20 対峙するとき(1)
情報屋のオーガンから受け取ったリストの中にブラハムの名前を見つけたアレスタとイリシアが急ぎの魔導馬車に乗ってリンドルに駆け付けたころ、現地ではすでに不測の事態が始まっていた。
安全地帯を求めて村の外へと逃げていく人々の話を聞く限り、どうやら村はずれの森に怪物が出現したらしいのだ。
八つの首を持つ巨大な蛇だというそれは、まさしく伝承に残るデビルスネークと思われた。
「けど、どうして急にそんな怪物が……」
「顔を上げてください、アレスタさん! ほら、あれを!」
戦闘に備えて騎士の鎧を着こんできたイリシアが指差した先には、火災現場から立ち上る黒い煙のように空へと向かって伸びる八つの蛇の頭が見えた。それぞれの首は樹齢数千年の巨木に等しい太さを持っており、人間程度なら簡単に丸呑みできそうだ。
遠くからでも突き刺さるほどの殺意を感じて、どちらともなく足が止まった二人は顔を見合わせる。
あれがデビルスネークだとすれば、あまりに桁が違いすぎる。
こうして駆けつけてきたものの、この場にいる二人だけで何が出来るというのだろう。
だが不安もここまでだ。恐怖心や無力感を理由にして怪物を見逃すわけにはいかない。
先ほどすれ違った村人から聞いた話によれば、すでに村の若者たちがデビルスネークの足止めに向かったらしいのだ。ならばアレスタたちも急いで駆けつけて、村を守るため果敢に戦っている彼らに加勢するべきであろう。
「イリシアさん、ともかく急ぎましょう!」
「はい!」
足を鈍らせる雨こそ降らぬものの、どんよりと延び広がった灰色の雲は空を覆い隠しており、唸り声を上げるように吹いた風には鼻を衝く異臭が混じっている。
アレスタとイリシアは食虫花に惹きつけられる小さな羽虫がそうするように、ほとんど一直線で悪魔の怪物のもとへ走った。
「こ、これが……!」
「はい、間違いありません! デビルスネークです!」
小高い丘にも匹敵する巨体を持つデビルスネークはその重量で何もかもを押しつぶし、耳をつんざく轟音を立てながら、あたかも大地に新しく河川を掘るように蛇行して進んでいた。大量の土砂が巻き上げられ、地鳴りを響かせて大地を揺らす振動は激しく、普通に立っているだけでも心が落ち着かなくなる。
言ってしまえば土砂崩れを相手にするようなものだから、人間の力で止めようとして止まるものではない。しかし怪物はベアマークから駆けつけた二人の姿を発見した瞬間、何かをされる前からズズッと地面にめり込むようにして立ち止まった。
事情はわからない。
けれど相手のほうから止まってくれたのなら好都合だ。
これくらい離れていれば安全だろうと期待しうるほどの十分な距離を置いて、様子を見るしかなかったアレスタとイリシアも立ち止まる。
そしてデビルスネークと正面から向き合って初めて、ようやく一人の男性の姿が二人の視界に入った。
怪物の傍らに立っていた男。
騒がしくなっている森の雑音に邪魔されることなく彼に届くようにと、呼吸の乱れも構わず問いただすようにアレスタは叫ぶ。
「ブラハムさん! どうしてあなたが!」
デビルスネークの左隣にすました表情で立っていた人影はブラハムだった。
数日前、情報収集を兼ねてサラとともにリンドルを訪れた際に顔を合わせたアレスタは、そのときは魔法学者であると名乗った彼を信用して別れた記憶がある。
しかし、この場で再会した彼が自称した通りの人物である保証は何もない。
街で得た情報と、目の前の状況。
もはやブラハムに対する好意を装うこともせず、アレスタとイリシアが彼に対して向ける目は露骨なまでの疑念と敵意を含んでいた。
「……おや? 君は確か、最近になって街でギルドを始めたとかいう少年だったかな? デビルスネークに関する調査を依頼した記憶があるが、何かわかって教えに来てくれたのか?」
村の人間ではない彼らの登場を予想していなかったのか、のんびりと考え込むように小首を傾げたブラハムは意外そうな顔をした。すでにアレスタたちと敵対する状態に入りつつあることは理解しているだろうに、ずいぶん間の抜けた様子である。
どのようにしてデビルスネークを呼び出したのかはともかく、村を不安に陥れている悪人にしては覇気がないとアレスタは思った。
しかしそれは間違いである。
「まあ、そんなわけはないだろうな。所詮は飛んで火に入る夏の虫ということか。村の人間でもないのに、わざわざベアマークから殺されに来たとはご苦労なことだ」
大胆不敵。
どこの誰であろうと関係はない。邪魔者が二人増えた程度では自らの計画が揺らぐことはないと、すでにブラハムは己の勝利を確信しているのだ。
無理もない。
なにしろ今の彼は天地を揺るがす悪魔の怪物を従えている。
