(弐)
姉は真夜中の散歩が好きだった。いつの間にか布団を抜け出して、家を出て行ってしまう。僕はいつも姉について行こうとするのだけれど、姉は決まって僕が寝入ったときを狙って姿を消してしまうのだ。そして僕が姉の不在に気付いて、急いで後を追おうとした瞬間に帰ってきてしまう。
玄関に立つ僕が不機嫌に姉を睨むと、姉は「大きくなったら連れて行ってあげる」と必ず頭を撫でる。僕は最初、姉だって子どもじゃないかと、その手のひらから逃れようとするのだけれど、二度三度と姉の手のひらが僕の頭をやさしく撫でるうち、「次は連れて行ってよ」と、仕方ないなあという風に言ってしまうのだ。それは僕が姉を許したという合図だった。姉は僕がその言葉を口にすると、「そうだね」と言って僕の手を握り、部屋に戻るよう促す。僕たちは今度こそ二人で布団に入り、手を繋いだまま眠る。
父と母は共働きで、家にはなかなか帰ってこない。帰ってきても朝方か、僕と姉が学校に行っている時間帯に帰ってきて、生活費と簡素なメモを置いて行くだけ。両親は僕と姉に関心が無かった。僕はそれを寂しく思ったけれど、姉はなんとも思っていないようだった。ただ机の上に置いてある茶封筒の中身を確認すると、つまらなそうな顔で僕たちの部屋の鍵のついた引き出しの中にしまった。
僕と姉はよく一緒に買い物に行った。家でも饒舌ではなかったけれど、出かけるとき、姉はいつにも増して無口だった。姉は僕以外の人間を信用していないような目で見た。子どもに対するまなざしはいつもやさしげだったけれど、大人を見るときの姉は、あのお金の入った茶封筒をみるときの、酷くつまらないものをみるような目をしていた。たまに「おつかいかい、えらいね」と声を掛けられると、姉は知らん顔をした。「ありがとうございます」と笑うのは決まって僕の役割で、姉はずんずんと先に進んでは僕がやってくるのを待っていた。
僕と姉は買い物に行った帰り道、いつも公園によってから帰る。僕と姉が食べるぶんの食材はそう多くない。荷物を持つのも決まって僕の役割だ。僕は姉が持ってくれても良いのに、とたまに不平を漏らしたけれど、実際の所自分が荷物を持つことに不満など抱いていなかった。姉の不安定な腕がビニール袋をさげているのを想像するだけでぞっとする。姉は人間らしさが無い。故に、人間らしいものを姉が持つと、たちまちそれは不安定になってしまう。持たれている物も可哀想なくらいに居心地が悪そうだし、姉の身体はいつどこかが壊れてもおかしくなさそうに見えるのだ。
僕は姉が重力が無いみたいに歩いているときが安心するし、まるで自分が人間で在ることを忘れたように子どもや大人を見ている方がずっと姉らしいと思う。僕はビニール袋を自分のベンチの上に置いて隣に座った。姉も続くように僕の横に座る。
姉は公園に自分と僕以外の誰も居ないかをたしかめるように首を動かした後、「今日もおつかれさま」と言った。姉は僕以外の人が居るときに話すのを好まなかった。外に居るときは決まって僕と二人だけの時に、まるで内緒話をするようにささやかな声で話す。
その日の姉は沈んでいる様子だった。姉は地面を這っている蟻たちを見ていた。蟻たちはまるで一つの直線をつくるように列になって歩いていた。
「知っているか?」と姉は突然話し始めた。
「蟻って足跡を残すんだって。自分の家族にしかわからない足跡を残して、家族がその足跡をたどるようにする。蟻の行列ができるのはこの足跡のせいなんだって。みんな忠実に足跡をたどるんだ。蟻は働き者だから。彼らはこの道筋だけを見て歩いている。わたしのことも、きみのことも見ないで、ただ一心に自分の家族が残した道をたどっている」
「そうなんだ……」
