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幸ひの名前を呼んで  作者: 藤波
終章 幸ひの名前を呼んで
15/16

 朝、満が出かけた後の部屋の静けさが嫌いだ。

 自分が今どこにいて、何をして、どういう"形"で存在しているか分からなくなっていく。私にとって満と居る時間は、春、桜が咲き、枯れていくまでのほんの一瞬に等しい。桜の薄紅を"儚い"と表現する人間の気持ちが、少しだけ分かるような気がした。全て、"カケル"という名を得、ミチルというあたたかさを知ってしまったがための幸福で有り、不幸だった。


 永遠が欲しい、なんて思ったこと、ただのひとつもない。

 永遠を生き続ければ良いと他者に思ったことは在れど、私は私として生まれ落ちたとき、決して永遠を願ったわけではなかったと断言できる。私は永遠なんてちっとも欲しくなかった。だから、永遠を願う人間に惹かれた。刹那の中で永遠を乞う生き物に魅力を感じた。そこに、私の生きる意味があるように感じたから。

 人間にとって、永遠が欲しいと願うのは、幸福を必要としていることと等しいと気付いたのはいつだっただろう。

 彼らはいつだって泥臭く、幸福を求めている。希望を掴もうと足掻いている。何故だろう、と思った。日々絶望して、泣いて、怒って、ひとりになったりしながら、けれども最後は、自分にとっての幸せを求めている。満たされようとしている。欠けて、欠けて、ぼろぼろになっても、誰かといることを選ぶ。人と人との間に、幸いを探す。何かを介しながらも、必ず。そして、欠けているようで、満ちている。私には、それが不思議で――それは、溜まらなくうつくしいことのように思えた。

 生き続けることはあまりに退屈だ。退屈であるということは、もうこの先にはきっと何も無いのだという蔓延した悲しみが、いつも自分の身体の周りを渦巻いていることのように思う。私は今までずっとそうだった。満に出会うまでは。

 あの子と出会って私は、自分の幸ひを知った。そして、気付いてしまった。幸ひを知り、幸福に触れるということは、自分が"欠けている"という飢餓を知ることだと。幸福はどんな蜜よりも甘く、猛毒よりも効力がある。一度知ってしまったら、もう私は求め続けるしかなかった。そうやって輪廻を引き寄せて、運命という必然を編み出して、愚かなことに"永遠"を見いだしていた。永遠なんて欲しくないといったくせに、私は永遠を作り出していた。あの子に会いたいという一心で。

 けれど、この世界に永遠なんて、本当はないのだと――私は"永遠を生きていたわけでは無いのだ"と知ったのは、何千万回、何億回――もしかしたらそれ以上繰り返してきた"私"が、もう姿を変えられなくなった瞬間だった。

 産まれたときから私に備わっていた能力が、もう尽きていた。人間と同じように食事をするという行為が上手くできなくなった。もともと、食べなくても生きていける性分だったけれど、そうやって人間の振りをし続けることが、できたはずだった。自由自在に姿を変えられたはずだったし、好きなところに飛んでいけるはずだった。そのすべてがゆっくりと衰え、ついに毎日本来の自分の場所に訪れなければ"自分"を保てないと気付いた時、私は自分の終わりを予感した。

 そしてその予感は確実に、"予感"で終わらない、絶対的な事実だった。

 私はどこか自分が神さまのようなものだと思っていたのかもしれない。いや、たしかに産まれたころは近しい存在であったように感じるけれど、この世界で生きているうちに、少しずつ変容していったのだと思う。私は、この世界に生きる全てのものを平等に愛していたし、みんなに興味があり、そしてなかった。何もかも、許していた。多分それが、私が神さまである証明だった。

 それは、私が「特別」を作った瞬間に綻んでいったとも言えるし、単純に「神さまでいられる期限」が私にとっての生だったから、寿命が尽きたというだけかもしれない。今となっては分からないけれど、「私も死ねるのだ」と知ったときの衝撃は大きかった。当然だ。だって私は今まで当然のように「生きてきて」しまったのだから。

