(三)
俺は急速にいろんなものを忘れていった。わすれていったものは、この不思議な世界から形だけを残して消えていった。穏やかに、それは砂時計の砂がさらさらりと落ちていくように、静かに別の場所に積もり失せていく。この世界が失われるわけじゃない。この世界を構成するすべてのものは、ただなまえを失うだけで、形を失うことは無かった。ただあるだけで、名前が分からない。それだけだった。何も困ることは無い。悲しくは無かった。ただひたすらに自分の中身が減っていくことを感じているだけで、ちっとも怖ろしくは無かった。むしろ俺は中身が減るたびに、自分の中が何か別の、とてもきよらかなもので満たされていくようなここちがした。
星野はただ日に日に名前が無くなっていく世界を見ていた。彼が何を考えているのかは俺には分からなかった。星野は多分、俺が何を失っても何も失っては居ないのだと思う。なぜだかそんな確信を持っていた。俺はそれをうらやましくも、不幸にも感じていた。そして多分、少しだけ憎んでいた。
何も変わらないように夜が来て、何も知らないように朝が来る。そして俺はなにかの名前を失って、自分の中身を減らしていく。身体は少しずつ軽くなり、それはありのままの俺の形へ変化していくように思えた。
夢をみた。夢の中で俺はカブトムシだった。俺の意識が在るけれど、俺では無いカブトムシ。けれどもどこかその器は正しく懐かしく、違和感は無かった。
俺は木の蜜を熱心になめていた。そのすぐ横で、大きい翅を持った蛾が呼吸するように身体を震わせながら、同じように木の蜜を啜っていた。まるで猛獣の顔の様な模様の翅は、きらきらと小さい薄紅にひかる粒子に覆われている。俺はカブトムシの瞳はこんなに綺麗にものを見ることは出来ないだろうと違和感を感じながら、木の枝のような手足を動かした。蛾が動くと、ほし型の模様が見えた気がした――。
景色は動いた。今度、俺は鳥だった。空をぐるぐると飛んでいる。自由だった。風の音が聞こえ、海の香りがした。生ぬるい温度の中、隣を白い鳥が飛んでいた。泳ぐように飛ぶその鳥は此方を見て、微笑むように一度だけ鳴く。その瞳はやはり紫に光り、その胸元にはほし型のマークが刻まれている。また景色は動いていく――。
俺は満員電車の中に居た。つり革に捕まる、黒に白のラインの入ったセーラー服を着ている女の子が向かいの窓に映っている。長い黒髪に、使い古した茶色のバック。"わたし"だ。
目の前に、本を読んでいる男の子が座っていた。眼鏡の奥の穏やかな瞳が、活字をなぞる。ああたぶん、薄紅。ああやっぱり、紫色。男の子の短い髪がさらりと動いて、眼鏡越しに瞳と瞳がかち合った。瞳の奥に蜜が見える。瞳の奥に空があり、胸元にはやはり、ほし型のバッヂ――。
「月よ星よ、終の別れも願わくば。擲つ輪廻の理想郷にならんことを」
うわごとのように呟いて、わたしは彼の頭をそっと引き寄せると、そのまま抱きしめた。眼鏡が腹部に当たって、かしゃりと音を立てて床に落ちた。わたしも彼も動かない。がたんごとん。電車の音が遠くに聞こえる。鳥の鳴き声がきこえる。おはじきの映す夕焼けの温度が肌に染みる。木の蜜の甘い匂いが、今この場所で香っている。足下にレンズのとれた眼鏡が落ちている。
彼はわたしの腰に腕を回す。わたしは彼の頭を撫でた。周りにいつの間にか人は居なかった。彼の指先はやさしく、わたしを見上げる猫に似た瞳は夕方と夜のあいだの一等うつくしい紫のひかりを仄かに宿している。わたしはもう視線を迷わせることはしなかった。カブトムシの目のように微動だにしないわたしの瞳を、彼は目を細めて見ている。この場所の音は消えた。
「"月よ星よと君を眺め、わたしは君の果てない幸ひを願っている"」
わたしはうわごとのように、まるで呪文でも唱えるかのように言葉を紡ぐ。彼の瞳が薄紅に揺れて、ワインの色になり、夜の色にうつろう。
「いつでも何度でも君の還りを待っているよ、俺は」
わたしは静かに首を振る。
「お前は何も失わないだろ、星の子ども」
彼はとても傷ついた顔をしてわたしを見た。けれどもわたしは、むしろ彼が傷つくことを歓迎していた。わたしは彼に傷ついて欲しかった。何も失わない彼のこころが、少しでも欠ければ良いと思った。
幸ひとはなんなのか、わたしにはよく分からない。けれどもわたしの幸ひのある場所に、いつだって彼は居てくれない。彼はわたしを見守り、わたしを眺めてくれるけれども、決してわたしと落ちてはくれない。彼は何も、失わない。
わたしはそれを、静かに憎んでいた。
「……月の子ども、どうかまた何者かになって、また此処へ還ってきて。君が孵るそのときを、俺はいつだって、何度でも、見守るよ。何を忘れてしまってもいい。けれど君の胸にはいつも星が、俺の、僕の星が宿っていることだけは、どうか忘れないで」
彼は懇願するように言ったけれども、わたしは何も言わなかった。何も言えなかった。ただ瞳を閉じて、とろとろと溶けてゆくすべてに身体を滑り込ませていく。ただ生まれ落ちるそのときまでの、彼のそばに自分が在るという幸福にねむるだけ。今このときが終わればきっと、わたしは綻び編み直され、わたしで無い別のものへと生まれ直してしまうのだろう。そして彼の事を――"彼ら"のことをすべて忘れて、俺はまた新しいなにかとなって生きていく。俺は自分の目から涙がこぼれていくのを、薄い意識の中で感じていた。彼女の顔はもう見えない。蛾の鱗粉のきらめきも、あの鳥の鳴き声ももうない。わたしの器は満たされて、そして急速に失っていく――。