06 滞在者ブラハム
世間的にはそう有名でもないリンドルといえば、どこにでもあるような自然に囲まれた小さな農村の一つであり、わざわざここへ来る訪問者の目的といえば、避暑か保養のどちらかというのが一般的だろう。
本格的に商売を始めたいのなら都会であるベアマークへ行くし、学問を志すなら帝立大学のある帝都に行くし、休日を利用して観光に行くつもりなら、リンドルの他にもいいところがたくさんある。
そういった事情はリンドルに生まれ育った村人にしても異論がないようで、近年は若者の流出による人口減少が問題となっていた。豊かさや刺激を求めて村から巣立っていく人間は増える一方、外から村に移住してくる者はまるで存在しないのだ。
それでも世間に変わり者の途絶えることはなく、ここリンドルにも長期にわたる滞在者がやってきた。いきなり村に家を建てて永住を決めたわけではないものの、一年分の宿泊料を一括で前払いした猛者がいたのである。
ぶかぶかのブーツにほつれたコート、行き場のない浮浪者のような覇気のない顔には無精ひげ。もとは目的地のない自由奔放な旅行者らしく、くたびれた鞄一つで村にたどり着いたらしい。
彼はその名をブラハムといった。職業その他は本人以外に不明である。
それでも名前以外に身元不明である彼が村人に怪しまれないのは、その飄々(ひょうひょう)とした憎めない人柄ゆえだろう。
毒気がない彼は不必要な敵を作らず、自然と村に溶け込み始めていた。
「やぁブラハムさん、今日もまたお出かけかい?」
「ああ、これから少し森へ」
「森かぁ……。村の外は危ないからね、行くなら気をつけて」
村に滞在する拠点として利用している宿の従業員に声を掛けられたブラハムは軽く会釈すると、忠告を理解しているのかわからない身軽な服装で真っ直ぐ森へと向かった。
保守的な村社会というものは往々にして部外者に対して閉鎖的になりがちなものだが、村の存亡に関わる人口減少問題に頭を悩ませていた彼らにとって、むやみに排他的になっている場合ではなかったのだろう。
たった一年限りの滞在者であるはずの彼を見て、のんきな村人たちはリンドルへの移住計画の第一人者として歓迎した。
よそ者に過ぎないブラハムにしてみれば、込み入った村の事情など知ったことではなかったが、それは心地よい丁重な扱いだった。
いつかこの村に家を建てて永住するのもいい。
口にはしないが彼も胸の内ではそう考えていた。
「さてと、目的地は本当にこの先にあるのか? ずいぶん荒れているようだが……」
ふらふらと覚束ない足取りで森に入った彼は、なにも山菜摘みに興味を持っていたわけではない。無関係な人間には語らない、彼なりの興味と関心を持って行動するのである。
道らしい道もない、人里を離れた深い森の中。
くたびれたブラハムは辟易しながらも草木の生い茂る獣道を歩き続ける。
その手には村長から預かった一冊の古ぼけた書物。
素性を明かさぬ怪しい滞在者であった彼が、連日連夜にわたって開かれた酒の席で親睦を深め、先日やっとのことで村長から貸りられた村の伝承録である。
足を止めた彼が確認のため開いたページは、遠い昔に記されたであろう森の地図。
森そのものが荒れ果てた現在では地図を見たところで意味はなく、大まかに方角と距離を判断するくらいにしか役立たないが、それでも手探りで森をさまようよりはましである。
念には念を入れ、リンドルを訪れたブラハムは詳細な調査のために一年の猶予期間を作っていたが、今のところ彼の計画はとんとん拍子に進んでいる。
ブラハムが目指すのは村はずれ、森の中にあるという大空洞の跡地だ。
「誰か、助けてくれっ!」
そろそろ目当ての場所に到着するというとき、地図をのぞき込んでいたブラハムは前方から響いてきた青年の叫び声を聞いた。
顔を上げても草木が邪魔で向こうの事情はわからなかったが、今にも殺されてしまいそうな切羽詰まった悲鳴を聞く限り、どうやら茂みの奥で青年が何者かに襲われているらしい。
