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幸ひの名前を呼んで  作者: 藤波
第一章 月よ星よ
4/16

(四)

 目を覚ますと、体中が痛かった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 けれどもまわりといったらまっくらで、星野がつけておこうといった火はいつの間にか消えていた。俺は寝ぼけ眼で星野の名前を呼んだけれど、星野がいたはずの場所はからっぽだった。星野はそこに居なかった。

 名前を思い出せなかったときには味わうことの無かった、絶対的な不安感が渦巻く。星野。俺は呼ぶけれど、やっぱり星野はどこにもいない。星野、どこだ。星野。

 俺は走り出していた。自分が居る場所が今どこなのか、分からないくらいに走った。そして、石に躓いて転んだ。びしゃん、と水の中に足が沈んだ。いつの間にかこんなところまできていたらしい。此処が何という場所だったか、俺はもう名前も思い出せない。


「星野」


 俺はもう一度彼の名前を呼んだ。星野。

 両手で顔を覆った。星野。

 どうしてお前は、何も忘れないのだ。どうして俺が居るこの場所まで、落ちてきてくれないのだ。どうしてお前は、俺を迎えに来てくれないのだ。どうして俺とともに、忘れてくれないのだ。どうしてお前は、星のまま、俺に忘れられぬ証を刻み、俺がお前の元へ還る日を一人この場所で待っているのだ。どうして俺からなにもかもを奪い、なにもかもを満たして、またお前の居ない世界へ送るのだ。俺がお前のことを何度も忘れてしまうその時を、どうして静かに見ている。次に出会っても俺はお前のことなど――たとえ現世でお前の魂を見ようとも――気付くことなど無いというのに。ただ残酷な、なにものでもない月の光で、生きることしか出来ないというのに。

 へそのしたまで浸かった水は冷たかった。もうすべて混ざって溶けて、俺の魂がこの場所で忘れられれば良いと思った。俺はもういつだって、いつまでだってこの場所で星野と生きていきたい。


「月野」


 聞こえた声に、はっとする。顔を覆っていた手をそっと顔から離す。顔を上げる。


「星野」


 星野が立って居た。満天の星空を背中に背負って。俺は息を深く吸い込んだ。噎せそうだった。俺は星野を憎んでいる。それなのに俺は、星野の失われぬ魂に待っていて貰えることが、待っていて貰えたことが、たまらなく嬉しいのだ。夜に紛れて、俺の瞳から落ちる涙に星野は気付かない。気付かなくて良い、と俺は思った。


「ねむれなくて、星を、みてて」


 俺が黙っていると、怒っていると思ったのだろうか。星野は言い訳をするように早口であれこれ話した。俺はそんなのどうだってよかったのだけれど、星野は少しも分かっていないみたいだった。俺は仕方なく、星野にまっすぐに手を伸ばした。

 星野が一番最初に、俺にしたことだ。

 俺は一番最初に、その手を拒んだ。

 けれども今俺は、星野に手を伸ばしている。

 星野は驚いたように俺を見て、それから半ば反射的に俺の手を掴んだ。温かい手だった。俺は星野の手を借りて立ち上がると、俺より大きい星野の身体に抱きついた。俺の身体は十の少年になり、星野の身体は十五の少女の姿になる。俺の身体はカブトムシになり、星野の身体は蛾となって、俺の身体は鳥になり、星野の身体も鳥となる。俺の身体はわたしになり、星野の身体は男の子になった。そうして俺たちは今の姿に戻り、ただ星と月の輝く空の下、ふたりだけの世界に立つ。


「月野?」

「……いまなら、星野が生き返りたいと言った意味が分かる」


 涙が声ににじんでしまって、俺は恥ずかしいとおもったけれど、星野はやはり気付いていないみたいだった。星野の身体はひどくこわばっていた。緊張しているのだと思うと、なんだかおかしかった。


「俺は何度だって生まれ変わって、そうしておまえに会いたいよ」


 たとえどんな形になったって、おまえのことを愛している。

 言葉ははじめから俺の中にあったようにこぼれていった。その全てを、星野は拾い集めていく。


「月野」


 星野が俺の名前をよぶ。星野が与えてくれた月の名前。

 ここはきっと、うつくしい理想郷だ。俺は永遠に此処に生きることは出来ない。此処で待つ星野の魂に添うことが出来ない。星野がいくら、星の子どもがいくら俺のそばに居てくれても、月の子どもの俺は星を見つけ出すことが出来ない。


