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治癒魔法使いアレスタ  作者: 一天草莽
第一章 治癒の英雄、あるいは不死者の王
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02 奥深き森

 列強諸国の中でも大陸の覇者と名高い、デウロピア帝国の東端。

 その人里を離れた辺境に広がる森は生い茂っている木々の樹皮が濃い鼠色をしているので、ガリスデン山地という正式名称とは別にグレーウッドクラウズ、または単に「灰色の群衆」と呼ばれている。

 遠目に見れば無数の人間が寄り集まっているようにも見える不気味な森であるが、その奥深き森の道なき道を必死に走る一人の少年がいた。

 なかなか寝付けずにいたところを正体不明の男たちに襲撃され、命からがら燃え盛る家を脱出してきたアレスタだ。

 突如として命を狙われることになった彼は襲われた理由もわからぬまま、もう半日以上も逃げ続けていた。

 詳細な地図もなければ自分が走っている方向もわからず、どこまで逃げれば助かるのか、それさえもわからない。

 ただし、足を止めれば容赦なく殺されることだけは確実だ。ここに来るまでにも、すでに何度となく容赦なき攻撃を受けている。かろうじて直撃を避けてきたものの、ここまで彼の命を救ってきた幸運がいつまでも続くとは限らない。

 理不尽な運命に翻弄されて死にたくなければ、今は迷いを捨てて走り続けるしかなかった。


「まったく、あいつらは何が目的なんだ! どうして俺がこんな目に……!」


 どれほどの疑問や不満があったとしても、わざわざ振り返って相手に伝えるわけにはいかないだろう。アレスタの命を狙う追跡者たちは全員が武装しており、外見だけで判断するなら六人の帝国軍兵士なのだ。

 土足のまま押し入ってきた軍人たちに襲撃されれば逃げるしかなく、我が家でもある八重の塔を出て森にもぐりこんだまではよかったものの、気が付いた時にはカーターとはぐれ、一人ぼっちになってからも諦めの悪い兵士たちに追われ続けているのである。

 ちょうどいい木陰を見つけて上手く身を隠せたと思っても、そこが楽園だったのは追手の視界を閉ざす夜の間だけ。

 朝になって足取りを発見されたらしく、恐怖の逃走劇が再開したのだ。


「事情もわからぬまま黙って殺されたくはないけれど、かといって冷静に俺の話を聞いてくれそうな相手じゃない。命が惜しければ、今はどこかへ逃げ隠れるしかないんだ……」


 じわじわと照りつける昼下がりの陽光は無視できないほどの熱を持ち、地面をまだらに塗る木陰と木陰の間を焼くように、あたかも光の滝のように注がれている。

 なおも追ってくる敵から見て少しでも目立たぬよう、できる限り影となっている部分を踏むように意識して走る。

 現状の追っ手は確認できる範囲において六人。ひとまず数人だけなのだ。

 けれど、おおよそ十八歳になったばかりの少年であるアレスタにとって、世の中に障害や難問は数多く存在していて、武器として役立てられるような知識も経験も乏しければ、自分一人の力でできることは少ない。

 たかが数人とはいえ、どこまでも執拗しつように追いかけてくる敵の存在は恐怖の対象でしかなかった。

 いつ捕まってもおかしくない。いつ殺されたって不思議じゃない。

 魔法を使うことのできない彼が正面から立ち向かったところで、武装した軍人たちを相手にして勝てるわけがない。

 気がつけばアレスタは全身にいくつもの傷を受けていて、だらだらと血を流しながら走り続けていた。力尽きて踏みとどまってしまえば殺されてしまうのだと、くじけそうになる心に鞭を打って無理にでも足を動かす。

 と、その時である。


 ――ビシュッ!


