03 辺境魔法師(1)
神様なんてものは名前だけが用意された架空の存在だとばかり思っていたアレスタだったが、その奇跡を前にしては、得体の知れない何者かに対して感謝せずにもいられないだろう。
この世界の物理法則を外れた超常現象は奇跡でもなんでもなく、すべてなんらかの魔法によって説明がついてしまう当たり前の現象ではあるけれど、実際のところ、魔法の存在そのものがすでに奇跡なのかもしれない。
もちろん、だからといってアレスタは神の実在を本気で信じたわけではない。
かつて各国の政府が手を取り合って「神の降臨」を目的とした世界規模で発動する大掛かりな魔術が展開されたこともあったが、結局はそれが成功することはなかった。結果として信用を失った教会勢力が失墜することにもつながったが、やはり人類を都合よく救ってくれる存在としての神などいないのだろう。
「それはともかく、大事なのはこれからの話だ。これ、本当に夢じゃないんだろうか?」
帝国兵による魔法の攻撃を受けて全身が傷だらけ、ほとんど死にかけていたアレスタだ。こうして無傷で立っていられることを夢だと疑うのも無理はない。
今の今まで自分が使えるとは思わなかった魔法――おそらく治癒魔法――によって九死に一生を得た彼は言葉にならない喜びに胸を高鳴らせていた。
生きている。今も死なずに生きていられる。
その事実が何よりも嬉しかった。
だが状況が状況だ。のんびりと立ち止まって安心してばかりもいられない。興奮が冷めて頭が冷静になるとともに、アレスタは不安にも包まれた。
致命傷が消えたからといって、自分が助かったと無邪気に喜ぶにはまだ早い。先ほど転がり落ちてきた崖の上には帝国兵の影があり、今も彼が追われる身の上であることは変わりないのだ。
どこかに安心して身を寄せることのできる場所はないだろうか。
ひとまず安全な場所を見つけ出して、一時的に匿ってもらわなければなるまい。
自分が人畜無害の罪なき一般人であるのだと主張して、あちら側の誤解を解く――つまり帝国軍や政府に対して釈明を求める――のは、その後からでも遅くはないだろう。
そう思っていたが、それは間に合わなかった。
「驚いたな。落ちていった先で死んだに違いないと思ってゆっくり追いかけてきてみれば、もう平気そうに立ち上がっておる」
魔法で生み出した水の流れに乗り、高い崖の上にいた帝国兵士たちが追い付いてきたのだ。
足場代わりの氷を即席の船にした六人全員が崖下の地面に足を下すと、氷の船とともに瞬時に蒸発した水たまりから抜け出した兵士たちが警戒を強めてアレスタを見る。
「隊長、やはり彼は普通の少年ではないのでは?」
「うむ。……であれば、確実に息の根を止めねばならん」
直前まで瀕死の状態だったはずの少年が無傷で立っている姿を目にして、逃げるしか能のない子供ではなく得体の知れない強敵と認識したのか、彼らの表情が変わる。
容赦なく、再び魔法による攻撃の気配が漂う。
目には見えないものの、精神果樹園が開かれる気配がした。
「ま、待ってください!」
あまりのことに足がもつれてしまい、背を向けて逃げ出すこともできずにアレスタは焦った。
治癒魔法が使えたおかげで一命をとりとめたが、もう一度同じように使える保証はない。そもそも今度は魔法を使う余裕もなく、強力な攻撃によって一瞬で殺されてしまいかねないのだ。
しかし態度を変えた彼らは話を聞く様子はない。
全員が一度はしまっていた剣を抜き、アレスタを囲むように歩みを進める。
その時、どこかから不意に声がした。
「待てよ。話くらい聞いてやれ」
「……誰だ?」
剣を手にする帝国兵たちの危険な気配に恐れることなく、堂々と割って入ってきたのは一人の青年だ。武器や防具でしっかり武装している屈強な戦士というわけでもなく、いかにも普段着で駆けつけたような平凡な見た目の青年はアレスタよりも一回りくらい小柄な体をしている。
お世辞にも戦闘慣れしている風貌ではない。帝国兵に立ち向かうには心もとない印象だ。
