14 対峙のとき
裏社会では名が知れている腕利きの情報屋だったという雑貨屋の店主オーガンから、育ての親であるカーターについての情報を得ることができたアレスタ。想定外の事実に動揺や疑念がなかったわけでもないが、難しく考えることを後回しにした彼は大急ぎで城へ向かうことにした。
どこまで真実なのかは別としても、悪事をなそうとするカーターの陰謀を知ってしまったからには無視するわけにもいかない。すべてが手遅れにならないよう、今の自分にできることをするのみだ。
「さて……」
何者にも邪魔されることなく、無事に城の近くまで来たアレスタ。
領主だけでなく騎士や役人たちが一人残らず洗脳されているとすれば、どれほど熱心にカーターの危険性を伝えたところで意味はなく、堂々と城門から入ることはできない。
何事もないように警備の騎士が立っている正門を離れた場所、よく見なければわからないが、なにやら一か所だけ色が違う石の使われている石畳があった。
それは隠された入り口の印。雑貨屋を出る際にオーガンから受け取っていた仗を使うと、仕組まれていた魔法が発動してゲートが開かれた。一部の人間しか知らないという隠し通路だ。
長らく使用されていないのか、不気味な魔物が住み着いていてもおかしくない雰囲気のある地下通路。ほとんど直線とはいえ薄暗い通路を壁に手を当てながら走り抜けると、急な上り階段が最後に待っていて、その先で青空の見える城の中庭に出た。
見回りの騎士の姿もなく、誰もいないようだ。
そう思っていたが、広い中庭に立ったまま安堵した直後に男が一人、城の廊下から中庭へと出てきた。
糾弾するつもりもあって、その男の顔を見た瞬間にアレスタは大声で叫ぶ。
「カーター!」
しかし彼を出迎えたカーターは驚きもせずに肩をすくめた。
「城に設置されていた警報用の魔道具が地下からの侵入者を伝えていたので来てみれば、アレスタか。今頃は地下牢で処刑を待っているはずだが?」
「そんなことはどうでもいいんだ! 俺のことはいい! カーターは何をするつもりなんだ!」
「こちらの話を聞きたいのなら少しは静かにしろ。小さな子供じゃないんだから、わめき散らして騒ぐんじゃない。こちらの計画を手伝ってくれるなら丁寧に説明してやるが、その様子を見るにそうじゃないんだろう? 私は自分がやるべきことを果たそうとしているだけだ」
「……騎士を利用したクーデターがそうなのか?」
違えばいいのにという期待と不安をないまぜにして声を震わせたアレスタが尋ねると、ほとんど無表情だったカーターは不愉快そうに眉をひそめた。
どうやら情報屋の話は間違っていなかったらしい。
「そこまで勘付いていたか。これは迂闊だったな。わざわざ暗示魔法を使って無能な騎士どもにお前の始末を任せるのではなく、私が直接に手を下したほうが早かったかもしれん。十年間ともに暮らしてきたとはいえ、妙な情を出すべきではなかった」
言い終わると同時に覚悟を決めたのか、カーターは腰の剣を引き抜いてアレスタへと向かってくる。
ずしり、ずしりという重い足音。
歩みは遅いものの、ためらいはない。
あまりにも素直な一直線で、考える間もなくアレスタに至る最短距離を詰めてくる。
「待ってよ、カーター。本気なの? 何かの間違いじゃないの?」
クーデターが事実なら説得してでも止めようと思っていたアレスタだったが、こうして話し合いの機会すらなく、いきなり危険な手合わせをするつもりなどなかった。
当然だ。十年来世話になった育ての親を相手にして、本気で殺し合いをしようなどと考える馬鹿はいない。
ところが現実には、挨拶代わりに剣を取る馬鹿げた親もいたようだ。
考え方が甘いと言われればそれまでの話だが、剣を手にしたカーターだって義理とはいえアレスタの父なのだ。アレスタはカーターに備わっているであろう良心に期待していたのである。
「どういうわけか知らぬが、十年前に帝都の地下で初めて出会ったときから、お前には私の暗示魔法が一切効かなかった。……となれば必定、魔法ではなく剣術によって貴様を殺し、私の邪魔をする者を始末するまでだ。他の人間はあえて殺さずとも、暗示魔法でどうにかなる」
「どうにかなるって、カーターは本当に暗示魔法が使えるの? ねえ、カーター、だって魔法は使えないって……」
