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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

骨を拾う

作者: OKUHINA

十五歳、早春。


私は、母を失った。


今、私は、タバコと酒の交じった饐えた匂いの、寂れたキャバクラの控え室で、鏡の前に座っている。


切れかけの蛍光灯が、ジジッという音を立てて点滅し、黄ばんだプラスチックのカバーには、端々にヒビが入り、中には小さな虫の死骸が溜まっている。

が、誰もそんな事は気にすることもない。


メイクコーナーは、誰かが気紛れに飾り立てたのか、ゲームセンターの景品と思しき薄汚れたぬいぐるみの数々。

辺りはタバコのヤニで黄ばんで、その上にうっすらと埃が積もっている。


化粧下地、ファンデーション、チーク、アイシャドウ、アイライナー、マスカラ、口紅、をざっと台の上に並べる。

一通り揃ってはいるが、どれも人から貰ったものや、安物ばかりだ。

手先は器用な方だと思う。

睫毛の合間を埋めるように入れるアイラインも、問題はない。


化粧をするコツ、は顔全体を見ない事だ。

パーツにのみ意識を集中させる。


いかに唇を形良く縁取り、隙間なく塗れるかどうか、いかにアイラインの弧を美しく描けるか、いかにサンプル通り、瞼に色を乗せることができるか?要は子供の塗り絵だ。


瞳子ちゃん、ちょっと手伝ってー。

表からママさんの声がした。



はーい、と急いで立ち上がる。

そして鏡を見ることもなく、私は控え室を後にした。






人気もまばらとなった、午後の階段教室で、「うーん」と、伸びを一つ。

続いて出てくる欠伸を手で隠すこともなく、背中まで伸びた髪をさっくりと手櫛で一つにまとめあげる。


某国立大学の薬学部、五年生。

それが今の私である。もうすぐ、二十三歳になる。


薬剤師を目指すため、今年から実習に入った。

出会いを求めてなのか、女子には大学病院での実習が人気のようだが、私は郊外の小さな調剤薬局で研修させてもらっている。

大勢の人が集まる場や、華やかな場所が昔から苦手なのだ。


ゆくゆくは、地方の小さな薬局で働くことが出来れば、と思っている。



目前に国家試験や、卒研の準備もあり、そして、その合間を縫ってバイトをしている。


毎日あっという間に過ぎて行き、昨日食べたものすら、思い出せない有様だ。



さてと、これから一度家に帰って…、と立ち上がった瞬間に、後ろから声を掛けられる。



「ねえ、今日の飲み会、参加するよね?」


振り返ると同じゼミの美沙が、今日こそは逃さぬぞ、と言わんばかりに、じりじりと近づいてくる。


「あ、いやあ、今日は、ちょっと予定があって。」


なるべく目を合わせないように、教科書で顔を隠して、いそいそと逃げ出す。



「ちょっと!あんた、あれから一度も参加してないじゃないの!いい加減にしなさいよ!」


美沙の怒号が、教室に響き、残っていた学生が一斉にこちらを見る。



「ごめんって!次は必ず参加するから!」


出口で手を合わせて、素早く一礼し、足早に外へ出た。



「まったく、もう!」


美沙のぼやきが遠くに聞こえてきた。


美沙とは、出席番号が前後、というありふれた出会いだった。


毎日バイトに明け暮れて、クラブや、サークルに一切入らないという人付き合いの悪い私にも、グイグイと話しかけてくれ、この大学内では、私の唯一無二の友人である。


朗らかで、誰とも垣根を作らず、友人が多い彼女を通して、私はなんとかこの大学で、人間関係を構築できている、と思う。


そして、美沙のその明朗快活な人柄や、明るく華やかな外見は、とある古い知り合いを、私に思い出させる。



薄暗い廊下を足早に通り抜け、外へ出ると、長くなってきた日の光が、じんわりと目に染みてくる。


長かった冬が終わりを告げ、寒々しかったキャンパス風景にようやく、淡い色彩が付いてきた。



春、三月になった。


まだまだ風は冷たい。


ぶるっと身震いをして、薄着を心から後悔した。



キャンパス内の駐輪場に出ると、足元で落ち葉がくるくると回る。


よしよし、自転車は盗られていない。


サドルもある。


子猫の頭を撫でるように、サドル優しく撫でた。



大学から2キロほど離れたところにある、自宅アパートまでの唯一の移動手段がこの自転車だ。



三年前の春、粗大ゴミの日に拾った(こっそり頂いた)ものだが、いつだったか、何故だか校内でサドルだけが盗まれたのだった。


途方に暮れて、その日は自転車を押して帰ったのだが、二、三日後、アパートの駐輪場に止めていたところ、別のサドルが刺さっていた。


サドルだけが盗まれる事も謎であるし、サドルが戻ってくる事も謎である。


と、まあ、いわくつきの、おんぼろ自転車ではあるが、これをなくしてはもう私の生活は成り立たない。



キャンパスは辺り一帯を見渡せる小高い丘の上にある。街から電車で30分ほどの場所だが、駅から少し歩くと一面に長閑な田畑が広がっている。


自転車に跨り、用水路沿いに、ぐい、とペダルを漕ぐ。


雨で早めに散ってしまったソメイヨシノの桜の花びらを、申し訳ないと思いつつも、無造作に踏みつけながら、自宅へ急いだ。



今日は夕方の五時にお店に入り、お店の掃除から始まる。


ここら一帯では随一の、繁華街(とは言っても都会のそれと比べてはいけない)の、とある小さな酒場が私のアルバイト先である。


キャバクラともスナックとも、実際のところ、区別はつかない。


客側も接客側も、やや年齢高めだ。


女の子は若いというだけで、そこそこの人気は取れる。



この廃れた繁華街の小さなキャバクラには、掃除を外注する予算はもちろんなく、新人、もしくは売れていない者が、ノルマの代わりに店開きから店仕舞いの掃除清掃、食器洗浄、お酒、おつまみの補充などを担っている。



