11 ベアマーク総合病院
街の中央地区に位置するベアマーク総合病院は、大まかに分類すれば一般外科と一般内科、それから魔術外科と魔術内科という四つの分科で構成されている。魔法が関係しない怪我や病気は一般分野、魔法が関係する怪我や病気が魔術分野の領域だ。
したがって、酩酊波動というバッシュの魔法で体調を崩したアギトの場合、頼るのは魔法内科だろう。
初めて病院を訪れたアレスタは体調のすぐれないアギトに肩を貸しつつ、地元の村にはなかった病院についての説明を聞きながら、ひとまず受付の待ち時間を利用してロビーの椅子に座ることにした。
「いやぁ、すまなかったな」
「いえいえ、お気になさらず」
時間経過によってだいぶ楽になってきたらしく、今にも倒れそうだったアギトの顔色は先ほどよりも回復しているようだった。
強制的に相手を酔わせる酩酊波動の魔法が彼にどのような影響を与えたのかわからないが、魔法体質のおかげで酔いの効果が一時的なものですんだのかもしれない。
「しかし、またこの病院の世話になるとはなぁ……」
「また? もしかして前にも一度?」
「そうなのさ。一度というか、これまで何度となく世話になっている。俺みたいな人間が持っている特殊な魔法体質というものは、人が言うほど便利じゃないんだ。いきなり体調を崩すこともあるし、過去には長期の検査入院をしたこともある」
「難儀なものですね……」
魔法体質なんて聞いた時には利点ばかりの素晴らしい能力かと思っていたが、現実的にはそう単純な話ではないらしい。普通の人とは様々な点で異なる特殊な体質なのだから、普通の人間には発生しない異変や不調が起こることもあるのだろう。
どんな苦労や努力をしているかも理解せず、いい部分だけを見て安易に人のことを羨ましがってはならないということだ。
診察の時間が来るまでの暇つぶしのつもりなのか、アギトがアレスタに話を振った。
「そういえば、お前は知っているか?」
「何をですか? 自慢じゃないですが俺は世間知らずなので、ほとんど何も知りませんよ」
「ふーん。じゃあ、やっぱり知らないかもしれないな。肩代わり妖精っていう、なんとも不思議な存在のことさ」
「えっ!」
時間をつぶすための雑談だろうと思って完全に気を抜いていたアレスタは驚いた。まさかこんなところでテレシィの話題が出てくるとは思わなかったからだ。
これはまさに千載一遇のチャンスかもしれない。
何かを知っている人が目の前にいるのだ。詳しく話を聞ける機会を逃すわけにはいかない。
すかさず身を乗り出したアレスタは鬼気迫る表情で話の先を促した。
前のめりになっているアレスタに驚いてはいるものの、別に隠すようなことでもないらしく、妖精についての基礎的な情報を教えてから彼は最後にこう言った。
「この病院での目撃証言が多いんだそうだ」
「なるほど、そうでしたか」
肩代わり妖精のテレシィは、苦しんでいる人間のところに出現する妖精だ。
ならば、苦痛にあえぐ患者の多い病院に現れるという話は信憑性が高い。
なんにせよ他には探す当てのない八方塞がり状態だったのだから、この機会を利用してテレシィを探してみるのもいいかもしれない。
「……それじゃあな。アレスタといったっけ? 今日は色々とすまなかった」
「いえいえ、お構いなく。アギトさんもお大事に」
そう言ったアレスタは自分の順番が来て診察に向かったアギトを見送ったあと、病院のロビーで一人静かに立ったまま、先ほどの会話について少し考えた。
病院での目撃情報が多いということは、ここで待っていれば妖精と出会えるかもしれない。
そんな淡い期待をして、どこかにいないだろうかとアレスタは周囲に視線を巡らせる。
「ん? 今のって……」
そのとき、アレスタは視界の片隅にふわりと宙を舞う小さな影を見た。
……もしかして妖精かな?