 病んでしまう前に死ねるなら、よかったと思った。こんな言い方、よくないとは分かっているけれど、私は輪廻を繰り返し、ミチルの魂を引き寄せることによって、どこか自分と彼が歪んでいくのに気付かないふりをし続けていた。いくら姿を変えたとしても、正しい人間の輪廻を繰り返しているわけじゃない私は、多分ミチルの魂を傷つけていた。今の彼は、私のことを「姉さん」だと思い込んでいる。思い込んでいる一方で、そうでないと冷静に認識している。彼がそうやって、血縁関係のような明確で裏切りのないつながりに、私という存在を落とし込むのは、彼という魂が少しだけこの繰り返しに気付いてしまっているからだろう。それは、多分、タブーだった。

 魂って言うのは充電式の電池みたいなもので、使い終わればまた引き継がれて充電されて、次の"自分"がその電池を使う。使い終われば"私"はまた死んで、新しいその"わたし"――或いは"僕"がまたその電池を受け継ぐ。

 その時、電池が収まる器は変化し、電池も、自分が前どんな器に入って、誰と関わっていたかは忘れなくてはいけない。だってその時電池が収まっているのは、昔の器ではないのだから。忘れないと言うことは、電池が故障していることと等しい。その故障が大きくなれば大きくなるほど、電池の死が近づく。

 電池が死ぬ、ということは、輪廻の輪から外れ、孤立するということだ。孤立した魂はもう二度とこの世に産まれることはない。

 私が生まれ落ちたときに与えられた役割は、この桜の木の中に不幸な子らを閉じ込めて、無理矢理死にかけた電池達を休めることだった。魂が壊れてしまわないように、また魂という形を保てるように、休養させること。そして、輪廻の輪へもう一度戻すこと。それが私の役割だった。

 だから、彼らが全てを失う楽園のような場所で、彼らの形が綻ぶのを見守る特権を得られた。私は彼らの器から、彼らの魂が抜け、またあたらしい身体へうつっていくそのすべてに寄り添うことができた。それが多分、「神さま」に選ばれたわたしの仕事だった。


 だけど。

 私は、怖ろしいくらいに幸福に貪欲だった。


 神さまは、私のように貪欲じゃない。こんなにも私利私欲に塗れ、私のために――そう、ただ私のために行動したり、しない。

 私は多分、はじめから神さまに相応しくなかった。

 夜、桜の幹に触れて、その桜の中に居る全ての愛する子どもたちの魂にふれたあと、満の元に帰ってくるのが好きだった。帰る場所があることが嬉しかった。ドアを開けて、彼の部屋に静かに戻るのが好きだった。布団に横たわる彼の穏やかな顔が好きだった。それを見ていると、心が安らかになって、切なくなって、悲しくなって、嬉しくなって、また穏やかになる。ずっと傍に居られたらいいのに、と何度繰り返してきたか分からない言葉が心に浮かぶ。けれど、今まで思ってきた想いとは少し違った。今までは、彼がまた私の所に戻ってきてくれたら、また傍に居られるという気持ちだった。そう、期待があった。苦しくも、その期待が私の希望だった。けれど初めて彼を残して消える運命だと知ったとき、言いようも無い別の種類の苦しさが私を蝕んだ。もう、最後。最後、という響きが悲しかった。寂しかった。どうしたら良いか分からなかった。死ぬってどういうことなのだろう。死んでしまったら、もうそこでおしまいなんだろうという月並みな推測。昔は死ぬことすら興味があったのに。死ねないから余計に、死ぬと言うことに興味があった。全てなくしてばらばらになること。忘れていくこと。知識として有るだけで、分からない。実感が伴わない。きっと一生得ることがないと思う。

 死にたくなかった。

 私が死んだら、肉体を捨てざるをえないほど疲弊した魂達は開放されるだろう。元々、そのために私は彼らを植物にかえた。彼らはもう皆、いつだってあの薄紅の中を出て行ける。私の腕の中から飛び立つ準備はできている。彼らは少し疲れていただけで、翼を失ったわけではないのだから。

 本当に翼がないのは、私の方だった。

 ねえ、ミチル。知っているか。

 翼がないから、私は花をつけるのだと。花びらとしてならどこまでも飛んでいけるから、薄紅の花を身に纏うのだと。

 けれどもその花びらだって、風が吹かなければ空を舞うことはない。


 私はいつだって、不自由だ。




 いつか、なんて永遠に来ないと知っていて、約束をした。たまには未来の話がしてみたかった。もう神さまじゃないんだから、自由にしたかった。いつか、いつか、いつか。ミチルはいつだって、未来の話が得意だった。そういう所が、好きだった。