反射的に急ぎ足となって悲鳴のほうへと向かったブラハムの目に映ったのは、犬歯をむき出しにした狼の魔物に乗りかかられ、地面に仰向けの姿となって必死に抵抗している青年の姿だった。
あれはヴォルフか……と、青年を襲う魔物に冷たい視線を向けたブラハムは、それが低級ではあるものの、襲われている彼にとっては危険な存在であるには違いないと理解した。
「まったく、どこの誰だか知らぬが手を焼かせてくれる」
そしてブラハムはコートの内ポケットに手を突っ込むと、そこに仕舞っていた小さな箱を取り出した。その箱の中にぎゅうぎゅう詰めにされて入っているのは、いくつもの葉巻状をした短い棒である。
一瞬ためらう思案顔を見せつつ、ブラハムはその一本を指で摘み取る。
「少しばかり精神果樹園にため込んでいた内臓魔力を消費してしまうが……まあ、命には変えられぬ」
自分へと言い聞かせるようにつぶやいた彼は手に取った葉巻の片側を噛み千切ると、こちらに気づかず青年を襲っているヴォルフに向かって投げつけた。
すると空中で爆発したそれは周囲にキラキラとした破片を撒き散らして、雨あられのように降り注ぐとヴォルフの体を貫通する。一つ二つではなく、無数の傷跡から血を流した魔物は地に伏して倒れる。
使用された魔法の効果なのか、たった一度の攻撃で退治されたヴォルフの下に倒れていた青年は無傷である。
「今のは対人殺傷能力のない、魔物だけを殺す特別製の魔道具だ。当たったように見えても君の体に害はないから安心しろ」
おびえた青年に警戒心を植え付けないようゆっくりと歩み寄りながら、ブラハムは葉巻の詰まった箱をコートの内ポケットに仕舞う。
そして仕留めたばかりのヴォルフの死骸を見下ろし、倒れたままもがく青年の上から血だらけの死体をどかしてやろうと右手を伸ばしたところで――。
「……なに?」
ブラハムの右手がヴォルフの表皮に触れる直前、その死骸が輝く無数の光となって、跡形もなく消え去ってしまった。
普通の魔物なら、殺したところで死体まで消滅することはない。
――ならば、この魔物は? なぜ消え去った?
ある種の期待と興奮を胸に抱き、目の色を変えたブラハムは青年に視線を投げかけた。
「あ、ありがとうございました」
ようやく立ち上がって深々と頭を下げた青年に対して、最初から礼など求めていないブラハムは声をかけて先を促す。
「……君は?」
「僕はエイクです。……この状況で名乗るのは大変な赤っ恥ものですが、これでもリンドル自警団のリーダーをしています」
自警団のリーダーを務めるエイクだが、本心の性格的に他者と馴れ合わず一人で活動することが多く、最近はほとんど一人で訓練や巡回を重ねていた。
ゆえに、外からやってきた新しい滞在者として村では有名人となっていたブラハムのことも彼は知らなかった。またそれは個人的な調査活動に忙しく、リンドル自警団とは接点がなかったブラハムも同様である。
「自警団のリーダーがこんなところで何を?」
「それは、そのう……。実はここで少し、自分の魔法を……」
自分の魔法を試していたら、召喚した魔物に襲われてしまった。
などとは、さすがに自警団リーダーとしての自尊心が邪魔をして正直に言うことができなかった。かといって誤魔化すために嘘をつくことも、正義感を抱いた彼の人間性が許さない。
ただ恥をしのんで口を閉ざすのみだ。
それでも長年の経験から周辺に漂っていた魔法の残り香を嗅ぎ取ったブラハムは、表情に悔しさをにじませる青年に対してほとんど断定的な口調で尋ねた。
「おそらく君が使用した魔法は……いわゆる召喚魔法だね?」
「わ、わかるのですかっ?」
見抜かれたことを驚きつつも、自分が使った魔法のことを少しでも理解してくれる人が現れて嬉しかったのだろう。目の前にいる人間が何者なのか興味を持ったエイクは身を乗り出した。
というのも、今の彼が魔法を習得するために頼れるものは、すでに他界した祖父が残した文献だけだったのだから。だからこそ、村では珍しい召喚魔法の理解者を見つけられた喜びは言葉では語りつくせない。
