方から見ているだけじゃなくて、これからは君の力になりたいんです!」
その言葉にはありったけの熱意が込められていた。
だからこそ、嘘偽りなく真摯に伝わったのだろう。
「ありがとうございます」
自分の胸に手を当てて、イリシアは目を閉じた。
己のことだけではない。
一人の大切な仲間として、一緒にいてくれるアレスタのことを信じる。
そうすることができれば、彼女はより強くなれる気がした。
「アレスタさん、お願いします。あなたの治癒魔法の力で私をサポートしてください」
顔を上げたイリシアは信頼と決意を込めた瞳でアレスタの目を覗き込んだ。
ちょっとした気恥ずかしさもありつつ、正直な気持ちで答えようと口を開きかけたアレスタ。
けれど何かを答える前に、彼女の肩に座っていたテレシィの姿が目に入った。
先ほどイリシアに治癒魔法の効果が発動したのは、アレスタの治癒魔法を彼女に届ける役目を果たしたテレシィのおかげである。だからイリシアに自分の決意を伝える前に、これからもテレシィがアレスタの治癒魔法のために力を貸してくれるのかどうかを確認するほうが先だ。
もっとも、そのことを心配する必要はなかった。
もともと苦しんでいる人を助けることが好きだった肩代わり妖精はアレスタに頼られたことが嬉しいのか、嫌がることなく穏やかに笑っている。
不思議な感覚だったけれど、言葉によらずとも、妖精であるテレシィとの間に魔力的なつながりがあることをアレスタは確かに感じた。これなら自分自身に対してだけではなく、おそらくイリシアに対しても問題なく治癒魔法が使えるであろうことを、この瞬間アレスタは確信するに至った。
あとは自分の覚悟だけだ。
「はい、俺に任せてください!」
頼もしい答えを聞いたイリシアは一瞬だけ表情を緩めて安心したのもつかの間、気を引き締めて力強く頷き返した。
非常事態である今はゆっくりしていられないと思い出したのだ。
「では、治癒魔法のことは任せます!」
そしてイリシアはクァ=トゥルーと戦うための準備を整える。
といっても、難しいことをしようというのではない。それまでずっと身に付けていた重厚な騎士の鎧を脱ぎ捨てたのだ。
たとえ高速化魔法を発動していても、防御力を高めた装備は軽やかな動きに制限をかける。それが強敵との戦いにおいては無視できないネックとなっていた。
だが、今の彼女には重装備よりも信頼できる仲間がいる。
リスクはあるものの、それでも身軽になることを選んだイリシアは感覚を確かめるように手足を伸ばした。先ほどかけられたアレスタの治癒魔法がきちんと効いているらしく、気になる痛みは残っていない。
「中途半端な剣の腕前では戦いの邪魔になってしまうかもしれないので、俺は少し離れた場所から治癒魔法で援護します」
「お願いします。では、私はあの怪物を追います!」
「わかりました。テレシィ、イリシアさんのことを頼むよ!」
「モチロン!」
名前を呼ばれたテレシィは元気よく頷いて、ぴょんと肩から飛び上がると姿を消してイリシアの精神果樹園に入り込んだ。
小さな妖精を自身の内側に受け入れたイリシアは二本の剣を構えなおし、すでに遠く離れつつあった怪物へと照準を定めた。
そして地面を蹴って駆け出して前方にいたデビルスネークに追いつくと、敵の視界の外側から攻撃を試みる。
「てやぁっ!」
身にまとっていた鎧を捨てたイリシアは軽やかなステップを踏むと、まったく重さを感じさせない華麗な身のこなしで両手の剣を交互に振るった。怪物からの反撃を警戒するよりも、まずは一つでも多くの攻撃を加えることを意識した足運びだ。
アレスタの治癒魔法のおかげだろう。ある程度の負傷ならば恐れる必要はなくなり、半ば捨て身になったイリシアは獅子奮迅の活躍で怪物に挑む。
ためらいのない動作は無駄のない攻撃につながり、その波状攻撃は敵に隙を与えない。
