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幸ひの名前を呼んで  作者: 藤波
第二章 かみかくしくかみか
6/16

 ミチルはもう高校生になっていた。カケルはミチルに合わせて姿を変えたけれど、どんなに皮膚をしていても、どんなに瞳に温度を含ませても、現実から逸脱した感じが抜けることはなかった。

 どんなかたちをしていても、カケルは変わらない。

 ミチルはそれがうらやましくあったし、また寂しくも在った。なぜかはよくわからないけれど、なんとなく、ミチルは嫌だった。けれどもそれは仕方の無いことだし、言ったらきっとカケルを困らせる(といっても不機嫌になるだけでミチルの言葉をまともに取り合うことはしないだろうが)から、口には出さないでいた。



 ミチルは未だにカケルのことを「ちゃん」付けで呼ぶ。

 カケルは相変わらずミチルのことを「ミチル」と呼ぶ。


 視界がぼやける。海に立つ、いつもどおりのカケルの姿が揺らぐ。具合が悪いのか、という問いにミチルは首を振る。多分違う。けれどなぜか、カケルの姿が上手く見えなかった。

 カケルちゃんの姿が上手く見えない、と素直にミチルが言うと、カケルは驚いたように目を丸くした。そして一瞬傷ついたような顔をして、いつも通りの無表情になる。

 ミチルは普段表情を変えることがあまりないカケルの変化に、目を丸くした。カケルは口の端っこを緩める特有の笑い方をして、海を見る。

 ざばん、ざばん。春の海は寒くて、ミチルはあまり好きじゃ無かった。


「もうすぐ見えなくなるのかも知れない」と唐突にカケルが言った。

「……は?」


 ミチルの声が波の音を突き抜ける。声変わりの終わった、カケルの声よりもずっと低い声だ。ミチルは声変わりをしたとき、カケルは自分のこの声を笑うだろうと思った。けれど、カケルは珍しくその無表情をとびきりの笑顔に変えて、「良い声だ」と言った。それをぼんやりと、唐突に、ミチルは思い出していた。

 カケルの表情は見えなかった。

 ただ、膝の少し下まで、海に浸かりながら太陽を見ている。夕日が髪の毛を照らしていた。


「見えなくなるってどういうことだよ」


 ミチルの焦った声を、カケルは笑った。ミチルはカケルの反応に少しだけむっとする。

「ミチル、きみも大人になるってことだよ」とカケルは言った。


「大人には見えないっていうの?」

「そうだな…きみも知っているように、子どもでもわたしのことが見えない子はいるよ。まあそれでも、見える子のほうがおおいかもしれない。けれど、大人は違う。大人は見えない。大人の中でわたしの姿を見ることができる人間に、未だかつてわたしはであったことがない」

「何故」

「理由は分からない。けれど、多分そう言うことなんだと思う。そういう風になってるんだ」


 一息で喋ったあと、カケルはミチルの方を振り向いた。彼女の瞳は琥珀のように夕焼けを孕んできらきらとひかっていた。

 なあミチル、とカケルがミチルの名前を呼ぶ。


「"あなたさまの退屈が先か、あの子の年月が先か"、か」


 ミチルの名前を呼んだくせに、ミチルに向けての言葉では無いようだった。ミチルは黙ってカケルを見ていた。


「ミチル、きみとの時間はとても面白かったし興味深かった」

「何を言ってるのか分からない」

「怒ってるの?」

「怒っちゃいけないの?」


 なに見えなくなるって。なに大人になるって。どうしてそんなこと、大事なこと、なにもいってくれないんだ。

 ミチルが叫ぶ。カケルは困ったように肩をすくめた。何にも思わないわけ、とミチルは砂浜から海に片足をつっこむ。カケルはぎょっとして、「風邪を引く」と言った。しるかよ、そんなこと、とミチルは乱暴に答える。


「どうしてそんなこと、全部僕に黙ってるんだ」

「別に秘密にしてたわけじゃない。言わなかっただけだ」

「言い訳でしょ、それ」

「必要が無かったからいわなかっただけだ」


 ざばざばと海を進んで、ミチルがカケルの腕を掴む。指が肌に沈む。カケルの肌があたたかいことに、ミチルは驚いた。カケルは人間みたいだった。肌の表面には乾燥した塩がこびりついていた。きもちわるくないのかな、とミチルは思って、きっとおもわないんだろうとすぐに思い直した。カケルは人間みたいなだけで、ミチルとはやはりちがうのだ。


「もう一回言って」

「なにを」

「必要が無い?」


 逃げていただけじゃないの、とミチルが言う。波がゆれている。足下で細かい砂が巻き上がって、足の甲に降り積もる。固い貝の感触。桜貝かも知れない、とミチルは何故か思った。


