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幸ひの名前を呼んで  作者: 藤波
第三章 僕と姉の話
10/16

(参)

 つるつるとしたバスタブの表面を、スポンジで擦る。柔らかい白い光が、小窓から差し込んでくる。何度も表面を擦りながら、無い汚れを見つける。黒ずみも、カビのあとも、水垢も見えない。けれど、ひたすらにスポンジを滑らせる。自分のからだを洗うときよりもずっと優しく、そして、ずっと無機質に。

 数年前、このマンションに引っ越してきたときから、この浴槽には一度も入っていない。けれど、僕はこの掃除を一日として欠かしたことがない。

 普段、家に帰ってこない母と父は、それでもたまにこの場所を訪れる。居なかったときの知らない空気を、触れたことの無い時の流れを無理矢理くみとるように、明るい声で。

 そして、僕の機嫌を取るために、必ず何かお土産をもって来る。それは外国の甘ったるいお菓子だったり、日本のどこかの特産品だったり、すぐ近くにあるコンビニの新発売のプリンだったりしたけれど、どれであっても、僕の機嫌が良くなることは無かった。そもそも、悪くもなっていないのだから、何をしたって同じだ。母と父は僕のことを分かっていない。僕はふたりが思っているよりも、ずっと無関心だってことを。

 蛇口を捻ると、シャワーが勢いよく吹き出す。ざあざあ、という雨のような音に耳を傾けながら、浴槽の泡を落としていく。冷たい温度に足の爪が悲鳴をあげたけれど、僕は無視していた。目を瞑ると、梅雨の景色が瞼の裏にうつった。紫陽花、かたつむり、濡れたアスファルト、洗練された雨の匂い、憂鬱そうな、姉の横顔――そこまで考えて、自分の足の下を滑っている水が、温かくなっていることに気付いた。

 振り向くと、脱衣所に呆れた表情をした姉が立っていた。何も言わずにじっとこちらを見る姉の瞳をみて、僕はガスをつけ忘れていたことを思い出す。冷たい水より、温かいもので洗ったほうが汚れが落ちるから、必ずガスをつけてから掃除をすること。姉との約束を、愚鈍な僕はいつも忘れてしまう。僕がごめんなさい、と小さく呟くと、姉はそのまま脱衣所を出て行ってしまった。

 僕はなんだか姉に見捨てられたような気がして、そのまましばらく放心していた。足の下を水が滑っていく。僕の足を縁取るように、流れが出来ていく。それを自覚した後、蛇口を捻って止めると、姉さんの後を追いかけた。在り来たりな感情だけれど、なんだか急に姉さんに見捨てられたような気がしたのだ。


「……足、びしょびしょだよ」


 慌ててリビングにやって来た僕を見て、姉さんが笑う。下を向かなくても、濃い茶色をしたフローリングに、足跡がくっきりと残っていることは分かっていた。――さむくないの? 姉さんからの問いに、首を横に振る。僕にとって大事なことは、寒いかどうかなんていう僕自身のことではない。


「赦して、姉さん」


 僕がそういって近づこうとするのを、姉さんが制した。僕はまた突き放されたような気持ちになって、口籠もる。姉さんは僕を椅子に座るように促すと、そのままどこかへ行こうとした。思わず手を掴むと、姉さんは少しだけ僕に微笑みかける。その表情を見たら、僕はもう何も言えなくなって、ただ姉さんの帰りを、このちっぽけな椅子の上で待つのみだった。

 姉さんは小さいタオルを片手にすぐに帰ってきた。そしてぼうっとしている僕の前に座ると、そっと足を拭いてくれる。驚いた僕が自分でやるといっても、姉さんは無視した。丁寧に指の間まで水分をぬぐうと、仕上げにとでもいうように、両手で僕の足を包み込んだ。僕はその時始めて、自分の足が酷く冷えていたことに気付く。僕は、姉さんの白い手が汚れ、冷たくなるのが怖かった。再度大丈夫だと口にしたけれど、やはり姉さんは無視して、僕の足をあたためてくれた。足の甲を撫でる姉の指はすべすべとしていて、くすぐったかった。僕を労る姉の表情は、まるで神さまのようだったと思う。そう感じたのは、姉がまるで祈っているかのように僕の足をあたためつづけてくれていたからだろう。姉の体温は高い方では無い。だから、すぐに姉の手の温度と僕の足の温度は同じになってしまった。いや、むしろはじめから、ほとんど同じ温度だったといってもおかしくなかった。けれども、姉は温め続けた。僕の足が少しでも温まるのを願って。祈るように、なで続けていた。僕は、この時間が永遠に続けば良い――なんて、どこかの小説で見たような、フレーズを思った。この時間がずっと続けばいい。姉さんが居て、僕が居て。僕に必要なのはそれだけだ。それは多分、これから先もずっと変わらない。ぼくはずっと姉と生きていくのだと思った。きっとそうだろう。僕は姉さんが居ればそれでいい。それがいいのだ。この世界にふたりきりになったって、構わない。そう、多分僕は、姉さんを――。

 そこまで考えて、言葉が浮かばなくなる。僕は、姉さんを。……なんだというのだろう。

 僕にとって姉さんとは、必要不可欠な人。まるで身体の一部のような、精神のようなもの。僕の心といってもいい。けれども、「僕は」「姉さんを」――そうなると、僕は自分が何も持っていない気がする。この先の言葉を弾き出せない。ぴったりの言葉が、見つからない。以前、姉さんが教えてくれたはずなのに。≪僕は、その言葉を知っているはずなのに≫。

 その時、姉さんがぼくの肩を叩いた。はっとしたように顔を上げる僕に、姉さんは「お風呂に入ろう」といった。いつの間にか、結構な時間が経っていたらしい。僕は、足を温めてくれたお礼を言うタイミングを失ってしまった。そしてそのまま、姉さんに手をひかれるままに、再び風呂場に向かった。

そして今日も、僕たちは浴槽に入らない。


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