(陸)
次の日、成宮くんに呼び出された。空き教室はほこり臭くて嫌いだ。使われ続けている教室よりも、古びていくのが早く思える。成宮くんはいつにも増して難しい表情をしていた。眉間に皺が寄っている。僕は人差し指でそれをほぐしてあげたい衝動にかられたけれど、やめておいた。成宮くんに何を聞かれるかは大体予想が付いていた。
「もう一度聞くけど」
成宮くんはそう唐突に始めた。もう一度聞くけど。
「お前にとって、姉ちゃんってなんなの?」
その表情が、昨日よりもずっと真剣で、ずっと慎重なのがおかしかった。これじゃあまるで本当に友達みたいだ、と思って、今更かと思い直す。僕と成宮くんは多分、本当に友達なんだろう。本当の友達ってなんだかよくわからないけれど、この言葉がきっと正しい。僕は彼の友達で、彼は僕の友達だ。
「姉さんだよ」
僕は答えた。姉さんは、姉さんだ。それ以外でもそれ以上でもなく、この言葉よりふさわしい関係性を、僕は知らない。ずっと知らないでいたい。だって僕と姉さんには、それしかないのだから。
「嘘だね」
成宮くんはいった。
「嘘つき」
成宮くんはそういって、僕を睨んだ。冷ややかな瞳だった。
「そうやっていつまでも自分の事を騙し続けられると思ってるのかよ」
成宮くんは僕を真っ直ぐ見つめていた。僕は成宮くんと目を合わせられなかった。その時点で、答えなんて物は分かりきっていた。
「じゃあ、成宮くんはなんだと思ってるの」
「イマジナリーフレンド」
いまじなりー・ふれんど。頭の中でひとつひとつの言葉が分解されて、的を射ない。なにそれ、と呟く。乾いた唇が擦り合う感触が、気持ち悪かった。この部屋は酷く乾燥している。加湿器、買ってくれないかな。せんせい。そんな場違いなことを、頭のはしっこで考える。
「言葉のままだよ」
「……姉さんのこと、僕の想像だって言いたいの?」
僕が生み出しているものだって、そういいたいわけ。自分の言葉がとげを持つのがわかったけれど、どうしようもなかった。僕は成宮くんと向かい合った。成宮くんの目は相変わらず真っすぐだった。僕の無表情な顔が、彼の目に歪んで映っている。
「馬鹿にしてるわけじゃない」
「そんなの分かってるよ。馬鹿にしないで」
成宮くんが驚いた顔で僕を見る。それがあまりにも、心底驚いた、というような表情だったから、僕は「何?」と言葉を投げる。
「お前がそこまで俺の事を信用してるとは思ってなかった」
言葉に詰まった。そんなのはさっきから、僕が僕自身に驚いていることだ。僕は成宮くんの言葉に対して、反応をせず、「想像なんかじゃない」と話を戻した。
「でもお前の言う"姉さん"は俺には見えない。――"この世界の、誰にも見えない"。でも、幽霊でもない。つまり、それがどういうことかってことくらい、分かるだろ?」
「君が幽霊なんて言葉を使うの、初めて聞いた」
「話を逸らすな」
「……分からないよ」
僕は微笑んだ。きっと、情けない顔をしていたと思う。
「僕には分からない。イマジナリーフレンド、なんてものも分からない。姉さんは姉さんで、僕には見える。僕にとっては、たったひとりの姉さんなんだ。姉さんが居るから僕は存在できる。だから――」
――だから。僕から姉さんを奪わないで。
成宮くんが、傷ついた顔をする。成宮くんは今、傷ついた。それは、僕が成宮くんの言葉で傷ついたと言うことに――この話は僕にとって、大いなる痛みだと言うことに、成宮くんが気付いたからだった。そう、この話は、僕にとってもっとも、僕自身の心の表皮に触れるものだ。
だからどうか触れないでいて。永遠なんてないってこと、僕はとてもよく知っている。きっと、僕と同い年の子のなかだったら、いちばんになれるくらい、よく知っている。だから、どうか知らない振りをしてほしい。君が僕の友達であるなら、なおさら。
僕はね、成宮くん。
心の中で呟く。僕はね、成宮くん。誰と一緒に居てもつまらないし、誰と居ても、ずっとひとりぼっちだ。昔からずっとそうだった。両親は、確かに僕の肉親だったけれど、両親という肩書きがある他人だ。他人のくせに家族で、僕はずっとそれが息苦しい。彼らは僕を育ててくれたけれど、それは多分、僕が生きていけるだけの援助をするというだけで、世間で言う「家族らしいこと」は、僕と両親の間にはどうしても存在できない。僕が努力してもそうだし、母さんや父さんが努力しても同じことだった。僕たちは悲しいくらい別々で、どうしようもなくぎこちなかった。よく、家族以外はみな他人だという人がいる。でも、僕にとっては誰であっても他人だ。たしかに母と父それぞれの血をひいているのかもしれない。僕の目は母さんにそっくりだったし、うなじから肩、背中のラインは幼い頃の父によく似ている。けれど、それだけだ。形が少しだけ似た別物。僕は母さんではないし、父さんではないのだから。