積極的な攻勢に出たイリシアに若干おされ気味ではあったものの、ようやく追っ手の存在に気付いたクァ=トゥルーも黙ってばかりはいられない。改めて敵意をむき出しにして、果敢な反撃を試みる。
すべての触手と九つの首がたった一人の敵を、すなわちイリシアを狙って動き出す。
体を痺れさせるほど強力な毒霧を吐く竜の頭は全部で九つあるが、怪物の巨大な胴体から伸びる触手の数は倍以上もある。それらがすべて彼女だけを狙って次々と襲い掛かってきた。
いくらイリシアが得意の高速化魔法によって戦闘の主導権を握っていたとしても、ひとたび油断を許せば簡単に敵の餌食となってしまうだろう。
「くっ……!」
ほんのわずかに生まれた隙が彼女に深い傷を生む。
怪物の攻撃によって左足をえぐられたのか、強烈な痛みと痺れが走って、その場から前へ踏み出すことが出来ない。
まるで力が入らず、体の支えを失って倒れそうになるイリシア。
そこを狙って、次の触手が彼女の命を消し去ろうと俊敏に動き出す。
このままなら回避もできず、無防備に連撃を受けてしまえば通常なら助かる見込みはない。
けれど彼女の精神果樹園にはテレシィがいて、その後方には彼女を見守るアレスタがいる。
「大丈夫です、イリシアさん! 俺がついていますから!」
戦っているのはイリシアだけではない。
恐るべき怪物を相手にしても逃げ出さず、共闘してくれる仲間がいるのだ。
攻撃を受けるや否や即座に発動したアレスタの治癒魔法が彼女の傷を癒す。
「助かります!」
ほとんど一瞬で治癒魔法の効果を得たイリシアは問題なく完治したばかりの左足に力を込めて、飛んでくるように襲ってきた触手の攻撃を跳躍によって回避した。
あわや直撃する寸前のところだったが、危なげない余裕すら感じさせる。
見とれるほどに優雅で機敏な動きだ。
――これなら、いける……!
――けど、さすがに敵も強い!
それからの戦闘で、攻撃と治癒魔法は何度も繰り返された。
高速で移動する彼女は攻撃をかわしながら勇敢に剣を振るっていたが、同時に幾度となく負傷もした。かろうじて即死こそ免れていたものの、中にはひどい重症もあった。
普通ならば死んでいただろうが、そのたびにアレスタは彼女を支援する。肩代わり妖精に支えられつつではあるものの、精神果樹園を開き続けているアレスタも全力の治癒魔法を連発したのだ。
どんな傷であろうと、たちどころに治癒してみせる。
それは敗北なき戦い。
もはや彼らの前に脅威となる障害はないようにも思われた。
けれど、やはりクァ=トゥルーも強く、決して侮ることが出来ない。すでに魔力は枯渇しつつあるというのに、どれほど攻撃を加えようとも弱まることがなく、なかなかどうして消え去る気配が見られなかった。
真なる怪物を打ち倒すには、まだ何かが足りないというのか。
いや、そもそも人の身に神獣を討伐することなど出来るものなのか。
いつまでも終わりの見えてこない死闘に、さすがのイリシアとアレスタも焦りを感じ始めていた。このままでは先に体力が尽きてしまうのは自分たちのほうだ。
いくら傷を治せるといっても、治癒魔法を発動するアレスタにだって限界がある。
せめてベアマークから騎士の援軍が来てくれれば……。
汗水にまみれながら、疲労しつつあった二人がそう願っていたときだ。
「加勢いたします!」
二人の願いが天に届いたわけでもなかろうが、時を置かずして背後から声がしたのである。
突然のことに驚いて振り返ったアレスタとイリシアの視線の先にいたのは、ベアマークから駆けつけてきた騎士のサラであった。たった一人で現れたのではなく、同じ部隊なのか数人の騎士を引き連れている。
すっかり仲間の一人に加えられているらしく、風の精霊エアリンも肩に乗っていた。
「アレスタ、遅れて悪かったな!」
「サツキさん!」
