04 辺境魔法師(2)
くたくたになるまで歩き疲れて、すっかり空は日暮れの色合いを迎えていた。
なんとか完全に夜となる前に抜けることができた森。その先に広がっていたのは、想像以上に面積のある草原だった。けもの道だらけの森の中よりは歩きやすいとはいえ、ひざ下までを覆う程度に伸びた雑草が緑の絨毯のように生い茂っている。
まだ歩かされるのか……そう思ってうんざりしたアレスタであったものの、目的地であるゴールはすぐそこに待っていたようだ。
「ああ、あれが……」
「そうだ。あれだ。……どうせ休むなら中に入ってからのほうがいい。こんなところで感嘆してないで急ぐぞ」
どこまでも続きそうな草原の向こう、ぼんやりとした夕闇に浮かび上がる赤レンガ造りの屋敷が見える。窓の数や全体の大きさから判断して、少なくとも六つ以上は部屋がありそうな二階建ての家だ。
世俗を嫌って別荘を建てた金持ちの貴族が住んでいてもおかしくないが、あれがサツキの家だという。
美しい、はかない、幻想的。
それら修飾語を一括りにして、アレスタは「おしゃれ」と評しておくことにした。
「うるせぇ、お世辞はいいから早く入れよ」
照れ隠しなのか、長い距離を歩いて到着した家の前で立ち止まって素直に褒めたつもりだったアレスタの背中に手を当てて、やや強引に正面玄関の扉の中へと押し込むサツキ。
なされるがままのアレスタが足を踏み入れると、屋敷の中は爽やかな花の香りがした。
「それにしても大きな家ですね、想像以上で驚きました。こんなところに一人で住んでいるって本当なんですか? たくさん部屋があったって、結局は使わなければ無駄に思えますけど……」
「そうだな。無駄だな。それについてはお前の言う通りだが、はっきり言って余計なお世話だな。無駄なんていくらあったっていいだろ。こんな屋敷に一人で住んでいる俺が寂しい人間だとでも言いたいのか」
「いや、別にそういうわけではなく……」
怒らせてしまったのかと思って慌てて何か言い繕おうとしたけれど、気の利いた言葉が何も出てこずにアレスタは言葉に詰まった。一人暮らしには似つかわしくない屋敷だと感じたのは事実だ。
ただし、これはアレスタの実体験でもある。
つい先日までアレスタがカーターと二人で暮らしていた八重の塔も同じくらいに大きな建物だった。サツキと違って二人で暮らしていても使わない空間は多く、部屋から部屋までの移動に疲れてしまうだけなので、もっと小さい家に住んだっていいんじゃないかと昔から思っていたくらいだ。
見たところ彼はアレスタよりも小柄な体をしているので、なんだか余計に持て余していそうである。
実際のところどうなのやら、一人暮らしのわりに掃除の行き届いている長い廊下を抜けたアレスタは開放的なリビングに通された。
落ち着いた色調のカーペットが床一面に敷いてあり、壁際の戸棚には高価そうな調度品が陳列してある。
再び口をついて「おしゃれ」と言いそうになったアレスタだが、またお世辞だと思われてサツキを怒らせるかもしれない。
そう危惧した彼は精一杯に言葉を選んだ。
「素敵なお部屋ですね」
「いいから黙ってソファに座ってろ。気を遣わせるために呼んだんじゃない」
怒ってはいないようだが呆れた様子ではあるサツキに背を押され、再びなされるがままアレスタは座り心地のよいソファに腰を沈めさせられた。
すぐ目の前には大きな長方形の木製テーブルが一つあり、金色の糸を使った刺繍の入った白いクロスがかけられている。
他人の家だと思うと、なんだか落ち着かない。
田舎暮らしで交友関係が少なかったせいもあり、そわそわとするアレスタは緊張が止まらなかった。
「ほら、まずは紅茶だ。どこの誰を招待しても、我が家の敷居をまたいだ客人には最初にこれを出すことにしているんでな。まあとにかく飲めよ」
手持ち無沙汰に室内を見渡していると、二つのティーカップを乗せた銀トレイを持ったサツキがリビングに戻ってきた。
白い湯気を立てる淹れ立ての紅茶からかぐわしい香りが漂ってきて、知らず知らずのうちに空腹でうなされていたアレスタの食欲が刺激される。口の中のよだれだけでなく、ぐうぐうと腹の虫までが賑やかに音を立てた。
びっくりして右手でお腹を押さえたが、情けない音を隠すには間に合わない。
ここはありがたく差し出された紅茶を頂くことにする。
「い、いただきます……!」
