22 真なる者
一方そのころベアマークでは、イリシアとともにリンドルへ向かったアレスタとは別行動をするサツキが一人でオーガンの雑貨屋に赴いていた。
とはいっても彼が経営している表向きの雑貨屋に用事があるのではなく、知る人ぞ知る裏の顔である情報屋のほうに用がある。
主義者の名前が載っているリストを渡してきたのはオーガンだ。反魔法連盟の主義者たちがこの街で何か計画を立てているのなら、優秀な情報屋である彼は何か知っているに違いない。
「ということで、知っていることを洗いざらい教えろ。俺の金を無駄にするなよ」
「もちろんさ。金払いのいい上客を手放さないためには、きちんと満足してもらえる程度には上質な情報を渡さなければな。今後もひいきにしてもらわねば困る」
実際に城の前で襲撃を受けたばかりということもあって、不服ではありながらも必要な情報料を全額払うことに同意したサツキである。
ふっかけたわけではないだろうが、意外にもあっさりと多額の情報料を得られることに気をよくしたのか、いつになく上機嫌なオーガンが語る。
「俺の知る限り、主義者たちのテロ計画はもっと遠い日に予定されていた。だからさっきの襲撃は予定外の行動で、お前たちが領主のもとへ話を聞きに行ったのを何か勘違いした奴の暴走だろう。だからひとまずは安心していいが、計画の発覚を恐れた他の主義者たちが計画を前倒しにする可能性はある。念のため警戒したほうがいいだろうな」
「そんなのはわかってる。警戒するための情報をよこせ」
「なんだよ、やけに怖い顔をしているな。そう前のめりになるなって。こちとら情報をよこすのが仕事なんだから言われなくてもわかってるよ」
「だったら言われる前にやれ」
「やるつもりだったがお前が言うのが早すぎたんだ。……ほら、これはさっきのリストにそれぞれの潜伏先を付け加えたものだ。受け取っておけ」
「ふん。最初から素直に渡しておけばよかったんだ。さてと、じゃあこれは騎士団に渡して対処に当たってもらうことにするか。それにしても……」
顔色を曇らせて手元の紙を覗き込んだサツキ。
何人か並んでいる名前の中でも一番気になるのはブラハムだ。
「お前のリストによれば、ブラハムの潜伏先はリンドルか……。やはりアレスタたちが村で会ったという魔法学者は反魔法連盟の主義者で間違いなかったようだな。何を考えているのかまではわからないのか?」
不安そうな声で問われたブラハムは多少なりともアレスタたちのことを心配しているのか、いつもよりは深刻な顔で「ふむ……」と言って顎をさすった。
「魔法学者としての顔もあるブラハムは他の主義者たちとは違い、しばらく前から単独行動をとって独自にデビルスネークについて調べているようだな。どうやら召喚するのを狙っているようだが」
「デビルスネークねえ……。伝承によれば巨大な八つ首の怪物だったか? しかしそいつは十年前に退治されたんだろ?」
「確かにな。だが……」
「なんだよ。何か知っているなら隠さずに全部言え。情報料なら……」
「たくさん払ってる、だろ? 何度も言わなくたってちゃんとわかってるって。一般的にデビルスネークという名で知られている魔獣だが、実はそれが完成された姿じゃないんだ。真偽のほどはともかく、悪魔の怪物はさらに凶悪な“真なる怪物”に覚醒するなんていう恐ろしい神話があるのさ」
「……あのなあ、お前は頼れる情報屋で、俺は少なくない金を払った上客だろ? いちいちもったいぶらずにどんな神話なのか内容を教えろよ」
「けっ、うるさい客だな。そう急かされなくたって今から教えてやるっつうの。真なる怪物の恐ろしさを伝える神話によれば、デビルスネークの覚醒体はクァ=トゥルーという名前らしい」
「クァ=トゥルー?」
「古代語で『真なる者』という意味の言葉らしい。真なる支配者とも訳されるそうだが、今の人類が文明を作り始める以前に存在したという、古代の大型魔獣の一体だそうだ。もはや魔獣ではなく、生物たちの上に立つ神獣といったほうがふさわしいくらいだな。もしそんな怪物が万全の状態で召喚されてしまえば今の世界は確実に終わるだろう」