べアマークの騎士である彼女たちだけではなく、隊長として勇ましく立つサラの後方にはサツキもいた。アレスタとは別行動をとって街に残り、多額の情報量を支払うことでオーガンから悪魔の怪物に関する情報を手に入れたサツキは、街の出口で警戒に当たっていたサラと合流してリンドルへとやってきたのだ。
遅れたとは言いつつも、まだ夕暮れ前である。最悪の場合には深夜になるのではないかと覚悟していたアレスタたちの予想よりも到着は早い。ここまでの移動に騎士団所有の魔導馬車を使ったからだろう。
アレスタとイリシアから説明を聞くまでもなく、規格外の魔獣が暴れているのは誰の目にも理解できる。
漠然と事情を察したサラは部隊を引き連れてイリシアのもとへと、そしてサツキはアレスタの隣へとそれぞれ駆け寄った。
「おいアレスタ、あいつが……?」
「悪魔の怪物と呼ばれていたデビルスネーク、だったはずです。けれど、ブラハムさんを体の中に取り込んだかと思うと、いきなり巨大化して……」
「なるほどな。それじゃあ、こいつが噂のクァ=トゥルーってことか」
「クァ=トゥルー?」
「ああ。どこまで本当かは知らんが、情報屋のオーガンによればデビルスネークの覚醒体であるクァ=トゥルーは古代の神獣だと聞いた。……そうはいっても、この辺りに残っている魔力の量では活動するのに十分な量が得られていないらしいな。まだ翼が完成していないじゃないか。今まで相手してきた魔物に比べれば敵は強大だが、倒すなら今だ」
「倒せ……ますよね?」
「信じるしかないだろう。それは無理なことじゃない。なにしろ俺も加勢するからな!」
そう言って視線を前方へ向けたサツキはアレスタとの会話を切り上げ、臆することなく怪物のもとへと駆け出した。
一網打尽にされる危険性を考えて仲間同士で密集しすぎることを避けたのか、あるいは自分の魔法を遠慮なく発動させるためか、向かった先はイリシアやサラたちのいない空いたスペースだ。
まだ完全に離れてしまう前にと、去り行くサツキの背中に向かってアレスタは叫ぶ。
「サツキさん、怪我をしたら言ってください! 今の俺なら治癒魔法が使えます!」
「なんだと! 事実だとすれば聞き捨てならんが、今はいい! これまでそうしてきたように自分の身は自分で守る! お前はイリシアやサラたちに注意を配ってくれ!」
「はい!」
剣や盾など武装らしい武装をしていないサツキのことも心配だが、心配さの度合いでいえばイリシアやサラ、そして彼女が連れてきた騎士たちのほうが上かもしれない。辺境魔法師でもあるサツキは魔力の扱いに優れており、アレスタは何度となく助けられたことがある。
過去の出来事が原因で魔法に制限がかけられているものの、都会よりも人間が少ない村でならある程度自由に使えるようなので、彼のことは必要以上に心配しなくてもいいだろう。
そう判断したアレスタは言われた通り、視線をイリシアやサラたちのいるほうへと移す。
そこではすでに戦闘が始まっていた。しかし相手はクァ=トゥルーではない。
サラとその部下たちは怪物と戦っているイリシアを援護するために急いだが、今は別の敵と戦っていた。
クァ=トゥルーの身体から無数に伸びた触手がひとりでにちぎれたかと思うと、それが人間ほどの大きさの蛇となって襲い掛かってきたのだ。
「みんな、気を付けて! 二人一組で背を預け合ってから死角をなくして対処して!」
突然の事態にも焦ることなく、全員を指揮する隊長であるサラが的確に指示を出す。
それに従う部下たちの統率もとれており、剣と魔法で十分に戦えている。
けれど、安心して見守っている場合ではないのも確かだ。もしも彼女たちの中に負傷者が出れば、治癒魔法使いとして後方に控えているアレスタは即座に対応しなければならない。なんとかテレシィに合図を送り、治癒魔法を必要とする者の精神果樹園に入ってもらう必要があるだろう。