そもそも、人付き合いが下手で、かつ、地味の見本のようなこの私がなぜ、ここのお店で働いているか。


それは、とある先輩の紹介を受けたからだ。



夜中の食品工場と、昼間のスーパーレジ打ち、家庭教師、三つのバイト掛け持ちしていたのだが、実習が入るようになって、昼間のバイトが出来なくなってしまった。


美沙に、一度ちらっとそんな話をした事があった。


と、その翌週くらいに、美沙が件の先輩と会わせてくれたのだ。



信頼できるしっかりした人だから、と美沙が紹介してくれた通り、外見も話しぶりも、何もかも真面目を絵に描いたような女性だった。


春から故郷の小さな薬局に就職が決まっている、と聞いた。



地方から出てきて、親の援助なく、六年間の学費と生活費を捻出する事は、並大抵ではないよね、とその先輩はしみじみと言った。



そして、古い物だけど良ければ、と紙袋いっぱいに入った、お店用の衣装を手渡してくれた。


先輩は、そのとき、ひとつの条件を出した。


それは、目的の金額を達成したら、そして学校を卒業したら、すぐにこのアルバイトを辞める、そして二度と戻ってはいけない、ということだった。


「短時間で簡単にお金を稼ぐと、感覚が麻痺して辞められなくなるから。できるだけ早くここから卒業しなさい。」


と、その先輩は、優しくそう言った。






掃除は苦ではない。むしろ好きだと思う。


衣装に水が跳ねないように、細心の注意を払い、トイレ掃除を始める。


薄いサテン生地の衣装は、クリーニング代金もバカにはならない。



時代遅れなデザインを見て、クスクスと笑いながら陰口を叩く同僚もいるが、全く気にもならない。


第一に、酔った客はそんなことは気にしない。


布の面積が多いか少ないか、彼らの興味はそこにしかないのだから。



一通りの掃除を終え、グラスやお絞りを整え終わり、開店準備が一通り整うと、次は身支度だ。


と言うわけで、今、私は、どうにかこうにか、ママさんに怒られない程度のメイクを自身に施し終えたところだ。


やがて、ぽつぽつと、男性客が入店してくる。



店で一番人気の女性へ、あたかも蜜に群がる蜂のように、入れ替わり立ち替わり、客が座る。


売れっ子ではない私の役目は、ヘルプと呼ばれる、補助的なものだ。


空気のように存在を押し殺し、グラスに氷を入れ、高いお酒を勧め、注ぎ、混ぜる。


それを延々と繰り返す。



たまに気を使うように話し掛けてくる客に対して、ニッコリと笑い、相槌をうつ。


相手の最後の言葉を繰り返し、知らなかった、と驚いて見せ、それから褒める。


相手が否定的なことを言えば、肯定的に慰める。



慣れてくれば、顔の筋肉が訓練されて、それなりの表情も身についてくる。


三ヶ月も続けると、物好きな客が私を指名してくるようになった。


30代前半の男性で、悪酔いする訳でもなく、ただ淡々とお酒を飲み、映画や本、たまに会社のことなどをポツリポツリと話す。



中肉中背、会社の規定を遵守している典型的な、善良なサラリーマン、と言ったところか。


顔は可もなく不可もなく。芸能人で言うと、お笑いのちょっと男前のあの人(名前までは覚えていない)に似ている。


支払いは、ツケ払いではなく、都度精算してくれる。


帰り間際にちょっと高めのお酒をボトルキープして行く。


まあなんというか、文句の付け所のない、素晴らしいお客様だ。



良いお客だな、と思う一方で、私の中は、頭の中で徐々に”ややこしい事になりそうだ”、という予感めいたものが増えてくる。


そしてその予感めいたものは、大概その通りになる。



ある晩の帰り際、その”ややこしい事”は、突如始まったのだった。



「今度、お店の外でも会えたら、と思うのだけれど、どうかな。」


と、映画のチケットを差し出された。



鼓動が速くなるのを感じ、次に手足に冷たい感覚が襲う。



「それは…。」


変化を悟られないように、努めて自然に少し首を傾げて、曖昧な返事をしてみる。



「出来たら、このお店を辞めてもらって、僕とお付き合いをするという意味で。」


と、珍しく少し怒ったような口調で、じっとこちらを見つめてくる。



そうきたか、と思った。



世の中、”不幸な女に手を差し伸べる、優しい自分”に陶酔する男は少なくない。


だが、彼がそこまでかと言われると、正直には分からない。



が、しかし少なくとも彼は、


「僕が生活の面倒を見るから。」くらいは言い始めそうだ。



だからと言って、ここで無碍に断ると、貴重な固定客を失う事になる。


そしてその損失は大きい。



頭の中で、二人の自分が討論しているかのように、グルグルと色んな考えが回っている。



「ええと、映画って?あ、これ!前評判高いやつでしょう?映画お好きですか?この俳優、最近よく見ますよねぇ。映画評論文とか、好きなんです。私。それでね…。」


口が勝手に、ペラペラと動いていた。



相手が何度か、言葉を挟もうとしているのが分かったが、気付かない振りをした。


口の動きとは裏腹に、手足はさらに冷たくなってゆき、小さく震えているのを、必死で押し留める。



圧倒されたのか、幻滅されたのかは、はわからないが、その場はなんとか、有耶無耶にする事が出来た。



その男性客は、何か言いたそうな顔をしていたが、色々飲み込んで、その日は帰っていった。








季節は巡り8月の終わりとなっていた。



いつものように店仕舞いを終え、化粧を落として、冷房でキンキンに冷えた店を出ると、無風の熱帯夜だった。



鍵を締めて振り返ると、店の横の脇道に人影が動くのが見えた。


従業員用の裏口周辺は、街灯がなく、人の顔も近付かなければはっきりと分からない。



ギョッとして、背筋にスーッと冷たいものが走り、一気に心拍数が上がる。


頭がチカチカする。


様々な状況を想定しても、良くない想像しか浮かばず、その場で足が止まってしまった。



その場に立ち尽くしていると、目の前に、その人影が動いた。



「何やってんだよ。こんなところで、お前は。」


想像していたのと声が違う。



恐る恐る、顔をあげて、声の主をじっと見る。段々と暗闇に目が慣れてくる。


ゆっくりと下から視線を上に送る。



履き潰した白いコンバース、穴が空いたジーンズ、洗いざらしのTシャツ。そこから無造作に伸びた長い手足。


日焼けした顔。


子犬のような黒目がちな瞳は、少し憂いを帯び、それは彼の成長を物語っているようだった。



仁王立ちになって、腕を組み、ムッとした顔で、こちらを睨んでいる。



「萃?」


思わず声が裏返る。



「おうよ。待ちすぎて足腰バッキバキだし、おまけに蚊に沢山食われるし、ほんともう散々だよ。」


腕をボリボリと掻きながら、近寄ってくる。



「こ、ここで、何してるの?」


慌てふためく私の手首を、容赦なくガッチリと掴む。



「とりあえず、立ち話もなんだから、何か食いに行こう。俺、腹が減って死にそうだ。」


頭が混乱したまま、引きずられるようにして、繁華街を抜け、郊外のファミレスを目指すことになった。



私と萃が出会ったのは、私が3歳で、萃が2歳の時だった。



小さすぎて、出会った瞬間など、もちろん、覚えてはいない。


同じ保育所に通い、母親同士が同じシングルマザーということで意気投合。


家もほどほどに近所であったらしい。



私たちの間柄は、幼馴染、この一言に尽きる。

























**************************************************************


育児休暇から復帰後の時短から、フルタイムに戻る事になったのは、つい先日からである。


色々あるとは思うけど、なんとか、もうそろそろ、頼むよ、というのが、上司の言葉だった。


ここ都会では、身内がいない中での、子育てとフルタイムの仕事の両立は、かなり難しい。



私は地方の、とある田舎の出身だ。


両親は既に他界しており、身内は兄が一人いる。


といっても、最後に兄と会ったのは、父の葬式の時で、今どこで何をしているかさえ、知らない。



田舎では、さほど珍しい事ではないかも知れないが、当時、地方ではまだ、跡取り息子、という言葉も多く聞かれ、私の母の興味も、兄一点に注がれていた。

母の兄への愛情は、少し常軌を逸していたようにも、思える。

溺愛、という表現がぴったりだった。



父は分家の次男坊で、町の役場に勤める公務員だった。


一帯の大地主の長女であった母と、見合いの末、婿養子として結婚した父は、立場もあってか、大人しくて気が弱く、母の顔色を伺ってばかりいたように思う。



私は、なんとか親の愛情を得ようと、幼い頃から机に噛り付いて、よい成績を取ろうと躍起になっていた。


親に褒められる事と言えば、それ以外思いつかなかったのだ。



だが、中学生になったばかりのある日、


「大学に行く訳でもないのに、女の子がそんなに勉強ばかりして何になるのか。」


と母に言われた。



反抗期を迎えていた私は驚いて、


「お兄ちゃんが大学に行けるのに、どうして私は大学に行けないのか。」


と、この時、生まれて初めて抗議をした。



今となれば、大学に行く、はこの時につい口に出てしまっただけで、本当は自分の目指していた、”親から愛される子供の理想像”が、ガラガラと音を立てて壊れていく事にショックを受けていたのだと思う。


私の懸命な言葉は、全く母には届かなかった。


母は、何を言っているのだろう、この子は、という怪訝な顔をして、周りの女の子も皆行っていないだろう?と言った。


衣食住を与えられて、ここまで大きくしてもらって、何が不満なのだ、とも言われた。



程なくして、兄は母の過干渉に耐えきれず、大学進学を理由に、早々に家を出た。


当時は羨ましいとしか思えなかったが、過大なプレッシャーを与えられていた兄も、随分辛かったのだと思う。



兄を失った母の落胆は大きく、家事も何も手につかない状態となった。


それから間もなくして、母にガンが見つかり、あれよあれよと言う間に入院となり、兄が19歳、私が15歳の時に、亡くなった。



病気が見つかってから、亡くなるまで半年間、私は毎日、学校帰りに病室に通った。


そうする事が、正しい子供のすることだ、と漠然と思ったからだ。



母は私が見舞いに行っても、いつも兄の話ばかりをした。


そして、窓の外を覗いては、来る予定もない、兄が見舞いに来るのを待ち続けた。


まるで、そこに私はいないようだった。



両親が、私に対して愛情が全くなかった、とは思わない。


もしかして、私の知らないところで、もしくは覚えていないところで、愛情が注がれていたのかも知れない。



けれども、それは私の望んだ愛情の形ではなかった。



子供としてあるまじき事かも知れないが、私は母が亡くなった時に、心からほっとしたのだ。


もう自分を誰かと比べることもない。


もう誰かに与えられない愛を乞う必要もない。



母の葬式では、自然に涙が出た。


自分でも何が悲しいのか、よく分からなかった。



火葬場で、母が焼かれて出てきた時、親戚の誰かが、まだ若いだけあって、骨がしっかり残っている、と言った。


それを聞きながら、本当に理科室の人体模型の通りなのだな、と、ぼんやりと思った。


そして、母の骨を拾いながら、とても冷静に、これが人の成れの果てか、としみじみと思った事を、今でもよく覚えている。


私は冷徹で情緒がない、欠陥人間なのかも知れない。



母が亡くなってから、すっかり無気力になった父は、私に、好きなように生きろ、と言った。


私は砂に潜った貝のように、息を潜めて高校生活を過ごし、卒業と同時に家を出て、隣県の公立大学に進学した。


学費は父が工面してくれた。


そして、真面目に大学を卒業して、社会に出た。



その二年後に、父は病気で亡くなった。





 同じ会社に勤めていた3歳年上の夫とは、一応、恋愛結婚である。


一応、と言うのは、私には未だにあれが恋愛であったかどうか、よくわからないからだ。



ある日、名前もうろ覚えのその人に、食事に誘われ、断る理由もなく、何度か食事をし、そのうち、休みの日に一緒に外出するようになり、気がつくと、一人暮らしの彼の家に招かれ、食事を作る間柄になっていた。



恋愛かどうかは分からないにしても、自分が作った食事を、旨い旨いと頬張る姿は、見ていて幸せな気持ちになったし、万年壁の花の代表格の私などに、声を掛けるような人懐っこいその性格や、一瞬で周りを明るくさせる、自分と真逆なその性格を好ましい、とは思っていた。