はっきりとした正体もわからぬまま、勝手に足が動いたアレスタは小さな気配を追いかける。
見舞い客を装って病棟の奥へ。階段をいくつか上り、小さな姿を見失ってしまいかねないと心では焦りつつも、無駄に騒ぎ立てて病院の迷惑にならぬように気をつけながら、長い廊下を静かに歩いていく。
やがて、追いかけていた小さな人影が一つの病室に入ったのが見えた。
「ここにいるのは、カイナさん? 知らない人の病室だ」
扉の横にかかった表札に書いてあるカイナという名前は聞いたことがない。誰かの話に出てきたこともないので、たぶんアレスタの知り合いではないだろう。
いくら小さな人影のことが気になるとはいえ、気軽に入っていける関係ではない。
しばらく扉の前で考え込み、悩んだ挙句にアレスタは控えめなノックをした。
病室の中にいる患者にとっては迷惑かもしれないが、かといってこのまま立ち去ることもできない。せめて挨拶だけでもして、この中にテレシィの姿がないかどうか確認するつもりなのだ。
「どうぞ」
ノックに反応して部屋の中から返ってきたのは落ち着いた女性の声だった。
ありがとうございますと簡単に礼を伝えて、遠慮がちにアレスタはドアを開けた。
「……えっ?」
「アレスタさん……?」
ドアを開けて入った病室の隅。
部屋に備え付けられたベッドの横に置いてある、小さな丸椅子に座っていた女性。
驚いたことに、そこにいたのはイリシアだった。
そういえば今日はどこかに出かけると言っていたが、この病院を訪れていたようだ。まさかこんな場所で顔を合わせるとは思わず、不意をつかれたアレスタは動揺した。
「えっと、お見舞い中だったんですよね? ひょっとして邪魔しちゃいましたか?」
「……いえ、私は構いません。それよりアレスタさんは、なぜここに?」
予期せぬ来訪を受けて、アレスタに負けず劣らずイリシアは困惑している様子だ。
だが、穏やかな印象もある彼女の表情を見る限りは、急にやってきたアレスタの存在が迷惑というわけではないらしい。邪念のない透き通った目でアレスタの顔を見つめている。
たまたま居合わせたアレスタにも、この部屋の病人を見舞ってほしいと願っているかのような。
けれど、直後に彼女は動揺した。
「もしかして、ギルドから私のことを追ってきたのでしょうか? 私のことを疑って……?」
不安そうに声を震わせたイリシアはこぶしを握り締めていた。
顔こそ前を向いているが、今にも下を向いてしまいそうなイリシアは普段の凛々しさや覇気を失っており、どことなく寂しげに肩を落としていた。
……もしかして俺からの追及を恐れている?
そう思ったアレスタは何かを言おうとして、沈黙を破るために口を開いた。
「俺は――」
けれど、それより先の言葉を続けることができない。
まるで彼女との間に見えない壁が存在するかのように感じてしまったのだ。
何か事情があるのなら、相談に乗ることで彼女の力になれるかもしれない。だが、あまりアレスタを頼ろうとしているようには見えない。
何かに悩んでいるのは間違いなさそうだが、自分の意志で彼女から話そうとしない限り、自分のほうから問いかけることをアレスタはためらった。
さりげなく室内を見渡してみてもテレシィらしき姿はなく、こんなところまで妖精を追いかけてきたのだとは言い出せない。
それに、今はそういう状況ではない気もするのだ。
もっと重大な問題がある。それが何かは知らないが、きっと彼女にとって深刻な問題である何かが、他の誰でもないアレスタとの間に横たわっているのではないか。
ギルドのみんなに黙って彼女が一人でこの病室を訪れていたのには、何か特別な理由があるのではないか。
言葉を急ぐ必要はない。アレスタはゆっくりと話を進めることにした。
「イリシアさん、隣、座ってもいいですか?」
「どうぞ」
ためらうような反応を見せなかったイリシアは自分の横に新しい椅子を出して、アレスタに座るように促した。
その椅子に浅く座ったアレスタは彼女から視線をそらし、目の前にあるベッドを眺める。
そこに寝ているのは、ぱっと見で判断すると三十代か、あるいは四十代くらいの男性だ。状況から推測すればイリシアの知り合いらしいが、ベアマークに住み始めて間もないアレスタは交友関係が限られており、その顔には見覚えがなかった。
なので尋ねてみることにする。
「この人は? あ、いや、答えられないなら……」
「いえ、大丈夫です。……この人はカイナ。私の父です」
「イリシアさんのお父さん?」
そう言われてもう一度顔を見てみると、なるほど確かにイリシアの面影がある。優しくて、真面目で、正義感が強そうな人だ。