ただし、この場にいる誰か別の人間に治癒魔法を使用している間はイリシアが危険にさらされることを忘れてはならない。即死級の攻撃を受けてしまった場合には、イリシアへの治癒魔法が間に合わない可能性さえある。
一刻を争う致命傷でない限り、どれだけ痛くとも多少の傷は我慢してもらうしかなさそうだ。
そもそも、到着したばかりで戦闘状態に入った彼女たちはアレスタの治癒魔法を考慮に入れていない。アレスタが治癒魔法を使えることは知っていても、それが他人にも使えるようになったことはイリシアとサツキ以外は知らないのだ。
「なら、やっぱり一番心配なのは怪物と正面から戦ってくれているイリシアさんか……!」
高速化魔法で百人力の活躍を見せているとはいえ、九つの頭と無数の触手、さらには蛇の魔物まで従え始めた巨大な怪物が相手とあってイリシアは苦戦していた。
手ごろな大きさの石や岩を弾き飛ばす魔法で蛇の魔物を打倒していくサツキも貴重な戦力となっているものの、両腕を中心に全身が赤く輝いており、どうやら魔法を封じている刻印が反応しているのが見える。触手や毒霧を警戒しつつでは怪物に対して全力の魔法を打ち込めないこともあって、なかなか思うように近づけないでいた。
頼れる援軍が駆けつけてきてくれたとはいえ、クァ=トゥルーに対して接近戦を挑んでいるイリシアが危険なことには変わりない。
なんとかしてアレスタも治癒魔法以外の方法で助けることができるといいのだが……。
そう思っていると、同じことを考えていたらしいサラが声を張り上げた。
「イリシア先輩、助太刀します!」
最前線で強敵を相手にしているイリシアから少し離れた場所で、続々と襲い掛かってくる群れとなった蛇の魔物を退治していたサラ。
ある程度の余裕が生まれた頃合いを見計らって、隊長である彼女を囲むように陣形をとった部下たちに守られた位置から、何らかの魔法を使う構えを見せた。
魔力を込めて輝きを放ち始めた剣を構えると、直接的には剣先が届かない距離から怪物へ向かって大きく振り下ろす。
すると剣先から放たれた光が一本の太い矢となって飛んで行ったのだ。
それは使えるようになって日が浅い魔法であるため力の加減が難しく、残念ながら狙いも安定しないが、相手が怪物ならば手加減する必要などない。
魔力の源である精神果樹園の果実を大量に消費してしまうこともあって、軽々しく連発するのは難しいが、隙を見ては二発目、三発目と試みる。
たまたまうまくいった何発目かの光の矢が頭部に命中すると、少なくない衝撃によって怪物は身をよじらせた。ようやくイリシア以外の人間を邪魔な敵として認識したのか、その顔の一つをサラへと向ける。
いよいよ本体からの攻撃が来るのかと、おびえながらもサラは身構えて反撃に備える。
そのときであった。
まじまじとサラの顔を見つめると、それまで怒り狂っていたクァ=トゥルーの動きが突如として遅くなったのである。
――サラさんを前にして攻撃をためらっている?
その光景を後ろから見ていたアレスタは疑問に思った。世界を滅ぼしかねない怪物としては不自然な挙動だ。
まるで彼女の姿に驚いて動揺しているような、いかにも人間らしい反応である。
そういえば、あの怪物は最初からどこか人間への攻撃をためらう様子があったようだと、不意にアレスタは思い出した。
あのときは、そう、確かにブラハムが言ったのだ。街から駆け付けたアレスタやイリシアの姿を見て「最愛の人のことを思い出したから」などと、デビルスネークの動きが止まった理由を。
ひょっとすると――と、何か重大なことに勘付きそうになるアレスタ。
だが、それはなかなか明確な言葉にはならない。
様子がおかしいとはいえ、敵は強い。油断ならない神獣を相手に戦っているのだから、今は余計なことを考えている余裕などないはずだ。
しかし、これは本当に余計なことだろうか……?