舞い上がらんばかりだった彼の反応を満足そうに受け取ったブラハムは、いかにも好々爺といった表情でやわらかく微笑む。口に出す言葉も穏やかだ。
「わかるもなにも、私はさすらいの魔法学者だよ」
「魔法学者……」
魔法学者とは、魔法を学術的に研究する専門家のことである。
あくまでもすごいのは知識であって必ずしも本人が天才的な魔法の才能を所持しているとは限らないが、少なくとも魔法の知識に関しては並の魔法使い以上に豊富な人間だ。
「そうだとも。だから君の力にもなれるだろう」
「は、はいっ!」
思いがけない出会いを果たし、エイクの顔はますます喜びに赤らんだ。
四方を深い森に囲まれているものの、無駄に土地だけは広いリンドル。
ブラハムの滞在する古い宿とは反対側のずいぶん奥まったところに青年エイクの暮らす家があり、それは彼の祖母が一人で経営する薬屋でもあった。
「……おや、お客さんかい? いらっしゃい、ごゆっくりどうぞ」
エイクたちが二人そろって薬屋の入り口をくぐると、エイクの祖母であるアイーシャは孫の背後から顔を覗かせたブラハムに歓迎的な視線を向けた。
自警団のリーダーを務めるエイクはその職務上、村の内外の様々な人間と公的な付き合いを有している。それゆえブラハムのような見知らぬ人間をエイクが連れてきたとしても、彼女は不思議には思わなかった。
祖母の前で立ち止まったエイクは自身の背に隠れていたブラハムをさりげない手つきで前に促す。
「こちらは村に滞在している魔法学者のブラハムさん。実は今日、森で魔物に襲われているところを助けてもらったんだ。僕にとっては命の恩人だよ」
「それはそれは、まあ……!」
愛する孫の口から命の恩人だと聞いたアイーシャは驚いたのだろう。助けてもらった立場なのに何故か自慢げなエイクに代わって、何度も何度も深々と頭を下げた。
考えてみれば自警団に所属するエイクはいつも危険に晒されていると言ってよく、それが年を取って心配性な性格が強くなった彼女を常日頃から悩ませていたのだ。
少し過剰にも思える感謝を受け取ったブラハムは、彼女と同じように頭を下げてから苦笑を浮かべる。
「はは、お気になさらず」
自分は感謝されるようなことは何もしていないと、どこか照れたような仕草で手を振ると、頭を下げたままでいるアイーシャに顔を上げるよう促す。
そのまま謙遜の応酬に発展することを恐れたのか、エイクは頭を下げあっている二人の間に割り込んでいく。
「おばあちゃん、ブラハムさんを二階に案内していいよね?」
「ええ、もちろんだよ」
快いアイーシャの許しを得られたエイクはブラハムを二階、寝室をかねた自室へと案内する。きしむ階段を上がれば、すぐそこにある扉がそれだ。
エイクに続くようにして部屋に入り、即座に後ろ手で扉を閉めたブラハム。
のそのそと机の前に二人分の椅子を用意しているエイクが落ち着くのを待って口を開く。
「さて、それでは君の話から聞かせてもらおうか」
「わかりました」
ブラハムが魔法学者であるという事実は、これまで独学で魔法を学ぶしかなかった彼にとって何よりも頼もしい。
教えてもらえるのならと腹をくくり、もはや恥も外聞もなく、素直かつ正直にエイクは自分の現状や悩みについて赤裸々に語ることにした。
今は亡き祖父は名実共に優秀な魔法使いであったが、自警団のリーダーとなった自分は未だ満足に召喚魔法を使いこなせていないということ。
ゆえに、可能ならブラハムに魔法技術の教示を願いたい、と。
その願いを聞いたブラハムは優しく微笑し、不安げに揺れるエイクの瞳を覗き込む。
「世界的にもあまり数の多くない召喚魔法使いなのだから、少なくとも君はそれを誇りに思っていい。胸を張れ。生まれの時点で大きなアドバンテージだ」
「あ、ありがとうございます……」
だが言葉とは裏腹に、答える顔は沈みがちで浮かぬもの。
まだまだ未熟な魔法使いである彼には誇れるものが見当たらず、どんな言葉もお世辞にしか聞こえなかったからである。
