(伍)
僕が二回目の誘いを成宮くんに持ちかけたとき、成宮くんは訝しげな顔で「お前、何が目的なの?」と言った。僕が損得勘定抜きで誰かと付き合わないことをよく知っているらしかった。僕は「ただ姉さんに会ってもらいたいだけなんだ」と正直に告げると、彼は「結婚の挨拶じゃないんだから勘弁しろよ」と気持ち悪がった。けれど、僕がまたコーラを飲ませてあげると耳打ちすると、彼の態度は軟化した。成宮くんの家は厳しいらしく、炭酸の入った飲み物は俗物として禁止されているらしい。彼が飲んでもいいのは、お母さんがブレンドしたハーブティと青汁、牛乳だけ。そう聞いたとき、僕は始めて僕に対して無関心な両親に少しだけ感謝した。成宮くんの家は病的だ。そんなものばかり飲んでいたら、身体の中が道徳的に染められても仕方が無いと思う。僕がそう話すと、成宮くんは僕の誕生日に、成宮くんのお母さん特性の青汁をプレゼントすると約束してくれた。僕は嬉しくて涙が出そうだよ、と彼の足を踏んだ。
放課後、いつもの帰り道をひとりで歩く。成宮くんはいつもランドセルを家においてから遊びに行くと決めているらしい。僕は彼がランドセルを置きに帰っている間、家の近くの公園で時間を潰している。幸いにも彼の家は僕と姉さんの家からさほど離れていない。川を挟んで、向こう側に渡ったところにある。僕はこの川があまり好きでは無かった。川というものはなんだかいつも気味が悪い。夜に見ても昼間に見ても、なんだか少し危うげで、得体が知れない。海と違って、川の気色悪いところは、その穏やかさにある。海は常に一定の危うさを此方に寄せては返す。けれど、川は違う。川は昼間、とても穏やかで優しいように装う。けれども一旦夜になると海と同じ凶暴性を露わにする。夜の水は気持ちが悪い。全てを捕食するような鈍い黒は、僕を嫌な気持ちにさせる。川も海も大嫌いだ。
成宮くんは僕と会うとき、必ず橋で僕と待ち合わせしたがる。けれど僕は毎度それを拒み、近くの公園を指定する。川の上に架かる橋で人を待つなんて考えられないことだった。川がいつ僕に襲いかかってくるかじっと目を凝らしていなくちゃいけないだなんて勘弁してほしかった。気がまいってしまう。ベンチに座って蟻の巣を探しているほうが何倍も良かった。
「お待たせ」
俯いていると、感情の読めない声で成宮くんが僕に声を掛けた。「待ちくたびれたよ」と嘘をつくと、「へえ」とだけ返ってくる。成宮くんは良い性格をしている。「いこっか」と僕が立ち上がると、成宮くんが「まあ、待て」と立ち上がりかけた僕を制した。
「なんでお前はお前の姉ちゃんに会わせたがるんだ?」
僕は少しだけ悩んだ末、「友達を紹介しろって前から言われてて」と再び正直に告げた。友達といったとき、成宮くんが嫌そうな顔をしたので、軽く足を踏もうとすると、後一歩というところで避けられる。
「お前にとって姉ちゃんってなんなの」
その質問に僕は詰まった。自分でも驚くくらいに、心臓がひやりとするような錯覚をおぼえた。「なんだろうね」と僕が流すと、成宮くんは僕の足を踏んだ。
「なにすんの」
成宮くんを睨むと、彼はもう既に僕の家へ歩き始めていた。僕は彼の目を見て、彼が怯むくらい睨み付けてやりたかったけれど、その後ろ姿に射るような視線を向けるだけにとどめてあげた。
一昨日と同じようにドアを開ける。この間よりドアは重くなかった。「姉さん」と僕が部屋に向かって呼びかける。返事はないけれど、この間と違って、彼女がちゃんとそこにいる気配だけはしていた。僕が入るように勧めると、成宮くんは「お邪魔します」と丁寧に呟いて、中へ足を踏み入れた。床が彼の体重を受けて小さく軋むのを聞き、僕は自分の内側が緊迫していくのを感じる。衝撃をあたえると固まるゲル状のカイロみたいだと思った後、自分の語彙の無さに辟易した。