 前触れもなく、命を刈り取るような風を切る音がした。

 鋭い音だ。

 直後、アレスタの背中に激痛が走った。


「く、くそ……っ!」

 

 一心不乱に走っていたアレスタは背後を振り返るまでもなく、叫びたくなるほどの痛みを実感した。

 見えない「何か」によって背中を切り刻まれたらしい。

 着ていた服とともに猛獣の爪に切り裂かれたような傷口から、勢いよく真っ赤な血液が噴き出す。後方からイノシシの突進を受けて突き飛ばされたような衝撃に足はもつれ、立っていられずアレスタは前のめりに倒れた。

 それは魔法による攻撃だ。

 逃走を続ける少年を足止めするために放たれた低級の風魔法である。

 どうやら帝国軍兵士に追いつかれたらしい。

 その無慈悲な現実をアレスタが思い知ったのは、地面の上で仰向けになった彼の胸元に剣先が突きつけられたときだった。


「命乞いの言葉はいらない。このまま安らかに眠れ、少年」


 整備されていない森の中を走りやすいようにするためか、軽装の防具に身を包んだ六人の兵士たち。

 疲労の様子を見せることなく立ち止まった彼らは地面に倒れたアレスタを取り囲んで、達成感もなく無表情に見下ろしていた。

 仰向けのまま顔だけを動かして周囲へと視線をめぐらせるアレスタだったが、もはや彼に残された逃げ場はない。

 とうとう追い詰められたのだ。

 ありったけの絶望と恐怖に打ちのめされ、死を覚悟したアレスタの鼓動は激しく脈動した。


「そうだ。そのままおとなしくしていろ。我々に抵抗しても無駄だ」


 年齢のわかりにくい威厳ある顔つきをした隊長らしい男の向ける剣先が、動きたくても動けずにいたアレスタの胸の上で重みを増す。

 ゆっくりと押し付けられた刃はアレスタの服を裂き、薄い肌の表皮を突き抜けて、心臓に近い胸元からは鮮血がほとばしる。

 まだまだ傷口は浅く、致命傷を感じるほどの骨身には届いていないものの、それでも激しい痛みがアレスタを襲う。

 凍りつくような死の恐怖が彼の全身を駆け巡る。

 それでもアレスタは理不尽な現実を認めたくなかった。


「ま、待ってください! これは何かの誤解です! だって、俺は何も……!」


 いらないと断言された命乞いの言葉。

 どうせ意味がないだろうと思いつつも、それを彼は一生懸命に紡ぎだす。

 実際に出てきた言葉以上に口はパクパクと開閉して、焦りと恐怖に頭の中は真っ白になる。

 とはいえ、とっさに選んだ命乞いの言葉であったとしても、決して嘘ではなかった。

 そもそもアレスタが命を狙われているのは何かの間違いであるはずなのだ。今まで普通におとなしく暮らしてきたつもりのアレスタには、自分が誰かに命を狙われる理由なんて何一つとして思い浮かばなかったのだから。

 人並みに好奇心はあったけれど、積極的には人と関わらず、騒ぎになるほどの喧嘩さえもしなかった。悠々自適にカーターとの二人暮らしを送っていたくらいで、命を狙われるほどの悪事に手を染めた記憶はない。


「そう、俺たちは何も悪いことなんて……」


 襲撃の夜、武装した兵士を相手にして一歩も引かなかったカーター。情けなく腰を抜かしていたアレスタの手を引いた彼は帝国兵をたった一人で撃退しつつ、アレスタとともに炎上する家を抜け出して、星明りの届かない森の中へと逃げ延びた。

 しかし、逃げる彼らを追うのは世界最強を誇る帝国軍。

 かろうじて捕まらずに済んだものの、広大な森の奥深くでカーターとはぐれたアレスタは一人で逃げ隠れることしかできなかった。

 離れ離れになる前、帝国兵の返り血を顔に浴びたカーターはアレスタに言った。森を抜けた帝国の辺境には頼りになる知り合いがいるから、しばらくかくまってもらおうと。

 もちろん、それを聞いたアレスタが何一つ疑問に思わなかったわけではない。

 帝国の辺境、つまり隣国であるエフランチェ共和国との国境付近に頼れる知り合いがいるなんて、十年近くカーターと暮らしてきて初めて知ったことだ。共和国と帝国とは古くから続く長い因縁があり、現在は戦争状態ではないとはいえ、敵対する国の一つである。

