後
『やはりあの子を連れて行かないので?』
「連れて行けないんだ。もうきみも分かっているんだろう?」
『それはまたどうして? ――とは言わないでおきます』
「きみも察するようになったか。それともきみの内側に、人間が残っているのか?」
『いや、きっと無いと思いますよ』
「……きみはわたしに連れてこられて、仕合わせか」
『愚かな問いですね』
「それもそうだね」
『あの時の私にはその選択肢しか無かった。だから選んだ。それだけのことです』
「そうか」
『でも、今私はあの時より生きていると思うようになりました』
「生きている?」
『ええ。こうしてあなたと居ることを何よりも誇りに思う自分が居るのです』
「それは……」
『何故、と聞くのは無粋ですよ』
「……きみはたまに難しいことを言うね。けれど、わたしはきみのそういう所が気に入って、きみの手を掴んだんだ」
『後悔は?』
「するわけない。ばかげてるな」
『ならばやはり、愚かな問いでしたね』
「そうだな。おろかだった。おろかだった。きみたちにも非道いことをした。彼にも」
『ならもう一度会いに行くべきです』
「できるかな」
『できるできないではなくて、するんですよ――ほら、』
迎えが来ましたよ、と若葉が言う。カケルは顔を上げる。木の上から、坂を駆け上がってくるミチルを見た。
「何故来た」
木から飛び降りる。桜の木を見上げるミチルの前に。ミチルはとっさに受け止めようと走って、失敗した。勢い余って地面に尻餅をつく。腕の中にはカケルがいる。何故来た。カケルはあきれた顔でミチルに再度問いかける。ミチルは「何故って」と非難するように彼女を見て、口を閉ざす。カケルが穏やかに微笑んでいたからだ。
「何故って、あいたかったからじゃないの。カケルもずっと、それで僕に会いに来ていたんでしょう?」
「ばかじゃないのか」
そんな笑顔で言っても否定にはならないと思う、とミチルは思った。頬がじんわりと熱を持つ。
「人のファーストキス奪って逃げるのって、あれだよ、セクハラ」
「わたしも初めてだったから手打ちだと思った」
「なにその理屈、おかしい」
手打ちってなに、勝手にしておいて、とミチルが言う。嫌だったのなら謝る、とカケルが言う。月が丸い。まあるい月。暑くも寒くも無い温度。初めて会ったあの夜のようだとカケルは思った。嫌だとミチルが言うはずが無いと知っていて、カケルはこんなことをいう。カケルはいつだって嘘つきだ。
「僕は見えなくなるのかな、きみのことが」
「なるだろうね」
「ならないといい、なんていわないんだね」
「気休めは言いたくない」
それに見えたとしても、わたしときみは結局一緒に居られない。ミチルは言う。
「お前はわたしと違って成長が早いし、寿命も短い。いつかわたしを置いてきみは死ぬんだろう。わたしはそれに耐えられるか分からない」
「耐えて欲しい……といったら?」
「その前にきみはわたしのことが見えなくなる。こうして話すことも、触れることも無くなるだろうよ」
「わからないじゃない」
「いや、決まってるんだ」
こればかりはもう、どうにもならないんだよ。そう笑って、カケルが立ち上がる。腕の中から居なくなる。ミチルの視界はぐらりと霞む。目をこすって、首を振った。
「僕、攫われても良いんだ」
「そのためにここにきたんだ。僕、カケルの見えない世界なんかで生きていたくない」
「いままでずっと、ずっと一緒に居たんだ、これからも一緒に居よう。僕、きみとなら永遠の中を生きても構わないと思う」
「カケル、僕はきみに夢など無いと言ったね。でもできたんだ。きみが僕を攫おうとしていたと言ったその時に。僕は初めて明確に、自分の意思で夢を持ったんだ」
「でもずっと、きっと最初からあったんだと思う。きみが言うように僕は明日を信じるようにきみとの未来を信じていたんだ」
「ねえカケル、僕を連れ去ってよ。ここから。僕をきみと同じ永遠に住まわせてよ。きみの一部で構わない。一生一緒に居よう、カケル」
カケルがミチルの頭に手を伸ばす。その指が髪の毛を撫でる。
「それで充分だ」
カケルの言葉を聞いた瞬間、ミチルは手を伸ばした。行かないで、と叫ぶ。
「きみはそこで生きていなくちゃ行けない。生きなきゃダメだ、ミチル」
「嫌だ」
風が吹く。強くふく。桜の花びらが一斉に舞い上がる。足下に白が積み重なる。桜の海に沈むようだった。沈んでも良い。沈んで欲しい。ミチルは目を細める。わからないよ、と叫ぶ。いつかわかる、とカケルの声が遠ざかる。目が霞んでいく。
「きみは選択肢を持っている。夢を持っている。わたしはきみを、連れて行くことが出来ない」
「きみは連れて行くには多くの物を持ちすぎている」
「きみは永遠といったね。永遠の中でわたしとひとつになれたらと」
「でもわたしたちはもうとっくに、永遠なんだよミチル。きみとわたしはとっくに、もうずっと前から一つなんだ」
「ミチルとカケル。満ち欠け。わたしたちはいつだってずっと、永遠の中を生きている」
「欠けたわたしを満たしてくれるのはいつもきみだった。ミチル。わたしはきみのことを、……そうだな、人間らしく言うのならば」
きっと愛していたんだと思う。夢を持つきみを。
カケルが笑っている。もうそこに、桜は無い。
「きみがいつか全てを失う日があったら今度はわたしがきみを満たそう。けれどもきっとそんな日は来ないね。来ないことを願っているよ。けれどもきみが死んだその時は、わたしがきっと迎えに行く。きっとだ。ミチル、忘れないで」
桜が降る。降り積もる。白と薄い唇の色に埋もれていく。カケルの姿はもう見えない。けれどもわかる。カケルは見えなくとも、ずっと自分のそばに居るのだと。
「ああでも口付け、あれは良かった。もう一度くらい、しておいてもよかったな……」
声が消える。
目を閉じる。目を開く。ミチルがいるのはベランダだった。ばらばらになった桜の花びらを拾って、唇を寄せる。それはてのひらで桜貝となり、粉々に砕けた。波の音が聞こえて、顔を上げるとベランダは海へ変わっていた。
ミチルは砕け散った貝の欠片をさらさらと海の上に振りかけた。まるで海に魔法をかけるみたいに。さらさら。さらさら。血の通った指先が、海の照り返しできらりと光る。さくら色のその粉は、水面を何度か漂った後、波にのまれて沈んでいく。そしてまた、何事も無かったように景色はベランダへ戻っていった。
「カケルちゃん。今日から僕たちは――ひとつだよ」
そうだよね、カケルちゃん。
名前を呼べば、どこかで葉っぱが擦れ合うような声が聞こえた気がした。