「姉さん。成宮くんが来たよ」
僕が再度声を掛けると、姉さんが酷く大儀そうに部屋の奥から出て来る。姉さんはいつも音を立てずに歩く。吸い付くように床に触れる姉さんの足を見ていると、成宮くんが姉さんのほうに一歩踏み出す。姉さんは成宮くんをじっと見つめていた。まるで彼の中の彼を見ているような遠い目だった。成宮くんが姉さんを見る。ふたりはただ何も言わず、静かに視線を交わしているだけだった。こういうとき、僕が間に立って紹介すべきなのだろうか。微妙な空気感がリビングを満たしている。沈黙に堪えきれなくなって僕が口を開くと、その時、成宮くんが言った。
「……お前の姉ちゃん、今日も出かけてるんじゃん」
成宮くんが帰った部屋はうす暗かった。何を話したか、何を食べたか、何を飲んだのか、何も思い出せない。ただただ成宮くんの発した言葉だけが頭を反響して、あとはもう考えられなかった。考えたくなかった。成宮くんにも怪しまれたと思う。今の僕はいつもの僕ではない自覚があった。姉さんがいつも通りなのがおかしいのだ。僕は腹立たしかった。何故姉さんはいつも通り、表情を変えずに僕と成宮くんを見つめていたのだ。
「……いつまで怒ってるの」
姉さんが、お湯の張っていない浴槽に沈んでいる僕に問いかける。
「怒ってなんかない」
「怒ってる」
「だとしたら、そうさせたのは姉さんだよ」
ぴかぴかに磨かれた浴槽から、微かに洗剤の匂いがする。姉さんは静かに縁を跨ぐと、僕の入っている浴槽へ侵入してきた。
「本当は知ってたんでしょ」
見ない振りをしてきたのは、君だよ。姉さんの紫色の瞳が、僕を射貫く。今この場所で姉さんを責めているのは僕なのに、姉さんは僕を責めていた。そう、いつだって姉さんは僕を責めている。僕のことを憎んでいる。
「本当は知ってたでしょ」
「何を?」
「すべてを」
姉さんが笑う。酷く歪な笑い方だった。泣きたいのか、怒りたいのか、憎んでいるのか、救われたいのか。この世にある全ての感情の具現。かもしれないと思った。姉さんは正しい。姉さんは嘘つきだ。そして僕は、
「……馬鹿にしないでよ」
馬鹿にしないでよ。姉さん自身が姉さんを拒絶し、否定するなんておかしい。僕はいつだって姉さんを思い描いてきた。信じ続けてきた。肯定し続けてきた。"姉さんの存在を、確かなモノにしてきたはず"だ。だって僕は姉さんのことを――僕は、姉さんのことを――また言葉が詰まる。思考が躓く。深みにはまっていく。その先に進めない。進むことが叶わない。僕が僕自身の深知から逃げてきたとして。それを止めるために、姉さんが成宮くんを此処に呼んだのだとしたら? 姉さんのしたいことはいったいなんなのだろう。何故姉さんは、成宮くんを呼んだのだろう。
「……姉さん。僕に隠し事を、していないよね」
僕は姉さんを見つめた。姉さんはいつの間にか笑うのを辞めていた。姉さんは酷く暗い目をしていた。今まで見たことのない――知らない色をしていた。姉さんは答えなかった。僕は姉さんの手を掴んだ。いつも僕に触れてくれる優しい手。いつか、僕の足を温めてくれた無条件の白。今すぐそれに触れたかった。そうしないと、姉さんがこのまま、ばらばらになって消えてしまいそうだった。僕は姉さんを抱きしめて、暮れなずむオレンジに照らされていた、陶器のようなすべて――おはじきを飲み込んだ骨――その全てを感じていたかった。けれども、できなかった。