「どうしてお前は俺と落ちてくれないの」


 俺は月野に問いかけた。もうお互いの姿などよく分からなかった。


「……僕が君を愛しているからだ」

「つきの」

「うん」

「おれはおまえを、にくんでいるよ」

「……うん」


 星野が俺の身体をだきしめる。俺はもうすぐ転生が近いことを知る。この感覚は、覚えている。とても心が安らかで、輪郭が自然と世界ととけあっていくかんじ。ああ本当に俺は何度も、何度も星野に出会って、なんども生きて、死んで、また理想郷で出会って、そしてまた生まれ落ちるのだ。今回も、きっと次も、この人は俺と落ちてなんてくれない。――それでもいい。


「"僕は、生き返りたいと思う"」


 俺の声は震えていたけれど、迷っては居なかった。


「星野がそう言ったように、俺も、生き返りたいと思うよ。星野。もし死んだとしても、また生き返ることが出来たのなら、また会えるかも知れないから」

「誰に」


 星野が泣いている。泣かないで、と頬を撫でることはもう出来なかった。


「――君に」


 俺は最後にそう答えて、目をつぶった。川はいつの間にか、ふかい湖になっていた。

 最後に、カブトムシの羽音が聞こえた様な気がした。そして俺は、すべての言葉を失った。いつだって星野が与えてくれる、俺の月の名前さえも忘れて。


 俺は水のなかに沈んでいく。深く、深く、沈んでいく。水面から遠ざかれば遠ざかっていくほど、ひかりは水の揺らぎと混ざっていく。俺は少しずつ俺の原型を無くしていく。

 水のなかに、ホシノが落ちてくる。さかなのようなしなやかな動きで、俺の手を大切なもののように、両手で包み込んだ。


「ごめんね」

「きみがもしカブトムシになるのなら、君が成虫となって初めて口にする蜜のあじが、何よりもあまいことを願ってる。きみがもし鳥になるのなら、きみが初めて飛び立つその時に見る空の色が、何よりもうつくしい青色であることを祈るよ。そしてもしきみが、人間に生まれるのなら」

「また僕のために僕を探して」


 何度だって僕は、君に会いに行く。僕は君のための迷子でいたい。君がいつか迎えに来てくれる日を、永遠にこの場所で待っている。星野、僕は少しもやさしくなんてないのだ。だけれど嘘じゃない。どんな姿に君がなったとしても、君を愛している。

 君だけを。君だけを愛している。まぎれもない、君自身を、僕は愛している。

 永遠に、と男は言う。形を無くした白い魂は、優しい藍色に溶けて落ちていく。そして水底で、月の光をまとって、ぱちん。はじけた。

 男もまた、沈んでいく。桜色の煌煌とした光が、理想郷の中で静かに消えていった。




 青い空が教室の窓の四角に切り取られていた。白色に黒のラインの入ったセーラー服は夏模様をしている。私は頬杖をつきながら、さえない緑をしている黒板を見ていた。先生がドアを開けて教室に入ってくると、その後ろから、自分と同じ服を着た女の子が教室に入ってきた。

 胸元には金色のほしのマークの校章。学年バッチが示すのは第二学年。


「転校生の星川さんだ。みんな、仲良くするように」


 テンプレートな先生の言葉を頭の隅っこで咀嚼しながら、女の子を見る。焦げ茶色の瞳に、色素の薄い髪。窓硝子越しに差し込んでくる太陽の光を受けて、ところどころ髪の毛は金色に透けていた。染めているのか、と一瞬目を細めたけれど、色味からして地毛だろう、と思いなおした。

 とらえどころの無い顔だった。ほくろもないし、どこかひとつのパーツがおおきいということもない。整いすぎている彼女の姿は、デパートにあるマネキンを思わせる。びっくりするくらい、肌が白かった。


「星川です。どうぞよろしくお願いします」


 彼女は綺麗に頭を下げた。澄んだ声だった。心と心のあいだにするりと入ってくるような静かできよらかな声。先生が、私の隣の席に座るように促す。彼女はうつくしい姿勢のまま私の元へ歩いてきた。新品の制服の色が、目に痛いくらいにまぶしい。そっと握手を求めるように、私に手が伸ばされる。私は頬杖をついたままその手を見て、「誰」と言った。


「私は……」


 彼女が自分の名前を口にする。私は心の中で、彼女の名前を繰り返した。


「君は?」


 ああこの子の瞳、光を受けると桜色に見える。なんて、ぼんやり考えた。

 ――窓の外を、一匹のカブトムシが飛んで行く。

 鳥の声がどこからか聞こえて、私は微笑む。その手に手を伸ばして。

 なぜだかはわからないけれど、そうしなくちゃいけないような気がした。


「私は――」


 月よ星よと君を眺め、わたしは君の果てない幸ひを願っている。

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