「……アレスタ、お前には言っていなかったな。私が魔法を使えると知って驚いたか?」
敵として向き合うことに、少しだけ未練がある。
あれだけ魔法を憎んで危険視していたカーターの口から、実は魔法が使えると聞きたくなかった気持ちもある。
だが、それらを上回るほどの覚悟を胸にしたアレスタは首を横に振った。
「いや、答えてくれてありがとう。これで心置きなくカーターを止められる。……あきれた話かもしれないけれど、もしこれで俺の間違いだったら、何かをやろうとしているカーターの邪魔をして申し訳ないと思っていたんだ」
「間違いか。この世に間違いがあるとすれば、それは私の意に反することだけだな。我々こそ正しいと、いつの日か世界が実感するだろう。お前も邪魔しようなどとは考えず、私にひざまずくのだ」
「まったく、知らぬ仲じゃないっていうのに武器を捨てて平和的な話し合いで解決するって考えはないのか……!」
おどけて言いつつ、剣を構えて近づいてくるカーターから逃げるように後ずさるアレスタ。
だが広い中庭も無限に続くわけではない。後方に下がるにも限界はある。逃げ場所もあまりなく、見る見るうちに距離が縮められていく。
自分の意志で城まで乗り込んできたアレスタではあったものの、手元にあるのは護身用の杖だけだ。人を殺すために作られた剣を手にするカーターと対等に戦える力はない。
これは単なる親子喧嘩ではないのだ。気に食わぬからと、殴って倒せる相手ではない。
けれどアレスタはこの状況になっても思う。
育ての親を相手に剣を取り合うことだけは避けたかった、と。
「相手のことを理解するつもりもなく、お互いの意見を押し付けあうだけの無意味な話し合いに何が期待できる! 世界を変える力もなければ、人を救う力などあるわけがない!」
遠くへ逃げようにも間に合わず、あっけなくカーターに追いつかれたアレスタ。怒りとともに無慈悲に振り下ろされた剣戟をかろうじて見切り、肉を斬られる寸前で攻撃をかわす。
ただの偶然かもしれない。
しかし、これまでの少なくない戦闘経験が功を奏し、ある程度の攻撃を回避できる確率は以前よりも高まっているはずだ。
治癒魔法が使えるとしても、相手の攻撃をいちいち食らっていたら心も体ももたない。魔力を節約するためにも治癒魔法だけに依存せず、無駄な傷を負わないに越したことはない。
とはいうものの、本気で斬りかかってくるカーターの激しい攻撃をいつまでも避け続けるのは難しい。次第に追い詰められ、ますます劣勢を極めるばかりだ。
どこかで反撃に転じる必要がある。
しかし親子喧嘩に人殺しの武器はいらない。
そう考えたアレスタは力強い声と言葉で反論を突きつける。
「だからって気に食わない相手を傷つけるためだけに力を振るっていたら、いつまでたっても世界を救うことなんてできないよ! 俺には難しいことってよくわからないけどさ、カーターが傷つけようとしている人たちも助けたいんだ!」
「あまりに愚かしい考え方だな。ちゃんと教えたはずだぞ、アレスタ。魔法がある限り、すべての人間を平等な意味で救うことなど不可能なのだ!」
カーターは怒りに身を任せ、生きた人間ではなく、伸びすぎた草を刈るような気軽さで剣を横に振るう。
剣先が水平に弧を描き、わずかに反応の遅れたアレスタの左腕をかすめた。切り裂かれたような鋭い痛み、いや、実際に皮膚が切り開かれたのだろう。熱を持った赤い液体が傷口に沿って飛び散った。
こぼれ落ちた赤い斑点が地面に色をなして、ほんの少量ではあったがカーターにも返り血を浴びせかける。十年来そばで連れ添った息子の血だ。つながっていないとはいえ生々しい血の香りだ。それがカーターの殺意をやわらげてくれるだろうとアレスタは密かに期待した。
ところが親子の情はあっけなく裏切られ、すでに覚悟を決めていたカーターの手は止まらない。アレスタの血には不愉快そうに反応したのみで、剣を手にしたまま攻撃を思いとどまらなかった。
少し遅れて痛みを訴えた左腕が悲鳴を上げる。
これ以上の出血は命にかかわりかねない。
それでもアレスタは必死に答えた。
「もちろん現実には、その通りかもしれない。だけどさ、カーター、よく考えてみてよ! すべての人に手を差し伸べることができなくたって、すべての人を平等に幸せにすることができなくたって、だからって誰かに敵意を向ける必要はないよ! どうしてそこで魔法使いを皆殺しにするって結論が出て来るんだ!」