初めて彼の家に泊まった明け方に、


「どうして私なんかに声を掛けたの?」と聞いたら、


「もう少し肩の力を抜いたら、いいのに、と思ってずっと見ていたら、そのうちに目が離せなくなった。」と答えた。


続けて、


「君はさ、よく、私なんかって言うけど、もっと鏡を見たほうが良いと思うよ。だって…君は…綺麗だ…。」


そう言ったかと思うと、数秒後に寝息が聞こえてきた。



その一年後に籍を入れた。


結婚式は挙げず、街中の小さな写真館で、記念写真だけ撮影した。


住まいは夫が住んでいた賃貸マンションに、私が荷物を持ち込んで、結婚生活がスタートした。



程なくして、妊娠が分かった時に、その場で私を抱き上げてクルクル回り、大いに浮かれた夫だった。


が、続けて仕事を辞める意思が全くない事を告げた時、夫は一瞬、少し驚いた顔をした。


そして、その後に、その方が君らしいからね、とにっこりと笑った。



妊娠五ヶ月を過ぎた頃、悪阻が酷く、這うようにして仕事に行き、帰ってきたある日、珍しく先に帰っていた夫が、玄関に正座して待っていた。



開口一番、


「君に対して、不誠実な事をした。」


と、


頭を床に擦り付ける勢いで、謝る。


取り敢えず、手を引っ張り、居間に連れて行き話を聞くと、半年前に入ってきた、派遣の若い女性と関係を持った、という。



「もう黙っていられなくて。」


と、良心の呵責に耐えられなくなったと言う。



聞くと、暴力を振るう酷い彼氏に悩まされて可哀想な女性で、頼る親もいないと言う。


何度か相談に乗っているうちに、そのような関係になったらしい。



「君が悪阻で苦しんでいる時に、本当に申し訳ない。」と何度も繰り返し、


「でも、もうキッパリと別れてきたから、どうか許して欲しい。」


と目に涙を浮かべながら謝罪をする夫を、一度は許したつもりだった。



それから何もなかったように、お互い振る舞い、春が過ぎ、娘が産まれた。


夫は子煩悩であったと思う。


率先して家事も育児も手伝ってくれた。


何もかも、平和で、幸せな3人家族に思えた。



ところが、ある晩、布団に入って、何気なく、夫が、私の肩に触れた時、ゾッとする程の嫌悪感を覚えた。



ビクッと肩を震わせた私を見て、夫も何か推し量ったのだろう。


静かにその手を戻し、おやすみ、と優しく告げた。



その半年後、私たちは離婚した。



乳飲み子を抱えた私では、引っ越しは出来ず、夫がひっそりと部屋を出て行った。



夫は転勤を会社に申し出て、それが受理された。


そして、件の”可哀想な女性”と、夫が再婚をした、と聞いたのは、それからさらに半年後の事だった。







金曜日の夜、七時五分前、パンプスを揃える暇もなく、ギリギリに保育所に飛び込むと、


瞳子が入り口に立って、微妙に背が届かないガラス窓に張り付き、背伸びをしながら、私を待っていた。



「お母さん!お母さん!お帰りなさい!お帰りなさい!」


仔犬のように足元にじゃれ付いて、躓きそうになる。


娘を、キュッと抱きしめつつ、優しく足から引き剝がしながら、遅番の先生に頭を下げる。


「遅くなりまして、いつもすみません。」



掲示板に一瞬で目を通して、カバンを掴み、帰り支度を整える。



「よっ!お疲れ!最近帰りが遅いじゃない?」



背中をバーンと叩かれて、振り返ると、彩さんがニコニコと笑って立っていた。


彩さんは、保育園で出会った、いわゆる”ママ友”だ。


お互いの子供の歳は一つしか変わらないが、彩さんは私より七歳も若い。



「ちょっとね、配置換えがあって、仕事が増えたもので。まだ帰ってなかったの?」


「うん、萃がねぇ、瞳子ちゃんともう少し遊びたいって聞かないんだ。うちの子、頑固で。まだトイレも怪しいのに、そう言うとこだけ一丁前で、困っちゃう。」



ひまわりの花のようにガハハと笑う、この女性に私は何度となく救われている。


初めて声を掛けられた時は、全く世界が違う人だ、と思った。


美容師という職業柄かコミュニケーション力があり、顔立ちも服装も、何もかもがよく目立つ、豪快な女性だ。



彩さんの旦那さんは、同じく美容師だったが、萃君が生まれる直前にバイクの事故で亡くなった、と聞いている。


お互いシングルマザーと分かり、プライベートの深い話をするようになってからも、半年間は、私は彼女に敬語を使い続けた。


彩さんと萃君の家は、近所、とまでは行かないが、保育園から自宅までの途中にあった。



「途中まで一緒に帰ろうよ。」


「うん。」



子供達は、転がるように出口に向かい、大声で何かを叫びながら、歓喜の声をあげ、下駄箱で座り込み、靴を履き始める。


そして、小さなお互いの手を繋ぎ、主に瞳子が萃君の手を引く形で、私たち親の先を歩いている。


日はとっぷりと暮れ、国道に差し掛かると、子供達は点滅し始めた信号を指差し、走り始めた。



リュックにぶら下げた、反射板素材のキーホルダーに、時折、自転車や、車のライトが反射して、キラキラと光る。



「ちょっと!子供達だけで、横断歩道は渡ってはダメ!」


バタバタと親達は子供達を追いかける。



ようやく追いつき、待て待て、と、子供達のリュックを掴みながら、彩さんが、こう言った。



「萃がね、瞳子ちゃんと晩御飯を食べたいって言うのよ。どうかな?」


「え?今晩ってこと?」


「イヤイヤ違うくって。玲子さんが、遅くなった晩に。」


「お迎え、私がまとめて引き受けちゃうから。それで、うちで晩ご飯食べるの。玲子さんがうちに迎えに来たら、ちょっとは楽じゃない?」



彩さんが、どうかな?という風に首を傾ける。



「助かる…んだけど、それはちょっと、そちらに負担かけ過ぎちゃうから、悪いよ。」


両手をブンブンと振りながら、私は慌てて言った。



「あ、違うんだ。実はこちらもお願いしたいことがあるんだ。聞いてくれる?」



彼女からのお願いはこうだ。



昼間の美容師の仕事が終わってから、週に何回か、知り合いのスナックで働けないか、と言われている事。


その夜間に、萃君をみて貰えると、とても助かること。


むしろ、うちの方が難しいお願いなので、無理はしないで、と彩さんは言った。



全く無理ではないし、こちらも助かる、と話はトントン拍子にまとまった。


そして、次の週の月曜日から、まとめてお迎え作戦が試行されたのだった。



一週間のお試し期間を経た結果、親達のストレス、そして負担は大いに減った。


が、しかし、今度は子供達がへばってしまった。



萃君の家でご飯を食べた後、我が家でお風呂に入り、彩さんの帰りを待つ。当然のごとく、子供達は寝入ってしまう。


寝入り端を起こされた、グズグズの萃君を抱っこして、今度は彩さんと萃君は自宅へ戻る。


最初は一緒に寝るのが楽しくて仕方ない子供達だったが、テンション高く、睡眠も浅くなり、とうとう瞳子が風邪を引いてしまった。



瞳子が寝込んでしまった為、私は会社を1日休み、その夜、彩さんが、スナックへ出勤する為に、萃君を預けに来た。



瞳子ちゃんが大変な時に、お願いしちゃってごめんね、と申し訳なさそうに言う彩さんに、


「なかなか上手くいかないもんだねぇ。」


と、私はため息をついた。



「うーん、家の往復がね、予想以上に大変だったね。」


としばらく二人で考え込んでいたが、



閃いた!とばかりに、彩さんが、パッと顔を上げて、頷いた。


「よっしゃ!もう一緒に住まない?流行りのシェア何とかってやつよ!ちょっと当てがあるんだ!」



そう言って、彩さんは、親指をぐっと立てて、任せといてとニッコリと笑った。







翌週末、彩さんに連れて来られたのは、郊外の広大な敷地内にある、木造の古い三階建てのお屋敷だった。


高い塀と森の様に生い茂る植栽に阻まれて、中の建物は塀の外からは全く見えない。


ともかく広大で瀟洒な、大邸宅であった。



一階の玄関に入るとすぐに十畳程の広さの食堂と、続いて二十畳程の応接間、奥には広めの台所、廊下を出てトイレ、洗面室、お風呂があった。



食堂には悠に十人は座れるだろう大きいダイニングテーブルが置いてあり、食堂内には業務用の冷蔵庫が備えてあった。



大きめの浴室には、シャワー2つと優に人が3人は浸かれるくらいのタイル張りの浴槽。洗面室には、脱衣カゴを置ける棚と、洗濯機が二台。



二階には、廊下を隔てて、手前に広めのマスターベッドルーム。左右に各八畳の洋室が3部屋ずつ。


各部屋には鍵が付いている


二階にも小さいシャワールームとトイレが設置されていた。


さらに、三階にはロフトタイプの天井の低い部屋が短い廊下を隔てて2部屋あり、ここは物置とされているようだった。


加えて、中庭には、離れまであった。



一階の食堂に戻り、彩さんにクッションに細かい刺繍が施された如何にも高価そうな椅子を勧められて、恐る恐る浅く腰掛ける。



「で…ここは…?」



てっきり広めのマンションの一室をシェア、もしくは同じマンション内で個々に部屋を借りるものだと思い込んでいたので、展開について行けず、ようやく喉から言葉を絞り出す。