僕は感心して蟻を見た。蟻は糸のような手足を器用に動かして、なにかとても小さいものを口にくわえて運んでいた。姉は蟻に視線を注いだまま続ける。
「でもね、たまに円を描いてしまう蟻がいるんだって。原因はまだ分かってないらしいんだけれど」
「円を? でも円って……いくら歩いても同じ場所をぐるぐるしちゃうんじゃ……」
「そう。蟻たちは永遠に円の中を回り続ける」
姉の声が一段階低くなって、僕は驚いて姉の顔を見た。姉は相変わらず蟻がいる方向に視線を落としていたけれども、その瞳は蟻ではなく、なにか別の物を映しているように見えた。
「どうするの、それで」と少し怖くなった僕は姉の袖を引いた。
姉は一瞬僕に目を向けて、すぐに逸らした。
「……そのまま自分の体力が無くなるまで歩く」
僕は姉が反応してくれたことに少しだけ落ち着いて、また蟻を見る。蟻はあいかわらず、前を歩く蟻が歩いたとおりの道をなぞっている。均等な感覚で足を動かす彼らは、姉が口にした怖ろしい円のことなど知らない風だった。きっと彼らはこの先に自分の巣穴があり、自分の家族を待っていることを疑っていないのだろう。
僕は想像してみた。もしこの直線が円であったなら。巣穴などその円の上にはなく、ただの道しか無かったのなら。彼らはどうするのかと。この先に巣穴、或いは自分の仲間が見つけた何か大事な物があると信じて歩く蟻。円の中の蟻は懸命に歩き続ける。自分の体力が無くなるまで。懸命に足を動かす。彼らは働き者だから。
僕は想像の中の蟻たちに一つの答えを見つけ、たまらず姉に聞いた。その答えを否定して貰いたかったのだ。
「体力が無くなったらどうするの」
僕の問いに姉は口を閉ざした。それは僕の中で肯定だった。姉はきっと僕が想像していたことをもうとっくにシミュレーションし、僕と同じ答えを弾き出したに違いない。僕は自分の気持ちが一瞬で沈んでいくのを感じた。
「不幸だと思う?」
姉は僕に問いかけた。「不幸だと思う?」
僕は正直どう答えて良いか分からなかった。僕は円の中をぐるぐる回る蟻たちを思った。彼らは彼らの信じる道を歩いている。その彼らの行動に僕は勝手に不幸だと名付けて良いのだろうか。それは僕が不幸だと口にして良いものなのだろうか。咄嗟に可哀想だと思った。だから僕の気持ちは沈んだ。けれども果たして彼らは不幸なのか。彼らはきっと可哀想だと思って歩いているわけでは無い。可哀想だという気持ちはあくまで僕のもので、それは彼らの物では無い。
「……姉さんはどう思うの?」
質問を質問で返すのは御法度だと分かっていたけれど、いわずには居られなかった。
長い沈黙が流れた。空が僕の好きな橙色に埋められて、ゆっくりとインターナショナルオレンジに近づいていく。もう少したてば空は茜色に変わって、光を落とした後、夜が訪れるだろう。そろそろ帰らなくてはいけない時間だ。
雲と空の境界を探すのが難しくなった頃、姉は夕日を見ながら「わからない」と答えた。その横顔は本当に分からないと言うように困り果てたものだった。
「わからない。わたしには彼らが不幸なのか、それとも幸福なのか。わからないんだ」
僕は姉の手を掴んで「帰ろう」と言った。足下の蟻の列を踏まないように気をつけながら、ビニール袋を持った。透明の袋を数匹の蟻がのぼろうとしていていたのを軽く払って落とすと、姉と手を繋ぎながら公園を出た。僕は心の中であの蟻たちが円を描くことが無いように祈った。
その夜僕は姉に手を引かれて、円の上を歩く夢を見た。
