(一)
土の湿ったにおいと、鼻の奥がつんとする草のにおいが混ざりあって、どうしてか雨の日の匂いを連想させた。服が肌に張り付いている感覚の気持ち悪さに身をよじって、薄く目を開ける。瞼の隙間から、白い光が目を突くように侵入してきて、思わず強く目を瞑り直す。ごろり、と寝返りをうってうつぶせになると、草の先が顔を擽った。
唸りながら何度か地面を転がると、今度はしっかりと目を開ける。一瞬視界が白に満たされて、そのあとぼんやりと色付けされていく。白、金色、空色。一面の青空。少しだけつめたい、心地よい春のにおいがする風が吹いていた。
草むらに投げ出された左手の上に、とげとげとしたふしぎな感覚がある。見れば、大きい茶色い色をしたカブトムシが親指の辺りにしがみついていた。石のように硬そうな色をしたカブトムシは、標本のようにじっと動かない。俺は静かに起き上がって、ゆっくりと首を左右に動かした。一帯は草に満たされていて、建物は無く、遠くの方に森らしきものが見えるだけだった。俺はあぐらをかいて、手元に視線を落とした。カブトムシは逃げようともせず、相変わらず親指にしがみついている。この辺に木は無い。森の方から此処まで飛んできたのだろうか。
「カブトムシなんて久しぶりに見た」
思わず独り言がこぼれて、慌てて口をふさいだ。周りにだれもいないと、人は大胆になるらしい。
俺は口をふさいでも、自分の声を聞いている人間などいないことを再確認して、ふうと息を吐き出した。カブトムシをそおっと右手で撫でる。カブトムシの表面は油をぬったみたいに滑らかだった。固く覆われた羽を慎重に撫でると、うっすらとこびりついていた花粉が人差し指に付着した。俺の指が通った場所だけ、ぞうきんがけをしたように綺麗になる。
ツン、と立派な角をかるくつつくと、カブトムシは角を前に突き出して威嚇をした。勇ましい姿とは想像できない、丸くて黒いおちゃめな瞳を覗き込む。ビーズみたいに固そうな瞳はぴくりとも動かない。ただじっと俺を見ている。俺も負けずにそのちいさい瞳を見つめていると、カブトムシは繊細で厳めしい腕を少しだけ動かした。カブトムシの手は酷く繊細だ。木の枝のような形をしたそれは身体の頑丈なデザインとは一転して華奢で、少しでも強く引っ張ってしまったら千切れてしまう。後退するように六本の足を動かすカブトムシに「びびったな」とからかうように笑えば、否定するように彼は軽く親指をひっかいた。
「目がさめた?」
けれども俺が安心しきって独り言を呟いていた時。唐突に、自分の声では無い誰かの声がきこえた。澄んだ声だった。心と心のあいだにするりと入ってくるような静かできよらかな声。思わず目を丸くして立ち上がるけれど、辺りには誰も居ない。口を開けたまま視線を落として親指から腕の方へのぼってくるカブトムシを見る。カブトムシはやはりおちゃめな瞳で此方を見ていた。
「おまえ?」
ないしょばなしをするように、背中を丸めてかがむと、小声でカブトムシに問いかける。カブトムシはのぼるのを中断して、角を数回動かした。
「おまえ、頷いてんの?」
俺が言うと、カブトムシはまた動きを止めて角を動かす。
「アホか」
俺は溜息をついて姿勢を正すと、カブトムシから視線を逸らした。
人影を探そうと数歩前に進むと、後ろから「こっちこっち」という声がまた聞こえた。勢いよく振り返る。けれどもやはり誰も居ない。俺は眉を寄せて、声のする方に歩いてみる。
瞬間、相手の姿が見えない理由が分かった。
一歩踏み出した足が、がくんと下がる。そこにはなめらかな斜面があった。踏み出した足が地面に触れる前に、背中が地面につく。俺はバランスを崩して、思い切り斜面を転がっていった。ぐるんぐるんと三回ほど前転しながら斜面を滑り降りる。
「いってえ……」
「わっ、大変……! 大丈夫?」
「大丈夫じゃねー……よ……」
腰をさすりながら顔を上げると、目の前には自分と同じくらいの年の男が立っていた。
焦げ茶色の瞳に、色素の薄い髪。太陽の光を受けて、ところどころ髪の毛が金色に透けていた。染めているのか、と一瞬思ったけれど、色味からして地毛だろう、と思いなおす。
とらえどころの無い顔だった。ほくろもないし、どこかひとつのパーツがおおきいということもない。整いすぎている彼の姿は、デパートにあるマネキンを思わせる。此方に向かって伸ばされる手はびっくりするほど白い。
「誰」
俺は手に捕まって立つことをせず、自分の力で立ち上がる。立ち上がってから、自分よりも男の方が身長が高いことに気がついてげんなりした。
俺の質問に、彼はとぼけるように「僕?」と首を傾げた。おまえ以外に誰が居るのだ。まさかカブトムシには聞くまい。そう思って、慌てて手元を見る。あんなに斜面を勢いよく転げ落ちたのだ。逃げ遅れていたとしたら、もしかして彼はつぶれてしまったのではないか。俺は潰れてすり潰された彼の色と、それを見つけてしまった自分とを想像してぞっとした。けれども、カブトムシは俺の掌で潰れていることも衣服にこびりついていることもなく、とても上手い具合に俺のシャツのポケットの中に収まっていた。
おまえ運動神経良いな、と心の中で呟くと、まるで俺の心の言葉を感じ取ったかのようにカリカリとカブトムシがシャツをひっかく。