「そうだな、何かを教える前に一つ尋ねておこう。その答えによってこちらの方針も変わってくるからな。……青年、君は自分が使うことのできる召喚魔法を極める覚悟はあるのか?」
「覚悟ですか?」
「そうだ。決意や願望ではなく、覚悟だ」
決意や願望ではなく、覚悟。
言っていることの意味は分かる。
「覚悟なら――」
もしも呼び出した使い魔を操る召喚魔法が自由自在に使えたなら、きっとエイクはたった一人でも村の自警団を最強のものへと変えられるだろう。
たとえ厳しすぎるエイクの苛烈な信念が、彼と同世代の村人たちには決して理解されなかったとしても、彼は最強の召喚魔法を胸に俗世では孤高であり続けられるだろう。
「覚悟なら、年少の頃より備えております!」
まさにその通りだった。
祖父を目標にして生きてきたエイクは幼いころからただ一人、村の誰よりも強くあろうと願っていた。そのための努力なら雨の日も風の日も、ただの一日として欠かしたことはなかった。
ならば今さら信念が揺らぎ、まだ見ぬ不安を前に臆する理由もない。
自分の人生をささげる覚悟などすでに決まっている。
「ふむ、よく言った」
そんなエイクの心中をどこまで察したのか、彼の答えを聞いたブラハムは実に満足そうな表情を浮かべるのだった。
それから数日後、エイクの師となったブラハムは同時に村の自警団の顧問に着任した。
しかも無償で、滞在期間中のボランティアとしてである。
報告を聞いた自警団メンバーも、はじめは厳しいリーダーであるエイクとは違う新しい顧問に期待を持っていた。
だがブラハムは単なる気晴らしや酔狂のために顧問を引き受けたわけでもない。
村の若者たちを教える立場になったブラハムは彼らの指導に手を抜かなかった。
どちらかといえば普段は気の抜けた様子の彼ではあるが、魔法学者としての責任か、魔法のこととなると人が変わったように厳しさを見せたのだった。
あらゆる魔法の知識、それぞれの対処法、そして実演と鍛錬。
いくら努力しても追いつけない劣等生に対しては容赦なく叱責した。
以前よりも専門性を増した訓練や指導にたまらず音をあげたのは、エイク以外の自警団メンバー全員である。もとよりベアマークなどの都会に出て行かず、成人しても村に残る人間は総じて魔法能力に乏しい。そんな彼らが厳しい指導に耐えられるわけもなく、そもそも自らの意志で自警団に加入した者も存在しなかった。
ある日、自警団の訓練場に姿を現した人間は、ついにエイクとブラハムの二人だけとなった。
他のメンバーは全員が逃げ出したのである。
「彼らは駄目だな。本質的に戦いには向いていない」
「僕もそうは思います。ですがブラハムさん……」
そんな彼らにも自警団としての誇りを与えられれば――と、リンドル自警団を再建するために言い掛けたエイクの言葉を遮り、戦いの現実はそう甘いものではないとブラハムは確定的に告げた。
「何に対しても中途半端な人間は足手まといにしかならない。特に魔法が関わってくるとなおさらだ」
それが世界の過酷な真実であることは、おそらく誰にも否定できないだろう。
魔法使い同士の戦いに、あるいは魔法の影響下にある戦場に、魔法に対する適性のない人間が意味を持って存在することは難しい。
魔法とは不可能を可能にする奇跡であり、だからこそ危険とも常に隣り合わせの現象である。中途半端な能力で魔法に向き合う人間は、いつか必ず取り返しのつかない大きな過ちを引き起こすものなのだ。
生半可な覚悟で魔法に関わってはならない。
それはエイク自身もよく理解していることだった。
ゆえに彼はそれ以上の反論を諦めて、納得して引き下がるしかない。
「……わかりました」
「素直でよろしい。そのままいけよ、青年。きちんと人の話を聞いて行動する人間は将来が期待できる」
「はい、ならば徹底的に僕を鍛え上げてください」
こうして二人の特訓は本格的に始動することとなった。
ブラハムは魔法学者と名乗るだけあり、古今東西の魔法に関する知識はエイク以上に豊富だった。もちろん召喚魔法についても、それを使えるエイクが知らない深い内容まで熟知していた。