 いつ紛争が起こってもおかしくない危険な国境付近に住むという知人が一体誰なのか、アレスタはまだ名前も聞いていない。


「悲しいことだが、君は死ぬ」


 帝国兵が静かにつぶやいた。

 どこまでも救いのない残酷な言葉を、確定事項のように。

 いつの間にか昔の回想に逃げ込んでいたらしいアレスタは、ふと我に返った。


 ――ああ、死にたくない。


 祈るように手を合わせたくても、胸に当てられた剣先が邪魔をする。

 じわりじわりと傷口が深みを増す。

 さすがに平静を装っていられず、虚勢をはがされたアレスタの顔が激痛に歪んでいく。

 すると帝国兵は余計な苦痛を与えないようにと考えたのか、即死する勢いで心臓を貫くために高々と剣を持ち上げた。

 きつく歯を食いしばりながら兵士を見上げていたアレスタにとって、気を失いそうな痛みと涙ににじんだ視界の中、それが一瞬、美しい十字架に見えた。すでに教会主導の古代宗教が廃れてしまったこの世界で、それはひどく滑稽で皮肉なことに思えた。

 もしも神がいるのなら、そもそも彼が理不尽に死ぬことはない。

 死後の安楽を祈るだけ無駄なことだ。きっと救ってはくれないだろう。

 ならば結論は一つだ。

 どんな状況からでも生き延びたければ、いつだって自分の力で立ち上がるしかない。


「……よし!」


 覚悟を決めたアレスタは目の前に突き出された剣をとっさに左右から両手で挟むと、なんとかその動きを止めることに成功した。

 火事場の馬鹿力を発揮した白刃取りだ。


「……なっ! どうせ助からぬというのに、そんな馬鹿なことを……!」


 すっかり油断していた帝国兵は目を見開いて驚き、そのまま突き落とすはずだった剣の動きが止まる。

 ほんの少しの時間だろう。それでも生き延びられたアレスタは嬉しかった。

 ただし安堵する暇はない。かろうじて一命をとりとめたアレスタの手からは大量の汗が噴き出しており、力強く挟んだ剣が両手の間で無慈悲にすべっていく。

 体力の限界が近い。力比べでは勝ち目がないアレスタの息は過呼吸気味に乱れた。


「せめて、どうか俺の言葉を聞いてください!」


 どうしたって剣を抑えるのに精一杯だったアレスタは立ち上がることもできない。

 だから彼が生きるために選ぶことのできた行動は、やはり命乞いの言葉を発することだけだ。

 ところが現実は過酷である。薄情とさえいえる。

 情け容赦のない圧倒的な暴力を前にすれば、たとえ真実を伝えるものであろうと、言葉だけで立ち向かうのは無謀だ。

 力を持たない言葉だけでは、彼らの攻撃を止めることなどできない。

 相手からの返答は短く、無慈悲に告げられる。


「聞かぬ!」


 言い捨てるように叫んだ兵士によって剣で横に払われたアレスタの右手は、その内側から鬱憤を晴らすように大量の血を吐き出した。なんとか無傷で済んだ左手で一生懸命に右手を押さえつつ、組み合わせた両手できつく胸を押さえ込むようにして、あまりの激痛に言葉も出ないアレスタは地面へとうつ伏せに転がった。

 出来ることなら、このまま地面を転がってでも逃げ出したかった。

 けれど、すでに六人の兵士に取り囲まれていた彼にはそれ以上の自由が与えられない。


「隊長、よろしければ私に武勲をください」


 土砂降りの後に残った雨粒のように汗が浮かぶ額を地面につけて痛みをこらえていると、六人のうちで最も年少者であろう帝国兵が、べっとりと返り血に汚れた剣を払っていた隊長に話しかけていた。

 その様子をじっと、地面にうずくまりながらアレスタは覗き込む。

 依然として出血は止まらない。段々と意識が遠のいていく。

 声だけは聞こえた。


「武勲?」


「はい。すなわち手柄です。この少年の首を持ち帰った者には、帝国政府から褒章が出るのでしょう? 私はそれが欲しいのです」


「……よかろう。家族もなく、すでに年老いた私には不要なものだ。お前に譲ってやる」


「ありがとうございます」


 隊長からアレスタの首を刈り取る権利を与えられた青年が嬉しそうに頭を下げると、他の兵士は後ずさってアレスタから距離をとった。

 可愛がっている部下に武勲を与えられるのが嬉しいのか、普段から面倒見がいいらしい隊長は誇らしげに腕を組んで、初めて自分の力で飛翔する雛鳥を見守る親鳥のように、微笑ましい顔つきで眺めている。