「ここはね…。」


と、彩さんが説明を始めると同時に、



ひょこっと、食堂の出入り口から、一人の青年が首を出した。年は二十代半ばくらいだろうか。


「こんにちは。」


そして、その後ろから、もう一人、小柄な初老の女性が、


「いらっしゃい。」と、手をひらひらさせている。



彩さんが、二人に駆け寄り、手を引いて、やってきた。


「あ、先に紹介するね。ミツコさん。そして佐々木君。」


「は、初めまして、榊玲子と申します。」


私は慌てて、椅子から立ち上がり、自己紹介をした。



「初めまして!僕は、佐々木亮介と申します。現在フリーターやってます。彩さんとお付き合いさせて頂いています!」



と、その背が高く、人懐っこい笑顔が特徴の爽やかな青年は、軽く会釈をしたと同時に、バシーンっと、彩さんに背中を叩かれる。



「違います。ただの知り合いです。」


「ちょっと!知り合いはひどくないすか?せめてお友達とか…。」


ブツブツ言う青年を後ろに追いやり、



おほほほ、と澄ました彩さんは、続いて、女性の背中に手を回して、紹介する。


「米田ミツコさん。事実上のこの建物の持ち主だよ。」



「いらっしゃい、話は色々伺っていますよ。どうですか?気に入ってもらえましたか?」


と、ミツコさんは、ニコニコと聞いてくる。



小柄だが、存在感があり、矍鑠としたご婦人だ。


佇まいからも、上品さが滲み出ている。


大きいお孫さんがいるので、お歳は七十歳くらいだろうか。



「亡くなったおじいさんが、ここ残してくれたんですけどね、一人でここを管理するのにも、持て余してしまって。それに、暇をしていると、ほら、ボケちゃうし。ほほはほ。」


ミツコさんは、そう言って朗らかに笑った。



話を整理すると、ここは、某有名製薬会社の経営者で、引退後も、長らく会長を務めていた、ミツコさんの旦那さんの所有邸宅だった。


旦那様が亡くなった後、ミツコさんが相続することになり、思い切って売却も考えたが、思い入れもあり、これを機会に、食堂付きの寮舎として経営しようと思っているそうだ。



ちなみ件の青年、彩さんの”お知り合い”である、佐々木君は、ミツコさんのお孫さんで、既に二階の一室に住んでいるとの事だった。



日中はだれか1人は大人がいるので、親が働いている間は、もし子供が寝込んでしまっても、面倒を見る事が出来る。


保育所のお迎えも、然り。



食事は、主にミツコさんと昔からの通いのお手伝いさんが作る。


補助はその時に手が空いている人で。


共有の場所の掃除やゴミ捨ては当番制。


光熱費、水道代、食費、家賃、全て込みで、基本は一世帯につき八万円から。



即決した。何を迷う事があるだろうか。


二週間後には、彩さんと萃君、私と瞳子は早々に荷物をまとめて、引っ越してきた。


私たちは隣同士で、二階の八畳個室、南側を使わせて頂くことになった。



建物には、特に名称はないようだったが、誰ともなく、ハウス、と呼び始めて、いつの間に定着していった。
















************************************************************



華がハウスに越してきたのは、保育所で、私が年長組、萃と華が年中組の事だった。



私たち3人は、延長クラスでも、お迎えが遅い、居残りで馴染みの三人だった。


華は同じ年頃の子供と比較しても、小さくて細かった。


或いは、痩せていた、という表現が正しいのかも知れない。



子供の私が見ても、華は可愛い、というよりは美しい少女だった。



華のお母さんは、茉莉花さん、と周りから、呼ばれていた。


華ちゃんのママと呼ばれる事を、かなり嫌がったと聞いている。


茉莉花さんは細くて小柄で、つるんとした美しい顔をしていて、いつも香水をつけて、ヒラヒラとした綺麗な洋服を着ていた。



生き写しのようなこの美しい母娘は、並ぶと、まるで広告のスチール写真を見ているような、完璧な印象を受けた。



茉莉花さんは、ハウスには、ほとんど住んではいなかった。


ホテル住まいをしていると聞いた事もある。


たまに帰ってくると、沢山のお土産をくれた。



現れる度に違う男の人と一緒にいたし、何の仕事をしている人なのかもよく知らなかった。


華に聞いても、困ったように少し笑って、知らない、と言うのだった。



実質、華はハウスのみんなに育てられたのだ、と思う。


子供は、みんなの宝物だから、と彩さんが、よく言っていた。



それに、華は本当に、愛すべき子供だったのだ。



華が、ハウスにやってきたあの日。


保育所では、ひと騒動持ち上がっていた。



いつもは迎えに来る華のお迎えは、莉花さんであった時もあったし、代理の男の人の場合も多かった。


が、あの日、閉園の時間になっても、華のお迎えは来なかった。


保育所の遅番の先生が、茉莉花さんに連絡を取ろうとしても、携帯に繋がらないようだった。


オロオロする先生達を、華は、表情も変えずに見ていた。



私は、華の側にぴったりと寄り添っていた。


様子を静かに見守っていた母が、やがて外に出て、一本の電話を掛けた。



約30分後、彩さんが、遅くなってしまって、と息を切らして、保育園に到着した。



「華ちゃんママに、都合で今日はお迎えに行けないので、お迎えを頼まれていたんだけど、すっかり遅くなってしまって…申し訳ありません。」



そう言って、彩さんは、先生達に謝り続けた。



私は、華に、一緒に帰ろうと、声を掛けて、その細い指をぎゅっと握った。


華は、不思議そうに、私を見上げた。



私たちは、皆でお互いに手を繋ぎ合い、離れないように固まって、家路についた。


二本の手だけでは、繋ぎ足らず、心許ない気がした。



華は、始終無言だった。



ハウスに着くと、オババが、あらまあ、可愛子ちゃんが増えたわねぇ、と、ニコニコと笑って出迎えてくれた。



私たちはオババが用意してくれた、具沢山の味噌汁と煮魚の温かい夕食を食べ、お風呂に入った。



誰に命じられずとも、私は華と一緒にお風呂に入った。


華は、初めは洋服を脱ぐ事を恥ずかしがったが、私が先に服を脱いで、湯船にジャポンと浸かって見せると、恐る恐る服を脱ぎ、浴室に入ってきた。



優しく頭からシャワーを掛けて、絡まって玉になっていた、絹糸のように細く色素の薄い髪の毛を丁寧に洗う。



華は、座ったまま、じっとしている。


スポンジに液体石鹸を掛けて、泡の塊を作り、はい、と華に渡すと、嬉しそうに、泡を両手に抱えて、しばらくの間、じっと見ていた。



その日の晩は、子供達だけで、固まって寝た。


華は、私にぴったりとくっついて離れなかった。


萃が、いの一番に、隣でスースー寝息を立て始めた。


私が、華の背中を優しく摩ると、間も無く華も寝息を立て始めた。


生まれたての子猫のように、小さくて、華奢な身体だと思った。


ちょっと力を加えるだけで、壊れてしまいそうだった。



しかし、華の体はじっとり熱く、上下するその痩せた胸にそっと耳を寄せると心臓の音がコトコトと響いてきた。



生きている、と子供ながらに、思った。



そうして、何故だか、少し泣きそうになった。





華は小さい頃から、時々、突拍子もなく、怖いと怯えて大泣きしたり、ピタリと何かを言い当てたりする事があった。



それは、華が母親の気を引く手段の一つなのか、はたまた、何か特別な能力なのか、大人たちは、夜中にしばしば真剣に議論を交わしていたようだ。



が、当の子供達、私と萃、華、の3人にとっては、明日の天気が晴れだとか雨だとか、その程度のものだった。



もっと言えば、今から私が予言しましょう。


宿題を忘れると、あなたはきっと先生に叱られるでしょう…くらいのことだ。



しかし、私の母と彩さんは、華が、そのことによって、学校で浮いた存在にならないかどうか、を気に掛けていたように思う。



実のところ、私もそれは心配だった。


私は学年が違うし、萃もクラスが違ってしまえば、フォローが難しい。


ただでさえ、華のように容姿が整っている美少女は、嫉妬ややっかみの対象になってしまう。


しかし、華本人は、色々と押しとどめて、孤高の美少女というポジションを何とか確立したようだ。



人はあまりに美しい物を目の前にすると、身がすくんでしまうのかも知れない。


進んで関わり合いにこそなりはしないが、だからと言って、いじめられるような事もなかったようだ。


これといってグループには所属していないようだったが、本人は殆ど気にしていない。


ある意味、華の特殊な能力だ、と私は思った。



心配する私をよそにして、華は、瞳子ちゃんと萃がいるし平気だよ、とニッコリ笑ってみせた。



さて、私の学校生活は、と言えば、クラスに何人か友達は出来たものの、コミュニケーション下手に関していえば、華のことを決して心配出来る立場ではなかった。



佐々木くんが、ハウスで勉強をよく教えてくれるお陰で、なんとか成績は上位に保たれており、地味なガリ勉キャラで通していた。


学期の初めは、ハウスの事を、ヒソヒソと噂して、萃との仲をからかってくる男子や、親が離婚して可哀想、と、もっともらしい顔つきで、馬鹿にしてくる女子グループもいたが、相手にせずにいたら、飽きてしまったらしく、気がつくと止んでいた。






ハウスの住人である佐々木くんは、私の初恋の相手だ。


と言っても、佐々木くんには、彩さんしか見えていなかったので、最初から叶わない、淡い初恋だったのだけれど。



学校から帰ると一目散に、教科書を開いて、勉強を始めると、佐々木くんが、二階から降りてきて、見てくれる。


佐々木くんは決して正式な男前ではない、と思う。


けれど、味のあるいい顔をしている。


背は高いけれど、服は高校時代の物という、学校のジャージー姿だし、寒いはその上に古い半纏を羽織っていた。


髪はいつもどこかしらに寝癖がついていた。



そんな佐々木くんではあるが、隣に座るだけで、私は胸がドキドキした。


クラスの男子とは、比べ物にならないくらい物知りで、大人なのだ。


これが恋でなければ、なんだと言うのだろう。



佐々木くんは、難しい算数の答えを正解すると、その分厚い手のひらを私の頭に乗せて、良い答えだ、と褒めてくれる。


算数の答えは一つしかないのに、瞳子ちゃんのその答えは、よい答えだ、と褒めてくれるのだ。



「瞳子ちゃんは、理系だな。」


「リケイ?」


「理科とか算数が得意な事だよ。医者目指すか?」


「お医者さん?私もなれる?」


「うーん、かくいう俺も、医者崩れだからなあ。」


少しバツの悪そうな顔をして、佐々木くんが言う。



佐々木くんは変わった経歴の持ち主で、日本で一番難しい大学出身で、医師免許の国家試験に合格したにも関わらず、医者になった途端に病院を辞めてしまったそうだ。



「なんで医者を辞めちゃったの?病気の人を救いたかったんじゃなかったの?」


 初恋の人について、興味津々の私は、根掘り葉掘り、突いて欲しくなかっただろう、大人の事情を聞きたがった。


うーん、あのな…と、佐々木くんは寝癖のついたままの頭をポリポリと掻きながら、話にくそうに、けれど、小学生にも分かりやすく説明してくれたのだった。



「医者を目指す理由には、大まかには3つある。」


「うん。」



「1つは、文字通り、病気の人を救いたい、その為にはお金がなくてもいい医者。2つ目は、難しい国家資格を取得して、安定した高収入を得たい、まあそこの中には、かつ、病気の人を救いたい、という夢も多少なりはある医者。」


「なるほど、3つ目は?」


「3つ目は、家が代々医者なので、どうにかして、医者にならなければならない医者。」



 そういうと、佐々木くんは、ハァッと大きくため息をついた。


さて、佐々木くんはどのタイプなのだろうか。



「医者はね、本人の意思とは関係なく、目指すなら時間もお金もそれなりに掛かるんだ。誰もがなれるけど、誰でもはなれない。」


両手を机の上で組み、佐々木くんは大きな溜息をついた。



「じゃ、医者にはならない。私早く大人になりたいし、お金を稼ぎたいから」


私は努めて明るく言った。



「うーん。医療系なら、看護師か、薬剤師かだな。」


「ヤクザイシって何?」


「薬剤師は病院や薬局で薬を出す人。難しい国家資格がこれも必要だ。瞳子ちゃんは、薬剤師に向いていると思うよ。」



 大好きな佐々木くんお勧めの職業、薬剤師、この鶴の一声で、単純にも、私は自分の将来を決めてしまったのだった。



  恋のチカラは恐ろしく大きい。


私はそれから毎日、さらに勉強に励んだのだった。


周りの友達のように、塾などには通ってはいなかったが、素敵な家庭教師に恵まれた私は、1日5時間は机に向かっていた。




 動機は極めて不純だったが、私は早く大人になりたかった。


出来るだけ早く、親にも誰にも頼ることなく、自分の足で立ちたかったのだ。






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ここで、はっきりさせておこうと思う。



俺は最初から佐々木が気に食わなかった。


母ちゃんの事は、まあ、いい、として。


問題は、これだった。


毎日、ハウスに帰ると、佐々木の隣に瞳子と華が先に座っている。


そしてずっと勉強しているのだ。気味が悪い。



瞳子は、ゲームに誘おうが、庭に出ようと誘おうが、俺の言葉は全く聞こえていないようだった。



まったく、つまらなかった。



華は、瞳子の横で、うーんと唸りながら、算数の宿題をしていて、時折、瞳子が覗き込んで、教えていた。


華は、算数がからきしダメらしく、いつもベソをかきながら、二桁以上の数字が、全く頭に入ってこないのだ、と瞳子に訴えている。



「好きな奴の生年月日は、覚えられるんだろうが。そんなに大した事じゃない。」



俺は、両手を頭の後ろに組み、ダイニングテーブルに足をかけて、椅子をグラグラ揺らしながら、華に言った。



「あっちゃん、言うねぇ。」


と、佐々木が、感心したように言った。



華はといえば、顔を真っ赤にして、険しい顔をしてこちらを睨んでいる。



「あんたこそ、宿題がまだでしょうが!」



瞳子の怒鳴り声で、ぐらりとバランスが崩れ、俺は椅子ごと、バーンと派手に後ろへ倒れた。


頭上で、ワハハハハと、笑い声が響いた。




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その日暮らしの毎日が、何年も続き、気がつくと子供達は中学生になっていた。