この場に存在しないものを遠方や別次元より呼び寄せる真召喚、この場に霊体の状態で存在するものに生物としての体を与える擬似召喚。
さらに真召喚は、実在と空想の二種類に分かれるという。
たとえば木の精霊クィックは擬似召喚であるが、狼の魔物ヴォルフは実在する対象の真召喚といった具合だ。
召喚師が実際にどの召喚獣を出せるのかは、召喚術を発動する際、彼らの意識が魔術波動に触れれば理解できると言われている。魔術波動とは、世界を網の目状に包み込んでいるとされる不可視で巨大な魔力の流れのことだ。
地形や気候に依存する地脈、生物分布に依存する竜脈、各地の魔力濃度に由来する魔脈などの総称である。
魔科学は正式な学問として成立してからの歴史が浅く、確実な証拠となる事象はほとんど観測されていないものの、これら召喚魔法に関する理論の体系は世界各地で研究が盛んな分野の一つだった。
「つまり別の場所から生命体を呼び出す真召喚は、世界的な魔力の流れを利用しているわけだ。ドラゴンなどといった現実には存在しない空想上の魔獣を我々の住む世界へ召喚するプロセスは不明なままだが、それも魔術波動と無関係ではあるまい。一時的に異界とつながっている状況を魔術によって作り出してしまうのだろう」
「……あ、はい。ええと――」
必死に耳を傾けるエイクだが、初めて聞くことばかりで頭の中に入ってくる情報の整理と理解が追いつかないらしい。
あからさまに落ち込んだ彼の姿を見たブラハムは、励ますようにアドバイスを加える。
「召喚獣を操る自信がないのなら、あらかじめ自分の身を守るために結界となる円形の魔方陣を地面に描いたほうがいい。あるいは呼び出す魔獣を命令で縛り付けるため、定型化された呪文を事前に唱えるのだ。なに、そう難しいことじゃない。ひとまず主従関係を明確に出来ればいい」
「しかし僕の祖父は召喚魔法を発動する際に呪文や魔方陣といった保険を使用していなかったようなのですが? 調べてみても、祖父の文献には何も記されていませんでしたし……」
「それで上級の召喚獣を使役することが可能なのは、おそらく優れた召喚師のみだよ。たとえば君の祖父のようなね」
「……そうでしたか」
「自分が未熟だと知って落胆する気持ちは察するが、そう気を落とすな。エイク、とりあえずこれを見てみろ」
ブラハムはエイクの祖父が残した文献を一冊残らず読み上げ、そのほとんどを暗記するとともに理解していた。とらえどころのない人柄ではあるが、魔法知識に対するポテンシャルは規格外なのかもしれない。
そんな彼が文献の山から選び出した書物は、エイクの祖父が記録した魔獣図鑑である。
「エイク、まず君は召喚した魔物を長く操れるようになるべきだ。簡単に魔力が尽きるのも原因だが、慣れていないのが一番の問題だろう。その図鑑に載っている魔獣や精霊を低級なものから順々に呼び出して、地道に練習するしかあるまい」
「わかりました」
と、一度は素直に頷いたエイクだったが、ふと思い出したように悔しさをにじませて苦虫を噛み潰す。
「かつて祖父が召喚した使い魔のいくつかは、今も独立して生存していると聞いています。マスターであった術者である祖父の死後も、一度発動した召喚魔法が消えることなく持続していると……」
「永久召喚か。確かに難しいだろうが、それができるのは祖父だけじゃない。彼の孫だという君だっていつかは可能になるさ。そのために練習するのだろう?」
「ですが……」
何を言っても冴えない様子のエイク。
ブラハムは小さくため息を漏らした。
「これは黙っているべきかとも思っていたが、私は村の人間からこんな噂を聞いたぞ。エイク、君は様々な人間から馬鹿にされていたのだろう? 子供のころは疎まれ、そして今では騎士になれなかったことを悪く言われているそうじゃないか」
「……ええ、そうです。僕は小さなころから夢だった騎士になり損ねました。唯一使える召喚魔法が不十分だという理由で、帝都の騎士団試験に落ちてしまって」