「そんなにすごい魔獣なのか? それが本当なら古代の世界が存在したのもおかしいだろ。大型魔獣同士で破壊しあってなくなってる」
「なんだよその言い方は。もしかして俺の情報を疑っているのか? ……と言いたいところだが、お前が疑うのも理解できる程度には信じがたい話であるのも確かだな。神話や伝承ってものは人から人へと伝わっていく過程で話のスケールが大きくなりやすいものだ。簡単に信じて真に受けると痛い目に合う」
「お前みたいなやつが面白がって話を盛るからだろ」
「いちいち茶々を入れるな。普段はそうかもしれんが、少なくとも金をもらって渡す情報に嘘や冗談は混ぜんさ」
「けっ、どうだかね」
「……だがよ、もしも神話が本当なら大変なことになるぞ。真なる怪物が覚醒してしまえば世界中の魔力を枯渇するまで吸い取って、魔法が使えなくなった人々を容赦なく食い殺すはずだぜ。おー怖いねえ、そんな怪物の召喚を考えている人物がいるかもしれないってのは」
本気で怖がっているのか、あるいは心のこもっていない演技なのか、オーガンはわざとらしく身震いをして見せた。
確かに本当なら危険な話だが、いまいち実感の持てないサツキは首をかしげる。
「しかし、なんだってリンドルに? こう言っちゃ悪いが、あそこは寂れた田舎だろ? 世界を滅ぼすような怪物が眠るには静か過ぎないか?」
「リンドルに住む村人が聞いたら怒り出しそうなくらいには失礼な物言いだが、わからんではないな。俺がお前の立場でも同じことを思っただろう」
「いいからお前の立場ではどう思ったかを言えよ」
「わかってるって、情報屋である俺の立場から知っていることを言わせてもらうよ。なんでもリンドルはずっと大昔には高濃度の魔力が豊かに分布した地域だったとかで、あの一帯の地下には数百年がかりでたまった大量の魔力が魔石という形で眠っていたらしい。悪用されないために魔石の存在は村長をはじめとする一部の人間しか知らなかったようだが、代々のリンドル自警団がそうとは知らず山奥に眠る魔石を守り続けてきたそうだ。十年前に出現したデビルスネークによって肝心の魔石がなくなってしまったから、その役目も今は受け継がれていないようだが」
「ただの田舎だと思っていたけど、リンドルには大量の魔力があったのか。魔法使いにとっては一番重要なものだな」
「ああ、そうさ。というわけで、過去のリンドルには魔力を大量に必要とする召喚魔法を発達させた魔法使いの一族が住んでいたようだな。……そうはいっても、その一族が残した召喚魔法の知識は時とともに失われ、今ではほとんど面影のない静かな農村になってしまったが。でも、事実として過去にはそうだったからこそ、あの辺鄙な村に今でもデビルスネークにまつわる伝承が残っていたんだろう」
「ふーん。それで面白半分に怪物の話だけは残っていたってわけか」
「さて、どうかな? ともかく、今のリンドル自警団で団長をやっているのは、えっと……」
「エイクだ。俺は会ったこともないが、アレスタたちがそう言っていた」
「だったらエイクだな。そのエイクってやつも一族の血を引いているのか召喚魔法を使えるようだが、残念ながら実力的には三流らしいな。本当に優秀だったのは彼の祖父だったようだ。十年前、山奥に眠っていた魔石を利用してデビルスネークを召喚したのも彼だな」
「簡単に言うけどな、そんなことが本当にできたのか?」
「できたから怪物が出現したんだろうよ。現在のリンドルには召喚魔法どころか魔法そのものが得意な人間さえほとんど残っていないが、まるで突然変異みたいに彼は遠い先祖の力を受け継いで生まれたようだ。とにかく召喚魔法に関しては天才的な男だったと聞く。その界隈では世界的にも有名だった。当の本人は表舞台を去って、故郷であるリンドルの山奥に隠居したがな」
「なるほどね。わかっていたことだが、優秀な魔法使いの誕生には色々と原因があるわけだ。おそらく彼の場合には、それは過去の実績を受け継いだ血筋だったってことだろ。……魔法使いは親に感謝しなくちゃならんな」