この春、瞳子は中学三年生、萃くんと、華ちゃんは中学二年生になる。



それぞれ難しい年頃で、萃くんの反抗期も始まったらしく、ろくに口も聞いてはくれず、親たちとは一緒に行動をしなくなってしまった。



彩さんは、生意気に、一丁前な顔をして、と、たまに憤慨したり、呆れ果てたように愚痴をこぼしたりする事もあるが、最終的には、大人になる為には、誰しもが通る通過点だから、と諦めたように言っていた。


あと、


「考えてみたら、私の反抗期、萃どころじゃなかったわ。あ、玲子さんは知らない方がいいから、深くは聞かないで。」


との事だった。



瞳子にも、確実に思春期が訪れている。


最近は、彩さんと佐々木くんと、話すことが多いよう思えるのは、親の僻みだろうか。


話しかけてみても、一言二言返ってくるだけの時もある。



思春期、反抗期ももちろんあるのだろうが、心当たりが実はもう一つある。



ここにひとりの男性がいる。


こことは、私の心の中だ。



彩さんと佐々木くんの共通の知り合いの男性で、一昨年から、ハウスの離れの一室に住んでいる。


寡黙だが、庭木の手入れや、ハウスの修繕や何やら、全てボランティアで請け負ってくれている、真面目で優しい男性だと思う。



本職は、洋食屋のシェフだ。


元ラガーマンという、その大きな体で持つフライパンはとても小さく見えて、ちょっとかわいい。



彼も一度離婚歴があり、前の奥さんとの間に子供さんがいる。


いや、いたというのが正しいかも知れない。



「不慮の事故で、娘を失くしてしまってから、夫婦仲がギクシャクしてしまって。お互いがお互いを、そして自分を自分で責め続け、家の中にたくさん残っている娘の存在を見る度に苦しんで…。耐えきれなくなった女房が、ある日出て行ったんだ。俺は後を追えなかった。」



と、この間初めて、夜中の食堂で、珍しくお酒を飲んで、酔った勢いで、過去の話をポツリポツリと話してくれた。


そして、財布の中から、娘さんの幼い頃の写真を大事そうに見せてくれた。



「忙しくしていないとね、たまに寂しくて、がおかしくなってしまいそうな夜があるんだよ。」



あの日の彼は珍しく饒舌だった。


最後に、今日は娘の命日なんだ、と顔を両手で覆い隠して、言った。



彼の気持ちに、寄り添いたい、と思った。


何気なく、お互いの手が触れた。



そして二人とも、それを外す事はしなかった。



同じタイミングで互いの手を握り締めて、しばらく無言で座っていた。


そして、おやすみと言い合い、手を離した。


それから、それぞれ自分の部屋に戻って行った。



まだ何も始まってはいない。


でも、まだ、と思っている時点で一緒の事だ、とも思う。



あの子は聡い子だから。


きっともう、気がついている。







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中学三年生の冬、オババが亡くなった。



「瞳子ちゃんの中学最後の運動会だから、オババちゃんは張り切りました!」


と、豪華な重箱弁当を作ってくれたのに、生徒と父兄は別に昼食を取るのだ、と後から気が付いて、がっくりと肩を落としていた、オババ。



それでも、レジャーシートをベストな場所に引き、瞳子ちゃん!萃くん!華ちゃん!と、誰よりも声高く応援してくれたオババ。



少し肌寒くなった秋の朝に、洗濯物を抱えて、階段を踏み外し、右足を骨折した。



華が珍しく、大泣きをして、オババちゃん、オババちゃんと、病院やら何やらに全て付き添いをした。



近くの大きな病院に入院したオババは、


「華ちゃん、は全く大袈裟ですねぇ。別に頭も打っていないし、骨折ですよ?骨が繋がれば、すぐにピンピン戻りますよ。」


と、ベッドの中で、抱きついて泣きじゃくる華の頭を優しく撫でていたと言うのに。



オババは、それからベッドから自力で立ち上がる事は出来なかった。



私と萃と華日中は学校に行き、その帰りに必ず病室を訪れた。


車椅子で、病院内を散歩して回ったり、持参したりんごをウサギ型に切って、皆で食べたりした。


オババの病室は、看護師さんに、静かに!と注意を受けるくらい、絶えず賑やかだった。



日中は、主に佐々木くんと彩さんが交代で付き添った。


仕事終わりに私の母が付き添いを交代し、夜は隣の簡易ベッドで休んだ。



早いうちに手術を終えたオババの骨は完治した。


が、退院は出来なかった。



リハビリを始めた頃くらいから、食欲が落ち始めた。


目は窪み、手足が震えていた。微熱のある日も増えた。


点滴が、ポタンポタンと落ちるのを横目に見ながら、オババのしわしわの手をさすった。


学校で起こった他愛もない話をすると、オババは声なく笑った。


そのころには、もう体を起こすことも、ままならなかった。



そのうちに意識が飛び飛びになりはじめた。


お見舞いに行っても、寝ている時が増えた。



入院から三か月後の、一月半ば、昼過ぎ頃、佐々木くんから、皆へ一斉に連絡がはいった。


オババが、ひっそりと息を引き取った、と。



一月の冷たい小雨が降る中、ここら辺ではかなり有名な大きな寺院で、オババのお通夜とお葬式が執り行われた。



これまで会ったこともらないオババの家族、親戚が続々と詰め掛けて、一帯は喪服を着た親戚縁者で埋め尽くされた。


忘れていたが、オババは代々続く名士であり、大企業元社長夫人なのだった。



佐々木くんはご両親と思われる人たちと一緒にいた。


所在無さげな、神妙な面持ちで、弔問客に深々と頭を下げて、受付をしていた。



私達は喪服がわりに、学校の制服に着替えて、手持ち無沙汰に、ウロウロしていたが、母に命じられて、折りたたみのテーブル、座布団とビール、仕出し料理の配膳を命じられ、それに萃と二人でその作業に没頭とうした。



華の姿を探したが、見当たらなかった。



作業を終えて、祭壇のある会場に入ると、華がいて、私と目が合うと、表情を全く変えずに、小さく右手で手を振った。


華は、華の母親と一緒に大勢の大人に一人一人、挨拶、紹介をして回っていた。



「ハウス…、売られたんだってな。」


萃がポツリと言った。


「うん…。」



私達は入り口に近い手前の椅子に、ひっそりと座った。


隙間から風が容赦なく入ってきて、ぶるっと震えて、上から羽織ったカーディガンのボタンを締める。


遠くに華を見つめながら、これからどうなるのか、を萃と話した。



屋敷と土地は、オババの3人の子供たちに相続されることとなったこと。


そのうちの一人が佐々木くんのお母さんであること。



ここの家土地以外にも相続するものはあるが、ここは売却されて、それを三等分して相続されること。


オババが入院中に、顧問弁護士が何度も通っていて、オババの意識が朦朧とし出した頃に、ある宗教団体が既に買うことが決まってしまっていたこと。


その宗教団体の現教祖と、華の母親が “パートナー”となり、後継者に華を、と、望んでいること。



概ねは、昨日の晩に、佐々木くんが、涙を流しながら、私達に話してくれたことだ。



「俺がいながら、こんな事になってしまって申し訳ない。」


涙や鼻水を拭く事もなく、何度も何度も、頭を下げて謝っていた。



「ばあちゃんも、この家はどうにか残すつもりだったんだ。だけど、間に合わなかった…。」


佐々木くんは、嗚咽を繰り返し、絞り出すよう、小さな震える声で、そう言った。



通夜当日から、会場には山のような花が運び込まれ、生花の匂いでむせ返るようだった。


おおよそ普段のオババには似つかわしくない、豪華な葬式だ、と思った。



遺影は、喪主を務める、オババの長男が選んだ。


白髪混じりの颯爽とした上品な男性で、鼻から下の辺りが、オババに似ている、と思った。



遺影を撮影したのは、萃だ。


もっともあの時は、この写真がそんな使い方をされるなどと思いもしなかったけれど。


彼の亡き父親の形見の一つだという、ご自慢の古いフィルムカメラを使って、去年の花見の時に撮った写真だった。



桜の花が、レフ板の代わりとなってか、光の具合といい、柔らかで穏やかなオババの表情といい、会心の写真だ、と萃は自慢げに披露していた。



「あの写真だって、俺が撮ったのにさ。」


萃が不満顔で言った。


「本当に、いい写真だよねぇ。」


私は心からそう思った。



華は、母親と、知らない男性達と前方に設けられた席に、半ば不貞腐れたように座っている。


たまに私達と目が合うと、大人たちに見られないように、顔をしかめて見せた。



読経と木魚のポクポクという音に紛れて、私と萃は顔を寄せ合って話をした。



「俺たち、ここ出て行かなきゃ行けないんだろうな。」


「うーん、それについては、後から佐々木くんと、茉莉花さんから話があるらしいよ。」


「オババ、こっから遠いな。」


遠くに見える、遺影を睨みながら、萃が言った。



「親族でもないからね…。」


半ば棒読みに、私は答えた。



「俺さ、たまにオババが本当のばあちゃんじゃないかって、思っちゃう事あったよ。」



私もそう錯覚した事は度々あった。



親たちが保育所に迎えに来られないときは、オババが保育所まで来てくれた。



保育所の先生も、きっと、オババが萃か私の祖母だと思っていた事と思う。


「今日も一日ご苦労様でした。」


とニコニコ笑って、お迎えに来てくれていたオババ。



オババの右手に華が、左手に萃が。その前後を私が歩いて、ハウスまで帰るのだ。


私は年長さんだから、大丈夫。と胸を張ると、


じゃあ瞳子ちゃんは特別に、とハウスに帰り着くと、抱っこをしてくれることもあった。



「子供は子供らしく。無理に大人にならなくてもいいのよ。」


と、優しく頭を撫でてくれたオババ。



帰り道に、お母さんたちには内緒だよ、と喫茶店でパフェをご馳走してくれたオババ。



母親達が子供達を叱りつける時は、必ず中立な立場にいたオババ。


私達はよく、オババの後ろに泣きながら隠れて、泣きながら叱られていた。



親達は自分の子供だけではなく、お互いの子供を忌憚なく注意しよう、という取り決めをしていたらしく、でもまあ、専らは自分の子供をメインに叱る訳ではあるが、誰かが叱り、誰かが宥め、慰める、というように自然となっていた。