治癒魔法を使いながらアレスタが一人考え込んでいると、やや離れた場所で戦っているサツキが声を張り上げた。
「おい、イリシア! いつまでも足元を狙っていても敵は倒せん! 魔法で土台を作ってやるから、それを足場にして怪物の顔を一つずつ切り落としていけ!」
「えっ? あっ、わかりました!」
驚きつつも、すぐに状況を飲み込んだイリシア。
確かに、どれほど鋭く切り刻んでダメージを与えても、巨大な胴体ばかりを攻撃していては怪物を倒すには至らない。どこかで致命傷を与えなければならないのだ。
かといって、とどめを刺そうとして心臓を貫くには体が大きすぎる。高い場所にあるため攻撃の対象にしていなかったものの、頭部を狙うのは理にかなっているかもしれない。
あとは自分の剣で首を切り落とせるかどうかだが……。
「行くぞ!」
腰を落として地面に手をつき、魔力を操って前方の土を盛り上げたサツキ。
それが即席の階段となって、駆け上がるイリシアを怪物の首の高さまで連れていく。
「怪物の動きに合わせてある程度は動かしてやるから、振り落とされるなよ!」
「わかってます! でも! ちょっとくらいは丁寧にしていただけると!」
「慎重にやって間に合わないよりはマシだろ!」
「……ですね!」
素直に頷いたのは怪物の攻撃がイリシアを襲ってきたからだ。
それを避けられたのは隣に新しい足場が伸びてきて移動できたからであり、それはすなわちサツキの足場が間に合ったからにほかならない。
「のんびりと会話をしている場合ではないようですね!」
土でできた階段や柱の上に立って地上からの高さを得たことは利点だが、その一方でクァ=トゥルーの攻撃が今まで以上にイリシアへと集中してしまっている。
地上にいた時も大変だったが、先ほどまでよりも怪物の顔との距離が近くなっているのだ。
吐き出される毒の霧にキバ、そして触手の群れ。
これでは思うように攻撃することができない。
それでも迅速な動きで回避や反撃を繰り返すイリシア。
逃げ場を求めた彼女がいつでも飛び移れるように新しい土台を次々と作っていくサツキ、ちょっとした負傷もすぐになかったことにするアレスタの治癒魔法も彼女を支える。
これなら怪物にも大打撃を与えることができるかもしれない。
命を賭したイリシアの奮闘ぶりを見たサラは自分も何か助太刀しようと思ったものの、精神果樹園の果実がほとんど残っていなかった。そこで魔法以外にも何かできないものかと、ちょうど彼女のそばで飛んでいた可愛らしい精霊に目を向ける。
「エアリン、風の魔法をお願い! 空を飛んでイリシア先輩の援護をして! でも無理はしないでね!」
「ウン! マカセテ!」
元気よく答えたエアリンは怪物の目を狙って、えいえいっと右手と左手を交互に振って風の刃を発生させながら飛び回った。
サラの魔法に比べると発動は遅く、威力も弱いが、いわゆる“かまいたち”を発生させるような魔法攻撃だ。
山ほどの巨大な怪物を相手にするとなると、人間よりも小さい精霊のエアリンではまともに太刀打ちできなそうではあるものの、魔力の風を操って縦横無尽に飛び回ることで意外にも善戦できていた。
なにしろクァ=トゥルーには独立した首が九つもあるので、小さくて素早い動きをするものに翻弄されやすいのかもしれない。さらにはエアリンの風の魔法が視界を遮るので、なおさら困惑せずにはいられなかったようだ。
そんな活躍もあり、イリシアは戦果を上げていく。
まずは苦戦しつつも一つ目の首を落とすと、二つ目、三つ目と立て続けに切り落としたのだ。
そうするように指示を出した張本人ではありながら、さすがのサツキも目を見張る活躍だ。
「あいつ、自分が使っているのは単なる高速化魔法と言っていたか? ただの素早さだけとは思えんが、あの攻撃は……。魔力的なオーラをまとった剣で怪物の外皮を切り刻んでいってるじゃないか」
特殊な魔法体質によって精神果樹園に大量の魔力を蓄えていたブラハムを取り込んだとはいえ、やはり根本的に魔力が足りていないらしいクァ=トゥルーが不完全体であることも影響しているのだろうが、神々しくもある輝くオーラをまとったイリシアの攻撃が効果的に通じている。