「すべての魔法が遺伝で決まるわけじゃないが、少なくとも彼の場合はそう言えるかもな。天才である彼は一世一代の召喚に挑戦して成功した。しかし彼一人の力で召喚されたデビルスネークは不完全な状態だったらしく、リンドルへ駆けつけた騎士団によって退治されてしまったのさ。結局、それっきり召喚者である彼自身の姿も見当たらなかった。きっと死んでしまったのだろう」
「デビルスネークは不完全体で、召喚した術者は死んだ……か。優秀な魔法使いなのは本当だったにしても、そうそう簡単にはいかないらしいな」
強力な魔法は誰もが憧れるが、決して万能ではない。時として術者本人にも危害が及ぶ諸刃の剣なのだ。
そのことをよく知っていたサツキは腕を組んで納得した。
しかし、十年前の事件は優秀な召喚師が一人で引き起こしたものであるとするなら、すでに彼が死亡している今回の場合、デビルスネークが召喚される危険性は低いのかもしれない。
村に滞在するブラハムが本当に反魔法連盟の主義者だったとして、どこまで本気で召喚計画を練っているのだろうか。
「普通の魔物と違って、デビルスネークを召喚するには山一つ分の魔石が必要になる。誰が何を考えているにせよ、さすがにそんな量が村に運び込まれればわかるさ」
「それもそうか。……しかし、十年前というと、俺も関係した反魔法連盟による帝都襲撃事件を思い出すな。もしかして俺が知らなかっただけでエイクの祖父は主義者の一人だったのか?」
「いいや、おそらく違うだろう。世界を変えてしまえるほどの力を持つ魔法使いがいたとして、必ずしも徒党を組んで悪事をたくらむとは限らないものさ。彼は人知れず一人で世界に戦いを挑んだと見える。あるいは、十年前の帝都襲撃にタイミングを合わせたのは帝国政府の対応を少しでも遅らせる目的があったかもしれんが」
「……まあ、十年前の俺も自分の目的のために反魔法連盟の計画を利用したようなもんだからな。たまたまタイミングが同じだっただけで組織の一員だと決めつけるのは早計か」
腕を組んで考えていたサツキはこの場で答えを出すのを諦めたのか、聞こえよがしに大きなため息を漏らした。
「まあいい。あとは実際に俺が村に行って、魔法学者だとかいうブラハムから直接聞きだしてみることにするか」
「そうするがいいさ。おそらく大丈夫だとは思うが、念のために気を付けておけよ。魔法学者を名乗っているだけあってブラハムは魔法に対する知識がすごいんだ。何らかの手段で怪物を召喚していてもおかしくはない」
「その時はその時で考えておくさ。……いや、待て。お前だったら怪物の弱点も知ってるんじゃないのか?」
「あいにく知っていると言えるほどの知識はないな。十年前の怪物は不完全な状態だったんだ。それに……」
「それに?」
「十年前の件に関して言えば、悪魔の怪物を退治したのは、それに匹敵しうる力を持った何者かが対処に当たったからだよ。……神速の、な」
コートの内側に隠し持っていた魔道具の短刀を自分自身に対して使うことで、これまでの人生で精神果樹園に蓄えてきた尋常でない量の魔力が暴走を始めて、輝ける魔力の塊となったブラハム。
一種のエネルギー体となった彼が怪物の体内へ取り込まれると、一つの山から得られる魔力鉱石に匹敵する大量の魔力を一度に得たデビルスネークは覚醒を果たした。生物としての成長を超越した進化であり、高次元生命体へのフェーズシフトを起こしたのだ。
デビルスネークは全身の大きさを倍増させながら姿を変貌させていく。
八つの首が巨大化すると頭部から槍のようなツノが飛び出し、口の先に鋭く並んでいた剣先のようなキバは数を増やした。
そして後方に伸びていた尻尾の先端が丸まって一つの大きな塊となると、それが新しい九つ目の頭になった。
こうなった以上、悪魔の怪物という呼び名もふさわしくないかもしれない。
蛇を超えた神域の生命体である竜、それも九つの頭を持った竜。
真なる者、クァ=トゥルー。
それは、かつて複数の国家が協力することによって発動された大規模な世界魔法の効力で人為的に作られた統一言語「ユーリ」が成立する以前の、今では忘れられた古代言語の一つ「イリリッシュ」に基づいた怪物の名前である。