「お前、オババに叱られた事あった?ちなみに俺はない、覚えが全くない。」


「私も華もないなあ…。」



オババは、子供たちを叱る事は一切なかった。


しかし、だからといって、取りなす事もしなかった。



ただ、「ほら、今ですよ、お母さんにごめんなさい、しておいで。」と背中を押してくれたり、


泣き過ぎて、ぐちゃぐちゃになった顔を、優しくタオルで拭いてくれた後に、甘い物を出して来てくれた。



前に、佐々木くんから聞いた事がある。



オババは、昔は曲がった事が大嫌いな、それは厳格な母親で、子供たちに厳しく接していたらしい。


佐々木くんにも、以前はとても厳しい祖母だったのだ、と。



オババの子供達は幼い頃は母親に怯え、反対に甘い父親や、その母親、つまり祖母にベッタリとなった。



それでも、子供たちの為には、誰かが厳しく接しなければ、と頑なだったオババは、長男のお嫁さんにも厳しく接して、世間的に言うところの、姑いびり、のような事となり、長男夫婦は結果、離婚。



そのくらいから、子供たちは、オババと距離を置くようになったという。



「オババちゃんね、昔はすっごく怖いお母さんだったんですよ。厳しく叱り過ぎて、自分の子供達にも、そのお嫁さんにも嫌われてしまったの。失敗しましたねぇ。」



と、ゆっくりなにかを思い出すように、遠くの方を見ながら、オババが話してくれたことがあった。


「オババの血の繋がった人たちより、俺たちの方が、よっぽど家族っぽいと、俺は思うけど…。」


萃が不服そうに、口を尖らせて言う。



「葬式終わったら、古物商?っていうの?鑑定する人達も来るんだってよ。家の物もすべて売り払うらしい。あの人たち、全然悲しんでないよな。」



「…本当は。」


私が声を押し殺して言う。



「本当は…なに?」


「本当は、間に合ったらしいの。」


「なにが?」


「このハウスを売らないで済むようにする事。」


「どう言う事だ?」


「オババにまだ意識がしっかりあったときに、佐々木くんと弁護士の先生が話し合ってたらしいんだ。」


「つまり…?」


「オババ、迷ったんだよ。オババが私達の事を大事に思っていたのは本当。だけど、お腹を痛めて産んで、育てた自分の子供達だよ?大事に思っていなかった訳じゃないのよ。こんな状態になったのも、自分のせいだって、どっかで自分を責めてたんじゃないかな。」


「ちょっと待て。あんな冷たい家族だぜ?見舞いもろくに来なかったような奴らだぜ?」



萃が私の話を遮る。



「人の気持ちなんて、表面上ではわかんないものだよ。実のお母さんなんだよ?悲しさや悔しさや色々あるよ、きっと。」


「俺にはわかんねぇ。」



「ともかく、オババは最後まで迷ったんだよ。本当はもっと違う形で、子供達に寄り添いたかったけど、もう時間がない事をオババは知ってたんじゃないかな。遺せるものは遺してあげたいっていう気持ちもあったんだよ。罪滅ぼしも意味も含めて。だから、私達にも子供達にも、と最善の方法を探そうとしていたんだけど…結果色々間に合わなくなった。これが佐々木くんの言っていた、間に合わなかった、の本当の意味。」




萃は黙ってしまった。


私達は、オババの親族でもなかったので、火葬の場にも立ち会えなかった。



オババの骨は、拾われて、小さな壺に入れられて帰ってきた。


人の身体が焼かれて、あんなに小さく納められてしまうのか、と私たちが小さな声で話していたら、佐々木くんが、周りを警戒しながら、その大きな体を小さく縮めながら、こっそりと近づいてきた。

そして、ズボンのポケットの中から、白い布に包まれたものを、内緒で頼むね、と小声で言ってから、そっと私に手渡した。

そしてまた、こそこそと親族席へと戻っていった。


白い布を開くと、長さ五センチくらいの、細くて小さな骨が三本入っていた。


私たちはそれまで、本物の人の骨を、見たことがなかった。


それらは、指の節の部分なのだろうか、白い珊瑚礁のようにも見えた。



「俺、なんで人が家族を作るか、わかった気がする。」


と、萃が言った。


「大事な人の骨を拾う為だ。」



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葬式から二日後、萃の言う通り、古物商の鑑定士と名乗る人達が、ハウスにやってきて、絵画や食器、オババの持ち物、全てを見て、トラックにごっそりと荷物をまとめ、帰って行った。



ハウスの中は、一気に殺風景になった。


応接室にあった、重厚なソファなどの家具も持ち運ばれた。



古物商が来るその少し前に、私達は佐々木くんに促されて、オババの遺品を少し分けてもらうことが出来た。



なんでも持って行っていいよ、という佐々木くんの言葉に少し躊躇しながら、皆、高級そうなものは避けて、と言うより、さして興味もなかったので、オババがいつも身につけていた思い出の品を貰うことにした。



私はオババのべっこう縁のメガネと、割烹着を貰うことにした。




自分の部屋に持ち帰り、メガネを掛けて、割烹着に顔を埋めて、オババの匂いを嗅いだ。




母の匂いとも違う、上品なお香の香りがした。


佐々木くんから、分けてもらったオババの骨を、そっと人差し指と親指でつまんだ。


一人になって、私は、ようやくそこで泣くことが出来た。

誰に憚ることも無く、私は子供のように声を上げて泣いた。







家財道具がごっそりと屋敷から持ち出された次の日。


今度は引越し業者が、次々と荷物を屋敷に運び入れ始めた。


見知らぬ男性達が続々と到着し、一斉に作業を始めた。



私の母と、彩さん、佐々木くん、そして、萃と私、達は、茉莉花さんに呼ばれて、一同、食堂に集められた。



茉莉花さんの後ろには華が隠れるように立っていた。



間もなく、ゆっくりと扉が開き、車椅子に乗った、初老の男性が入ってきた。


茉莉花さんが、さっと駆け寄り、車椅子を押す。



食堂の中央の位置まで来ると、茉莉花さんが、声高にその初老の男性を紹介し始めた。




「皆さん、改めましてご紹介致します。如月大先生です。今日からこちらの建物のオーナーとなられます」




男性は軽く会釈をしようと立ち上がろうとしたところを、茉莉花さんに止められた。耳元で無理なさらないで、先生、と茉莉花さんが囁いている。




「どうも、足腰が悪いもので、このままで失礼いたします。」




と、大先生は軽く頭を下げた。



声には張りがあり、存在感がある。萌黄色の作務衣を纏い、白髪を一つにまとめて、後ろに丁寧に撫で流している。



年齢は、六十代後半、といったところだろうか。



眼光は鋭く、年齢の割には艶やかな顔色だった。




茉莉花さんは、続けて説明を行った。




この屋敷を買い取ると同時に、大先生が華を正式に養女とした事。



華は事実上、この宗教法人の後継者になったという事だ。




漏れ聞こえてくる話をまとめてみると、こうだ。



大先生は、宗教上の理由により、結婚出来ない為、茉莉花さんとは法的には婚姻関係にはないという事。



よく分からないのだが、神に近い立場上、誰のものにもなってはならないという立場であるらしい。



ただし、子を成すことは出来る。後継者を擁立するために、むしろ子は多く成さなければならないが、これまで、残念ながら、子供ができなかった、という話であった。




「先生は大変寛容な方で、先生のお手伝いをして下さるのであれば、ここに残って下さって構わない、とおっしゃっておられます。」




茉莉花さんは、にっこりと微笑んだ。



美しく、天女のような微笑みだった。



シミひとつない透き通った肌、整った顔立ち。



天女の顔には皺は寄らないのだろうか、などと、私はぼんやりと考えながら、それを見ていた。




母と、彩さんは、さして驚きもしていなかった。



ただ、佐々木くんは一人、厳しい表情を茉莉花さんに向けていた。



母の隣には、”母の恋人”が寄り添うように立っていた。




佐々木くんは特に怒りを隠そうとする事もなく、肩を上げて拳をプルプルと震わせて、今にも爆発してしまいそうな勢いだった。



彩さんが、肩に手を回して、懸命に宥めている。




「私達は、ここを出ます。」



と、母が静かに言った。




「うちらも、出ます。」



と、続けて彩さんが言った。




母が、私の方へ近づいてきて、正面から私の肩に手を置き、こう言った。




「住む場所はもう決めてあるの。もうあらかた荷物も運び出してしまっているし。なんなら、今日からもう住めるの。瞳子は高校受験が近いから、なるべく早く落ち着こうね。」




「引っ越すって…どこに…?」



私は俯いて、母を見ずに、小さな声で尋ねた。




高校は、公立の進学高校を受験する予定になっていた。




一瞬、母が身じろぎしたのがわかった。




「まだずっと住むの予定ではないけれど…佐内さんのお店の入っているマンションに…とりあえずそこにと思って…。」




と、母が途切れ途切れに言う。




「あのね、瞳子ちゃん、とりあえず、とりあえず、の話だから。」




“母の恋人”が、慌てて説明に割って入る。




「私は、一人でここに残る。」




私は、静かに、けれどもはっきりと宣言した。




一瞬沈黙が辺りに広がり、それから、母が言葉を一瞬飲み込んだ。




「何を言ってるの?瞳子、あなた、まだ15歳なのよ?本気じゃないよね?」




母が、驚いて、私の顔を覗き込むが、私は顔を背ける。




「私には、選ぶ権利はない?その男の人と、同じ家に住むのが嫌だと、断る権利はない?」




私は顔を背けたまま、そう言った。




「あのね、瞳子ちゃん、それなら僕は、住まないから、ね?君たちとは、一緒には住まない。約束する。君はお母さんと二人で住めばいい。」




“母の恋人”が、懸命に取りなそうとする。




母は、それには応えず、私だけをじっと見ている。



大人達も、子供達も、固唾を飲んで見守っている。




「言いたいことがあるなら、お母さんの目を見て、ここではっきりと言いなさい。」




母が厳しい口調で、私を制しようとする。




「それなら、言わせてもらうけど…まず、その男の人と暮らすのは嫌だ。気持ちが悪い。その人は私の何になるの?新しいお父さん?それはお母さんの事情だし、私には関係がない。巻き込まないで欲しい。」