大声を出そうとして無意識に力んでしまったせいか、左腕から走った痛みに屈して思考が停止しそうになる。ここで倒れてはならないと、痛みを誤魔化すようにアレスタは歯を食いしばって耐えた。
ふと地面を見下ろせば、足元には薄い血だまりがある。
大量に出血したせいか、意識が朦朧とし始める。
けれどアレスタは再び顔を上げて続けた。
「みんなに対して平等に力を貸すことが不可能でも、みんなに笑顔を向けるくらいなら可能かもしれない。すべての人を自分一人の力で助けることが難しくても、まわりと少しずつ協力することができたら、なんとかなるかもしれない」
「戯言を」
「もちろん俺だって子供じみた戯言だとは思うよ。世の中にはどうしようもないほど悪い奴がいて、そういう悪人を誰かが成敗する必要があるかもしれないってのもわかるんだ。血を流さずに悪い奴を改心させるのって難しいことだよ。だけどさ、カーターが今やろうとしていることはどうなんだ? 俺の目から見たら、今のカーターこそ悪い人間に見えるよ」
長々とカーターに語りかけながら、心の内側で精神果樹園を開いたアレスタは右手に力を込める。
みずみずしい淡緑色のブドウをもぎ取って魔力を手に入れると、カーターの剣によって出来た深い傷口を右手で優しくなでつける。
かざした右手と左腕の傷口が共鳴するように光り輝き、ゆっくりと傷がなくなっていく。
アレスタにとって唯一の対抗手段、治癒魔法だ。
正々堂々と剣をぶつけ合って戦うことができないなら、こうしてカーターとの対話を試みつつ、治癒魔法でしぶとく噛み付くしかない。
「……ほう? 杖を捨てた右手をかざして何をするのかと見ていれば、それは治癒魔法の一種か? ふむ、やはり帝国政府は何かを知っているらしい。まさか帝都にあった研究所は治癒魔法を使える者を生み出すためのものだったのか……?」
自分で言っておきながら、それを否定するカーターは首を横に振った。
「まあいい。アレスタ、これでお前を容赦なく切り捨てる理由がもう一つできた。お前が使ったその治癒魔法こそ、我々が最も忌むべき魔法だからな。世界は治癒魔法の術者によって、いともたやすく蹂躙される」
左腕の傷を治すために使ったアレスタの治癒魔法。
その一部始終を観察するように眺めていたカーターは攻撃を再開して、決意を新たに踏み込んでくる。
手には剣を持ち、目には殺意を宿らせて。
一方、アレスタは完治したばかりの傷口から右手を離すと、地面に落とした杖を拾う間もなくとっさに横へ向かって跳び、直線的に振るわれた攻撃からかろうじて逃れた。
余裕はない。生き延びるために必死だ。
「私は反魔法連盟が一人、カーターことカタルシスだ! 魔法を使う人間など世界には必要ない! アレスタ! 無論、お前もだ!」
魔法使いを一人残らず殲滅するという、過激な思想を有する組織である反魔法連盟。
その主義者であるカーターは彼らの崇高なる目的を果たすため、憎むべき治癒魔法を使ったアレスタの命を狙う。
大きく横に跳んだ結果、うっかりバランスを崩してしまったアレスタの隙を見逃さず剣を突き刺してくる。
真っ直ぐ点を突くように一閃。
それを避けるには判断力と速さが足りなかった。
「カーターだって魔法を使うだろうに!」
答えたアレスタの口からは吐血交じりの声が出た。カーターの突きはアレスタの横腹を見事に貫いていたのである。
その深い感触を確かめたカーターは、勝ち誇った顔で剣を引き抜く。
「くっ、ああ……っ!」
引き抜かれた剣の動きに合わせ、唸り声を上げたアレスタの体からは血が吹き出した。先ほど見た左腕の出血など比べるまでもない。内臓まで容赦なく傷つけられたのか、穴の開いた横腹から流れ出すおびただしい鮮血は、アレスタが感じられる絶望の中でもっとも甚大なものだった。
もはや治癒魔法を使おうと意識するまでもなく、原始的な止血のためだけに右手を傷口に押し当てる。
とどまることなく溢れ出る血は生暖かく、右手だけでは止めるのも間に合わない。とっさに左手も添えて、暴れるように訴えてくる苦痛をひたすらに我慢した。
そこへ、倒錯した自己愛に満ちたカーターの声が降ってくる。
