16 召喚魔法(1)
あまり有名なものではないが、魔法的な性質を秘めた植物の根から採取される「フレゴニアス」という液体がある。やや粘り気のある濁った茶褐色の液体だが、通常、それはそのままでは使い道がない。
しかし役に立たせることは簡単であり、まずは水に濡れても破れない紙を用意して、長時間かけてゆっくりとフレゴニアスを染み込ませるだけでいい。フレゴニアスの魔力を帯びた紙は、ただそれだけでフレゴニアス・レターと呼ばれる魔道具となるのだ。
その使い方も簡単だ。ちょうど半分あたりで切り裂いたフレゴニアス・レターは魔力によって連結されたペアとなり、どちらかの紙面に書かれた文字が自動的に転写されるようになるのである。
たとえば二枚に裂いた紙を二人の人間が一枚ずつ持っているとする。どちらか一方が紙面に「おはよう」という文字を書き記すと、もう一方の人間が持つ紙の表面にも「おはよう」という文字が浮かび上がるのだ。
実際に利用する際には距離的な制限があるものの、それほど離れていない場所同士の連絡手段として使うのならば現代でも十分に通用する。連絡を取り合う際に第三者が関わる郵便などに比べれば、純粋に魔法のみで通信するフレゴニアス・レターは秘匿性に優れた魔道具であろう。
したがって、普段から隠れるように活動する反魔法連盟などの反社会的組織が、古来より好んで使用する悪名高き魔道具ともなっている。
「ふむ……」
手持ちのフレゴニアス・レターに新しく追加された情報に目を通した男が一人。リンドルに滞在する魔法学者のブラハムだ。
緊急連絡を受けた彼は先ほどから苦々しく唇を噛み締めており、普段の落ち着いた様子からは想像もできないほど焦っていた。
「どうやらベアマークで同志の一人が行動を先走ってしまったらしいな。このまま彼が騎士団に捕らえられ、動機や身元について詳しく取り調べられれば、おそらく彼に関連する私の素性も発覚するだろう。こうなってしまった以上、いつまでも魔法学者の仮面をつけて村でのんびりしているわけにもいくまい……」
――これで遊びの時間は終わりだ。
一人そっと吐き捨てるように呟いたブラハムは証拠隠滅とばかり、読み終えたばかりのフレゴニアス・レターを解読不可能になるまで破り捨てた。ばら撒かれた数々の小さな紙片は、ひらひらと落ちて地面に触れるという直前、温度のない炎に包まれる。
細かく引き裂くと魔術的な反応によって発火して、灰すら残さず跡形もなく消滅してしまうという、フレゴニアス・レターの秘匿性に優れた性質による現象だ。
「より完璧な結果を望むならば時期尚早ではあるが、騎士団にこちらの計画を見抜かれる前に動き始めるならば今しかないか……。リンドルに滞在している私の存在もすでに知られているとすれば、準備を整えた騎士たちがベアマークを出て村に到着するまで、あまり猶予はないかもしれない」
同士の一人がベアマークで暴走した以上、ゆっくりと時間をかけて目的を果たすつもりだった慎重派のブラハムは自らに迫る危機を察知した。
今まで彼は反魔法連盟の主義者であることを周囲に隠して行動してきたものの、彼が望まない形で状況が動いてしまったからには、どうしたって方針を変えざるを得ない。
ここに至って彼が選んだ結論は、ひそかに進めていた計画の前倒しだ。
表向きは魔法学者や自警団の顧問として、優しくも厳しい態度で熱心に面倒を見てきたリンドルの青年召喚師エイク。
何も知らない彼を利用するならば、もはや今しかないと判断したのである。
「エイク、どうやら緊急事態だ」
「どうされたのです?」
「先ほどベアマークに暮らしている知人から私のもとへと連絡が来た。なんでも、街で反魔法連盟の主義者による大規模な暴動が発生したらしい。中でも爆裂魔法を得意とする主義者は手ごわく、対処に当たっている騎士団も手こずっているようだ」
