(肆)
成宮くんが僕の家に遊びに来たのは、消しゴムを落とした日から一週間ほどたった頃だった。成宮くんという人間は不思議だ。これまで僕は彼という人間に興味がなかったから、全く気付かなかったのだけれど、成宮くんはどうやらクラスの中でも人気者という枠に入っているらしい。ふと気付くと、彼の周りにはいつのまにかクラスの男の子達が集まっているなんてことがよくある。時々女の子の姿もあって、僕は感心してしまった。彼らは休み時間になると、教室の後ろに置いてあるサッカーボールや、ドッジボールなんかを持って外に駆けだしていく。僕はそれを横目に見ながら、ただすごいなあという気持ちで本を読んでいる。けれども成宮くんは、いつもその輪に入っているわけではなくて、たまに僕の隣の席に座ると、何かをノートに書き記していたり、図書館でひとりぼうっとしているなんてこともあった。けれども誰も、成宮くんの邪魔はしないのだ。一緒に遊ぼうと誘うクラスメイト達も、成宮くんが今日は本を読むといえば素直にそれに従ったし、成宮くんが一緒にバスケをしようといったらみんなで体育館に向かった。僕はその一連の流れを見るたび、彼は不思議なひとだと思うのだ。
そういえば、僕は一度、彼の名札に記された文字のうつくしさについて指摘したことがある。綺麗な字だね、お母さんが書いたの? そう問いかけた僕に、彼は自分で書いたのだときっぱりといった。僕は咄嗟に彼がついた嘘だろうと思ったけれど、彼は僕のノートを奪うと、ページのはしっこに、名札と同じ筆跡で自身の名前を書いてみせた。へえ、たいしたものだねというと、彼は少しだけ得意そうな笑みをみせた。彼は褒められることが好きだ。
成宮くんは、みんなの前ではよく喋るけれど、僕といるときは無口だ。ふたりでいても、話すことは少ない。大抵僕は本を読んでいて、彼はノートに何かを書いている。何を書いているのかは知らない。
成宮くんは最初、僕の家に両親がいないことを告げると、遊びに来ることを渋った。保護者のいない家に行くのはよくない、なんて道徳の教科書のようなことを言う彼に、僕はため息をついた。そのことなら、姉さんがいるから大丈夫。僕が答えると、成宮くんは「お前、姉がいたのか」と驚いていた。僕はいってしまってから、成宮くんに姉の存在を告げてしまったことが間違いのように思えた。そもそも成宮くんと仲良くなったのは、姉に会わせるためで、姉が僕の友人に会うことを望んだからそうしただけなのだけれど――それでも、何か僕は間違いを犯してしまったように思えてならなかった。
鍵を開けて中に入る。いつもの家のドアが、今日は酷く重く感じられた。成宮くんは礼儀正しく、「お邪魔します」というと、靴を揃えて僕に続いて中に入った。部屋の奥から声は聞こえてこない。成宮くんが姉さんの姿を探すように視線を動かす。僕は黙って扉を閉めて、うす暗い部屋に電気を点ける。
「どこか出かけるなら言ってくれれば良かったのに」
原稿用紙をぼうっと見つめながら鉛筆をかじっている姉さんを見て、僕は非難めいた言葉をかける。姉さんは一瞬僕のほうを見て、また原稿用紙に目を落とした。
「まさか誰かを連れてくるだなんて思わなかったから」
姉さんはそういうと、小さく「ごめん」とだけいった。僕は姉さんにもうひと言、何事かいいたかったのだけれど、今更何を言っても仕方ないと思い直して、口を噤んだ。僕は姉さんの持っていた鉛筆を取り上げて、ボールペンに入れ替えると、そのまま自分の部屋に戻ろうとする。すると、「楽しかった?」と姉さんが僕に問いかけた。その言葉がやけに冷たく聞こえたように思えて、驚く。僕は勢いよく振り返ったのだけれど、姉さんはいつも通りの表情を浮かべているだけだった。僕は姉さんの知らない一面をのぞいてしまった気がして、少しだけ怯えた。まるで『あの瞬間』のようだと思った。僕が強く憎んでいる、僕の知らない世界の姉さんが顔を出した気がした。夜の散歩を続ける姉さんの白い手が、喉を包み込んでいるようだった。冷ややかな声に住んでいる悪意のはしっこを、たしかに感じた――ように思ったのだけれど。……なんだ、気のせいか、と少しだけ残念そうにしている自分に気付かないようにする。僕は一体姉さんにどう思ってもらいたかったんだろう。いや、姉さんを喜ばせるために成宮くんという友人を連れてきたはずだ。それは姉さんが望んでいたことで――それだけだ。それだけが目的の筈だ。確かめるように姉さんを見つめる。自分の行動と感情のひとつひとつが、パズルのピースのように頭の中でばらばらになっているように思う。何かが姉さんと僕の中でずれていくように思うのは、ただ僕が感情的になっているだけだろうか。けれど、それは決定的であるかのように思えた。これがただ僕の感情ならそれでいい。――それでいい、けれど。
姉さんは見つめ続けている僕を不審そうに一瞥すると、原稿用紙を綺麗に折りたたんで、ポケットに入れた。僕は姉さんのポケットの中で綺麗な長方形を保とうとする原稿用紙を想った。何故かそれに自分の姿を重ねた。綺麗な形を保とうとする原稿用紙は、姉さんのポケットに入り続けているうちに、きっとはしっこがめくれて、カーブを描き、折り目が付いた場所は弱くなって、そのままいつかは千切れてしまうだろう。けれども原稿用紙は原稿用紙であり続けることしかできず、一度折られた原稿用紙はその形を保つ努力をし続けるしかない。それが望みであり、唯一の答えであるから。たとえそのまま洗濯機に入れられて、粉々の紙の粒になったとしても、もとが原稿用紙であるという運命は変わらない。僕はそれと同じだ。たとえ水の渦に飲まれて消えていくことがあっても、僕の僕自身という運命は変わらない。むしろそれが宿命だともいえる。それを悲観することはない。たったひとりでない限り、僕が姉さんのポケットの中にいるかぎり、僕は僕自身であることを悲観しないでいられる。そのはずなのだ。そう、そのはず。そのはずだ。
「姉さん、明後日は家にいる?」
そう聞くと、姉さんは少しだけ沈黙した後、「明明後日ならいるよ」と答えた。いつもなら毎日家にいるのに、明日と明後日という空白の時間の不可解さに僕は首を捻った。まあ、明日成宮くんは塾に行くと言っていたし、遊びの誘いをするにしても、明明後日くらいが丁度良いのかも知れない。僕は「分かった、じゃあその時に紹介するね」と言って、姉さんの返事を聴く前にリビングを出た。