17 召喚魔法(2)
急いでいるせいで普段よりも早足になったブラハムがエイクを案内したのは、森の奥地に残された大空洞の跡地だ。
ここはブラハムとエイクが初めて顔を合わせた場所でもある。
どうして今さらになってこんなところへ――と疑問に思いながら、ついに何も言い出せなかったエイク。
すでに埋められて平原となった大空洞の前で足を止めるや、彼は緊張の面持ちを浮かべる。
今では村の誰よりも信頼するに至ったブラハムの言葉を待っているのだ。
「さて、ここは覚えているな?」
「もちろんです」
「それはよかった」
はっきりと不安そうにしているエイクを気遣って穏やかに言ったものの、あまり無駄な時間はかけられない。
遠回りの説明をするよりも、ここは手っ取り早く本題を進めてしまおうと考えたブラハムはコートの内側から一冊の手記を取り出した。
それは当然ながらエイクにも見覚えがあるものだ。召喚魔法を習得するために穴が開くほど読み込んだはずなので、わざわざ読み返さずともおおよその内容は覚えている。
エイクの祖父が書き残した召喚図鑑である。
「その手記を読んだ限り、ここにあった大空洞については祖父も最後まで解明することが出来なかったようですが……?」
何度となく読み返してみても、この大空洞については単に“通じた場所”であるとしか書かれていなかったため、魔法に関する知識の乏しいエイクはそれ以上の解読を諦めていた。
おそらく十年前に村を襲った悪魔の怪物がこの大空洞を通って出現したのだろうとは思うものの、すでに祖父や騎士団の活躍によって退治され、今ではこうして完全に埋められてしまっている。
結局のところ何がどう通じていたのか調べようがなく、手がかりさえ得られなかったエイクには理解することができなかったのだ。
「いいや、違うぞエイク。彼はしっかりと理解していた。そして自分が到達した手段を書き残していたのだ。通常の状態では読むことの出来ない、特殊な魔法を施した文字でな」
もっともらしく言い終えたブラハムは例のページを開いた状態にすると、右手で持っていた手記を見やすいように上下反対にしてエイクへと向ける。
先ほど発見した秘密の記述。
青白く光る魔法文字が浮かんでいるページだ。
「これは……。驚きました。こんな記述があるなんて僕も知りませんでした」
「うむ、そうだろうな」
エイクの返事など最初から期待していなかったかのような冷たい態度でため息を漏らすと、パタンと音を立てて手記を閉じたブラハムは目の前に広がっている荒れ果てた平原へと視線を向ける。
自然の中にうずもれるように、すでに村人からは忘れ去られているであろう大空洞の跡地。
道に迷って森に入った旅人が偶然これを見つけても、それが何を意味するのかなど決して理解することはできないであろう。
「これは大事な話だ。……だからエイク、最後まで耳をふさがずに聞きなさい。十年前のあの日、この村を襲ったデビルスネークは地底深くから蘇ったのではない。君の祖父が召喚したのだ」
「……まさか。僕の祖父が意図的にデビルスネークを召喚したというのですか?」
ここに連れられてきた時点で覚悟していたとはいえ、因縁の怪物であるデビルスネークの名を聞いたエイクは軽いめまいを覚えた。記憶の奥底に閉じ込めている十年前の惨劇を思い出してしまいそうになったからである。
いや、それだけではない。
恐怖の元凶であるデビルスネークが、よりにもよって彼が尊敬する祖父によって召喚されたなどと言われたのだ。さすがのエイクも子供のころから憧れてきた祖父のことを貶められたようで不愉快に思ったらしく、同じように師匠として尊敬しているブラハムの前だということも忘れて、あからさまに不快げな態度で眉をひそめた。
言葉にはしないが、初めて見せる反抗的態度だ。
頭で考えるより先に、感情論でブラハムの意見を拒絶しようとしたのである。
それでもブラハムは真実を告げる行為において容赦はしなかった。
それは彼なりの優しさなのか、あるいは単純にエイクの心境を考慮している余裕がなかっただけなのかもしれない。
「うすうす気がついていたのだろう? こんな寂れた農村に、デビルスネークと呼ばれる神の域にも等しい怪物が自然発生するわけがない、と。もしそれが人の手によって意図的に出現したものなら、そんなことができるのは優秀な召喚魔法を使いこなしたという君の祖父しか考えられない、と」
デビルスネークとは、伝説上に名を残す悪魔の怪物である。
真偽不明な村の伝承によれば、数百年前にも人界に現れたデビルスネークは暴虐の限りを尽くし、その討伐に何人もの著名な魔法使いが駆り出されたといわれるほどだ。