「それは心配です。……大丈夫でしょうか?」
信頼するブラハムの口から街の状況を伝える報告を耳にしたエイクの目に、明らかな不安の色がともる。村を守る自警団リーダーとして、街で発生した暴動がここまで飛び火しないかと心配しているのだろう。
本来であればとっさに励まして、悪い予感に顔を曇らせているエイクを導く立場にあるブラハム。
しかし胸に一物ある彼はエイクの不安を煽るように答えた。
「……大丈夫ではないかもしれないな」
「どうして、そう思うのですか?」
いかにも大変な問題がありそうな様子で言われたのだから、師匠として彼のことを信頼しているエイクが心配になるのも無理はない。
眉根を寄せたエイクは不安を隠せないでいる。
「ああ、いや。実はな、すでに数人の騎士が主義者の起こした爆発に巻き込まれて負傷したらしい。そこには女性の騎士もいたという。おそらく過激派の仕業だな。残念ながら私はそう聞いている」
「じょ、女性の騎士もですって? そんな!」
爆撃によって女性の騎士が負傷したと聞いて、思わずサラの顔が頭をよぎったのだろう。
誰よりも大切に思う彼女の身を案じて街へ駆け出そうとするエイクだったが、その腕をブラハムがつかむ。
「待ちたまえ、エイク。今の君が街に行っても役には立たない。それどころか、かえって足手まといになりかねないではないか。……そうだろう?」
「そ、それは……」
もごもごと口ごもったエイクだが、もちろんそれは本人としても自覚している。
己の未熟さを正しく理解していたからこそ、これまで日々の鍛錬を怠らなかったのだから。
たとえ急いでベアマークへ向かったとしても、今のエイクでは力不足である。満足に召喚魔法を使えないとなれば騎士団の役に立てる保証はない。
「……で、ですがっ!」
とにかく何か言い返そうとして口を開くが、しかしそれ以上は上手く言葉にすることができない。
力強い言葉を続けるほどの自信や根拠が彼に存在しなかったのだ。
なんとかしたいという衝動ばかりがエイクの心を騒ぎ立て、すぐにでも街に行くべきだと体を突き動かそうとするものの、実際に動き出すことはなかった。
もどかしさもあり、その場で力なく目を伏せたエイクは静かに唇を噛み締める。
己の無力さを痛感してのことだ。
結局のところ、今の彼にはどうすることもできない。
会話が止まり、息苦しいほどの沈黙が二人を包み込む。無言のうちに、エイクは街へ行くことを諦めるようにブラハムから説得されているかに思われた。
「……ふふ、わかっているさ」
ところが、意外なことにブラハムは柔らかい口調で語りかけた。
何事かと耳を疑ったのだろう。うつむいていたエイクは驚いて顔を上げる。
そのすがるような目を見て、まさしく期待通りの反応だとブラハムは微笑む。
「もちろん、一刻も早く街へ向かいたい君の気持ちだって理解しているつもりだ。このまま何もせず、遠くから事態の収束を待っているべきだと言うつもりはない。リンドル自警団の顧問としても、君個人の師匠としてもね」
「ブラハムさん……!」
今の今まで落ち込んでいたはずのエイクだったが、自分にも何かできるかもしれないという希望を得られたことが嬉しかったのだろう。ずっと前から欲しかった念願のおもちゃを与えられた子供のように目を輝かせる。
飼い主に従順な犬のような目を向けているエイクは己の主君を疑うことを知らず、師匠となった彼に対して全幅の信頼を寄せていることがうかがえた。
あたかも操り人形のように。
――真面目であるがゆえに単純だ。扱いやすいな。
胸中で思ったことは口にも表情にも出さず、心優しき指導者としてのブラハムはエイクをなだめながら語る。