しばらくじっと眺めていると、半開きにされていた病室の窓から入り込んだ風がアレスタの頬をなでた。
そろそろ完全に日が暮れて夜がやってくる頃合だ。
「聞いてもいいですか?」
「いいですよ」
「……病気なんですか?」
すると、彼女の口から返ってきたのは意外な答えだった。
「わかりません。ただ、ずっと眠っています」
……わからない。
それは深刻な病名を聞かされるよりも絶望的な気がしてならなかった。
はっきりとした対処法がわからず、いつまで昏睡が続くかも判断できず、そして彼が味わっているであろう本当の苦しみさえもわからない。
けれど、だからこそ、いつか治るかもしれないという一握りの希望を捨てることもできないのだろう。
そして、正体の見えない何かにすがらなければならない生き方とは、とても辛いものだ。
原因不明のまま父が目を覚まさない状況にあり、こうして病室を訪れているイリシアはどんな気持ちでいるのだろう。
このまま事情を聞かずに彼女の前を立ち去ることはできない。たとえ余計なお世話になろうとも、何か不幸を背負っているらしい彼女と感情の一部でも共有したいという強い思いがアレスタにはあった。
「いったい何があったんです? 言える範囲だけでもいいんですが、よかったら俺にも教えてくれませんか?」
この問いに対して、すぐには即答できず彼女は悩み込む。
アレスタに語るべきかどうか、目を伏せて思い悩む。
「いいですよ。……いえ、どうか聞いてください」
そしてイリシアは語り始めた。
「あれは今から十年前、私がまだ八歳くらいのころでした。たまたま得られた父の休みを利用して、リンドルにある温泉へと家族旅行に行ったのです」
「イリシアさんのお父さんって、どんな仕事を?」
「父は私と同じ、ベアマークの騎士でした。それも騎士団長です。だから一年を通して多忙だった父はなかなか休みが取れなくて、当時の私は珍しい家族旅行に舞い上がっていました」
「そうだったんですか」
「けれど、到着したリンドルで私たちを待っていたのは地獄でした」
「地獄とは聞き捨てならない言葉ですね。自分から質問しておいてなんですけど、もしも思い出すことさえ辛いのなら、無理して教えていただかなくても……」
「いえ、どうか聞いてください。……まさにあれは地獄でした。現実とは思えないほどに。アレスタさんがブラハムさんに頼まれて調査を開始した伝説上の怪物、デビルスネークが出現したのです」
そう言ったイリシアの顔は血の気が引いて青ざめていた。
当時は八歳、今と違って彼女がまだ小さかった子供のころの話だ。そのとき感じた恐怖などの感情を生々しく思い出してしまったのかもしれない。
その怪物の姿をアレスタは一度も見た事がないけれど、魔法の専門家である魔法学者のブラハムが脅威となりうる存在として調査しているほどだ。
きっと凶悪な怪物なのだろう。
優秀な騎士に思えた彼女がおびえてしまうのだって無理はない。
「あの日、突如として現れたデビルスネークは村を襲い、多くの村人が犠牲になりました。その場に居合わせた父は、もちろん騎士団長の責務として対処にあたり、応援に駆け付けた騎士たちと協力してデビルスネークを退治することができましたが――」
イリシアはそこで一旦言葉を止めて、気持ちを落ち着かせるためか深呼吸をした。
それから彼女は自身の胸元に手を当てて、ゆっくりと語る。
「私を庇って逃げ遅れた母は死に、退治したデビルスネークから出た大量の瘴気を浴びた父は意識を失って、それから現在までずっと眠ったままなのです。父が昏睡状態に陥ったのは怪物の呪いではないかと予想されましたが、結局は今日に至るまで原因がわからず、いまだに回復の予兆はありません」
「そうだったんですか……」
彼女の話を聞き終えたアレスタはベッドに眠るカイナへと目を向ける。
とても穏やかな表情をして眠っているが、彼女の説明によれば彼はもう十年近くも原因不明の昏睡状態なのだ。カイナ自身だけでなく、家族や友人といった彼を思うたくさんの人々も、悲しみや苦しみに包まれているに違いない。
じっと父を見つめるアレスタの視線に気が付いたのだろう。
昔を思い出すように遠い目をしたイリシアもベッドの上に眠るカイナを見る。
「私は父が好きでした」
「俺はカイナさんのことを知りませんけど、きっと強くて優しい人だったんでしょうね」
「はい」
だからこそ――と、イリシアは言葉を続ける。
「あのときは逃げるばかりで何もできなかったことの罪滅ぼしと、勇敢だった父への憧れから、私は騎士になる道へ進みました。ベアマークの騎士団長だった父と領主様は長年の親友だったらしく、領主様からは、たいへんよく気にかけられました」