姉は円の形に描かれたインターナショナルオレンジの線の上を歩き続ける。僕は姉の手を掴んだまま、同じようにその道を歩いて行く。歩いても歩いても円の上から出ることは出来ない。僕と姉は永遠とその円状を回り続ける。足が千切れそうに痛くなり、喉が渇く。意識が朦朧としてくる。身体のパーツがすべてばらばらになってしまうようだった。けれども僕と姉は、歩くのをやめない。
僕はふと典礼を思った。おはじきをはじく僕と、それを見ている姉。僕はあの時の気持ちと、今の気持ちが全く同じだと言うことに気付く。身体中が熱くて、汗がとめどなく流れている。どこもかしこも悲鳴を上げていることが自分でもよく分かる。けれども僕はやめようとしない。むしろやめるという選択肢自体、はじめから僕の中に無いように思えた。
何故だろう、と自分に問いかけて、僕はすぐに答えを知る。
――きっと姉が此処に居るからだ。
姉が手を引いてくれるのならば、姉が見ていてくれるのならば、すべてが終わった後に何よりも微笑んでくれるのなら、僕はいくらでも頑張れるのだ。なんだってできるとおもうのだ。僕は不幸じゃない、と思った。円状をひたすらに歩いた蟻たちがどんな想いだったか、僕には分からない。けれども僕は、姉と回ることが出来るのならば、この不毛な円の上は不幸では無いと思った。
僕は手を引く姉の手を掴みながら、転んでしまう。僕は自分の最後を予感した。もう動かない身体を、姉が抱きしめている。最後に僕の瞳に映るのは姉だ。姉は幸福そうに僕を見て、けれどもとても悲しい目をして僕を見ている。姉の唇がそっと動き、空気が震える。けれども僕にはもう音が聞こえない。唇の動きだけで僕は姉の言葉を知ろうとする――。
目を開けると姉が心配そうに僕の身体を抱いていた。
僕は僕のうなじを支えている姉の手の温度が、全く自分の肌の温度と同じだと言うことに驚きながら、姉を見ていた。
姉は「悪い夢でも見た?」と言う。
僕は小さく首を振って、「悪い夢では無かったよ」と答える。嘘じゃない。本当だ。
「姉さん」
「うん」
「もし姉さんが歩いた道を僕も歩くとして」
僕が口に出した数少ない言葉で、聡い姉は、僕が話しているのは昼間の蟻の話の延長だと言うことに気付いたらしかった。昼間夕日を見たときの顔と同じ顔をして僕を見下ろす姉に、僕は続けた。
「僕は不幸じゃないよ」
「…………」
「何度同じ事を繰り返しても、そこに姉さんが居るなら、僕は不幸じゃない」
姉はそう、とだけいって僕の頭を撫でた。僕は再び眠くなって、そのままするすると目を閉じる。姉が頬にキスをしてくれた感覚を最後に、僕は再び眠りに落ちた。
今度は何の夢も見ず、朝目が覚めたときにはもう蟻の夢を見たことも、姉と話したことも忘れてしまっていた。姉はいつも通り僕におはようとほほえみ、僕はランドセルの紐に腕を通す。
姉の真夜中の散歩は中学生になっても続いていた。姉は中学の制服がお気に入りだった。黒のセーラーに、白のラインがくっきりと刻んである制服は姉によく似合った。姉は飽きないのかと思うほど、いつもそのセーラー服を着ていた。そして真夜中の散歩の時も、決まってその制服を着るようになった。
僕は姉が通報されはしないかとヒヤヒヤしたものだけれど、姉は全くそんな心配はしていないようだった。姉はいつも通りふらりと家を出ては、いつのまにか僕の隣の布団で眠りについた。外を歩いてきた姉の服はいつも春の風のかおりがする。
開けたままのカーテンから、月の白い光が部屋に差し込む。姉の白い頬をうつす。
もし「ねえ、姉さん。そろそろやめたほうがいいんじゃないの」と僕が言ったら。姉は笑みを浮かべるだろう。笑って、それだけ。こういうときの姉は、僕の話など少しも聞かない。
僕は姉のことを心から愛している。
けれども、僕の知らない世界で生きる姉のことは、大嫌いだった。
僕の見えない場所に生きる姉のことを、僕は心から憎んでいた。