「とにかく聞いてくれ。実は先ほどベアマークから受けた連絡には続きがある。魔法学者としての私に騎士団から依頼が来たのだよ。街に現れた主義者をなんとかしてほしいとね」
「ベアマークの騎士団が、わざわざ村にいるブラハムさんに救援を求めたということですか?」
ああ、と頷いてブラハム。
「街で暴動を起こしている主義者は非常に強力な爆破魔法を駆使するらしく、生身の人間が立ち向かうには厄介な相手らしい。騎士団が対処に苦慮するほどだ。もちろん魔法に詳しい専門家の私でも苦戦するだろう。そこで君の召喚魔法の出番というわけだ」
「ええと、つまり、僕の召喚魔法を使うのですか……?」
「そうだとも。君の召喚獣を使って主義者を制圧するのが一番安全な方法だろうからな。……同意してくれるね?」
「はい、もちろんです!」
とは即答したものの、それから一瞬と待たず顔色を曇らせるエイク。
自分の力が必要とされて嬉しい反面、それとは別に重大な心配事があるようだ。
「……ですが、騎士団が苦戦するほどの相手となれば、今の僕が扱うことの出来る召喚魔法で役に立てるでしょうか?」
「なるほどな。強い魔法使いを相手にして、自分の未熟な召喚魔法が通用しないかもしれないと考える君の不安はもっともだ。しかし――」
せっかくエイクが乗り気になってくれたのだ。ここで簡単に諦めてもらうわけにはいかない。
魔法学者でありながら魔道具に頼らなければ何一つ魔法を使うことのできないブラハムにとって、すでに騎士団に追われる立場となっているかもしれない現在の状況は最大級の窮地だ。少しくらい無理をしてでも弱気なエイクを奮い立たせるしか対抗する手段は残されていない。
あるいは最終的には戦わずして逃げるにしても、その前に上級の召喚魔法を発動してもらわなければ、今までの滞在期間がすべて無駄になってしまう。
もちろん、一縷の望みとしてエイクに多大な期待を寄せているブラハムにしてみても、未熟な召喚師である彼の実力は承知している。ブラハムが心から切望する最上級の召喚魔法が成功する公算は限りなくゼロに近いだろう。
けれどブラハムは賭けてみることにした。
まがいなりにもエイクは優秀な召喚師であった祖父の血を引いているのだ。
通常の状態を上回る熱意や集中力を込めれば、高度な魔法を発動するための秘められた能力が覚醒する可能性もわずかながら残されている。
ようやく……といったところで、ブラハムはこれまで一人で考えてきたことをエイクに提案する。
決して安易に首を横に振らせないように。
それしか方法はないとでも言いたげな重々しい雰囲気で。
「君の胸中に不安があろうとも、やってみなければ仕方がない。結果とは挑戦して初めて得られるものだ。とりあえず今の時点で出せるものの中で、最も強力な魔獣を召喚しようではないか。いいな?」
「はい、挑戦してみます。街が大変な状況なのです。自信がないなどと言っていられません」
「うむ、無事に召喚が成功することを祈る。いや、どうか成功させてくれ。……違うな、ここはこう言っておこう。君ならば必ず成功する。どんな召喚魔法だろうが、間違いなく」
「……はい!」
心から尊敬する師であるブラハムの口から必ず成功すると力強く保証されたためか、いつまでも弱音を吐いているわけにもいかないと考えたエイクは気を引き締める。
もっとも、それは単純にブラハムの信頼に応えるためというだけではなく、街や村の平穏を守るためでもあり、それ以上に、愛するサラの力になりたいと思ってのことでもある。
――サラ、どうか無事でいてくれ。
サラの身に何事もなければいいと願う一方で、美しいほどの正義に憧れるエイクは彼女にとっての頼れる騎士となれる日を夢に見てもいた。
――僕の召喚魔法で街の危機を救ってみせる!