そんな伝説級の怪物であるデビルスネークは、もちろん普通の召喚獣と同じような扱いで呼び出すことができない。名だたる世界中の召喚師を集めたところで簡単には召喚できなかっただろう。
だが、たった一人だけ、エイクの脳裏には、ひょっとすると悪魔の怪物でさえも召喚することが可能であったかもしれない人物の顔が浮かび上がっていた。
十年前、一部には世界最高の召喚師と呼ばれながら、その世間的な評価をまったく意に介さず、こんな寂れた農村であるリンドルに生涯の住処を構えた人間。まるで世捨て人のように篭りきって外世界と交わらず、その生涯を閉じるまで召喚魔法の研究と修練に己のすべてを注ぎ込んだ人物……。
敬愛する祖父を疑うなどエイクは認めたくなかったが、一方では客観的に理解していた部分もある。デビルスネークが祖父の手による召喚獣であったかもしれないとする可能性も完全には否定できない。
小さなころから尊敬してやまなかった祖父の存在は、彼の死後も、他にすがるもののなかったエイクにとって大事なものだった。だからこそ、今も心の大部分を占める祖父の名誉のため、エイクは自分にとって不都合な真実を否定しようと考えた。デビルスネークが出現した別の理由がないかと必死に探し求めた。
しかし依然として厳しい表情を浮かべるブラハムは彼の言葉を待つことなく、一度は閉じていた手記を再び開いた。
そして青く輝く文面に目を落とす。
「エイク、残念ながらここに詳細が書いてあったよ。彼が最後に召喚しようとしたもの、その意図、そしてそれを可能にする方法のすべてが、こうして血の封印によって秘匿されたページに書かれていたのだ」
「すべてが書かれていただなんて、そんな馬鹿な……!」
「気持ちはわかるが落ち着きなさい。私が嘘を言っているかどうかは実物を読めばわかる。ほら、自分の目で見てみるといい。この字、この文章、そして解説の仕方。君の祖父の筆跡で間違いないだろう?」
我慢することが出来ず、恐る恐るページを確認したエイクは頷くしかなかった。本音を言えば信じたくなかったが、自分の目で確認した限り間違いなく祖父の字であり、その文章をブラハムが偽装したと考えるには難しいものがあった。
エイクにしてみても、心の奥底では、やはり祖父がデビルスネークに関する重大な秘密を知っていたに違いないと考えていた。
そんなエイクを前にして、ブラハムは手記に書かれていた文章を声に出して読み上げる。
十年前にデビルスネークが召喚された真相と彼の祖父の胸中を語り聞かせることによって、このままエイクを精神的に追い込むつもりなのだ。
当然、追い詰める先に待っているのはデビルスネークの召喚だ。
つまりブラハムはエイクに祖父の意志を受け継いでもらいたいのである。
そしてそれこそ、反魔法連盟の主義者であることを隠して放浪の魔法学者であると名乗った彼が、リンドルに滞在して成し遂げたかったことであった。
祖父の書き残した文章を読み終えたブラハムは音も立てずに手記を閉じ、考え込んだまま複雑な顔をしているエイクに目を向けると、指導者としての立場で語りかけた。
「いいか、エイク。結果としては裏目に出てしまったのかもしれないが、彼は究極の召喚魔法によって、あらゆる脅威から世界を守ろうとしたのだ。不平等な魔法が猛威を振るう世界、人類を導く神が不在のまま荒れ果てた世界に、秩序の象徴となる新しい神を誕生させようとしたのだ。その気高き彼の想いを、理想の世界を実現する唯一の術を、今こそ引き継いでみないか?」
「それは……」
どう答えてよいものかと、渋る様子を見せるエイク。
まだ決心が付かないらしい。
――突然のことだ。悩むのだって無理もない。
――しかし無理をしてもらわなければ困る。
落ち着き払った様子とは裏腹にブラハムは焦っていた。
それもそのはず、ベアマークの騎士団がブラハムの存在をかぎつけてリンドルに到着すれば、ブラハムにそそのかされたエイクがデビルスネークを召喚しようと決意しても、もはや状況がそれを許さないだろうからだ。
自警団のリーダーであるエイクにはサラという騎士の知り合いがいる。しかもエイクは彼女のことを愛しているようなのだ。
この機会を逃せば最後、エイクは素性の知れないブラハムではなく、頼れる騎士として付き合ってきたサラの言葉を信頼するようになるだろう。
もしも彼女がブラハムを反魔法連盟の主義者であると疑えば、サラを愛してやまないエイクは彼女の考えに同調して、もう二度と彼を信頼しなくなるであろうことは想像に難くない。
「聞いてくれ、エイク。召喚師である君の一族に流れる血筋によってデビルスネークが召喚されるのは、少なくとも君の祖父に続いてこれで二度目だ。召喚魔法は経験と反復によって強化されるのだから、今度こそ上手くやれる。ここには私もいるのだから、もしものときは力になろう」