「ああ、アレスタ、だから私は自分のことも大嫌いだよ。この世の魔法使いをこの手で皆殺しにしたら、最後には自分の首を自分で切り落とすことが私の理想だからな」
自らの中に眠らせていた暗い理想を口にしたことで改めて闘志を燃やしたのか、アレスタの横腹から噴き出した大量の返り血を顔に浴びていたカーターが、どこまでも冷酷な無表情で無感情に笑う。
不気味に歪んだ顔を見ながら、救いようのない話だとアレスタは憂鬱を覚えた。
苦痛が限界に達して脱力し、地面に片膝をつく。
この世のあらゆるものが自分を突き放したかのように音が遠ざかり、周囲の気温が一気に氷点下まで下降したのではないかとアレスタは錯覚した。
あまりに寒く、冷たく、小刻みに震えるしかなかった。
それは死を前にした恐怖心なのか。あるいは体内の血を大量に失って命の危機に陥ったからか。
それでもアレスタは思い出したように蛮勇を奮う。
すると口だけは動いた。
「いいことを教えてあげるよ、カーター。……世界中の魔法使いを皆殺しにすることは不可能だし、自分で自分を殺すことほど愚かな行為は他にないってね」
次にはアレスタの顔が少しだけ持ち上がり、なんとかカーターを見上げることができた。
すぐそばで自分を見下ろして立っているカーターの瞳を見つめながら、アレスタは先ほどよりも強い口調で言葉を紡いだ。
「そんなことをやるくらいなら、世界中の人々のためにもっとましな方法で戦ったほうがいい。魔法使いと共存する方法さ。みんなを平等に幸せにすることが不可能だと言ったって、この世界から魔法を根絶やしにすることだって同じくらい不可能だよ。同じ不可能なら、少しでも救いがあるほうがいい。共存の道を探す。そのほうがよっぽど現実的だ」
熱心に語りかけつつ精神果樹園を開いて、治癒魔法を使うためアレスタは右手を横腹に思い切り押し付けた。
戦うには頼りない遅々とした速度で、非常にゆっくりとではあるが、朦朧としていた意識も段々とはっきりしてくる。
一つのブドウでは足りず、必要な魔力を追加するため二つ目のブドウをもぎ取ると、やがて体も末端まで不具合なく動き始める。
どうやら生死に関わるくらいに深い傷だと、それだけ治癒魔法にも時間がかかってしまうらしい。
けれど、それでもちゃんと治癒ができるのなら、防戦一方にならざるを得ないアレスタにだって希望はある。
一度ならず何度も死に掛けたアレスタではあったが、もう一度、力強く顔を上げて真正面からカーターに立ち向かう。
「なるほど奇妙なり。その治癒魔法、まさかと思って試してみたが、それほど深い傷でさえも癒してしまえるか。ならば仕方がない。残念だよアレスタ。世界のためにも、ここでお前の首をはねるしかあるまい」
「……昔からそういうところがあったけど、ちっとも俺の話を聞いちゃいなかったみたいだな」
有言実行のつもりか、顔色を変えもしないカーターはためらうことなく、アレスタの首を狙って剣を振るってきた。
首を跳ね飛ばされれば即死だ。きっと治癒魔法をかける暇もなく死んでしまう。
魔力が続く限りいくらでも魔法で治癒できる手足などと違って、なんとしても首だけはやられるわけにはいかない。
アレスタは反射的に左手を盾にして剣戟から首を守った。
容赦なき刀身が肉を裂いて骨にまで達したのか、あるいは骨を砕くほど深い傷を負ったのか、その一撃、たった一瞬で左手の感覚が消し飛ばされる。
もしかして左腕が切断されたのかと思ってアレスタは自分の左肩から先を確認したが、かろうじて左腕はつながっていた。
ところが尋常ではない量の血が失われていく。ちぎれそうなくらい大きく開いた傷口から流れ出しているのだ。
まるで力が入らず、だらりとぶら下がった左腕を右手で庇うように抱きかかえると、アレスタは剣の斬り返しを狙ってきたカーターから慌てて距離をとる。
もちろん考えなしに後退する訳ではない。この隙を利用して治癒魔法を使用するのだ。
その目論見は成功して傷口がふさがった瞬間、押さえつけていた右手を離したアレスタは治癒魔法の効果を確かめるため左腕を上下に振ってみた。
ありがたいことに痛みはない。今回も無事に治ったらしい。
これまでに何度も治癒魔法を使用しているせいか、徐々に魔法の扱いにも慣れてきた気がするのは心強かった。
「ああ、もう、ちょっと待ってよ! せめて俺の話くらい聞いてくれ!」
しかし現実には無策に等しい。