すっかり恐縮して、ぎこちない動作でアレスタはティーカップを手に取った。差し向かいに座ったサツキは意地悪そうに笑って、不器用に紅茶を口につける仕草を黙って見守っている。
客人が緊張している姿を見て面白がっているのかもしれない。
あまりの気恥ずかしさにアレスタの頬は熱を帯びて赤く染まる。
紅茶も熱い。油断すれば火傷しそうだ。
「とてもおいしいですね。実はすごく喉が渇いていたので助かります」
「それはよかった。……けど、確かにあんなに歩いたんだから喉が渇いているのは事実だろうな。だったら飲むのに苦戦する熱い紅茶じゃなくて、一気にゴクゴクと飲める冷たい水を出したほうがよかったか?」
「いえ、別にそういうわけでは……」
口ではそう言いつつも、本音を言えば冷たい飲み物が欲しかったのは否定できない。
それを表情から察したらしく、いそいそと立ち上がったサツキは一度リビングを出て、どこかにある別の部屋から何かを持ってきた。
「じゃあほら、こっちも遠慮せずに食べるといい。お前の口に合うか保障はできないが、この焼き立てではないアップルパイをやろう」
「おお、これは冷めたアップルパイ!」
お腹が空いていたこともあり、ちょっと固くなった食べ応えのあるアップルパイが出てきてアレスタの目は輝いた。我慢できずに遠慮なくいただくと、一口目からひんやりと冷たくておいしい。まさか氷でも使ったのか。
淹れ立ての紅茶が熱々なのに対して、冷やしたアップルパイはちょうどいい口直しといったところだろうか。もてなしてくれるサツキにそんな意図があるのかどうかはいざ知らず、組み合わせがいい。
「二杯目の紅茶には冷たいミルクも混ぜて、熱いのが苦手な子供にも飲みやすくしてやろうじゃないか。最初からそうすればよかったのかもしれないけど、そこまで気が利かなくて悪かったな。誰が来ても最初に紅茶を出すと言ったが、実は来客なんてほとんどいないんだ。もてなすのには慣れてない」
「いえいえ、そんなことないですよ」
「……ま、来客であるお前がそう言ってくれるんならいいんだが」
やるべきことをやって肩の荷が下りたのか、サツキもアップルパイを頬張る。
しばしの団欒だ。
ゆったりしたティータイムを過ごしてアレスタの緊張がほぐれてくると、ちょうどいい頃合いと見たサツキが居住まいを正した。
「さて、それじゃあ、そろそろ話をしようか。……といっても順序だてて何かを説明するのは苦手だ。お前から聞きたいことがあるなら言ってくれ」
「あの、それなら最初に聞いておきたいことがあるんです。どうしてサツキさんは俺の名前を知っているんですか? お会いしたことはありませんよね?」
「そうだな。俺の記憶が確かなら、お前には会ったことがないな」
「お前には、というと……」
含みを持った言い方だったので、何を言われてもいいようにアレスタは少し警戒した。
助けてもらったことには感謝しているアレスタだが、目の前にいる青年の素性が知れないのは変わらない。帝国兵に辺境魔法師と呼ばれていたことから察するに、今はおとなしいだけで、サツキがアレスタの命を狙っている帝国軍の関係者という可能性も捨て去れないのだ。
びくびくと怯える姿が滑稽に映ったのか、緊張感もなくサツキは肩を揺らして笑った。
「ははは、そんなに怖がる必要はねぇよ。カタルシス……いや、今はカーターと名乗っているんだったか?」
「カ、カーターって! まさかサツキさん、もしかしてあなたは……!」
サツキが口にしたカーターという名前はアレスタにとってあまりに聞きなじみのある名前だ。
その名を知っている彼に対して、期待と信頼を込めた眼差しを向けるアレスタ。
うむ、と頷いたサツキはまぶしいほどの笑顔で答える。
「ああ、そうさ。俺はカーターの、つまりお前の育ての親と知り合いなのさ。あっちも追われているらしく今は連絡が取れないようだが、あいつから最低限の事情は聞いている」
「サツキさん……」
記憶をなくした捨て子だったというアレスタを引き取り、義理の父親として十年間も育ててくれたカーター。そんなカーターの知り合いというからには、きっとサツキも信頼に値する人間なのだろう。
カーターが言っていた帝国辺境に住んでいる頼れる知り合いという人物も、おそらくサツキのことだったに違いないとアレスタは判断した。
「泣くなよ、アレスタ。大丈夫だ。これも何かの縁だから俺がなんとかしてやるぜ」
「サツキさん!」
泣くなと言われたが、ありがたくも助けてくれると言っているのだ。ずっと心細かったアレスタに我慢なんて出来るわけがない。