この街の領主は自分の娘のようにイリシアのことを気に入っていたようだったが、そこにはそんな事情があったらしい。
およそ十年前に魔物との戦いで意識を失った親友の娘が、父の背中を追うような形で騎士団に志願してきたのなら、自分には関係ないと放ってはおけないだろう。昏睡状態のカイナに代わってイリシアの面倒を見たくなる、ある種の親心にも似た気持ちが出てきたのだって、今のアレスタには十分に理解できた。
「しかしながら、私には騎士として迷いがありました。いい加減な気持ちで働いていたわけではありませんが、小さな事件の対処ばかりを任せられる日々が続いていて。それは確かにベアマークの平和を守る意味では素晴らしいことでしたが、もっと別の道があったのではないかと考えていたのです」
「もっと別の道?」
「はい。結局は巨大な組織の一員でしかない騎士として生きる日々とは別の道です。精神的に弱かった私は、平和への近道を求めてしまったのでしょうね……」
平和への近道を求めてしまうことは、決して悪いことじゃない。
世界にはびこる不幸や不平等の現状に心を痛める優しい人間なら、誰だってそれを願っているはずだ。
ところがイリシアは後悔を胸に懺悔する。
「あなたの使用した治癒魔法を見て、私は期待してしまったのです。奇跡を願ってしまったんです。長年、ずっと一人で思いつめてきた悩みや苦しみに耐えられなくなって、自分の心を制御できずに暴走してしまったのです」
「暴走って、一体どういうことですか……?」
「いいですか? 実際の私は、自分が救われるための希望を失いたくなかったんです。ただそれだけのために、治癒魔法が使えるかもしれないアレスタさんに期待してしまった。困っていたアレスタさんをそそのかして、この街でギルドを開設する手伝いまでして……」
カーターとの一件が決着したあの日、イリシアは自ら名乗り出る形で騎士を辞め、これからのことに困っていたアレスタのため、ベアマークで帝国初のギルドを開業する手伝いをしてくれた。
責任感が強く、優しい人だと思っていたけれど、実は彼女の親切な行動には裏があった。
優しくしたのは治癒魔法を使える可能性があるアレスタのことを手放したくないからであったと、つまり治癒魔法の使い手を自分の目が届く範囲に置いておきたかったからなのだと、イリシアはそう言っているのだ。
「だけど、今の私には自分の本当の気持ちがわかりません。眠ったままでいる父のことも、辞めてしまった騎士団のことも、職員の一人として働くことになったギルドのことも、治癒魔法使いとしてのアレスタさんのことも、私が何を考えているのか自分でもわからないのです」
イリシアは震えるこぶしを膝の上で握り締めていた。
きっと気持ちの整理が追い付かないのだろう。
今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女を励ますため、アレスタはあえて明るい口調で言った。
「どんなに悩んでいるとしても、これだけは忘れないでください。イリシアさんの気持ちがどうだろうと関係なく、何度となくあなたに助けられた俺は感謝しているんです。それだけじゃない。感謝しているだけじゃなくって、今度は俺がイリシアさんの力になりたいんです」
「ありがとうございます。……ですが、私はアレスタさんに感謝される資格なんてありません」
「どうしてですか?」
「初めてアレスタさんと出会ったあの日から、治癒魔法が使えるかもしれないというあなたを、私は自分の希望を維持するためだけに利用していたのです。私はあなたではなく、あなたの治癒魔法を見ていたのです。……しかも治癒魔法の力が不完全だとわかったとき、私は失望さえもしました。あなたの気持ちも考えずに」
――最低です。
自嘲して呟いたイリシアは、とうとう涙を見せる。
なんだかアレスタは見ていられなかった。
「イリシアさん、どうか悲しまないで顔を上げてください。約束します。今は未熟な治癒魔法しか使えなくて、苦しんでいるイリシアさんのために何もしてあげられないけれど、それでもいつか俺は、それが本当に可能なら、あなたのために治癒魔法を使いたいと思うんです」
「…………」
「イリシアさん。そして俺の力で、いつか君のお父さんを助けてあげたいんです」
泣いている彼女は顔を上げてはくれず、アレスタの決意には何も答えてくれなかった。
けれど、それは嘘や誤魔化しでは決してなく、彼の本当の気持ちであったのだ。