最初のころに比べると怪物の動きも遅くなり、首の数が減って攻撃の手数が減っているのなら四つ目の首を落とすのも時間の問題かもしれない。
「だが、最後まで油断は禁物だな」
懸念するサツキではあったが、イリシアもサラも、そして当然ながらアレスタも最後まで油断しなかった。
周囲の魔物たちも蹴散らし、互いに連携をとるイリシアたちの攻撃がクァ=トゥルーを追い詰める。
激しい攻撃を受け続けているうち、怪物は少しずつ威勢を失っていく。
巨大な怪物にとって、魔力の枯渇も限界に来た。
そしてついに終焉を迎える。
「これで終わりです!」
「グギャアアアアア!」
凄まじい声量の断末魔を残して、泡が弾け飛ぶようにして怪物の全身が砕け散った。
最後の首を切り落とした一撃を受けて、クァ=トゥルーは消滅したのだ。
すると、魔物の瘴気に満たされて暗くよどんでいた周囲の空気が一変した。
嵐が過ぎ去ったかのような、心地よく爽やかな空気。
それは平穏の香りに包まれたリンドル本来の風景である。
どんよりと村を覆っていた不気味なオーラは完全に消え失せたのだ。
「消滅した……。倒せたってことだよな……?」
イリシアの活躍もあって、意外にもあっさり勝利を得られたアレスタたち。
しかし、先ほども言ったように油断は禁物だ。万が一の場合に備えて、完全に怪物が死んだことを確認するため、皆を代表したサツキが恐る恐るクァ=トゥルーの消滅した地点へと近づいていく。
そこには怪物の死骸のようなものが残されていた。
まさか罠ではないだろうが、いきなり復活して動き出さないとも限らない。
最大限に警戒して慎重に歩みを進めていたサツキだったが、警戒心もなく背後から彼を追い抜く影があった。風の精霊エアリンである。
怪物が消滅した地点まで飛び急いだエアリンは、その少し上空で滞空するように立ち止まって目を伏せた。固く口を閉ざしているものの、その表情からは何かを伝えたいように見える。
わずかに遅れて追いついたサツキは小さな子供に対応するような優しさで、穏やかにエアリンへ問いかけた。
「どうした? 何か思うところがあるのか?」
「コレ……」
ふわふわと空中を漂いながら、悲しそうに地面を見下ろすエアリン。
その視線の先を確認したサツキは驚いて目を見開いた。
「なんだよ、これ、まさか人間の骨か? おいおい、倒したばかりの魔獣の死骸かと思えば人骨だぜ……」
クァ=トゥルーが消滅した地面の上に残されていたのは怪物の死体ではなく、バラバラになって積み重なった人間の骨だった。比較的きれいに残っている頭蓋骨などの骨がいくつか見えるので、おそらく一人ではなく複数人のものだ。
食べられるなどして怪物と同化していた人間が、その怪物の消滅とともに骨だけの状態となって残されたのだろう。
予想だにしなかった言葉を聞いて顔を見合わせたアレスタとイリシアも覚悟を決めてサツキのもとへ急いだ。あまり見たいものではないが、目をそらしていいものでもない。
「おそらく、一つはブラハムさんのものでしょう。俺たちの目の前で怪物に取り込まれましたから、そう考えて間違いないはずです」
「じゃあ、他のは……?」
「それは……」
アレスタは口ごもった。
何を言うにも、何かを断定する根拠や確証がなかったからだ。
「ブラハムの仲間か、あるいは犠牲になった村人たちでしょうね……」
悲しげに言ったイリシアは追悼の思いを込めて目を閉じる。
よくない想像が頭を支配しつつあったアレスタは余計なことを言ってしまわないよう、口をつぐんで顔を伏せた。
重い空気に沈む三人に遅れるようにして、どこか頼りない足取りで到着したのは顔色の優れないサラだ。
彼女はゆっくりと近づいて、その場に膝を落とす。
「……そんな。そんなことって」
「サラさん?」
異変に気が付いて顔を上げたアレスタは小刻みに震えているサラの肩を手で支えた。
彼女の心を襲ったのは強い衝撃だったらしく、何か尋常ではないショックを受けている。