僕は母さんと隣で寝ていても、たったひとりで眠っている気がするし、父さんと一緒に手を繋いでも、たったひとりで歩いているように思う。今までずっとそうだったし、多分これからもずっと同じことだと思う。僕は永遠に孤独で、ある意味でそれを望んでいる。
今此処で生きている、という実感がいつだって薄い。「僕」を生きている、という感じがしない。微笑みながら――誰かと喋りながら、僕はそんな「僕」を遠くから見ている気がしている。現実で呼吸する僕を、眺めている僕。言葉が上滑りしていく。だんだん、僕は僕から離れていく。そして、ただ意識があるだけの幽霊のようになっていく。地上から、身体が離れ、僕は無重力の中で、ただまばたきをくりかえす産物と化していくのだ。
「姉さん」と出会ったのは、そんなときだった。
成宮くんが、よく待ち合わせに指定する、大きな橋を渡った先に桜並木がある。川に沿ってたくさんの桜が植わっていて、ずうっとその道を歩いて行くと、坂道を上がったところに、とても大きな桜の木が根をはっている。この街に昔からある桜の木。
僕が姉さんと会ったのは、その大きな桜の木の下だった。
あの日、桜を見にいったことに深い理由は無かった。ただ、小さい頃、春には必ず、家族三人でこの場所に訪れていたことを思い出して、寄っただけ。学校帰りに、夕焼けに染まった桜の木の、甘いような、爽やかなような、なんともいえない香りをかいで、ぼうっとしていたとき。姉さん――"その子"は、僕の前に姿を現した。
「久しぶり」
彼女はそういって、僕に微笑みかけた。焦げ茶色の瞳。夕焼けに照らされた髪の毛は、色素が薄いせいか、金色に見えた。
「久しぶり」
会うのはたしかに初めてだったはずなのに、何故かそうは思えなくて、思わずそう返してしまった。彼女は微笑んで、桜の木を見上げる。彼女の頭上から、桜の雨が降り続ける。その薄紅が、ただひたすらにまぶしい。雪のように舞い続ける花びら。胸が苦しい。頭が痛い。胃が痛い。この世界の苦しみが、僕を静かに切り刻んでいるみたい、なんて大げさだろうか。大げさだ。けれど、そう思わざるを得ないくらい、僕は多分、苦しかった。
口の中がクランベリージュースを飲んだ後みたいに渇いている。彼女が微笑んでいる。泣いてしまいそうだった。僕は多分、僕は多分、この時のために生きていた。
「一緒にいてくれる?」
彼女が言った。僕は頷いた。「いくらでも」いくらでも、一緒に居る。
だから。お願いだからもう、僕をひとりにしないでくれ。
「……永遠なんてあると思ってんの?」
成宮くんが机の上に座って、足を組む。うっすらと机に積もった埃が彼のズボンと、いやに繊細な形をした指を汚すのを見て少しだけ不快になった。成宮くんはなんでもないことのように、手をぱんぱんとすりあわせて埃をまき散らす。
「ないよ」
僕は更に不快になって顔を逸らした。
「じゃあ」
「でも、僕が永遠だって言ったら、永遠なんだよ」
「……意味わかんねえ」
「わからなくていいよ」
「なあ」
成宮くんが僕の手を引く。僕は、彼の燃えるような瞳を見ていた。黒々とした、星みたいに燃えている、瞳。
「どんなにその場所に居たくても、最後は帰ってこなきゃいけないんだよ」
ふと、成宮くんが好きになる人のことを考えた。成宮くんは運命なんて少しも信じてないし、きっとこの先信じることもない。憧れるなんて愚かなこともしない。空は飛べないし、魔法は使えないし、僕たちが生きるこの瞬間は瞬間でしか無く、一秒前は帰ってこない。もう二度と。成宮くんにとってたしかなのは、この手のひらの感触だけなんだろう。僕はほこりっぽいこの部屋を思う。時の流れていない場所のように、ひっそりと呼吸を止めているこの部屋を考える。成宮くんはほこりっぽいこの場所で、時間の止まっていない生きたひと。僕もそうなのだと思う。僕たちはいつか教室に戻らなくちゃいけない。僕たちの教室に帰って、授業を受けて、つまらない家までの道を歩き続けて、変わらないように見えるその景色の些細な違いを、まるで間違い探しのようにぼんやり享受しては少しだけ笑って、家に帰る。そうやって動いて、少しずつ、本当に少しずつ変わっていく。だから、僕は分かってて、聞くのだ。
「……なんで?」
なんで、そうじゃなきゃいけないんだ。僕は、ずっとそうしなきゃいけないんだろう。永遠なんてなくていい。そんなの欲しくない。僕が欲しいのは、姉さんと一緒にいること。それだけ。
「お前は生きてるから」
成宮くんが言う。
「姉さんといられないなら、生きてたって仕方ない」
僕が言う。
成宮くんが僕を睨む。手を離す。目を瞑る。息を吸い込んで、もう一度、目をあける。
そして、興味を無くしたように、僕を見ると、ひと言だけ、言った。
「じゃあもう、勝手に死んじまえ」