「よりにもよって帝都の騎士団試験か。まあ、あれは最難関だからな」
帝都を守る騎士団は帝国内で最強を誇る組織と呼ばれており、所属する個人の能力に限れば、武装した帝国軍すらも凌駕するといわれている。魔法を含めたあらゆる脅威から帝国の首都を、そして主義者をはじめとする暗殺の魔の手から皇帝を守り抜かねばならないためであろう。
そういった事情もあり、帝都の騎士団試験は難度の高い狭き門である。どんなに優秀でも合格率は低く、落ちた人間を笑うことは間違っているだろう。
当時の心境を思い出したのか、エイクは唇を噛み締めた。
「自分の魔法のレベルでは騎士になれないと突きつけられ、すっかり自信がなくなっていたときでした。帰省した当時の僕に、村の自警団のリーダーにならないかと声がかかったのです。……しかし今になって思えば、いささかリーダーとして厳しくしすぎたのかもしれません」
「いいや、エイク。英雄になるべく人一倍努力している君を馬鹿にする人間に同情する必要はないぞ。他人の命を預かる組織のリーダーに必要なのものは、例外と怠惰を許さない機械のような厳格さ、そして自らの姿を集団の模範とするだけの資質なのだから。そしてエイク、君のような召喚師こそ、生まれながらにしてリーダーの器をその身に宿しているのだ」
ブラハムはエイクの瞳を覗き込み、諭すように続ける。
「たとえば最上級の召喚魔法で呼び出せる最上位の存在は、もはや人知の及ばない神にも等しい存在であるとされる。それはおそらく、怠惰な人間に支配された今の世界を根底から変えることのできる唯一の力だろう。……エイク、もしも召喚魔法を極めることができれば、それを君の意志で自由に導くことが可能になる」
「……神のような存在を、自由に導く?」
「そうだとも。召喚師として究極の召喚獣を操れたとしたら、こんな小さな村の自警団リーダーどころではない。君は世界の調停者となることすら可能だろう」
そしてブラハムは怪しく微笑して、彼の話に聞き入るエイクの肩へと手を乗せる。
「なあ、エイク。すべてを見返してやりたくないか?」
「……なっ!」
声色は淡々としながらも、ブラハムは巧妙に刺激する。
今までエイクが押さえ込んできた攻撃的な自尊心、隠し切れない脆さに穢れたプライドを。
「いいぞ、その目は。……鍛えがいがある」
おそらくこの瞬間からであっただろう。
自警団リーダーとして召喚魔法を特訓してきたエイクの胸の中で、かつて信じた正義とは違う別色の炎が燃え始めたのは。
日が暮れて外もすっかり暗くなったころ、こっそりと足音を忍ばせたブラハムは薬屋の一階の奥、普通は身内以外の人間を中には通さない作業室に顔を出した。
そこにいたのはエイクの祖母、年老いたアイーシャである。
「おやアイーシャさん、ここにいらっしゃいましたか」
「あら、ブラハムさんじゃないですか。私に何か用事がおありで?」
「はい。実はあなたに、この薬品を調合していただきたいのです」
そう言ってブラハムはアイーシャに一枚の紙切れを手渡した。
丁寧な字で書かれている内容は、とある薬物の正確なレシピである。
「これは……まぁ! 現在では調合が禁じられている強力な暗示作用のある媚薬では……?」
その問いかけに対して即座に「もちろん」と答えたブラハムは穏やかに微笑み、その事実を知りながらもアイーシャに迫る。
「魔法で魔獣を呼び寄せる召喚者は、常に死の危険と隣り合わせなのです。エイクにしてみても、いつ暴走した自分の使い魔に襲われるかわかりません。その媚薬はもしものとき、あなたの大事な孫を守るためのものです。……アイーシャさん、お願いできますか?」
「ああ、エイクのため。あの子を守るため……」
「ええ、そうです。ですからアイーシャさん、どうか飛び切り強力なものをお願いしたい」
穏やかに語りかけるブラハムはアイーシャの肩に手を乗せて続けた。
「召喚魔法を使わず魔獣を操ってしまえるほど強力な媚薬を頼みます」