愛する者の窮地に颯爽と駆けつける。
現実味のない気取った夢だと他人から笑われようが、エイクは今こそそれを実現できるチャンスなのかもしれないと、不謹慎にも期待していたのも事実である。
しかし、いつまでも夢物語に酔っている余裕はない。
くだらない妄想を振り払うべく軽く咳払いしたエイクは広場の中心に向かうと、肩幅ほどに両足を広げて立ち止まり、右手を前に伸ばす。
それから目を閉じて精神果樹園を開くと、ゆっくりと瞑想を始めた。
今までに経験したことのない、彼にとって最大規模の召喚魔法だ。
周囲に超常のエネルギーとして漂う魔力の流れが目には見えない風となり、凄まじい音を立てながら彼の呼びかけに反応する。
鮮やかにきらめく光の奔流が、あるいは音や熱といったものが、術者であるエイクの指し示す前方の一箇所を中心にして激しく渦を巻き始める。
ここまでは順風満帆。集中できているからか、とても調子がいい。
魔力の流れとタイミングを見計らって、ここぞとばかりに勇ましく彼は叫ぶ。
「いでよ、デコルギウス!」
瞬間、精神果樹園の果実が大量に弾け飛ぶとともに召喚魔法が発動した。
あたかも落雷が直撃したかのような衝撃が走り、裂けるほどの力で目の前の空間が激震すると、直後にはそこに一体の召喚獣の姿があった。
エイクの二倍はあろうかという巨大な体だ。頭部には牙のように伸びた二つのまがまがしい角があり、焦げ茶色の剛毛が全身を覆っている。荒々しい呼吸と血走った野性味のある両目が、その猛獣が内に秘めているであろう溢れんばかりの闘争心を否応なく教えてくれている。
たとえるなら、それは二足歩行する巨大なイノシシ。
祖父の記した召喚図鑑に載っていた、暗黒獣デコルギウスである。
「やった、成功した……! やりましたよ、ほら見てください!」
今まで一度として成功したことのなかった高位の魔獣を召喚させることができたのだ。達成感と興奮は並大抵のものではなかったのだろう。
その場で飛び跳ねそうなほど無邪気に喜びを表現するエイクは、まるで年端も行かぬ少年である。
だが、難しい召喚魔法に成功した彼の成長を褒めていいはずのブラハムは首を横に振り、喜ぶどころか険しい表情を見せる。
「まだだ、まだ油断するな! エイク、そいつから目を離すな!」
「――えっ?」
「グシャアアアアッ!」
それは大地を揺らすほどの咆哮。デコルギウスの雄たけびだ。
ただの威嚇ではない。それは直後の行動に現れる。
召喚されたばかりの魔獣デコルギウスは獰猛な目を輝かせ、本来は主従の関係にあるはずのエイクをひとにらみすると、問答無用で襲い掛かってきたのである。
まるで絶好の獲物を見つけたかのように、嬉々として、荒々しく息を弾ませながら巨体が動く。
ヴォルフなどとは違い、相手は高ランクの魔獣だ。
上から下へと素早く動いた単純な腕の一振り。
たったそれだけの攻撃で、生身の人間なら致命傷を負いかねない。
――すぐに逃げなければ危険だ。ただちに逃げなければ……!
常識的に考えれば、これほどの魔獣との戦闘経験がないエイクにとっては命の危機である。すぐにでも逃げ出すべきだと頭の中では思いつつも、予想外の事態に驚いたエイクはどうすることもできず、情けないことに腰を抜かして倒れこんでしまった。
ぎこちなく足が震えて立ち上がることも出来ないまま、すっかり狼狽して叫ぶことしかできない。
「どうした、デコルギウス! 僕はお前のマスターだぞ! やめないか、デコルギウス! お前は召喚の主である僕に歯向かうというつもりかっ!」
だがデコルギウスは従わない。
魔獣を顕現させることは成功したが、それを使役することには失敗した。
すなわち不完全な召喚魔法である。
呼び出した魔獣が悪いのではなく、召喚師としてのエイクの未熟さが原因だ。本来ならば従順な使い魔として召喚されるはずだったデコルギウスを制御することが出来ず、このような暴走を許してしまったのである。
誰に命じられる必要もなく、魔獣は本能的に人間を襲う。
高ランクの魔獣になれば凶悪性も増す。
そもそもデコルギウスは召喚そのものよりも、召喚後に使役することのほうが何倍も難しい。よく読めば祖父の手記にも注意書きがしてあった通り、とても扱いにくい危険な魔獣だったのである。
「……期待していたのは事実だが、さすがに無理があったか」
中途半端に終わった召喚魔法の結果を見て、意気消沈した様子で言ったのはブラハムだ。
凶暴な魔獣に襲われている状況だけに、切羽詰った精神状態であるエイクの耳には届かない。もし彼の耳にブラハムの落胆した言葉が届いていたのなら、師匠に見限られたと知って絶望の淵に叩き落されていたことだろう。
この瞬間にもすがるものがあったエイクは幸運だったといえなくもない。
「た、助けてください!」
地べたに尻餅をついたまま、顔だけで振り返って助けを求めるエイク。
その視線の先に立っていたのは思案顔のブラハムだ。
恐怖のあまり必死な形相を浮かべるエイクと目が合ったブラハムは我に返って駆け寄ろうとするが、手を差し延べられるほど近くまで来たところでピタリと立ち止まった。
――待て、私はどうしてエイクを助けようとしているのだ?