「もう一回言って」

「必要が無い」

「もう一回言って」

「必要が無い。……もう良いだろう、ミチル。今日のきみはおかしい」

「おかしくさせているのは誰なの」

「さあ、誰だろうね」


 ミチルはその言葉を聞いた瞬間、自分のこころが一瞬で凍り付くのが分かった。

 ミチルは黙った。

 黙って――カケルを思い切り突き飛ばした。


 ばしゃん、という音を立ててカケルが尻餅をつく。後ろに手をついて起き上がる。下半身が海に浸かっていた。肘のあたりで波が揺れている。無表情だった。短い髪の毛から水がしたたり落ちる。カケルを見るミチルも、やはり無表情だ。


「カケルちゃんなんて大嫌いだ」


 ミチルがそう言った瞬間、鉄砲のような速さで大きい固まりが胸に飛び込んできた。ミチルは足を滑らせて後ろに倒れた。一瞬顔まで沈んで、起き上がる。砂の上に手をつくと、ごほごほと噎せる。目の中に海水が浸入して、酷く痛んだ。おなかの辺りが重い。やっとの思いで目を開けたとき、細い両手がミチルの喉を柔らかく覆った。

 カケルだった。

 夕日の影のせいで、表情は見えない。覗き込むように顔を寄せると、強い瞳に真っ直ぐ射貫かれた。形の整った瞳。長い睫。全てがミチルを否定し、拒絶していた。責めていた。初めて見る表情だった。カケルは強く、強く怒っていた。ミチルは息を飲む。カケルの髪の毛から、ミチルの頬に水滴が落ちる。水はミチルの顎を伝って、海の中に落ちた。


「笑わせる。何も知らないくせに」

「何も分かろうとしていないくせに。わたしが何者かも知らないくせに。きみが、お前が生きている時間など」


 カケルは言葉を切った。

 首を覆う両手に力は無かった。俯いて、もう一度ミチルを突き飛ばすように胸に手をつく。ドン。ドン。ノックするように、きっちり二回。そして、あっさりとミチルの上からどいて消えてしまった。

「カケルちゃん」

 ミチルはカケルを呼ぶ。けれどもそこには海と、夕日と、一つの桜の花びらがあるだけだった。流されないように右手で掴むと、水にふやけたそれは粉々に千切れて、波に攫われた。 口喧嘩で何度も、嫌いだと言ったことはあった。言われたことも、あった。けれども一度として彼女はあんな風に怒ったりしなかったのに。




「カケルちゃんってなんなの」


 足をだらしなく透明の硝子テーブルにのせるカケルに、ミチルが問いかける。緑の古びた鉛筆の端っこを噛んで、原稿用紙と向き合う。カケルが噛むせいで、鉛筆の塗装は所々はげている。汚いからやめなよ、とミチルは注意するけれど、こういうときのカケルは神経質で、ミチルの話など少しも聞かないのだ。

 カケルは膝の上に置いた原稿用紙の束を両手で掴んで机に投げる。さらさらと硝子の上を紙が散らばる。さっきからしきりに手を動かしていたくせに、文字は一つも薄茶色の正方形の中に収まっていない。そもそもカケルに字はかけなかった、ということをミチルは思い出す。なんて生産性の無い行為なんだろう。文字の書けないものが、文字を書くことでは無い。文字をかくつもりのないものが、原稿に向かう行為が、だ。


「いま生産性が無いって思っただろう」

「なんでわかったの」

「なんとなく」


 カケルはそう言って鉛筆と同じ色をしたストローのさしてあるオレンジジュースを飲み干す。ぐるりと小さい丸を作っているおしゃれなストローをくわえることはせず、唇を付けてコップを傾ける。机にぼたりとストローが転がる。原稿用紙がびしょ濡れだ。なんのためのストローなの、とミチルが眉を寄せると、オレンジジュースを飲みながら瞳だけ動かしてカケルが此方を見る。不機嫌なミチルの顔を見ると、笑うように目を細めた。

 コップの底まで橙色を飲み干すと、硝子と硝子のぶつかる嫌な音。コップは静かに置きなよとミチルが言うけれど、カケルは聞こえなかったふりをするみたいに笑って誤魔化した。


「小説を書く行為に生産性を求めること、それこそ生産性が無いね」

「生産性って何なの。あ、やっぱり答えなくていいや、こういうんでしょ――」


「夢」

 カケルとミチルの言葉が重なる。にやり、とカケルが目を細めて、ミチルは目をそらす。


「今の歳になってまた考えてみたけど、そんなもの、やっぱりないよ」

「ないの?」

「無い」


 オレンジジュースおかわり、と言うカケルに「もうないよ。カケルちゃんが飲み干すから。明日買ってくる」とミチルが言う。カケルはあはは、と高く笑った。なにがおかしいのとミチルが言う。だってずっと昔と一緒だから。ミチルが言う。