だが、一方で気にかかることもあって、アレスタは完全には安心することが出来なかった。
「ですが、大丈夫でしょうか? その、理由もわからぬまま俺は帝国軍に追われていたわけですから……」
そう、アレスタは帝国兵に追われる身の上なのだ。先ほどはサツキのおかげで引き下がってくれたようだが、今後も手出しをしてこないとは限らない。下手をすると一緒にいてくれる彼まで大変な目に合わせてしまうだろう。
もうこれで大丈夫だと安心するには早い気がした。
自分を取り巻く事態の全貌が見えないアレスタが捨て犬のように震えながら不安がっているのを見て、サツキは優しい口調で声をかけた。
「お前が不安がるのは無理もないだろうな。あんな奴らに追われれば普通は生きた心地がしないもんだ」
実際に体験したこともあって彼の意見に同意したいアレスタだが、そう言うサツキは不思議と不安がっている様子がない。
何か自信や根拠があるのだろうか。辺境魔法師と呼ばれていたサツキが普通の青年ではないことは容易に想像できるものの、かといって相手は帝国兵だ。
一人や二人で立ち向かうには相手が大きすぎる。
「あの、サツキさんは怖くないんですか? 相手は帝国軍ですよ」
任務や作戦のためなら何をしでかすかわからない相手が相手だけに、無事のままで済む可能性は低いと眉を曇らせたアレスタの心配はもっともである。
けれどサツキはまったく不安がることなく答えた。
「いや、お前を追っていたのは正規の帝国軍じゃない。おそらく皇帝直属の命令を受けた少数の特務部隊だろう」
「特務部隊?」
「そうだ。帝国全土に動員をかければ最大で数十万人が集まる帝国軍の本隊じゃない。だから俺一人でも相手ができたし、あいつらも少数では勝ち目がないとみて俺の言うことを聞くしかなかった」
「そ、そう言われましても……」
大々的に帝国軍が動いているわけじゃないとすれば、その事実は確かに救いだ。もしも本格的に帝国軍がアレスタを狙った行動を開始していたのなら、万が一にも助かる見込みなど残っていなかった。
しかし少数とはいえ敵の正体は特務部隊だという。サツキが相手と見て引き下がってくれたとはいえ、それが事実であれば、決して安心できる話ではない。
「それに奴らにとって本来の敵は反魔法連盟だ。だから普通に考えれば、お前は反魔法連盟の関係者だと誤解されて襲われたんだろう。お前がそれに関係ないっていうんなら、今後ことさらに命を狙われることもないだろうさ」
「そうだといいのですが……。そもそも反魔法連盟とは?」
それはアレスタが聞いたことのない名前だった。
もちろん言葉の意味から想像することは可能である。
おそらく魔法に反対する人々のことだろう……というアレスタの予想を肯定するかのように、サツキが説明する。
「そうか、そんなのも知らないのか。さすが田舎暮らし。反魔法連盟というのはな、この世界から魔法使いを根絶やしにするっていう過激な思想を共有する集団のことだ。街の中だろうと平気でテロをやるような連中だから、基本的にはどこの国でも存在を許されちゃいない」
「どこの国でも許されていないとなると、この帝国でも危険視されているってことですよね? つまり反魔法連盟に対処するための帝国における組織が、俺のことを狙っていた特務部隊というわけですか」
反魔法連盟が魔法使いを根絶やしにすることを目的とした集団であるということは、すなわち彼らが魔法使いを狙った組織的な殺人集団であると言い換えることも出来る。
このデウロピア帝国に限らず、世界中のあらゆる国家には多くの魔法使いが存在する。今まで正確な統計が示されたことはないが、少なくとも人類の半数はなんらかの魔法を使うことができるといわれている。
だから、もしも反魔法連盟の主張を素直に受け取るのならば、彼らは人類の半数を殺すと言っているようなものなのだ。それが事実とすれば危険極まりない存在である。
普通の人間にとってはともかく、魔法使いにとっては無視できない話だろう。
「そうだな。そのための特務部隊だ。そして言うなれば俺もそいつらと似たようなものなのさ」
「……え? サツキさんが?」
軍服も戦闘服も似合いそうにないな、と思っているとサツキが苦笑した。