という、ささやかな疑問が脳内を駆け巡ったためだ。
村の部外者であったブラハムにしてみれば、エイクに肩入れしてきたのは己の野望のため、彼に完璧な召喚魔法を習得させたかったからであった。
それが失敗に終わったと判明した以上、あえてエイクを助ける意味があるのかどうか、わからなくなったのだ。
「うわぁっ!」
耳をつんざくエイクの悲鳴が響く。
鋭い爪を振り下ろしたデコルギウスの一撃を食らったのだ。
大事な頭部を庇うようにとっさに左腕を出して、かろうじて致命傷を避けられたものの、強力なデコルギウスの攻撃によってエイクの左腕は血を吹いて感覚を失った。
助けようとして彼の近くで立ち止まっていたせいだろう。ブラハムは左腕を負傷したエイクの血を浴びる。
鼻をつく血の生々しさが、鈍っていた彼の思考を復活させた。
「とはいえ、見殺しにするわけにはいかんな!」
叫んだブラハムは懐から葉巻状の魔法式炸裂弾を数本取り出すと、なおもエイクに襲い掛かるデコルギウスに狙いを定めて投げつける。
瞬間、いくつかのきらめきが走る。
小規模な魔法爆発だ。
「グガァァァッ!」
本来ならこの程度の攻撃で足止めできるような魔獣ではない。人間相手に無敗を誇る魔法剣士でさえも苦戦するほどの強さを秘めている怪物なのだ。
しかしこれもエイクの召喚魔法が未熟であったためであろう。ブラハムの投げつけた魔道具を受けたデコルギウスはあっけなく消滅した。本来の強さを発揮する完全な状態での召喚ができていなかったのだ。
とはいえ、これは結果的に不幸中の幸いであったといえないこともない。そう考えて苦笑したブラハムは肩をすくめるしかなかった。
そんな複雑なブラハムの心情など露知らず、当面の脅威から解放されたエイクは盛大に胸をなでおろす。
「――か、はぁ、助かりました……。ありがとうございます」
「いや、礼はいらない」
意識してのことではないが、少しだけ冷たく言い放ったらしい。
それを己に対する叱責だと理解したのだろう、恥ずかしさもあってエイクは身を縮こまらせた。
だがブラハムはすでに別のことを考えていた。
期待していたエイクの召喚魔法がうまくいかなかった以上、騎士団の襲撃に備えて次なる行動に出なければならない。このまま村にとどまっていてもいいことはないし、これ以上エイクを利用しようとしても無駄なのだ。
もちろん次なる行動の選択肢の中には、今すぐにでも一人で村を出て、どこか遠くへと逃げ隠れる手段も含まれていた。
何もかもを捨てて逃げる、なんとも消極的な決断だ。
「とにかく、これを傷口に巻いておきなさい。応急処置に役立つ携帯用の魔道具だ。さすがに大きな負傷を一瞬で完治させるほどの効力はないが、それでも止血と消毒くらいには効果があるだろう」
「助かります」
ブラハムが取り出した包帯のような長い布を受け取ると、エイクはそれを負傷した左腕に巻きつけた。フレゴニアスとは別種の植物から採取された液体が染み込ませてある特別製だ。
あらゆる傷を一瞬で治してしまう治癒魔法ほどではないが、その人間がもつ本来の自然治癒能力を促進させる程度には効果を発揮する。
つまり擬似的な治癒魔道具である。
そのおかげか、少しずつエイクの左腕から痛みが引いていく。大量に血が出たとはいえ、腕が切断されるほどの傷ではなかったという幸運もあっただろう。
「あとで病院に行くといい。それは怪我を治癒するというよりは、一時的な麻酔に近い効果だ。きちんとした治療を受けなければ、最悪の場合には傷が悪化して腕を切り落とす羽目になりかねない」
「わかりました」
「気にするな。私も気にしていない」
――これでおしまいか。
心の中でつぶやいたブラハムは少しだけ名残惜しげに、なんとなく脇に抱えていた手記を取り出してパラパラとページをめくっていく。
デコルギウスによってエイクが負傷した際に飛び散った血か、あるいは応急手当の際に付いた血であろう。彼の祖父が書き残した召喚図鑑である手記はエイクの血で赤く染まっていた。
読めないほどではないが、貴重な書物を血で汚してしまってもったいないと思いつつ、どうせもう使うことはないから構わないだろうとも考えるブラハム。
そんな調子で特に意味もなくページをめくっていたときのことである。
「む? これは……」
たまたま目に留まったページ。
見慣れたはずの古ぼけた手記を眺めていて、ブラハムは驚愕した。
今まで何も記されていないと思っていた白紙のページに、ほのかに青白く輝いた光文字が浮かび上がっていたのである。
それはエイクが流した血の色に染まっているページであった。
――まさか己の血族にのみ閲覧を許すため“血の封印”を施していたのか?