その名は人間のものではないので、正確な発音は誰にもできない。
見る者を圧倒する冒涜的な迫力。
直面した人間の精神を狂わせるほどの、すさまじい汚染力をもった瘴気を身にまとう真なる怪物。
あらゆるものが別次元をうかがわせる。
まともに戦える相手ではない。
「なんて怪物なんだ……」
どちらかといえば周囲に満ちている魔力の流れに敏感なアレスタは、もやもやと立ち込めた瘴気に精神を汚染されつつあったのか、急激な立ちくらみに襲われた。
散り散りに音が乱れ、視界がぼやけ始める。
具体的な攻撃をするまでもなく、ただそこに存在しているだけで周囲に負の影響を撒き散らす怪物。魔法への耐性がない人間だったなら、その姿を直視しただけで意識を奪い取られ気絶していたはずだ。
アレスタは直感的に勝ち目がないと判断したのか、この場から逃げ出すことを考えて、意見を問うべくイリシアの顔を見た。
「まだ大丈夫です! 今ならまだ間に合う――!」
しかし、この世の誰もが己の弱さや恐怖心にひれ伏すわけではない。それを強さに塗り替えて立つ人間も存在する。
立ち向かう人間に畏怖の感情を与える怪物の姿を目にして、なおもイリシアは屈しなかった。
勝てるわけがないという臆病な気持ちに襲われて身を縮ませるどころか、むしろきつく歯を食いしばり、二本の剣を握り締める両手の力を強めて、先ほどまでとは比べ物にならないほど激しい闘志をみなぎらせていたのだ。
窮地に立てばこそ、かえって義憤に燃えて強くなるように。
それがベアマークの騎士として活躍してきた彼女、イリシアの真髄である。
――グギギギギィ……!
声にもならない声、音にもならない音。
この世のものならざる特殊な周波数をもっているのか、怪物の咆哮は脳内に直接響いてくるようだった。
威嚇だろうか――と、わずかに進撃をためらったイリシアは眉をしかめる。
己の命を犠牲にしたブラハムがどこまで計画的に狙っていたのかはわからない。それでも結果として彼の自己犠牲は成功し、悪魔の怪物デビルスネークとは明らかに別種の、ある種の神々しさを感じるほどの化け物に進化させることに貢献したのだ。
あの怪物の中には、もはやエイクの意思など微塵も残ってはいないだろう。
人間に対する攻撃をためらう善意や葛藤など、少しも持ち合わせてはいないだろう。
あとは反魔法連盟の主義者ブラハムが期待した通りに、圧倒的なまでの力をもって世界を滅ぼしてくれるに違いない。騎士団にさえ止められない凶悪な化け物が誕生してしまったのである。
「こんなの、いったいどうしろっていうんだ……!」
一見、勝つための方法はないように思える。
しかし、それでもアレスタたちには希望の灯が残っていた。
なにしろデビルスネークの状態でさえ魔力が枯渇しかかっていたのだから、それ以上の存在であるクァ=トゥルーともなれば、やはり必要量の魔力が足りない反応を見せていたのだ。
それは動きの不自然さだけではない。
ただれた皮膚からは流血のように体液が滴り、すでに崩壊が始まっているようにも見えた。
そもそも瘴気が濃く見えるのは魔力の濃度が低いためである。たとえば人間の呼吸は酸素を取り入れて二酸化炭素を排出するものであるが、こうした怪物にとっての呼吸と呼ばれるものは、多くの場合、魔力を取り入れて瘴気を排出するものだ。
瘴気が色濃く見えるのは、大気中に残っている魔力の量に対して瘴気の割合が多くなっていることを意味している。
つまり、その分だけ純粋な魔力が減少しているのだ。
人間が魔法を発動させる分には少量の魔力濃度でも事足りる。よほどの枯渇状態でもない限り、精神果樹園を有している魔法使いが環境的な魔力不足を理由にして魔法が使えなくなるような状況はめったにない。
酸素が薄い高山地帯であっても、無理をすれば走ることはできるのと同様である。
だが、それはあくまで人間の場合に限定した話である。この世界に存在するだけでも大量の魔力を必要とする神獣では、人間の魔法使いなら気にも留めない程度の魔力不足でも重大な問題となる。