けれど突如として乱入してきた部外者を見る兵士たちは青年に対して油断しなかった。なぜならば世界には魔法がある。目立つ武装をしていないからといって、相手に力がないと決めつけるわけにはいかないのだ。
剣先とともに明らかな敵意と警戒心を向けられた青年が苦笑を浮かべて両手を広げ、武器を持っていないことを見せつけながら肩をすくめた。
「人に名前を聞く時くらい剣をおさめたらどうだ?」
「普段ならそうするが、得体の知れない不審者を相手にそれはできないな」
「ふうん、そうかい。じゃあ、こっちからお前らに自分の素性を名乗る予定はないな。お互いに紹介し合ったところで、どうせ仲良くもできんだろう。それより――」
もういいだろうと両手を下ろした青年は顔色を変えることなく、いかにも軽い足取りでアレスタに近づいていく。
やはり帝国兵を相手に全く臆していない。
「そいつは俺が預かっておくぜ。安心しろ。これでお前らの仕事は終わりだ。帰っていいぞ」
一方的に宣言した無礼な言い草に我慢ならなくなったのか、若い兵士が顔を赤くして叫ぶ。
「近づくな!」
ところが青年は彼の警告を無視してアレスタに近寄った。
あげく、そのまま手を引いて、どこかへ連れていこうとする。
さすがに黙って見過ごすことはできないと、精神果樹園を開いた若い兵士が挨拶代わりに魔法を発動する。
だが、それは上手く発動しなかった。
「な、なんだこれは!」
突如、足元から燃え上がった炎の壁が兵士たちを取り囲んだのだ。
本来は青年とアレスタを足止めするために出すはずだった炎が、術者である彼らを襲う。
「くそ、俺の魔法で消すしかないか!」
別の兵士が壁となった炎に対抗して水魔法を発動しようとした。崖を降りてきた際に滝を生み出した魔法使いだ。
この程度の炎なら、簡単に対処できる腕がある。
しかし、どういうわけか彼もまた得意の魔法を制御することができなかった。
精神果樹園の果実が勝手に次々と消費され、自分の意志に反して発動された魔法による大量の水が彼自身に襲い掛かったのだ。
理解できない初めての現象に驚いた次の瞬間には息ができなくなり、まとわりついてくる水に溺れて地面に倒れる。
「魔法を使うな! 無理にでも精神果樹園を閉じろ!」
何かを察したように叫んだのは隊長の兵士である。厳しく部下に命じた声が聞こえたのかはわからないが、彼らを襲っていた魔法の発動が止まった。
それを確認して、これ見よがしに剣をしまってから慎重に足を踏み出す。
明らかな敵意を向けていた先ほどまでとは違い、青年に対して恐れをにじませていた。
「誰かと思えば、お前が噂の辺境魔法師か。名前は……確か、サツキといったか?」
「へえ、やはり名乗る必要はなかったようだな。仕事熱心な隊長さんは俺のことを知っていてくれたらしい」
呼びかけに反応して立ち止まってから振り返った青年、辺境魔法師と呼ばれたサツキはアレスタから手を離して年長の兵士と向き合う。
「そして、俺が誰かを知っているなら俺の言いたいこともわかるよな?」
「いいだろう。その少年はお前に任せる」
先ほどまでとは打って変わって、あまりに聞き分けのいい返事だ。
すかさず若い兵士が言葉を挟んだ。
「隊長、よろしいのですか? 少年を殺すか捕らえるのが我々の任務では……」
「もちろんそうだが、我々の邪魔に入った相手が辺境魔法師なら仕方がない。詳しく事情を説明すれば上もわかってくれるだろう。まさか彼を殺すわけにもいかんのでな。無論――」
隊長として部隊の命を預かる彼は声を低めてつぶやく。
「我々が殺されるわけにもいかん」
たった一人の青年を相手にして、六人編成の帝国兵が殺される。
それが決して冗談を言っているのではないと理解した部下たちは、それ以上の反論や質問をしなかった。自分たちの魔法が通用しないことは先ほど身をもって体験している。手柄や成果が欲しかったとしても、命を失うわけにはいかない。
――人数など関係ない。優れた魔法使いがいる方が勝つ。