ただそこに存在しているだけで人間を畏怖させる怪物は一国の軍隊にも匹敵しうる。たとえ統率のとれた騎士団が挑んできても恐れる必要はなく、いともたやすく返り討ちにできるだろう。
十年前、リンドルの地に出現したデビルスネークは不完全体だったという話だが、それでもブラハムは今回の召喚こそは完璧に成功したものだと考えていた。
明確な根拠はないものの、もはや後戻りするつもりのない彼は召喚の成功を信じて疑おうとはしなかった。
「……その言葉、聞き捨てなりませんね。この騒動の主犯格があなたであることを自供しているのだと考えてもよろしいのですか?」
怪物に意識を取られていたアレスタに代わって尋ねたのはイリシアだ。
一応は礼儀として敬語を用いているが、突き刺さるような声色に彼への敬意など微塵も含まれていない。
それを見越してのことか、言葉巧みに嘘をちりばめても無駄であろうと判断したブラハムはあっけなく白状する。
「今さら隠しても仕方がないからな、それは認めよう。このデビルスネークを召喚させたのは私だ。……無論、したがって君たちがこいつを退治するというのならば、すなわち私は君たちの敵になる」
そして彼からの問いかけはこうだ。
「さて、それで君たちはどうするつもりかな? おとなしく引き下がってくれるのか?」
どんな事情があれ、自分勝手な都合で村を破壊しようとする人間に肩入れする義理はない。
善良なる人々の命と財産を守るため、騎士をやめてギルドの職員となった今も自分なりの正義を貫くイリシアの返事は決まっていた。
「いえ、当然ながら危険な魔物を前にして下がるわけにはいきません。あなたとは初めての顔合わせですが、悪人であれば容赦はしませんよ」
ふーっと聞こえよがしに嘆息して、きつく唇を結んだイリシアは腰に提げていた剣に手をかけた。
すっと腰を落として姿勢を低くするや、その透き通った目がブラハムを射抜く。
悪、即、斬。
状況を理解するために理性を駆使するよりも、やや先走りつつある義憤に突き動かされたイリシアは問答無用で切りかかろうと、やや離れた場所にいるブラハムへと大きく踏み出す。
ところが、いざ――という段になって、これを実行することができなかった。
なぜなら彼女の行動を制するようにアレスタが前に出たからだ。
なにやら考えがあるらしく、イリシアにちらりと視線を送る。
「ちょっと待ってくれませんか、イリシアさん。戦う前にブラハムさんには尋ねたいことがあるんです」
「え? ええ、まあ……」
ここ最近は気まずさを覚えつつあったアレスタからの頼みとあって即座に断ることが出来ず、不服ではあってもイリシアは渋々ながら首肯した。結果として出鼻をくじかれる格好になったので、不満の一つくらいは言いたそうな目をアレスタに向けている。
それはもちろん彼を心配する気持ちもあってのことだが、それがどこまで彼に伝わっているのやら。どこ吹く風のアレスタは愛想笑いを浮かべて彼女をなだめると、すぐには手が届かない程度に距離を隔てたままブラハムの正面に立った。
当然、命知らずとも言えるアレスタの行動を怪訝に思ったのは敵として立つブラハムも同様である。
そっと持ち上げた右手であごに生えた無精ひげをなでつけながら、どこか挑発的に小首を傾げた。
「ほう、私に質問が? いいだろう、言ってみたまえ」
「……では、お聞きします。そこにいるデビルスネークの足止めに向かったという村の青年たちは? そして、この村の自警団リーダーであるエイクさんはどこにいるんですか?」
「ああ、何を聞いてくるかと思えばそのことか」
そう言って、ふふっ、と笑うように息を吐きだすブラハム。
「安心したまえ。君が心配している彼らなら一人残らず死んでくれているよ。そう時間をかけることなく、この村も壊滅するはずだ。あるいは世界さえもな」
「……なんてことを! あなたはっ!」
村人を殺すことに罪悪感を抱かないどころか、人が死んで残念がる気配さえ感じられない彼の言葉を聞いたアレスタは頭に血が上り、冷静ではいられなくなった。
怪物を足止めするために集結した青年たちは全滅したとブラハムは言ったが、彼らを全滅させたのは間違いなくブラハムの仕業だろう。直接的に手を下したわけでなくとも、デビルスネークにそれをやらせたはずだ。
なのに他人事のように悪びれることなく言った彼のことが、どうしてもアレスタには許せなかった。
正気の沙汰ではない。
ふつふつと湧き上がってくる激しい怒りに身を任せてブラハムに殴りかかろうかとも思ったが、寸前のところでアレスタは思いとどまる。彼の後ろに控えている不気味な怪物に恐れをなしたのではない。
ここで相手を殴って始まるのは喧嘩ではなく、どちらかが死ぬまで続く殺し合いなのだ。理性を失って感情的になりすぎている己の激情を抑え込むように強くこぶしを握り締めると、なんとか冷静に頭を働かせようと尽力した。