それを本能的に理解しているからこそ、クァ=トゥルーは必要とする大量の魔力を求めて動き始めた。ここから最も近い場所に位置する魔力が豊かな土地とは、たくさんの人間が集まって発展してきた商業都市ベアマークだ。
大気中を循環する魔力の流れを感じ取った怪物は花の香りに誘われて群がる虫のように、まずはベアマークを目指して移動を始めた。
だが、その怪物の前に立ちはだかったのは一人の少女。
「この怪物を街に向かわせてはいけません!」
今度こそ恐れを振り払ったイリシアである。
このとき、イリシアは十年前に出現したデビルスネークと戦ったであろう父のことを思い出していた。それとともに、十年前の惨劇で犠牲になったリンドルの村人たちのことを思った。
あのような不幸の再来を許してはいけない。
彼女は騎士を目指すと決めた日から、幼いころ悲劇に巻き込まれた自分のような人間を二度と生み出してはならないと誓ったのだ。
だからこそ自分が倒れるその瞬間まで、誰かを守るためならイリシアは果敢に立ち向かうことができるのである。
明らかに無謀な行為だとわかっていても、彼女の瞳は揺るがない。
両手に剣を、心に誓いを。
たった一人で真なる怪物へと戦いを挑む。
「イリシアさん、危険です! 俺たちだけで戦うなんて無茶ですよ!」
心配して懸命に制止するアレスタの声も、イリシアには届かなかった。
いや、たとえ彼女の耳にアレスタの言葉が届いていたとしても素直には従わなかっただろう。
なぜならこの行動は彼女にとって、アレスタを守るための行動でもあったのだから。いくら治癒魔法を使うことのできるアレスタでも、今回ばかりは危険すぎるだろうことを彼女は理解していた。
だからこそ彼女は身を挺して切り込んだのだ。
義務感というよりは、彼女なりの優しさかもしれない。
誰かを思う優しさは時として、人を何よりも強くしてくれる。
「高速化魔法!」
あえて宣言することで精神果樹園の果実をいつもより多めに消費したイリシアは自分に高速化魔法をかける。身体を巡る魔力が潤滑油になって、あらゆる動作のスピードが上昇する彼女の得意魔法だ。
その速度を最大限に活用して、まずはイリシアが先手を取る。
身の丈が十倍以上はあろうかという怪物を相手にしながら、隙を見せずに二刀流で素早い剣戟を繰り返すイリシアは意外にも一方的な攻勢を見せた。
どちらかといえば、巨体をもてあますクァ=トゥルーが手をこまねいているようにも感じられるほどだ。
――これなら勝てるかもしれない。
希望を込めて祈るようにアレスタは思ったが、もちろん怪物も黙ってやられているばかりではない。イリシアへの反撃や防御が穏やかに見えるのは巨大さゆえの遅さであって、魔法でスピードアップした彼女に比べて弱いわけではないのだ。
逆に言えば、人間相手に慌てる必要がないという余裕の証拠でもある。
そして、そう時間を置かずに次なる展開が始まった。
盾のような分厚いウロコに覆われたクァ=トゥルーの胴体から、触手のような細い“腕”が次から次へと何本も伸びたのだ。それぞれの先端には鋭い鉤爪が備わっている。おそらく獲物を狙うためのものだろう。
さらにはクァ=トゥルーの背中から、枯れた樹木のような骨だけの翼が突き出した。怪物は空を飛ぼうとして羽ばたくが、骨ばかりで羽毛のないそれは大気をつかむことが出来ず、ただ不気味に風切り音を発生させた。
しかし、それがいつ完璧な翼に変貌するかもわからない。
豪勢に魔力を消費しているのか、立ち込める瘴気がより濃くなっていく。
その深みの中で、息苦しさに襲われたアレスタは驚きに声を振り絞った。
「まだまだ変化するつもりなのかっ!」
九つの竜の頭がそろったところで完成されたと思われた怪物。
なのに、まだまだ成長する余地が残っているというのか、まるで粘土をこねるかのように少しずつ外見を変えていく。
より強く、より巨大に。
「させませんっ!」
敵である怪物の成長を黙って見守っている義理はない。
イリシアはより激しく、より力を込めて剣を振るった。
ところが、イリシアの与えた傷が次から次へとふさがり再生していく。攻撃が通じていないわけではなく、真なる怪物の自然治癒能力だろう。デビルスネークのときとは違って、もはや痛みを感じている様子すらない。