どれほど治癒魔法を発動しようとも、それを上回る頻度でカーターの攻撃を受けていてはきりがない。魔力か体力の限界が来れば、いつしか治癒魔法の効果がなくなってしまうのも目に見えている。
意味のある打開策を見出さなくては、カーターを止めることなど夢のまた夢だ。
「世界のために掲げた私の大いなる志を前に、お前が語る小さな理想を振りかざしたところで意味はない! 私の歩みを止めることなど不可能であると思い知るがいい!」
小さな理想か……。
今が戦闘中だということも忘れて、思わずアレスタは自分の胸に手を当てて考えた。
反魔法連盟に所属するカーターがなそうとしていることは、その善悪は別としても、社会を根底から変革するくらい大きな野望なのだろう。
それに対してアレスタは一体何を考え、何をしようとしているのだろう?
今の今までずっと流されて生きてきた自覚のあるアレスタには答えられない。
「よいか、アレスタ! たかが小鳥ごときが、世界を覆わんとする鳳凰の前に出てくるのではない!」
再び襲い掛かってきた身を裂くような激しい痛みに、アレスタは悩み始めていた思考を停止させる。己の生き方を悩むのも大切だが、それは今じゃない。考えるのは後に回すべきだ。
目の前で荒れ狂うカーターを無視するわけにはいかない。
それからアレスタは何度も何度も治癒魔法を繰り返しながら、思いついたようにカーターに語りかけた。
「今の俺には、たぶん、他の誰かを否定できるだけの根拠となるような自分という存在がまるでないんだ。経験も、知識も、だから想像力だって未熟なものだ」
「だろうな!」
カーターに右腕を狙われたアレスタは冷や汗を流しつつ、慌てて体の向きを変えて左腕を犠牲に捧げる。今回もカーターの剣が深く入りすぎたのか、そのまま肘から先を切断されそうになったが、かろうじて骨はつながっていた。
全身を駆け巡る激痛に顔をしかめながらもアレスタは治癒魔法を使い、地を這うようにカーターの追撃を逃れる。
反撃のため使うのは言葉だけ。ただ祈るように声を投げかける。
「だけどさ、そんな乏しい俺の想像力でだって、カーターのやり方が間違っているかもしれないって思うんだよ! 誰かを犠牲にするような方法に、たとえ誰かを幸せにする力があったとしても、それじゃ絶対に他の誰かが悲しむだけじゃないか!」
ところがカーターから返ってきた言葉は予想外のものだった。
「その悲しみは時が癒してくれる悲しみだ。必要悪として、世界のために許される悲劇だ。たとえばお前は、今から千年前の悲しみを覚えているか?」
「せ、千年前だって? そんな昔のこと……」
自分が生まれる前の話など覚えているわけがない。
アレスタがそう言い切る前に、その答えを受け取ったカーターは剣を振る手を止めて語り始めた。
どこか嬉々として、それこそが世界の真理であるというように。
「千年前の戦争で帝国が得た利益はお前も享受しているが、その戦争に駆り出されて死んでいった当時の帝国兵の悲しみなど知りはしないだろう。もちろん帝国軍に殺された人間たちの絶望もな。彼らの悲劇を生々しく覚えていないのは、なにもお前だけではない。今を生きる民衆のほとんどがそうだ。しかし帝国の繁栄は過去に何度となく繰り返されてきた戦争の賜物だ。過去に発生した悲劇の上へと、どこまでも都合よく現在の幸福感を上塗りして忘れているだけなのだよ。どうだ、それでも世界は続いている!」
「そんなの詭弁じゃないか!」
「詭弁だとも! ただし否定しようのない事実だ! ……わかるか? 私は一時的な平和や具体性のない希望ではなく、そういった歴史的な救いを実行しようとしているのだ!」
そう言いながら振り下ろされた剣は重く、怒りと覚悟が上乗せされた痛みをアレスタに伝えてきた。もう何度も味わった体を切り裂かれる痛みだが、それが何倍にも激化している。
危うく失神寸前で、すべての意識がとんでしまうところだった。
倒れる直前のところで気を持ち直して、アレスタはカーターの言葉について考える。
過去の痛みは時とともに薄れていく。こうして今を生きる自分たちが歴史として過去の出来事を知っていても、個人の感情的には風化してしまっており、遠い過去の悲劇など他人事として忘れているのかもしれない。
ならば過去のあらゆる悲劇は現在の世界を形作るための必要悪だったのか?