自分なりの正義があったとしても、残虐非道な手段を平気で行使する敵に対する感情的な行動というのは、必ずしも最善の結果をもたらしてくれるわけではない。
今のアレスタは未熟な魔法使いでしかなく、規格外の魔獣であるデビルスネークを味方につけたブラハムと正攻法で戦って勝てるとも思えなかったのだ。
「アレスタさん、下がっていてください。おそらく相手に話は通じません。それに、あなたは戦闘に向いた人ではありませんから。ここは私が彼らと戦います」
凛とした声でそう言ったのはイリシアだ。
背筋がすらりと伸びた頼もしい姿は、禍々(まがまが)しい怪物を前にしながら恐れを感じさせない一流の戦士としての勇ましさがあった。
命を懸けた悲壮な覚悟というものは、見る者を圧倒する説得力がある。
けれど、仲間として頼もしい存在である彼女を振り返ったまま、アレスタは言葉に迷う。
――この場を彼女一人に任せていいのか。
――かといって、今の自分に何ができるというのだろう。
自問自答するものの、なかなか答えを出せずにいたアレスタを傍目に颯爽と歩み出たイリシア。両腰の鞘からそれぞれ剣を抜き出すと、騎士だった日々に鍛錬を続けて上達した父親譲りの二刀流の構えで敵と相対する。
どちらかが動けば本気の殺し合いが始まり、結果としてどちらかが確実に死ぬだろう。
極度の緊張感を前にして息を呑み、アレスタは思った。
彼女がここまで懸命になる理由を考えたのだ。
しかし、それはアレスタにもすぐに想像することのできる話だった。
なにしろ彼女の父であるカインは十年前に同じくリンドルに出現したデビルスネークと戦った後、意識不明となって現在まで眠り続けているのである。
父の後を継いでベアマーク騎士団に入った彼女のことだ。
いろいろあって騎士団からは脱退してしまったが、こうして因縁の敵であるデビルスネークを前にして、昏睡状態となった父の無念を晴らそうと躍起になっているのかもしれない。
――だが、これでは駄目だ。
いくら剣の腕が立つとはいえ、さすがにたった一人で挑んでも勝ち目はない。アレスタの治癒魔法は確かに強力だが、その魔法の効果は自分自身に対してのみ有効であり、イリシアの負傷までは治癒することが出来ないのだ。
では、どうすれば勝てるのか。
この絶望的な状況において自分たちが安全に勝つための方法をアレスタは考えて、しかし何も思いつかず、結局は考えるよりも先に体が動いていた。
「下がるのはイリシアさんのほうです! ここは俺が時間を稼ぎます! ベアマークからの援軍が来るまで耐えましょう!」
背後から叫ぶと同時にイリシアの前へと転がるように飛び出して、マフティスが用意したギルド職員に支給されたばかりの剣を抜き放ったアレスタ。
どう頑張っても悪を退治する剣となれぬなら、あらゆる脅威から彼女を守る堅牢な盾となるつもりなのだ。
それによって自分が負傷したとしても構わない。飽きることなく何度でも治癒魔法を繰り返すことで時間を稼ごうと考えたのである。
攻撃力のない治癒魔法だけで戦うのは難しい。悪魔の怪物を退治することは実質的に不可能であり、これが最善の策であるとまではアレスタも考えていない。
悪く言えば誤魔化しでしかなく、とっさの思い付きに過ぎないのだ。
「馬鹿なことを言わないでください、アレスタさん!」
さすがに仰天したイリシアは思いとどませるべく叫んだが、馬鹿なことを考えているアレスタの背を見つめたまま動き出せなかった。
今までずっと騎士らしく勇敢であろうと意識して振る舞ってきた彼女には思いがけないことだが、突発的な恐怖によって足がすくんでいたのだ。
悪魔の怪物を相手にすれば死ぬかもしれないという恐怖。
あまりに強烈な「死」のイメージ。
しかしそれだけではない。
体を張って彼女を守ろうとしてくれるアレスタの好意を否定することへのためらいと、そんな彼を助けるための手段を思いつけない情けなさや不安もあったのかもしれない。
自分の代わりにアレスタが傷つく姿を想像すると、彼女も同じように傷つく気がした。
けれど、そう、けれど――なのだ。
彼女の身代わりになろうとするアレスタに対して申し訳なさがありつつも、勝算がなくとも彼女を庇おうとする彼の姿に少なくない頼もしさを感じており、その強さに甘えたいと願ったのも事実である。
因縁の相手であるデビルスネークを前にして決死の覚悟で心が張り詰めていたからこそ、それをやわらげてくれたアレスタの勇敢な行動が身に染みたのか。
これまで騎士として最前線に立って戦ってきたイリシアにとって、こうして彼女の身を献身的になってまで守り抜こうとするアレスタの姿は不思議な懐かしさとともに、どことなく恋焦がれるものがあった。
――あれは、幼いころに見た父さんの頼もしい姿?