「もうすぐなんだよ」
姉さんは微笑んだ。いつもの優しい笑顔だった。僕のことを愛している微笑みだった。この人は、僕のことを愛しているのだと思った。心から憎み、心から信じ、求め、愛し、嫌っているのだと。何も聞きたくなかった。何も見えなくなったっていい。何も感じなくなってもいい。――けれど、姉さんを失うことだけは堪えられなかった。
「もうすぐっていつだよ」
「もうすぐはもうすぐ。……少しだけ先」
いつだって姉さんは先の話ばかりする。不確定な話ばかりをする。僕は大嫌いだ、そういうの。大嫌いなんだ。確かなモノだけを享受していたい。不確かなモノは信じないでいたい。ただ僕の手のひらにある、それだけを大切にしていたい。それだけしかできない。今も、昔も、その前だって、僕はずっとそうだ。
僕には見えている。僕には視えている。姉さんの色素の薄い髪の毛も、その人形のようにうつくしい容姿も、指先も、温度も、なにもかも僕の目には見えているのだから。だから、良いのだ。何も怖くない。姉さんがいれば、もうそれだけでいい。他には何も望まない。――だから。だから、お願いだ。それだけは奪わないで欲しい。他の何を差し出したって構わないから、姉さんだけは奪わないで。
この円の中を回り続ける僕たちを、終わらせる資格なんて、この世界の誰にもない。
「うんざりだよ」
僕は浴槽の磨かれた婉曲に寄りかかった。強く目を瞑る。何も考えたくなかった。もうこれ以上、歩き続けることを阻害されたくなかった。
「――被害者ぶるな」
その時、頭上から冷たい雨が降ってきた。僕はぎょっとして身震いをしたけれど、雨はやまなかった。起き上がって浴槽から出ようとする僕の首に手が掛けられた。姉さんだった。
「お前は――何も分かってない。何も、分かってないよ」
もうおしまいなのだと姉さんが泣いた。僕の頬に落ちてくる雨粒が、姉さんの涙なのか、シャワーから発せられる水鉄砲なのか、僕には分からなかった。分からなくてはならないのに、全然分からなかった。姉さんのいうとおりなのかもしれない。僕は、何も分かっていないのかも知れない。――けれども、何を?
「僕は、僕から見える姉さんしか分からない」
僕がいくら姉さんという人間の全てを理解しようとしても、僕は僕にとっての姉さんという側面しか、側面でしか姉さんを推し量ることができない。僕は僕にとっての確かなモノしか享受できない。不確かなモノは信じられない。ただ僕の手からこぼれ落ちる、あらゆる何かのことなんて、どれだけ大切にしたくたってできない。
今も昔も、その前だって、僕はずっとそうだ。
「でも分かりたいんだよ、姉さん。姉さん。僕は、そうやってこの道を、ずっと歩いてきたんだ」
耳元で聞こえる仮初めの雨音がうるさい。絶え間なく降り注ぐ水のせいで、姉さんの表情が見えない。僕は姉さんの白い頬に触れた。姉さんの頬は温かかった。僕の首を姉さんがへし折ってくれたらいいと願っていた。死にたいわけじゃない。でも、姉さんがそうしたいなら、そうすれば姉さんと一緒にいられるなら、それでも構わないと思う。
「お前は何もかも知ってるよ。……"満"」
姉さんが僕を抱きしめる。顔に絶え間なく雨粒が当たる。窒息してしまいそうに苦しかった。僕は金魚のように口をぱくぱくとさせていた。ひとつひとつの呼吸が、とてもうつくしいものに思えた。音はない。魚になれたらと思った。そうしたら僕も少しだけうつくしくなれると思った。姉さんのように。――遠くで、水の流れが聞こえる。