母は黙って聞いている。




「不幸な大人が傷を舐め合いながら、暮らすような所で、私は暮らしたくない。不幸が2倍になるだけだ。私の知らない所で結婚して、もし子供が欲しければ、私の代わりに二人の子供を作ればいい。」




と、私が言い放った瞬間に、母が突進してきて、私の両肩を激しく掴んだ。




叩かれる、と身をすくめた瞬間に、私の体は、宙を舞い、床に落ちた。



正確に言うと、慌ててフォローに回った萃の上に落ちた。




母は、尚も私に馬乗りになって、私に掴み掛かり、顔を頭をバシバシと本気で叩いてくる。



もう取りなしてくれるオババもいないのだ。




母の涙と唾が私の顔にポタポタと落ちる。




「取り消しなさい!謝りなさい!」




激しい嗚咽と共に、息を切らしながらの母の怒号が飛ぶ。




「玲子さん、落ち着いて!落ち着いて!」




と、彩さんと佐々木くんが、背後から肩を抱きかかえて、母を懸命に引き剥がそうとする。




萃は私の下になって、無言で、母の手をようやくしっかりと掴んだ。




彩さんが、母の肩を優しく掴み、正面に回り込んで、強く抱きしめた。



母は彩さんの胸に顔を埋め、子供のように泣いている。




想定外に激しい、母の激昂だった。



あんなに感情を露わにした母を見るのは、生まれて初めての事だ。




自分で立つこともままならず、母は、”母の恋人”に抱きかかえられるようにして、その場を後にした。




彩さんが、萃に向かって、明るく言った。




「萃もどうせ残るんだろ?しっかり瞳子ちゃん、見てあげるんだよ?」




萃が、無言で頷く。




「瞳子ちゃん。今晩は、ちょっとクールダウンしようか。おばちゃん、きっと悪いようにはしないから。お母さんは任せておいて。また来るからね。ね?ね?」




そして、笑え笑え、といつものように私の脇腹をこちょこちょとくすぐって、冗談めかして、彩さんも佐々木くんと、ハウスを出て行った。




いつのまにか、茉莉花さんと大先生も部屋から消えていて、部屋には、萃と華と私だけになった。




華が、おずおずと近づいてきて、私に抱きついた。



涙目になっている。




「瞳子ちゃん…大丈夫だから、瞳子ちゃんは、私が守るから。」




ボロボロと涙を流しながら、華が言った。




萃は、私と華の上から、黙って両手を回して抱き寄せた。




大人でも子供でもない、中途半端な私達は、しばらくの間、3人でそのまま無言で抱き合っていた。




辺りには静寂が戻り、冷蔵庫の低いブーンという音だけが、小さく響いていた。


翌日から、仕事終わりに、母は私に会う為に、毎日ハウスを訪れた。



その度に、華が、



「瞳子ちゃん、どうする?」と私に声を掛けてくれる。




私は、黙ってただ首を横に振り、華も黙って頷き、玄関ホールへと降りて行った。




茉莉花さんと大先生が、何か言ってくるかもしれない、と警戒していたが、華が上手に言いくるめてくれているようだ。




一週間が過ぎたが、母は諦めなかった。




毎日同じ時刻に、門のチャイムを鳴らし、華がモニターでそれを確認して、迎えに出る。




きちんと話し合って、どうにかして、私を連れて帰る、と、静かに華に言い続けるそうだ。



華ちゃんには、嫌な役割をさせてしまって、ごめんね、と毎度深々と頭を下げながら、また明日と言って、帰って行くそうだ。




一ヶ月が過ぎ、二ヶ月目に入った。



寒さが厳しい日も、雨の日も、母は私に会う為に、ハウスに通い続けた。



私はただ自分の部屋に篭り、ベッドの上で身を縮めて、母が帰るのをじっと待ち続けた。



苦しかった。自分でも会いたいのだか、会いたくないのだか、よく分からず、ひたすらに混乱していた。




だが、ある日、母はパタリと会いに来なくなった。




本来受ける筈であった高校受験の日だったと思う。




いつもの時刻になっても、チャイムが鳴らなかった。



玄関ホールへ降りても、訪問者は誰もいなかった。




そこへ、パタパタとスリッパの音を鳴らしながら、華が降りてきて、大きく深呼吸を1つしたあとに、






瞳子ちゃんのママがね、どうか体にだけは気をつけてって、と言っていたと、今にも泣きそうな顔をして言った。




私はゆっくりと華に向き合って、優しく抱きしめて、ありがとう、と、言った。




そうして、ゆっくりと華を離して、一段一段と階段を踏みしめながら登り、時間をかけて一歩一歩廊下を歩き、静かにドアを開けて、それから、ベッドの上に突っ伏した。




泣いてはいけない。



私が泣いてはいけないのだ。



私が選んだ事なのだから。




上掛け布団に顔を埋めて、必死で堪える。




子供の頃、母が大好きだった映画を思い出す。



ハウスの応接間で、みんなでよく一緒に観た、あれはイタリアの映画だったろうか。



確か、映画が好きな少年が、貧しいなか、映写技師の老人と交流しながら、成長していく物語だったと思う。




映画の中で、老人が、成長し恋を知った少年に物語を語るシーンがあった。




事もあろうに、主君の王女という、身分違いの恋をした兵士が、その思いを相手の王女にぶつける。



思いの深さに驚いた王女は兵士にこういうのだ。



100日間、昼も夜も私のバルコニーの下で待っていてくれたならば、私はあなたのものになりましょう、と。



喜んだ兵士は、すぐさまバルコニーの下に立ち、雨の日も風の日も雪の日も、ひたすらに待ち続けた。干からびて真っ白になり、ボロボロになる姿を、お姫様はずっと見守り続けた。



99日目の夜、兵士はついに立ち上がった。



そして、椅子を持ち、去っていった。




このシーンを見ると、母は、私たち子供にクイズを出した。



「さーて、なぜ、兵士は99日目に行ってしまったのでしょうか?」




私たち子供は、キャイキャイと騒ぎながら、やれ、お腹を壊してウンチしに行ったのだ(年齢的にウンチや、おしりが、大流行していたのだ)だの、100日を数え間違えた、だの、色々と答えた覚えがある。




母は、その時に何と答えただろうか?