「僕は星野だよ」
男は右手で右耳に髪の毛をかけながら言った。
「ホシノ?」
俺は聞き返した。星野。当然聞いたことの無い名字だった。けれども彼は俺と同じ制服を着ていた。白いシャツに、藍色のズボン。胸元には金色のほしのマークの校章。学年バッチが示すのは第二学年。十七歳か、と思う。やはり俺と同じだった。けれども俺は、星野のことをしらない。
うちの学校の第二学年は二クラスしかないのに、名前を知らないなんてあるはずがない。けれども俺は星野のことを知らなかった。いくらとらえどころの無い顔だと言っても、同じ学年だったらなにかしら顔を合わせる機会はあるのだ。忘れるわけは無い。
おかしいな、と思いながら俺は星野の顔を見た。星野は朗らかに笑っていた。
「うん、ホシノ。きみは?」
「俺は……」
そのとき、俺は奇妙なことに気がつく。
唇は動くのに、言葉は出てこない。名前。なまえ。自分の名前。
「思い出せない」
俺は素直に答えた。
「そっか」
名前を思い出せないといっているのに、星野は別段気にしていないようだった。正直の所、俺も自分の名前が思い出せないというのに少しも気にしていなかった。なんだかそれが普通であるような心地がしたのだ。何故かはよく分からないけれど、名前が分からないことは恐ろしくなかった。
星野はじゃあ僕は君のことなんて呼ぼう、なんていいながら歩き出す。星野の歩き方はへんだった。まるで重力が無いみたいに、軽やかでふわふわとしている。前を歩く星野に、俺は何となく着いていく。最初の時に根付いていた警戒心は、いつの間にか根ごとひっこぬかれたようだった。
しばらく歩くと水のおとが聞こえ始めた。この先に川があるのかも知れない、と思う。黙って歩いていた星野が、くるりと振り向いた。焦げ茶色の瞳が、一瞬薄紅色に綻んだ気がして俺は目を丸くした。
「ねえ、じゃあ月野にしよう」
とっておきのアイディアだというように、星野が言った。
「ツキノ?」
俺はまた反復する。
「うん。僕が星だから、きみは月。いいでしょ?」
「なんだか単純な規則性だな」
「いいじゃない。規則性があった方が覚えやすい」
そして規則性っていうのは、案外大切だったりするんだ。
そんなことを言いながら穏やかに笑う男を、俺はみつめた。星野は頭の後ろで手を組んで「決まり」と言う。俺は頷いた。他に良い案はなかったし、単純だとは思ったけれど星野の意見を悪くないと思ったからだ。月は好きだった。
甘いにおいが風にのって運ばれてくる。ずうっと向こうに花畑のようなものが見えた。白とピンクと黄色の点がたくさん見える。その先には大きい木が生えていて、耳を澄ますと、さっきよりも大きく水のおとが聞こえた。
「なあ、ここ、どこ?」
その質問は無意識に出たものだった。
星野は俺の言葉に少しだけ困ったように笑って「僕にもわかんないんだ」と肩をすくめた。
「どこなんだろうね。ココ。でもいいところだね。――水のおとがきこえる?」
「きこえる」
「むこうに川があるんだ。行こうよ。おなか空いたでしょう」
「魚が住んでるのか」
「うん、そうみたい」
いつからここにいるんだ、と俺が聞くと「月野は?」と聞き返された。俺はわからない、と首をふる。目が覚めたら此処に居たんだ、と言うと「僕もだよ」と星野は言った。そうか、と俺は答えて、そりきり俺たちは黙った。嫌な沈黙では無かった。
星野のバッチが金色にぴかぴかひかる。星野はどこから来たのだろう、と思う。けれどもそれと同時に、自分はどこから来たのだろうと思う。けれどもそれは、名前と同じように、やっぱり重要では無いことに思えた。胸元でまた、カブトムシが窮屈そうに寝返りを打つ。
魚を捕るのは俺の方が上手かった。
水のなかを器用に泳ぐさかなを両手ですばやくつかむ。あまり強く掴むと魚は弱ってしまうから、適度に力をかけるのが良い。むかし魚には人間の手の温度は熱すぎるから、つかみ取りをすると火傷してしまうと誰かが言っていたっけ。誰だったかな。思い出せない。俺は額を滑り落ちる汗を腕で拭うと、星野の方を見た。
星野は、力の加減ができないようだった。傷つけないように力を抜きすぎるせいで、するりと手の檻から逃げられてしまう。ばしゃん、ばしゃんと何度も川に手を入れては悲しそうな顔で何も掴んでいない掌を見る。
「おまえはやさしいなあ」
俺は七度目の失敗に肩を落とす星野の後ろ姿に声をかけた。星野はゆっくりと振り向いて、困ったように笑った。水が跳ねたせいで白いシャツが所々透けている。俺ははじめからシャツを脱いでいた。川辺にある大きい石の上に、たたんで靴と一緒に置いてある。カブトムシは俺のシャツの上で悠々と俺たちをながめていた。呑気な物だと思う。
くしゃみをする星野に、風邪引くなよ、と言うと「月野はやさしいね」と言った。また星野の瞳は、薄紅に輝いている。俺は目を細めてそれを見つめながら、五匹目のさかなを掴んだ。両手に包まれたさかなは大きく手の中で暴れる。
「月野、君は優しいけれど、僕は全然、やさしくなんてないんだよ」
星野はそういって、また水面に視線を落とす。
さかなが跳ねる。
俺の頬に水がぴしゃりとかかった。
「ああっ」
星野は八度目の失敗をした。