 もう一切何も食べられなくなって、身体を動かすのも億劫になっていた。ミチルが帰ってくるときに動けるように、彼が居ないときは部屋のすみでじっとしていた。じっとしていることは昔から得意だった。遙か昔。ミチルと会った日よりもさらに昔に、ほとんど壊れた電池を身体に宿して、私を見ていた男に、あなたはそんなにじっとしていて飽きないんですか、と言われたことを思い出す。栄養の行き届いていない身体はほとんど骨と皮で、足取りも不安定。身につけている服はぼろぼろで、髪の毛はぼさぼさ。けれど、目だけはとてもうつくしい男だった。若葉。彼の名前を呟いてみる。懐かしい響きだった。魂はとっくに癒えているというのに、いつまでも桜の葉として生きる彼は、多分私の一番最初の友人だ。わたしはもう死んでしまうけど、そうすることで彼がやっと輪廻に戻れることは嬉しかった。もし、もし、万が一。私が死んで、輪廻の輪に足を踏み入れることができるなら、彼と来世で会いたいと思う。ああ、また未来の話をしている。未来の話を。

 目を瞑る。考えてみる。輪廻の先、笑い合う私や、ミチルや、若葉。そしてあの桜の木に眠る全ての子たちのことを。そうすると、私は、今私がどういう形で、どんなふうに存在しているのか、忘れずに居られる。

 そうやって何度も自分の形を確かめている内に、日が暮れて、ミチルが帰ってくる。私はいつも通りを振る舞って、彼に微笑みかける。彼の瞳に、全てを悟ったような色が滲んだとしても、気付かないふりをする。姉さん、という呼びかけに応じる。彼の髪を撫で、頬にキスをし、今日も一日、彼と会うまで生きられたことを感謝する。そして、後もう一日だけ、と願いながら、夜の中を走る。砂時計の砂がこぼれていくように、私の全ては緩やかに急降下していく。

 その日は唐突に来た。目が覚めた瞬間に、私は私の身に起きるすべてのことを理解し、悟った。


 私はミチルを早く起こして、おはじきをしようと声を掛けた。寝ぼけ眼で私をみていた彼は、私のその提案を聞くと、さっと身を固くした。ミチルはいつもそうだ。私とおはじきをするとき、まるで命を賭けたゲームをするみたいに緊張しはじめる。それがとても面白くて、愛おしくて、大好きだった。

 おはじきはすぐに始まった。パジャマ姿のミチルの手を引いて畳の部屋に移動すると、紅茶缶の蓋を開けて、ひっくり返す。じゃららら、という音を立てて、おはじきが畳に散らばる。やさしい緑色の畳に、カラフルなおはじきがドットをつくっていく。ミチルがそれを見つめている。私は彼の目のはしっこについた目やにを見ながら「はじめて」と彼を急かす。彼は私の方を一度だけ見つめて、おはじきとおはじきの間に、境界線を引いていく。

 むこう側とこちら側の間に線を引いて、むこう側におはじきを飛ばす。ぱちん。ぱちん。私は畳に寝そべって、正座をしているミチルを見上げた。ミチルの瞳にうつるおはじきが綺麗だった。ビー玉にさえ見えた。透き通ったガラスの球体が、ミチルの瞳にうかんでいるようだった。ぱちん。ぱちん。わたしは目を瞑る。ミチルの弾いたおはじきが、身体の下へすべりこんでくる。ぱちん。ぱちん。今まで、どれくらいの時間を彼の魂と過ごしてきたのだろう。ぱちん。ぱちん。もう全てが過去として過ぎ去って、でも私の胸の中ではずっと生きている。多分私が死んだその先も、過去は過去として生き続ける。ああ、と思う。多分これが永遠なんだ。今この瞬間という過去こそ、永遠なんだと。


「おしまい」


 私がそう声を掛けた瞬間、ミチルの額から汗が落ちた。ミチルが、じっと私を見つめている。私は彼に近づき、頭をそっと引き寄せると、そのまま膝の上に載せた。ミチルの身体が緩やかに倒れて、いくつかのおはじきがミチルの身体の下敷きになった。