あまりにも弱々しい姿だ。
「――さんです」
「え?」
あまりの小ささであったため近くにいるアレスタにさえ彼女の声が聞き取れず、肩を支えたままサラの顔を覗き込んだ。
依然として震えたまま、サラの口が小さく動く。
「……エイクさんです。そうなんだよね、エアリン?」
「……ウン」
彼女の想像を肯定するようにエアリンは頷いた。
「エイクさんですって? じゃあ、これはエイクさんの……」
なんとなく予感していたとはいえ、数日前に知り合ったばかりだったとはいえ、頼りがいのありそうな自警団のリーダーだったエイクが死んだかもしれないと聞いて動揺したアレスタは再び口を閉ざした。
そんな彼に代わって、意図的に感情を抑えて淡々と言葉を継いだのはサツキだ。
「そうだろうな。ここに来る前に俺が仕入れてきた話によれば、デビルスネークの正体は召喚獣の一種だそうだ。つまり、あの巨大な怪物は何者かによって召喚されたということになる」
情報屋で聞いた話を思い出しながら分析しつつ、サツキは一つの答えを導く。
「……残念ながら、この村で怪物を召喚できたのはエイクとかいう人間だけだろう。彼が優秀な召喚師であった祖父の血を受け継いでいるのなら、その可能性は高い。デビルスネークほどの怪物ともなると、召喚した術者の命も無事ではすまないというからな。きっと彼も犠牲になったのだろう」
考えられる中で最も可能性の高い事実を推測するサツキの言葉を聞いても、膝を屈したサラは顔を伏せたままで何も答えられずにいた。
肯定にも、否定にも、彼女は首を動かすことがない。
誰からも反論がないと見て、今回の件に収拾をつけたがっていたサツキは結論を急いだ。
「状況から推測する限り、どうやらブラハムは本当に反魔法連盟の一員だったようだな。そして彼は、エイクが団長を務めるリンドル自警団の顧問だったとも聞いている。つまり、おそらくエイクは主義者であるブラハムに騙されていたか、あるいは……」
「サツキさん」
ところが、それをアレスタが制した。
「たぶん、そうなのでしょう。でも、今は――」
そう言って、またもや口を閉ざしたアレスタは気まずげにサラへと視線を送る。
うつむいて茫然自失としている彼女を見ると、さすがに決まりの悪さを感じたサツキはアレスタに同意した。
「わかったよ。この場で急いで結論を出すことでもないからな。今は口をつぐんでいよう。……すまなかった」
「ありがとうございます」
頭を下げたアレスタはそう言ってサラの様子をうかがったが、やはり彼女は心ここにあらずといった雰囲気だ。
一方、風の精霊エアリンは、自分を召喚した術者であるエイクの死を直感によって理解していた。召喚者である彼のことを親同然に慕っていたからこそ、その喪失は精霊にとっても大きい。
まるで人間が涙するように、悲しげな様子だった。
それはサラも同じことだ。いや、彼女はもっと深刻だったかもしれない。
なぜなら彼女は、誰よりもエイクのことを――。
「……うっ!」
サラは瞳を潤ませて、震えながらもきつく唇を噛み締めた。
胸にこみ上げてくる救いようのない感情は、よりどころを失った彼女に深い悲しみと絶望を与えてくるけれど、どうしてもそれを認める勇気が足りなくて、いつまでも彼女に泣き出すことを許さなかった。
感情の激流は言葉にならない。嗚咽さえも吐き出せない。
自分の正直な感情と向き合えないほどに、このときの彼女はあまりに幼かった。
「……サラ!」
そんな彼女の姿はあまりに痛々しくて弱々しいもので、黙って見てはいられなくなったイリシア。
自分より年少者であるサラにこれ以上の無理をさせてはいけない。そう考えたイリシアはかつての先輩として、彼女なりの優しさあふれる強さによって、真正面からサラを抱きしめた。
言葉はない。
けれど伝わってくるものがある。
やがてイリシアにしがみついたサラは悲しみに押しつぶされ、ついに堪えきれなくなっては、さめざめと声を殺して泣き始めるのだった。
イリシアの暖かな胸の中で。




