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幸ひの名前を呼んで  作者: 藤波
第三章 僕と姉の話
8/16

(壱)

 橙さえも陰る部屋の中はインターナショナルオレンジにも劣らない。一等うつくしい僕の好きな光の色だ。


 床にばらまいたおはじきは、まるで夜空に浮かぶ星々のように、各々全く異なるひかりを放っていて僕を魅了した。散らばったおはじきの上に無造作に寝そべる姉は、下着姿のまま置物のように動かず、その瞳はびいだまのような不安定な透明さで僕を見ている。呼吸をするたびに上下する胸、生まれる鎖骨のくぼみは、唯一姉を人間らしくした。水の中から急に地上に出された魚のような、果てない生を感じるただ残酷な呼吸。彼らのただ悲しくひらいたり閉じたりする銀色のえらは、一定のリズムを刻むだけの無音の呼吸だ。世界で一番綺麗な呼吸をするのは魚だと、僕は思う。

 僕は正座をして、姉から少し離れた場所に座っていた。畳の目が足にくっきりと痕をつけているだろうということが、確認しなくとも僕には分かっていた。靴下に僅かな汗が染みついていて、空気がそれにふれるたびに、僕はこの場所が「夢のなかではない」ということを自覚した。まるでまどろみのように此処には音がなく、においがない。在るのは明暗と、生々しい温度と、ふるびた畳のささくれだった感覚だけ。

 姉は僕がおはじきとおはじきの間に線を引いて、おはじきを弾くのを見ているのみだった。僕は慎重に、おはじきとおはじきの間を指でなぞった。緊張はしていないはずなのに、僕の指はみっともなく小刻みに震えていた。僕はすべての神経を指に注ぎ、おはじきとおはじきの間に境界をひくことで、手前のおはじきを向こう側のおはじきにぶつける権利を手に入れる。指が何処にも触れず境界をひきおわり、僕がおはじきとおはじきの間を見えないハサミで切り離したことがわかると、姉は少しだけ瞳を細めて喜びを表した。僕は出来ることなら姉のその僅かな変化をずっと咀嚼していたいのだけれども、境界をひきおわったのみではこの遊びは成立しない。僕は次の段階へと進んだ。

 人差し指の爪を親指の腹に押しつけて、親指の腹でまた人差し指を圧迫し、ぱちんと人差し指を外側に弾く。爪の緩くカーブを描いた部分が、おはじきのもっともやさしい形をした場所に勢いよく当たって、あらゆる境界を飛び越えていく。ばちばちばちん、と遠慮無しの澄んだ高い音が部屋の中に響く。僕はぶつかったおはじきを丁寧に拾い、自分の膝の上に載せた。膝の上は既に水玉模様のようなカラフルなおはじきで小さな海が出来ていた。ぱちぱちぱち、とさきほどとは打って変わり、やわらかい音をたてて、新しく手に入れたおはじきが海の水を増やす。

 姉はぼくの典礼をただ見ていた。決しておはじきに手を伸ばすことはない。あくまでこれは僕一人の遊びだとでも言うように、姉は沈黙を貫いた。この場所に音は無かった。僕はまるでこのひとときが永遠に続くものでは無いかと錯覚した。多分、この部屋に時を測るものが欠如していることが原因だと思う。僕は時間の感覚を外から入る光と部屋の中に生まれる暗闇だけで推測しながら、ひたすらにおはじきを弾き続けていた。それを姉が求めていたからであったし、僕自身が姉のために――そして自分自身のためにしていたかったからだった。

 おはじきは弾くたびに姉の方へ近づいていった。そしてしばらくすると、おはじきのほとんどは姉の骨と皮と僅かの肉で作り上げられた、陶器のような身体の下に滑り込んでしまった。姉の身体の影からみえるおはじきは薄濃く明るさを落とし、鈍く妖しく光っていた。僕の膝の上にのるおはじきと、姉の身体に触れているそれは全くの別物に思えた。僕のはあくまでただのおはじきだけれども、姉の身体の下で此方を向いているおはじきは、宝石のような高貴で無機質な光を持っていた。

 僕は姉を見た。額にかいた汗が重力に従って顔の上を這っていて、気持ちが悪い。けれども僕はそれを腕で拭うことはせず、ただ姉を見る。

 姉は静かに起き上がった。姉は汗一つかいていなかった。床に姉の輪郭を中途半端に縁取ったおはじきたちだけが残った。姉の着ている白のキャミソールの肩紐が、片方だけするりと二の腕まで落ちる。姉は片方の足を伸ばしたまま、もう片方の足を静かに立て、膝の部分に頭をのせて「続けて」と言った。

 その言葉に従順に従って、僕はまた境界を引いていく。


 すべてのおはじきを自分の膝に載せたとき、僕の膝上の海は膝から落ちるほどに広がっていた。足は既に感覚が無いくらいに痺れていて、僕はとてもくたびれていた。姉はいつのまにか、間の抜けたキャラクターが胸元に印刷されているTシャツを着ていた。僕の髪の毛は汗でぐずぐずに濡れていて、全身から特有の酸っぱい匂いが発せられていることをぼんやりとした頭で感じていた。気持ちが悪い。水風呂か、塩素の臭いがするプールに入りたい、と思った。夏は好きじゃない。

 「お疲れさま」と姉は言った。僕は全身の力をといて、姉を見る。お疲れ様、という一言はこの典礼の終わりの合図だった。僕は今日も無事に典礼を終わらせたことに安心した。

 姉はまるで恋人にするように――と言っても僕は『恋人』というものを物がたりのなかでしか知らなかったけれど――僕のおでこに張り付いた髪の毛をすくって、濡れた髪の毛を梳いた。姉の非の打ち所が無い形をした指が、僕の汗で湿っていく。姉はいつもやさしかったけれど、典礼が終わった後の姉はいつもよりもずっと僕にやさしかった。姉は僕にオレンジジュースの入ったガラスのコップを渡すと、「飲み終わったらお風呂に入ろうね」と微笑んで、頬にキスをした。

 僕は黙って頷くと、ガラスのコップの縁に口を付けて、一口ずつオレンジジュースを飲んでいく。からからに乾燥している喉に、オレンジジュースはあまりやさしくないのだけれど、姉はいつもオレンジジュースを僕に飲ませた。甘い味が口の中のあちこちに張り付いて、余計に喉が渇いていく。僕はオレンジジュースを時間をかけて飲み干すと、姉がいつもひとつだけコップの中に入れる氷をあめ玉のように口の中で転がした。

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