 あとはアレスタが静かに首を斬り落とされてあげれば、任務を達成した彼らは喜びに声を上げるだろう。

 けれど、当然ながらアレスタは黙ってなどいられなかった。

 わずかな隙をついて立ち上がると、たまたま誰もいなかった方向へと駆け出したのだ。

 疾走するために力を込めれば全身の傷口が開き、血は勢いを取り戻して流れ始める。すでに傷ついた右手は力が入らず、大きく腕を振ることができない。

 それでもアレスタは全力で走った。

 振り向かず、前も見ず、ただ闇雲に危険から遠ざかるためだけに。


「逃がすかっ!」


 最初に一歩、また一歩、そうやって交互に足を前へと踏み出していたアレスタの背後で、耳をつんざくような轟音とともに地面がめくれ上がった。

 背後に見えた一瞬の光、ほどなく伝わる熱風、音を立てて舞い上がって散る木々の葉、あるいは切り傷を負った背中に当たる無数の小石や風圧は、たった一つの絶望的状況をアレスタに突きつけた。

 容赦なき火の魔法だ。

 彼の背後で生じたのは爆発である。

 小規模ながらも避けようのない破壊力を見せた帝国兵の魔法攻撃を受けたアレスタは走っていた勢いそのままに、大きく前方へと転がるように吹き飛ばされたのだ。


「う、うう……」


 気が付いたときにはアレスタは顔から地面に突っ込んでいた。

 とっさに右手を前に出そうとするものの、怪我で力が入らず、思うようには動いてくれない。利き手ではない左手の反応はわずかに遅れ、ろくに受身をとることすらできず、顔から地面に衝突したアレスタは力なく身を伏せた。

 胸元から溢れ出る鮮血は水たまりのように地面を赤々と染める。

 倒れた彼の周囲にはメラメラと燃える炎が残り、もうもうと広がった煙の焦げ臭さと血生臭さが混じりあって、不快に漂った。

 魔法の炎によって焼けただれた両足は彼に再び立ち上がることを許してはくれない。

 もはやどうしようもない。

 今度こそアレスタは明確に自分の死を覚悟した。


「さて、もう一発……と豪勢にいきたいところだが、あまりにも強力な魔法で死体を焼き払ってしまうと証拠がなくなって武勲がもらえなくなる可能性があるのでな。首だけは綺麗なまま頂くことにしよう」


 背後から迫り来る足音に対して、アレスタは振り返ることができない。

 圧倒的であろう敵の姿を視界に入れてしまえば、本当に抵抗をあきらめてしまうような気がしたからだ。


「ああ、くそう……。こんなことって……」


 だから彼は現実逃避をするように顔を持ち上げて、帝国兵のいない前方を見据える。

 だが、どうだろう。

 視界に広がった光景は窮地にあるアレスタを助けてくれる都合のいい逃げ道ではない。

 そこで終わる崖だった。

 それより先に地面が続くことはなく、前後左右のどこにもアレスタに残された逃げ場はない。


「どうあがこうとも、お前は死ぬ。すまないな。魔法を使えぬ少年を殺すのは気が引けるが、ここは運命だと思って諦めてくれ」


 いつの間にかアレスタの近くに立っていた帝国兵は、起き上がることのない彼に向けて剣を振りかざした。


 ――もう駄目だ。このまま俺は死ぬ。首を落とされ殺される。


 そう考えたアレスタは静かに目を瞑り、最後に一つだけ力強く願った。


「……どうかお願いだ、立ち上がってくれ!」


 願いは天に届いたのか、それとも自分を奮い立たせただけなのか、そう叫んだアレスタは満身創痍の状態である体を誤魔化して、二本の足で立ち上がっていた。相変わらず血は流れ続けていたし、背後には剣を振りかぶった兵士もいるはずだったけれど、最後の気力を振り絞って立ち上がった彼は何も考えずに走り出した。