「確かに、この手記に書いてあった通りに祖父が自分の命を犠牲にしてデビルスネークとの契約を結んだのが事実だとすれば、僕の力でも成功する可能性がないとも言い切れませんが……」
「そう、挑戦しなければ成功もない。成功がなければ、いつまでたっても術は完成されず未熟なままだ。安心しろ。失敗しても私がいる。君の祖父がたった一人で召喚に踏み切った十年前とは状況が違うのだ」
「……ですが」
ここにきて後ろ向きな弱音なんて聞きたくないと、ブラハムは首を横に振る。
「急ごう、エイク。すでに街では暴徒が爆破魔法によって人々を恐怖の淵に陥らせている。そのことは先ほど説明したはずだ。時間はあまりない」
「先ほど報告を受けてから、結構な時間が経過していますしね」
「それに今回だけのことではない。ここで暴徒に対して騎士団が苦戦することがあれば、こんな危機がこれから先も延々と繰り返されるだろう。特にベアマークは高度魔法化都市として本格的に開発される計画がある。それはつまり、魔法化都市として生まれ変わったベアマークの騎士団は、将来さらに強大な魔法の脅威にも立ち向かっていかなければならないということだ」
「さらに強大な魔法の脅威……」
「そうだ。それを今の段階から抑止するためにも、ベアマークの平和を守る存在が騎士団だけでなく、彼らに協力する天才的な召喚魔法使いである君がいるということを広く世間にアピールするべきなのだ。優秀な召喚師の守る街を襲おうと考える愚か者はいないからな」
「もしも悪魔の怪物と呼ばれるデビルスネークを召喚獣として使役することが出来たなら、それは確かに暴徒を威圧することが出来そうではありますが……」
ベアマーク騎士団の協力者にデビルスネークを使役するほどの召喚師が存在するのだと一般に知れ渡れば、悪魔の怪物を恐れる人々は、今後ベアマークでの犯罪や組織的な反乱を企てようとは考えなくなるだろう。
格が違いすぎるのだ。
いや、あるいは帝国中から犯罪者を駆逐することすら可能になるかもしれない。
「しかし……」
そんな希望的観測に近い期待を抱く一方で、それほどの怪物を自分の召喚魔法で扱うことが出来るのかという大いなる不安がエイクの決断を鈍らせていた。
もしも十年前の祖父と同じように失敗することになれば、今度こそ取り返しのつかない被害が発生しかねない。リンドルだけではなく、最悪の場合には帝国各地を悪魔の怪物が襲ってしまうだろう。
いつまでたっても煮え切らないエイクの消極的な口ぶりに焦りと苛立ちを感じ始めていたブラハムは、召喚に踏み込めない彼に自信を持たせようと画策した。
「おそらく君の祖父は、自分の血がつながっている君に期待していたのだ。だからこそ、万が一の場合に備えてこのような記述を残したのだろう。……彼は君に伝えようとしていた。それを受け継ぎ、実行させてこそ、君は誰にも恥じることのない一流の召喚師となれるはずだ」
――そして召喚師として祖父を超越しよう。
優秀だった祖父を超越する。
エイクにはその言葉が魅力的に聞こえた。
祖父にも扱えなかった召喚魔法を習得することが出来たなら、なかなか自信を得られなかった自分にも胸を張って誇れる何かが、そして最も愛する人を守るための力が手に入るに違いない……。
己の存在が肯定されるのだ。
悪魔の怪物を自分の手で召喚する、ただそれだけで――。
「それは、しかし……」
唇を噛み締めてエイクは言葉を飲み込んだ。何をするにも考える時間が不可欠だった。
広く勇名を馳せるほどの召喚師として生きた祖父が、その死を目前にしてたどり着いた究極の答え。
それは、いつまでたっても無益に争い続ける人間を正しく統べるため、新たに絶対的な秩序を作り上げること。
世界の秩序を守る存在である神の代理として、神の域にも達する魔獣デビルスネークを召喚し、世界の人々の上に君臨させることだったという。
召喚された悪魔の怪物は恐怖の力によって世界を統治し、自らの命を代償に契約した祖父の死後も変わることなく、いつまでも世界に平穏をもたらし続ける予定だったとでもいうのだろうか。
けれど、どうしてもエイクにはわからなかった。
デビルスネークは人々に畏怖される存在に他ならず、その怪物を逆説的に平和のため利用しようとする祖父の考えは突拍子もないものに感じられた。あるいは天才的な素質を持っていた祖父には実際に可能だったのかもしれない。
しかし十年前の事件は記憶に新しい。現実には失敗したのだ。
善か、悪か。
深みにはまって頭を悩ませたエイクがいつまでも答えられずにいると、さすがに痺れを切らせたのか、先走りつつブラハムが口を開いた。