――なるほど、どうりで私一人で調べてもわからなかったわけだ……。
どうやらエイクの祖父は自身の血を受け継ぐ者にのみ極秘の召喚術を伝えようと考えていたらしく、一族の血が触れたときにのみ文章が浮かび上がる血の封印を手記に施していたのである。
彼の孫であるエイクの血が染み込み、秘匿されていた記述が浮かび上がったのだろう。
それは本来なら部外者であるブラハムが目にすることはなかったであろう禁断のページ。
緊張とないまぜになった興奮からか、彼は自然と口数が少なくなっていた。
「……ブラハムさん、大丈夫ですか? なにやら血相を変えているように見えますが、いったいどうしたというのです?」
「いや、少しな……」
――召喚魔法の優劣とは、究極のところ世界との相性である。
現代魔法学における優勢的な解釈によれば、召喚魔法の上達には個人の努力よりも、生まれ持っての才能が重視されている。
ここでいう“世界との相性”とは、召喚魔法の発動を通じて世界を巡る魔力波動と対話することにより蓄積される、親から子へと世代を超えて受け継がれる遺伝的なものであり、つまり召喚師一族としての“血のつながり”こそが何よりも重要な武器となるのだ。
実際に召喚術を使う術者だけではなく、その一族に伝わる血脈と、使い魔である召喚獣との契約を繰り返す行為の歴史的な集大成こそが召喚魔法である。
表向きは魔法学者であるブラハムからすれば、贔屓目に見ずともエイクには才能があると思われた。偉大な祖父から受け継いだ召喚技術が発掘されないまま、原石として眠っているに違いないと見た。
ベアマークで仲間の主義者が目をつけられてしまった以上、急がなければブラハムの素性を突き止めた騎士によって身柄を拘束されてしまう危険性がある。
だからこそ彼は己の計画のため、重要な人物であると確信したエイクをそそのかさずにはいられなかった。
それゆえに彼は、再び拙速な手段に頼らざるを得なくなったのだ。
「エイク、左腕は大丈夫そうか?」
「はい、大丈夫です。すでに血は止まり、ひとまず痛みはなくなりました」
「それはよかった。安心したよ。……すぐ動けるか?」
「ええ、まあ、動けはしますが……?」
意味深なブラハムの口ぶりから何かを察知したのか、はっきりとした受け答えも出来ずにエイクは怪訝な表情を浮かべる。
冴えない反応なのは、召喚魔法に失敗したばかりで自信を失っているというのもあるだろう。
最終的には事情を説明した上で納得させなければならないが、ここでエイクにしぶられても面倒なのは時間のないブラハムだ。
すべてを教えてから移動するよりも、移動してから現場で教えたほうがいい。そのほうがエイクの説得は簡単に終わるだろう。
とっさにそう判断したブラハムは軽く叩くようにしてエイクの肩に手を乗せた。
「ひとまずここを移動しよう。詳しい話はそれからだ」