――どうしてだろう、この胸の高鳴りは……?
そんな彼女の動揺など露知らず、死を前にした緊張感とともに唇を噛み締めたアレスタはブラハムをにらみつけた。
彼の後方に控えているデビルスネークはブラハムからの命令を待っているのか、先ほどから動きが止まったままでいる。
「ほほう、まずは君が相手をするのか。……よかろう、それでは死んでもらう」
誰が相手でも構わないブラハムは二人を見比べて勝ち誇った笑みを見せる。それから右手を肩ほどの高さに挙げて怪物を手招きすると、ついてこいと言わんばかりに右足を踏み出した。
無駄に長引いてしまった会話を打ち切り、いよいよ攻撃に転じようと行動したのだ。
つまり、デビルスネークに攻撃を命じるつもりで動き出したのである。
……ん?
しかし主従関係を結んだはずのデビルスネークは攻撃の合図を出したブラハムに従わなかった。
八つの顔に二つずつある瞳をすべてアレスタに向けると、なにやらもの言いたげな様子で眺めるばかりで、その場から決して動き出そうとはしなかったのだ。
ただ、すべての顔が一斉に動いた。
そして……鳴く。
――ギギイイイイイイアアアアオオオオオオオン!
威嚇や挑発ではない何か別の理由によって喉を震わせたのか、どこか沈痛さを感じさせるデビルスネークの声が搾り出されるようにして響き渡る。
人間と同じ声帯を持たぬ怪物であるがゆえに言葉こそわからないが、まるで悲しみや後悔が伝わってくるような、一口には説明しがたい不思議な感覚がアレスタを襲った。
「……なんだかおかしい。不思議だ。あの怪物、もしかして泣いているのか?」
「はっはっは。怪物が“泣く”とは、実に面白い表現をしてくれるな」
何がおかしいのか、わずかに一歩前へと踏み出しただけで立ち止まったブラハムは愉快そうに笑っている。
ちっとも動き出そうとしないデビルスネークを気にかけつつ、わざとらしく肩を揺らして微笑を浮かべるのだ。
「……ああ、いや、しかし間違ってはいないのかもしれない。ベアマークに住む君たちの顔を見て、今も街にいる最愛の人のことを思い出したのだろう。それは泣きたくなるのかもしれん」
「最愛の人? ……何を言っているんだ?」
「いや、きっと君は知らないほうがいい。知らないほうがいいし、これ以上のことは私も教えるつもりはない」
落ち着いた様子で強がって宣言したブラハムだが、内心では焦りもあった。
あくまでも虚勢である。
――私の言うことを聞かない?
すました表情に余裕の色を貼り付けながらも、無視できない大きさの冷や汗が一滴、たらりと垂れるようにブラハムの背筋を流れた。
さすがに不安を感じているのだ。
デビルスネークがブラハムの命令を無視して暴走する可能性は考えていたが、彼の命令を無視して動き出さなくなるという可能性を考えてはいなかった。まさか悪魔の怪物が単純な破壊装置としても機能しないとは予想外の展開であり、計画の大部分がデビルスネーク頼みであった彼にとっては勝算を失うほどの大きな誤算である。
だからこそブラハムは考える。
――とにかく時間を稼がなければ……。
ここに至り、図らずも両者の思惑は一致した。