まるで砂の山を剣で斬っているかのように、手ごたえが一切感じられなかった。
果たして本当にこのまま剣による攻撃を続けていて終わりが来るのだろうかと、傍から見守ることしか出来ないアレスタは不安に思った。
それでもイリシアは諦めない。勝つための努力を見失わない。
一度や二度ならず、度重なる剣戟が結果として無駄に終わることとなろうとも、攻撃の手を緩めなかった。
諦めることが負けに直結することを知っているからだ。
だがしかし、当然ながら攻撃を繰り返すイリシアは疲弊していく。たぐいまれなる集中力にしても、いつまでも無限に持続するものではない。
さすがに人ならざる真なる怪物が相手では、気持ちだけではどうにもならない部分があった。
「俺には何もできないのか……?」
そんな彼女を見守るアレスタは己の無力さが悔しくて歯を食いしばった。
彼には有効な武器もなく、戦うための魔法もなく、鍛えてきた肉体も、学んだ戦術もない。イリシアに加勢しようとも、今の状況ではかえって邪魔にしかならない。唯一の魔法である治癒魔法も自分自身にしか使うことができないのだ。
恐怖に委縮していることもあり、前にも後ろにも進めずアレスタは固唾を呑んで趨勢を見守ることしかできなかった。
すると、程なくしてイリシアがわずかな動揺を見せる。
「くっ、動きが早くなってきた……っ?」
それまでは顔の前で飛び回っている邪魔な羽虫を軽くあしらう程度だった怪物の抵抗。
だが、めげずに剣を振るい続けてきたイリシアの存在を有害な敵であると判断したのか、ここにきて怪物からの本格的な反撃が始まった。
明らかな攻撃の意思、つまり殺意だ。
九つのうち、一つの首がイリシアを捉えた。
見下ろすように大口を開けて、広範囲に広がる霧状の液体を発射した。
紫色で独特の臭気を帯びたそれは強烈な毒の霧だ。かろうじて直撃を回避したものの、わずかに吸い込んだらしいイリシアは痺れに襲われ、たじろいだ。
たじろいだのは一瞬だが、その一瞬が致命的。
わずかな隙が死を招く。
無数に伸びた怪物の触手が束になって、一斉にイリシアへと襲い掛かったのだ。
「イリシアさん、よけてっ!」
瞬時に駆け寄ったアレスタは身動きの取れなかったイリシアを突き飛ばすようにして逃がすと、そのまま彼女の身代わりとなって、直後に届いた夥しい数の触手による攻撃に晒された。
腕を、足を、はらわたを、どこまでも容赦なく貫かれて血反吐を吐く。
言葉ではたとえようのない激痛が彼を襲う。
「――かっ、はっ!」
しかし、これでイリシアは無事だったはずだ。
アレスタは気を失いそうになりながらも、そのことを思って安堵する。
ところが、とっさにアレスタが体を張って助けたはずのイリシアにも触手が伸びていた。
それに気付いた彼女は慌てて回避しようと努力したが、うまく姿勢が定まらず、ふらふらと倒れこんで膝をついた。思っていたよりも毒の影響を強く受けてしまったらしい。
その場で苦悶の表情を浮かべたまま、避けることも防御することもかなわず、ついにイリシアは動き出せなかった。
「イリシアさん――!」
そう叫んだアレスタの目の前で、いくつもの触手が勢いを増して突撃した。身にまとっていた鎧ごとイリシアの身体を貫いて、胴体を貫通したまま動きを止める。
全身の数か所に穴を開けられた彼女は激痛に顔をゆがめ、口から大量の血を吐いた。
最初こそ貫かれた触手を引き抜こうと両手に力を込めたイリシアだったが、やがて力尽きたのか、うごめく触手によって串刺しにされたまま意識を失った。
真なる怪物は動きのなくなったイリシアを無造作に遠くへ投げ飛ばすと、まるで何事もなかったかのように体の向きを変えて、ゆっくりとベアマークへの進軍を再開する。
もはやイリシアやアレスタのことなど眼中にはないらしい。
邪魔者は一匹残らず退治し終えたとばかり、いかにも悠々とした様子で移動を開始すると、クァ=トゥルーはアレスタたちのもとを離れていった。
二人に絶望だけを残して――。