「おいおい、同じと言っても軍人だってわけじゃないぞ。ちょっとした事情があって詳しくは説明してやれないけどな、十年くらい前から俺はこの辺境の地で一人のんびりと暮らしながら、この辺りに潜伏する反魔法連盟の対処もさせられているんだ。敵対している共和国との国境が近いこともあって、国外から侵入しようとする厄介者の対処もな。そういうことをやっているうちに、辺境魔法師なんて呼び名ができて恐れられるようにもなった」
「危険な反魔法連盟や国外からの侵入者の対処って、いうなれば戦闘ですよね? それって大変な仕事なんじゃあ……」
「いいや、実際には退屈で暇の多い生活だな。ここらの周辺は小さな集落が点在する以外には森や山ばかりで、あまりにも辺境すぎるんだ。共和国との国境には魔法で管理された巨大な壁があるから侵入者も滅多にいない。だから人に誇れるような手柄もなくて、人里を離れた辺境に住んでる俺の存在なんて世間には知られていないだろうさ」
そう言ってサツキはため息を漏らす。
とはいえ本心から残念がっているようには感じられない。
案外、平穏な生活を気に入っているのかもしれない。
「普段から俺がそういう仕事をやっているからこそ、反魔法連盟の主義者を取り締まる特務部隊の連中もお前のことを俺に任せることにしたんだろう。向こうの隊長が俺のことを知っていてくれて助かったぜ。知られてなければ、ぶっ倒さなけりゃならなかった」
物騒なことを言っているが、決して冗談というわけでもなさそうだ。
何をやっていたのか正しく把握できていたわけではないが、あの時の彼なら本当に帝国兵たちを倒せただろう。
「ともかく、反魔法連盟は世界の中でも極端な思想で知られる異端な存在だ。ありがたいことに今では少しずつ勢力が弱まってきている。暴力行為や破壊活動をするから危険なことに変わりはないが、そこまで心配することはないだろう」
「そうですか、それはよかった」
いかなる対立であれ、無益な争いの火種は消えてしまうのが一番だ。どんなに高尚な理想を掲げていようと、独善的で残虐な集団は勝手に消え去ってくれればいい。
そんなことより、今はアレスタがそんな危険な主義者に間違われているという事実の方が心配だ。
「どうして俺がそんなものに間違われて命を狙われたんでしょうか?」
「奴らが無能で何かを勘違いしているってんじゃなければ、全く理由がないってわけじゃないのは確かだろう。でなければ、帝国の特務部隊がこんな辺境まで仕事に出向いてくることはないからな。なんにせよ、カーターに会えばわかるさ」
「カーターに会えれば……」
十年以上前の記憶がなく、幼いころに両親と死別したらしいアレスタにとって、育ての親であるカーターとの二人暮らしは平和な生活に他ならなかった。
世俗を離れた静かな暮らし。
そこでは世間を騒がせる事件など何もなく、これといった悪いこともしていない。
ただし、今、彼を悩ませる懸念が一つもないわけではない。魔法を使うことができないらしいカーターは昔から、どことなく魔法を憎んでいたようであった。
魔法への憧れを隠し切れなかったアレスタに対し、厳しい顔をするカーターは繰り返し何度となく教え諭したものだ。
魔法はこの世に存在するべきではない。
いっそ魔法使いごと消し去るべき「悪しきもの」であると。
もしそのことが、反魔法連盟と何か関係があるのだとしたら……。
「いいか、アレスタ。ここから先はお前が自分の意志で選べ。ここで俺と一緒に隠れて事態が落ち着くまで静かに過ごすか、お前のまわりで何が起きているか知りに行くのかを」
アレスタは考えた。
もしかしたら自分の運命を変えてしまう選択かもしれない。
あるいは、もっと大きな何かを。
長いようで短い沈黙を経て、最終的に彼は前進することを選んだ。
「サツキさん、よろしければ力を貸してください。俺はカーターに会いに行きます。何が起きているのか、そして俺は何をすべきなのかを知りたいから」
たとえ目指す先がいばらの道だとしても、めげずに最後まで歩き抜けようとするアレスタの覚悟を聞き届けて、その答えを期待していたらしいサツキは満足そうに頷いた。
「よし、それじゃあ今日はもう休め。明日の出発は早いぜ」
「わかりました。ではサツキさん、そうさせていただきます」
正直に言えば色々と疑問や不安は尽きなかったが、積もりに積もった疲れと睡魔で頭が働かなくなっていた。
まずは明日に備えて十分な休息をとる必要がある。
客人としてサツキに案内された部屋は二階の隅で、あまり使われていない客間だという小さな一室だ。
眠って体力を回復するより他にするべきこともなく、アレスタは早々に目を閉じた。