身動きをとれずにいたアレスタがカーターの言葉を思い出していると、帝国兵たちは魔法で生み出した黒い煙を残して立ち去った。念のため尾行を警戒してのことだろう。
残されたアレスタはひとまず命の危機が去ったと見て胸をなでおろす。
「あの、ありがとうございました。たぶんですけど、俺を助けてくれたんですよね?」
「もしかしてあいつらから獲物を横取りしたように見えたか? だとすればお前はもっと不安そうにするべきだな」
「いや、あの……」
ふざけて冗談を言ったつもりもないのに、思いがけない返事が戻ってきて困惑するアレスタ。この半日で様々なことがあり、状況がいまいち飲み込めていないのだ。
そもそも自分がなぜ命を狙われていたのか、そして自分を助けてくれた彼は何が目的なのか、それから治癒魔法のことも。
混乱するアレスタを安心させるようにサツキは微笑む。
「安心しろよ、アレスタ。ひとまず俺は敵じゃない」
「わかりました。その言葉を信じます。サツキさん、でしたよね。まずは助けてくれて、本当にありがとうございま……ん? 今、俺のことをアレスタって……」
危ないところを助けてもらったお礼を言おうとして、最後まで言い切る前に無視できない違和感を覚えたアレスタは疑問に思った。何度も死にかけて、おぼろげになっている記憶が確かなら、彼にはまだ名前を教えていないはずだ。
つまり彼はこちらが名乗るまでもなく、アレスタの顔と名前を知っていたということになる。
それを裏付けるようにサツキは頷いた。隠すようなことでもないらしい。
「ああ、お前のことは知っている。知っているというか、お前のことを探しに来たんだ。そのことも含めて、ひとまず場所を移してゆっくりと話をしたい」
「場所を移すと言っても、どこへ?」
帝国兵に追われて奥深い森を逃げ回っていたアレスタである。白状すると現在位置もわからない。
崖を落ちる前、ちらりと見えた周囲はまだまだ森が広がっていたように思えた。当てもなく移動するのは危険だ。
「しばらく歩かなきゃならんが、そう遠くない場所に俺の家があるんだよ。ほら、急がないと森を抜ける前に日が暮れるぜ」
「そうですね、だったら急ぎましょう」
考える前に即答したアレスタだったが、この場で彼の意見に反対する理由など一つもなかった。もう歩きたくない程度に疲れていることを除けば、ここで寝泊まりするよりはずっといい案に聞こえた。
もちろん彼と一緒にいたほうが一人で行動するよりも安全だろうという期待もある。
同意したアレスタを見て動き出そうとしたサツキだったが、進行方向に向かって足を踏み出した途端に立ち止まった。
一体どうしたのやら、右手で左腕をおさえて苦しそうな表情をしている。
「くそ、無茶をしすぎたかもしれない。刻印が熱くなってやがる」
「刻印……? あの、ひょっとして怪我でもしたんですか? もしそうなら……」
治癒魔法が試せるかもしれない。
そう思ったアレスタだったが、最後まで話を聞き終える前にサツキは首を左右に振った。
「いや、気にするな。これはちょっとした代償みたいなものさ。それより今度こそ急ごう。見通しが立たない夜の森は危険だ」
「それはそうですけど……」
一応は納得してアレスタが答えると、きつく腕をおさえながらサツキは歩き始めた。なんでもないとは言うものの、明らかに何かを隠しているような雰囲気だ。
しかし、相手の歯切れが悪いからといって、必要以上に怪しいと考えるのは徒労な行為かもしれない。助けてもらった以上、最初から相手を疑ってかかるのは卑屈だ。明確な理由がないならば、まずは相手を信用したほうが人間は純粋に生きられる。
過剰な警戒心を発揮して、無駄に神経をすり減らす必要はないだろう。
なにしろアレスタは疲れていた。あまり頭が働いていない。
何はともあれ、ひとまず安全な場所で休む必要がある。
物事を難しく考える気力や体力が残っていなかったアレスタは黙ってサツキの後を追いかけた。
自分に親切にしてくれる彼が悪人ではないと信じて。