 わたしはミチルの頭を静かに撫でた。そして、ポケットから、いつの日か彼が私にくれた画用紙で作られたバッジをそっと胸に貼る。


「まだもってたの」

「ああ。満がくれた物は、すべて持ってる。無くすことなんてない」


 そう。無くす物など何も無い。私はこれからも、今も、過去も、全て持っている。彼からもらったものは全部、私の魂になっているのだから。微笑んで、もう一度頭を撫でる。


「学校に行く前に重労働をさせてすまなかった」

「本当だよ」

「朝ご飯をたべよう」


 彼を起き上がらせて、キッチンへ歩いて行く。怖くはなかった。ただ、ひたすらに、寂しいだけで。




 酷い土砂降りだった。ざあざあという音を立てて、雨が降っている。

 こんな晴れの日に傘なんて、と文句を言うミチルを無視して、傘を持たせた。やっぱり持って行って正解だったろう、とこの場所にいない彼に向けて呟いてみる。もうすぐ、ミチルが帰ってくる時間だ。

 遠雷を聴きながら、ドアが開くのを待っていたけれど、いつもなら帰ってくる時間に彼は帰ってこなかった。もしかすると、雨が酷いから、どこかで雨宿りをしているのかもしれない。私は傘を持って家から出ると、いつもミチルが帰ってくる道を逆走していく。排水溝から水があふれ出ていて、地面にうっすらと水が張っている。ローファーで地面を蹴るたび、ぴちゃぴちゃと音がした。走って、走って、橋の辺りまで付いたところで、視界が真っ白になる。それが光によるまぶしさだったと気付いた時には、自分の身体に電流が走るような鋭い痛みが駆け巡っていた。

 膝をついて、桜並木をみると、何本か木が倒れているのが目に入る。びりびりと痺れ、燃えるような痛みが身体を侵す。ああ、雷が落ちたのか、と思った。てっきり枯れるのだと思っていたのに、こんなふうに死ぬなんて。

 痛む身体を引き摺って、自分の桜の木へ歩いて行く。やっとの思いで幹にたどり着くと、地表に少しだけ出ている根を枕にして横になった。桜の花びらが燃えていた。風に煽られて勢いを増しては、雨で炎が消えていく。焦げた臭いが辺りに充満していて、家が恋しくなった。ぱちん、ぱちん。唯一、木の枝が燃える音が、どこかあのおはじきの音に似ていることが救いだった。おはじきの色を思い、ミチルを想った。ミチルは私が急に居なくなったら、どう思うのだろう。悲しくて、涙するだろうか。そう考えて、違うな、と思い直した。ミチルはきっと、怒るのだ。勝手だと。勝手で、何も考えてないと。全然自分の事を大事に想ってくれていないと、私に怒鳴るだろう。それでいい、と思う。

 私は自分勝手だ。私は私のためにミチルを愛し、憎み、幸福を願い、不幸を祈り、抱きしめ、キスをして、何度も会いに行った。何度も初めましてを繰り返し、さようならを繰り返した。全部私のためだ。怒って良い。怒鳴ってくれて構わない。軽蔑したって、文句言わない――だから。どうか不幸にならないで。

 誰かを愛して、誰かと出会って、誰かと生きてほしい。幸せになってくれなきゃ困る。お前が、君が、あなたが、幸せにならない世界なんて私は愛せない。ミチルが幸せになれないのなら、こんな世界、滅んでしまえばいい。でもそれじゃ困るから、だから、どうか不幸にならないで。これも全部私のワガママだって、詰ってくれたっていいから。どうか、不幸にならないで。私の大好きなお前を、幸せにしてほしい。

 自分のこめかみを、温かい水の粒が通り抜けて初めて、泣いているのだと気付いた。私はどうやら、泣けるらしい。人間みたいだ、と思う。笑ってしまう。最初からそうだったらよかった。同じ時間を生きていたかった。何度忘れたっていい。忘れられたっていい。円を歩いたっていい。もうそこから抜けられなくても、一緒に歩いていたかった。できることなら。ミチルを幸せに導くのは、私でありたかった。ミチルの幸ひに、なりたかった。