 ただただ前に向かって猪突猛進するアレスタ。

 やがて彼の体は姿勢を保つための支えを失い、次に足を踏み下ろすべき地面を失って、それから何拍かの間、重力に引かれながら浮遊感を味わった。

 なんてことはない。勢いそのまま森を駆け抜けたアレスタは目の前の崖から決死の思いで飛び降りたのだ。

 直後に背後から、いや、地面に向かって落下するアレスタの頭上から、崖の上に残った兵士たちの驚きを含んだ叫び声が次第に遠ざかりながらもかすかに聞こえてくる。

 凶器のように角ばった岩肌にぶつかりながら、途中からは転がり落ちるようになりながら、アレスタには自分が実際の時間よりも長く、ずっと虚空を落ち続けていたように感じられた。


 ――もう助からないだろう。これで助かるわけがない。


 しかし地面に衝突してようやく動きが止まったアレスタの意識は消えることなく続いていた。

 とはいえ無事というには程遠い。

 全身から溢れ出す血、もはや指先さえも動かない手足。

 馬鹿みたいに荒れた呼吸、次第に薄れていく意識。

 実際のところ、ほとんど死に掛けていたのだろう。

 すべての輪郭が遠ざかって視界全体が白くなり、病的なまでの眠気と寒さがアレスタの意識に襲い掛かる。

 すると、なにやら彼の目の前に一枚の扉が浮かび上がってきた。

 厳重に鍵のかけられた扉だ。。

 現実には存在するはずのない門。


 ――どうやらこれが『死』というものの入り口らしい。


 むせながら吐血したアレスタは今度こそ目を閉じて、すべてを受け入れることにした。


「……え?」


 ところが死を受け入れたはずのアレスタは不思議な感覚に包まれた。

 己の全身が目には見えない何かに覆われていくような暖かさを感じたのだ。

 それは風のうねり? 神秘のヴェール? それとも天使の祝福?

 よくわからないながらも、わからないなりに彼はその名状しがたき不思議な感覚にすがった。

 運命に引き寄せられるように右手を伸ばすと、指先が揺れるより前にすべての鍵が解除され、扉が開いた。

 その先に広がっていたのは――。


「まさか、これが精神果樹園……?」


 壁のように続く高い柵に四方を囲まれた、けれど一面に広がる果樹園。

 つい今しがたアレスタが落ちてきた崖下とは違う空間だ。

 おそらく現実の光景ではない。

 だとすれば、これこそが噂に聞く精神果樹園なのかもしれない。

 満身創痍である身体は一歩たりとも動けないはずだが、活力を取り戻したアレスタの意識だけが中へ踏み入る。

 そこは精神が生み出した魔力を蓄えるための不思議な果樹園。魔法使いによって育つ果物は違うらしいが、アレスタの場合はブドウだった。

 果樹園に並ぶ木々の一本一本に、みずみずしく実っている淡緑色のブドウ。

 ズキリと痛む右手に力を込めて一房のブドウを握りしめると、飛び散った果汁が掌の中で淡く輝いた。その輝きは次第に熱を帯び始め、想像だけにとどまらず現実の右手に伝わってくる。

 そうだ。現実だ。

 いつ死んでもおかしくない状況にあったアレスタは精神果樹園にとどまっていた意識を現実の世界に戻し、地面に寝転がった姿勢のまま一本ずつ五本の指を動かして、ゆっくりと右手を開いていく。

 不思議なことに、右手にあったはずの傷は治っていた。

 すでに痛みはなく、どこにも傷跡が見当たらない。

 安心して目を閉じると、意識の中にある精神果樹園の扉はまだ開いていた。たわわに実ったブドウもたくさん残っている。

 あれが魔力の根源なら、再び同じことが可能なはずだ。

 そう考えた彼は二つ目の房に手を伸ばした。

 それから左手を、胸を、両足を。

 全身のいたるところにある傷口へと現実の右手を当てながら、ゆっくりと精神を集中させる。

 するとそれらは先ほどと同じように完璧に治ってしまったのである。

 傷という傷が跡形もなく治癒されたアレスタは、ようやく無事を確認して立ち上がる。

 もう痛みはなかった。ひょっとすると恐怖さえも。


「嘘だろ、これ……」


 心ではそう思ったが、現実として彼は確かに生きていた。

 嘘じゃない。夢なんかじゃない。

 だとすれば、これは、いわゆる治癒魔法と呼ばれるものではなかろうか。

 それは彼が生まれて初めて使うことの出来た魔法であり、そして現状、唯一使えるらしい魔法であった。

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