「私が知っている限り、召喚師の多くは己の召喚魔法を攻撃手段のために用いる。しかしそれは、たとえば騎士が平和のためと言って武器を手にするのと同じ理由だ。決して暴虐のためではない」
「はい、それはそうでしょうね」
「うむ。魔法使いが世界の半数を占めた現在、魔法の力で誰もが簡単に平穏を破壊することが可能となったがゆえ、必然的に不安と恐怖が蔓延して殺伐としがちな時代だ。だからこそ、危険な魔法使いを抑止する手段のある人間は正しい知性と力を持って人々の上に立ち、世界を平和へと導かねばならないのだ」
息巻いたブラハムは一歩だけ踏み出すと、さらに鼓舞するように言った。
「たとえば君の愛する人が騎士として剣を手に命がけで戦っているとき、それ以上の力を秘めているかもしれない君は自信がないからといって、その召喚魔法を眠らせているつもりか? このままずっと召喚師として二流のままでいいと考えているのか?」
ここまで言われては、さすがに思うところがあったのだろう。
こぶしを握り締めたエイクは答える。
「いいえ、それだけは……!」
どうしても彼は黙っていられなかった。
今までも歯がゆい思いは何度となく味わってきた。自警団リーダーでありながら満足に召喚魔法を使いこなせず、悔しさと劣等感をいやというほど募らせてきた。
周囲の人間から無能だと馬鹿にされても黙るしかなく、自分が努力を続けてきたことについて、己の実力で証明することが一度としてできなかった。
自分を含めた何もかもを、もしも見返すチャンスがあるのなら――。
ふつふつと湧き上がる高揚感でエイクの唇は小さく震えた。
あと一押しだろうと見たブラハムは、どこまでも優しい表情を浮かべて問う。
「なら、できるな?」
その問いを受けて、つばを飲み込むと同時にエイクは自分の左腕を確認する。デコルギウスによって負傷したばかりの左腕だ。そこには応急処置の魔道具である白い包帯が、べっとりと血に染まった状態で巻きつけてある。
もしもデコルギウス以上の強さを誇るデビルスネークの召喚魔法に失敗すれば、これ以上の代償を支払うことになりかねない。命すら失いかねないのだ。
しかし、それでも彼は決断する。
いつまでも未熟な人間でありたくはなかった。
強くなるためだ。愛する人を守るためなのだ。
「できます。僕はやります」
「よし、その言葉を待っていた」
満足そうに答えたブラハムは手記を読みながら、デビルスネークを召喚するための準備を進めた。
その最後には手記に書いてあった召喚の手順に従って、エイクに一つの行為を要請した。それを承諾したエイクは間違えないように慎重に、今は使用されていない古代文字による文章を、自分の血をにじませた人差し指で全身に書き付けていく。
古代文字など一度も勉強したことのないエイクはブラハムの指示に従っただけであり、その文章の意味を知らない。
しかし意味を理解しているらしいブラハムが急がせるので、疑問に思いつつもエイクは従うしかなかった。
「これは、どういう意味の呪文ですか?」
「難しく考えることはない。これは魔法陣の一種みたいなもので、君の祖父が結んだというデビルスネークとの契約の証だ。……さあ、書き終えたなら平原の前で召喚魔法を発動させよう」
「わかりました」
説明されないことに釈然としない心のもやもやが残るものの、言われたとおりにエイクは深く考えないことにした。それよりも目の前の課題、つまりデビルスネークの召喚に意識を集中しようとしたのだ。
ひとまず準備ができたエイクは精神果樹園を開いて、召喚魔法を発動する姿勢に入る。
いつもとは次元の異なる上位の召喚獣を迎えるのだが、そのために必要な魔法自体に特別な違いはないという。
当然ながら緊張もあったのか、いつもより慎重に頃合を見計らう。
普段よりも熱のこもった勇ましい声を意識して、その名を高らかに唱えるエイク。
「我の召喚に応じて顕現せよ、混沌の覇者デビルスネーク!」
そして呼応するようにひらめく一筋の雷鳴。
裂けるほどに激しく時空が震え、強大な魔力が一箇所に集まって轟く。
徐々に姿を現しつつある、ただならぬ気配を察知して、召喚魔法の成功を確信するエイク。
やがてそこにはデビルスネークの巨大な姿が出現するはずだ。
ところが、己の召喚魔法が成功した喜びを享受することはエイクには許されなかった。
結局そのまま最後の瞬間までエイクには知らされなかったが、彼自身の血によって全身に記された古代文字の意味は、現代の言葉に直訳するとこうなる。
――召喚のため、我の命を捧ぐ。
それはデビルスネークを召喚するための代償として、術者本人の自己犠牲を誓う一文である。
簡単に言えば生贄だ。
「う、うわああああ!」
恍惚と愉悦の感情に浸るブラハムの目前で、エイクの全身が黒々とした炎に包まれた。