 ああ、若葉。今ならいえる。幸ひとは何なのか。私にとってそれは――。


「姉さん!」


 目を開けると、そこにはびしょ濡れのミチルが居た。


「何でここにいるんだ」

「木に雷が落ちたのを見て、それで……姉さんはこんなところで、こんな……何が……」


 ミチルが私を抱きかかえ、泣きそうな顔で顔を覗き込んでくる。布越しに触れたミチルの手が温かい。ミチルはいつだって温かくて、優しい。


「なあ、ミチル」

「姉さん、立てる? 早く家に帰ってシャワーをあびなきゃ、風邪引いちゃう」

「いいんだ、そんなこと」

「そんなことじゃないよ! いいから言うとおりにして」

「今だよ」

「何が!」

「前に言っていた、いつか」

「……桜を見よう、っていう?」

「違う」


 終わりなんだよ、と微笑んだ。ミチルの表情が一瞬で凍り付くのが分かる。大丈夫だから、そんな顔をするなよ。そう言うと、ミチルが首を振る。


「嘘だ」

「嘘じゃない」

「ばかなんじゃないの」

 ばかなんじゃないの、ともう一度ミチルがいう。


「僕をおいていくつもりなの? ずっと一緒にって、約束したじゃないか」

 姉さんのうそつき、と言う言葉は酷く掠れていた。


「ごめん」

「それで済むとおもってんの」

「思ってない」

「それなら、居てよ」


 ずっと一緒に居てよ。傍に居てよ。僕の隣で。ミチルの瞳から涙がこぼれる。それが私のこめかみに落ちて、流れていく。私の涙の後をたどって、ミチルの涙が落ちていく。空は灰色で、いつまた雷が落ちるか分からない。早くミチルを移動させないと。そう思うのに、もう身体が動かなかった。


「ミチル。もう行って」

「どこに」

「ミチルの帰る場所だよ。お前は、私と違って、帰る場所がある。きみを迎えるすべてがある。あなたには家族があり、友人が居る。ミチルは私を忘れて生きていける。私は忘れないけど、ミチルは忘れていい。私との全てを、全て忘れてくれて構わない」

「ここだよ」


 カケルちゃんの嘘つき、とミチルが私を睨んだ。


「僕が帰ってくる場所は此処だ。そういったくせに、何が忘れないだ。僕の方が覚えてる」


 ミチルが涙を拭って、私を抱きしめる。強く、強く、抱きしめる。まるで自分の身体に、私を取り込もうとするみたいに。


「もう僕をおいていかないで――カケル」


 そっとミチルの背中に手を回して、肩に顔を埋める。嘘つき、とミチルがまた私にいう。

 そうだよ。私は大嘘つきだ。本当は忘れて欲しくなんかない。一生私という傷を抱えて、私という存在を感じて生きていって欲しい。呪いみたいに、雁字搦めになってしまえばいいと思っている。いっそ一緒に死んじゃえたらどんなにいいだろうとまで思う。まるでこれじゃ死神だ。でも一緒に死ねるのは恋までだ。私はもう、ミチルに恋をしているわけじゃない。私は、ミチルを愛している。だから、もう死ねない。一緒に死ぬことなんてできない。不幸になればいいなんて思えない。

 ポケットの中に入ったびしょぬれの星のバッジを取り出すと、手に握る。


「ミチル。もう一度、名前を呼んでくれない?」


 彼の身体に身を任せて、そっと呟く。爪先からゆっくりと、自分が失われていくのが分かる。ミチルがもっと強く私を抱きしめる。縋り付くみたいに、強く、強く。そして、私の名前を呼ぶ。何度も、何度も。私という輪郭を縁取るみたいに、丁寧に。

 ミチルが付けてくれた名前が好きだった。

 あの日、あの瞬間、彼が付けてくれた名前が、私の幸ひの名前。私の幸福の回答。


「カケル」


 欠けて、欠けて、ひかる私のすべて。

 この名前が、私の生きるすべての意味。


「愛してる。……永遠に」


 満ちていくきみ。光り続けるすべて。

 あなたの名前が、私の生きるすべての理由。


 いつだって私の幸福はあなた幸ひの傍にある。


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