「夢なんて無いっていうくせに、ミチルはいつも"明日"の話をする」

「それ、聞き飽きたよ。どうせ僕は矛盾してます」

「いいよべつに。人間らしくて良い」


 ミチルが息を飲む。

 外は眩しいくらいに光にあふれているのに、部屋の中は薄暗い。なつのいろだ、とカケルが言って、原稿用紙を引き寄せる。今は春だ、とミチルが首を振る。カケルは小さく笑いを零す。やっぱりなにもかわらない。原稿用紙を一枚だけ手にとって、半分に折る。もう一度半分に折る。その作業的な指先を見て、ミチルがもったいないと言う。原稿用紙だってただじゃないんだよ、というミチルの言葉を、カケルはやはり聞かない。これもまた、いつも通りだ。

 この間の喧嘩なんて何も無かったみたいだ、と思う。

 カケルが親指と人差し指で紙飛行機を掴む。形の良くない重そうな紙飛行機が、ベランダに向かって放り投げられる。紙飛行機は空中を遊泳する。大きく開けられた窓の枠を飛び越えて、ベランダに飛び込むと、風の抵抗を受けて舞い上がった。あ、とミチルが声を漏らす。

 紙飛行機はベランダの柵を跳び越えられず、地面に落ちた。


「今日きみの母さんは帰ってくるのか?」

「帰ってこない」

「父さん……は帰ってこないか。そういえば別居したんだったな」

「そうだけど。何で今更そんなことを聞くの」

「気になったから」

「そう」


 カケルちゃんにとっては、どっちでもいいんじゃないの。ミチルが言うと、カケルはその通りだよと答える。矛盾してるよ、とミチルが指摘する。「人間らしいか?」とうそぶいて、カケルが鉛筆をくるりと回す。半回転した鉛筆が、人差し指に当たってかつん、と硝子の上に落ちた。


「桜を見に行かないか」と原稿用紙を見ながらカケルが言った。

「いいよ」とミチルは答えた。

「そうか、ならわたしは一人で……え?」

 言葉を止めて、顔を上げる。自分で言ったくせにカケルは驚いた表情でミチルを見ていた。


「いいよ。見に行こうよ、桜」

「……いや、やっぱ無かった事にしてくれ。やめておいたほうがいい」カケルは首を振った。

「自分で誘っといて?」

「帰ることができなくなるかもよ」


 カケルはミチルの目を見なかった。ミチルはすぐに、それが本当のことだと言うことに気付いた。


「カケルちゃんは、僕をどうしたいの」

「どう、ってなんだ」

「カケルちゃんは僕のことを攫いたいの?」


 気付いていたんだな、とだけカケルが零す。それきり、ミチルの問いかけにカケルは沈黙した。長い間部屋の中に静寂が座っていた。時計の針の音がうるさく感じるほどの、居心地の悪い静けさだった。

 長い時間を掛けてやっと、カケルは口を開いた。ストローを口に含んで、底に溜まった薄いオレンジの膜を吸い取ろうとする。ズー、ズー、という下品な音がした。ミチルはすぐにカケルからコップ取り上げた。カケルは「悪かった」と降参するように手のひらを左右の耳の横で広げる。


「わたしの仕事は、いまミチルがいったように人を攫うことなんだ。……わたしのことが見える人間を連れ去ること。きみのように隙だらけの子どもとかね。日常に嫌気がさしている人間、ふしあわせなひと。日常に飽き飽きしている現実逃避者を連れて行くこと。それがわたしの仕事だ。そういった"幸ひ"を知らない人間を、しあわせにするという名目で永遠に閉じ込める。桜にしてしまうんだ。若葉や、木の皮や、根っこ、桜の花びらなんかにしてしまう。彼らは死ぬことは無い。わたしが生きている限りずっと」

「ならどうしていまのいままでしなかったの。機会はいくらでもあったはずでしょう」

「わからなかったから」


 おまえがしあわせなのか。きみにとってのしあわせがわからなかったから。カケルは言う。

 嘘だ、とミチルが言う。


「嘘つき」

「嘘じゃない」

「でも全部じゃない、もううんざりだ」


 ミチルが立ち上がろうとする。その瞬間、腕を引かれる。


「もうここには来ない。さようなら、ミチル」


 もうわたしを、カケルと呼ばないでくれ。

 僕はフローリングに尻餅をつく。ベランダに紙飛行機と、桜の花びら。


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