この世界に否定しがたく蔓延する「魔法による悪影響」を消し去るためなら、すなわち「魔法なき平和な時代」や「魔法使いの消え去った平等な社会」といった理想を実現するためなら、結論として、この時代に生きる魔法使いたちがその痛みを引き受けるべきなのか?
魔法が使える人間を誰一人残さず、世界平和のため一方的に滅ぼすべきなのか?
……いや、違うだろう。
間違っているだろう、それは。
本気で言っているつもりなのかよ、カーター。
そこまで考えたアレスタは育ての親の言葉を否定する。
「それでも俺は、自分の理想だけのために悪くもない誰かを犠牲にする方法は否定したい! だってさ、たとえ一人でも悲しい顔をする人がいるのなら、それは辛いじゃないか! どんな理屈を並べたって、それじゃ心が痛むんだ!」
そしてアレスタは語りかける。確信を持って告げる。
「カーターだって、本当は誰も傷つけたくないんじゃないの? 大切な人たちを守りたいんじゃないの? だって、だからこそ何かを変えようと必死になっているんでしょう?」
「知ったようなことを!」
すげなく返ってきたのは否定だ。
凝り固まった己の価値観を肯定するべく、カーターは再び荒々しく剣を振るった。
斜めに走った袈裟斬りを至近距離から受けたアレスタの胸が激痛に包まれ、今まで以上に勢いよく血しぶきを撒き散らす。
「知ったようなことを言ってごめん! 今の俺はカーターのことはおろか、自分のことだってよく知らない馬鹿な子供だよ! でもさ、知らないからって無関係を決め込んで無視はできないんだ!」
「黙れ、アレスタ! なぜお前は私の前に立ちふさがるのだ!」
悲痛にも聞こえたカーターの言葉を受けて、アレスタは自分自身にも言い聞かせるように叫んだ。
「自分にすら自信が持てない俺の言葉なんか届かないのかもしれない。……でもさ、だからこそカーターは自分なりの言葉で、もう一度だけカーターの頭で考え直してほしいんだ! カーターが今やろうとしていることは間違っているんじゃないかって! 俺みたいな人間を打ちのめしてでも、強引に力ずくでやり遂げなくちゃいけないものなのかっ!」
「……くっ」
心を込めて問いかければ、一瞬の迷い。
ほんのわずかだったが、攻め込むには十分な隙が発生した。
その反応に少なくない勝機を見出したアレスタはここで攻勢をかけるべく、さらに言葉を畳み掛けようと積極的に身を乗り出すが――。
「うるさい、黙れぇ!」
吐き捨てながらカーターが切り払った剣はアレスタの右腕を狙った。
突風よりも速く、空を飛ぶ鳥でさえ落とす一撃。動きを目で捉えた瞬間に当たっていたアレスタには避ける余裕がなかった。
大きくも素早く、的確な一振り。寸分の狂いなく研ぎ澄まされた一閃。
それに合わせて噴き出した血の乱舞。
激痛なんてものじゃない。アレスタの右肩から先は感覚そのものが奪われていた。
「……アレスタ、これで治癒魔法は使えまい」
ボトリと、何か大きな塊が地面に落ちた音がする。
それに伴って血が跳ねた音もした。
とっさに治癒魔法を使うべくアレスタは右腕を動かそうと試みて、しかしそれは反応がなかった。
当たり前である。そこにはもう何も存在しなかったのだから。
「……うぐっ!」
何かを喋ろうとしても意味のある言葉は出ず、歩き出そうにも足は動かない。
身を覆うのは圧倒的な恐怖と絶望ばかりで、もはや何も考えることさえ出来なくなっていた。
他でもない。アレスタはカーターによって右腕を切り落とされたのである。
絶対的な救いをもたらしてくれた右腕を、つまり、彼が今までずっと頼り続けてきた治癒魔法を。