ふざけて、お腹を抱えて笑いあっていた私たちは、正直答えなど、その時はどうでも良いものに思えた。




母は確か…、色々な答えがあっていいのよ、と前置きした上で、私はねぇ、と話し始めた。




何だっただろうか…。




確か…。




兵士は、待っている間、考えていた。



自分がどのように王女を幸せに出来るか。



でも途中から気付いてしまった。



それは無理かも知れないのだと。



もっと早くに立ち去る事も出来たが、それでも兵士は王女深く愛していたので、ギリギリまで去ることが出来なかった。



とても離れ難かったから。






15歳の早春、私は母を失った。







本当は学校なんか行く気分ではさらさらなかった。


が、這うようにして、学校に行った。


受験前の教室は、ふざける者もおらず、静かだった。




私の決心は堅かった。


前々から考えていた事でもあったのだ。




まずは、受験する志望校の変更をしなければならない。



県内の高校から、宗教団体の運営する付属高校に、進路を変更するのだ。



そのことを告げた時、担任は口をあんぐりと開けて、しばらく固まっていたが、その次に家庭内で何かあったなら、相談してほしい、と私に言った。




私は、担任に、これはもう決定している事だと、淡々と説明をした。


担任は被りを振り、とりあえずお母さんにも話を聞こうと言った。




周期団体の運営する学校は、ようやく認可が降りたばかりの私立高校で、サテライト教室がある、と華が教えてくれた。



信者であれば、形ばかりの試験を受けて、ほぼ合格という高校だ。



あとは親からの寄付金が物を言う。




私は、内申点と試験成績が良かったので、特待生扱いとして、授業料が全て免除してもらえるらしい。



その代わり、旗揚げの為に、その高校のパンフレット撮影や、団体内で発行されている小冊子への掲載、などは無条件で引き受けなければならないそうだ。




すべては、華の口添えで、茉莉花さんが手配をしてくれた。


そうして、形ばかりの試験を受けて、無事に高校へ入学が決まった。





四月になり、新しく変わったハウス、改め、教会での生活が始まった。


設備が徐々に整い、ハウスがこの宗教団体のどういう拠点になっているかも、詳らかになってきた。




まず、ハウスは、教祖である大先生、茉莉花さんと華、この家族の住居であると共に、全国に点在する教会の中枢を担うこと。



大先生の講義、セミナーをここで定期的に行うために、ハウス内の個室をホテルのようにリノベーションし、そこに信者が宿泊すること。




私と萃は、物置だった三階のロフト部屋をそれぞれ一室ずつ借り受け、自分たちでどうにか住める状態にした。



狭くて天井は低かったが、住める場所があるだけ、ありがたかった。




困った時は、お互い様じゃない、華がとてもお世話になったのだから、と言って、茉莉花さんが親身に何から何まで手配してくれるのを、有難く思った。




私は信者の宿泊や、ハウスの清掃などの補助を、放課後の「クラブ活動」として、担う事になっている。



そしてその対価として、このハウス内での生活を保証される、という仕組みだ。



大まかな交渉は、華が茉莉花さんと大先生に掛け合ってくれた。



大先生の華の可愛がり方は、それはもう度を越した猫可愛がりで、華の言うことは何でも聞いてくれるそうだ。




私の仕事は、調理補助、清掃、ベッドメイキングが主なものだ。





綺麗に整えられていたガーデニングの凝った庭は、開墾され、畑に変えられた。




室内は、茉莉花さんと大先生の部屋が、主に茉莉花さんの趣味で、モダン、かつ豪華に整えられた。



元々の大正時代に建てられたという、大正モダニズムの重厚なハウスの雰囲気は一掃され、清潔感を主張した、簡素で真っ白な空間になった。




華は、茉莉花さんと大先生の部屋の真向かいの広めの部屋に移り、大先生の意向で、最高級の家具が入れられた、と聞く。




衛星テレビの中継という、形ばかりの入学式を終えて、私は高校生になった。



萃も華も、教団付属の中学校へ編入となった。




授業は、衛星を使って受ける事になり、私は一度もクラスメートと会話を交わす事もなく、淡々と授業を受けた。



毎日の時間割のうち、一時間は、必ず教団の教えの時間が割り当てられており、みな、神妙に、教団の歴史や、大先生のお言葉、書籍について、学んだ。




教団の教えは、ありとあらゆる宗教の良いところを混ぜたような内容で、特段、過激なものでもなく、世界平和を漠然と願い、大先生の教えの元に、教団にお布施を納め、善行を積むと、素晴らしい来世が待っているというようなものだ。



教団では、巷でよく聞くような壺などは売ってはいなかったが、大先生の祈祷済みの飲料水などは、信者によって小売されているようだった。




その他の一般教科については、華に聞くところによると、教団のヘッドハントにより、それなりに高学歴の教師が揃っているという事だった。



学校には通うべき母体が、つまり、建物がなく、全て全国各地に点在するサテライト高によって成り立っていた。



主な生徒は、親が熱心な信者の子供達であり、少数派で、引きこもりの学生が形ばかりの高校生活を送っているらしい。



小学生の頃、家の事を根掘り葉掘り聞いてこられて面倒な思いをしたので、この誰にも干渉されない、ただ淡々と授業を受け、誰とも交流しなくてもよい学校生活は、今の私にとっては好都合だった。




授業で困る事と言えば、内容が想像以上に乏しい事だった。



教科書は一通り支給されているが、問題集の数も圧倒的に足りなかった。



私は、改めて佐々木くんの偉大さを痛感した。



今までは、私のレベルに合わせて、佐々木くんが問題集を用意してくれて、教えてくれていたのだ。




勉強が好きか嫌いか、と問われると、答えに困るが、勉強する事によって、得られる、透明なガラス容器に何かがトクトクと溜まるかのような、あの感覚は、好きだった。




元々勉強が嫌いだ、と豪語していた萃は、ちょっとラッキーと思ったらしい。



萃は授業中継の間、カメラに映らない死角を器用に見つけて、よく居眠りをしている、とこれもまた、華が言っていた。




萃は学校の時間が終わると、畑に出て、農作物の世話を一任されていた。



信者は、セミナーの参加するために、目の飛び出るような受講料を教団に納め、二泊三日くらいの日程で、ハウスに寝泊まりをする。



朝昼夕の食事は、全てハウスの畑で採れた野菜を、少量の調味料で味付けして、信者にお出しする。



畑に撒く肥料も水も、大先生の祈祷済みの物を使用した、オーガニックを超えた、素晴らしい何かだという。




萃は、はなからそんなものは信じてはいなかったが、農作物を育てる事は性に合っていたらしく、たちまち夢中になって取り組み始めた。



育て方を間違えて失敗したものも多かったようだが、始めて2年目には、品種も増え、大根、人参、玉ねぎ、から、枝豆、とうもろこし、きゅうり、ナス、ピーマン、トマト、区画を細かく仕切って、四季折々に収穫出来るようになっていた。




毎日少しずつではあるが、採れたての野菜が台所へ萃の手によって持ち込まれる。



そのほかの物は、教団の他の畑で取れたものや、信者の契約農家から持ち込まれたものだった。




台所には、かつて一流日本料理店で板前を務めていた、という40代の男性料理人が、調理場を取り仕切っていた。



彼も信者だと言う。




夕方の私の役割は、その料理人の補助だ。米研ぎ、配膳、洗い物、ありとあらゆる雑務を任せられていた。




彼は「自分は若い時から料理の世界に入り、厳しい縦割り社会の中で、生き抜いてきたのだ。」と、事あるごとに私に話した。



だから、自分も下の者には厳しく接する。



そういう趣旨だったと思う。



有言実行と言うべきか、夕食の仕込みの時間には、必ず怒号が飛んだ。



私からすると、ほんの些細な事。例えば、温度であったり、火加減であったり、食器の洗い方であったり、水飛沫の拭き取り方であったり、そういう些末な事に、物凄い勢いで怒るのだ。時々は、物も飛んできたし、こんなものをお出しできるか!と私が盛り付けた全てのものがゴミ箱に放り込まれることも少なくなかった。



もはや難癖としか言いようがない時もあった。



が、その都度、私は、ただひたすらに、先生、申し訳ありません、と頭を下げて、謝り続けなければならなかった。



いつまで謝り続けるかというと、この「先生」が、もういい、と言うまで謝り続けなければならなかった。



もういい、と言った後、この板前先生は決まって、背後から私の肩に両手を置き、ねっとりとした口調で、私の耳元に口を寄せて、



「お前は見込みがあるから、厳しくするんだ、わかるだろう?」



と言った。



そして、手を私の肩から背中、そして尻まで下ろして、ゆっくりと撫でながら、タバコのヤニと、口臭の混じった吐息を、フッと私の耳元にかけた。


私は何とか、平常心を保ちながら、にっこりと笑って、



「先生、ご指導ありがとうございます。」



と答えなければならなかった。



さもなければ、怒りが収拾つかない程となり、作業が全く進まない羽目になった。



そのタイミングで、萃が、畑から舞い戻り、野菜を届けに来ると、萃の能天気な笑顔が、観音菩薩のように輝いて見えた。



不穏な空気の時こそ、萃は大きな音を立て、大声を張り上げて台所に入ってきた。



そして、物凄い顔で、板前先生を睨みつけて、今にも飛びかかる勢いのところを、私は目配せをして、早くいけ、と合図をし、何とか諌める。




萃は怒りで肩を震わせながらも、不承不承出て行った。




夕食の配膳、食器の回収は、私と萃の2人で行う。




夜十時過ぎて、二人きりの台所で、流れ作業で食器を洗い、拭き、食器棚にしまっていく作業の最中、萃は思い切り不機嫌になっていた。




どうして、曖昧な態度で受け流すのか、どうして毅然とやめてほしい、と言えないのか、と言うことを、延々と私に言う。



布巾をバンッとテーブルに叩きつけたあと、俺が一発殴ってやりたいけど、いいか?と息巻いて言う。




「萃、口より手を動かして。あと、食器割れたら、怒られるの確実に私だから。」




ガチャンガチャンと怒りに任せて、食器を扱う萃に、一言釘を刺す。




無理もない、とも思う。



天下無敵の、中学三年生だ。




ふぅ、とため息をついて、くるりと振り返り、萃を見ていう。



「わかってる、何とか方法を考えるから。」



作戦その一、茉莉花さんの名前を出す。



「ここに働いている男性職員は、全て、ばばあのお手つきだからね。」



と、すっかり反抗期に突入してしまった華が、以前話してくれたことがあった。



ばばあ、とは、もちろん、茉莉花さんの事で、お手つきと言うのは、まあ、そう言う事だろう。



さて、ここで言う作戦とは、大した作戦でもない。



ただただ、お酒を飲ませて、何かにつけて、茉莉花さんが、褒めていましたよ、とおだてるだけだ。



これが、なかなか効果は絶大で、茉莉花先生が…と名前を出すと、ピクリと、一度、動作をやめて、その後に、今日の料理は特に絶品、流石、私が見込んだだけあるわ、と仰っていました、と続けると、鼻の下がダラーンと伸びて、ご機嫌が良くなる。



神経を逆なでしてもいけないし、必要以上に褒めて、こちらに気があると勘違いさせてもいけない。



憧れの美しい茉莉花さんの名前を使う事は、よい作戦だった。



しかしながら、当の茉莉花さんは実際には、褒めてもいないし、特にお気に入りの男性な訳でもない訳で、板前先生が気を良くして言い寄った時に、怪訝な顔で、一蹴したらしく、この作戦は、あっという間に、効果を失ってしまった。



そのあと、深酔いした板前先生が、

「あのババア、年増の癖に調子に乗りやがって。」


と、罵る声が台所で頻繁聞かれるようになった。




茉莉花先生の、ご意向で、相変わらず、教団内の職員は男性ばかりだった。


一応は箝口令が敷かれてはいるが、漏れ聞こえるところによると、大先生は男性としては、もう機能していない為、大先生がお休みになった後、本部控え室には、幹部会議と称されて、夜な夜な茉莉花さんと「会議」が行われているという。




大方の情報は、台所で、片付けの後、板前先生が強い酒を飲んで、したたか酔った時に、話すことによるものだった。



アルコール度数が高いお酒は、オババの旦那さんのコレクションを少しずつ拝借した。


酔うと大人は「いろんな意味」で、不能になる事を、学習した。







季節は一巡し、春、私は高校二年生になった。



全く受験勉強をしなかった萃も無事に高校入学となった。




華も同じくして、高校に入学したと思うのだが、というのは、最近では、大先生と茉莉花さんとべったり行動を共にしていて、ほとんど顔を合わすことが出来なくなっていたからだ。




たまに廊下ですれ違っても、ちらっと私を一瞥するだけで、以前のように、スリッパをパタパタとさせて、嬉しそうに駆け寄ってくる事もなくなった。




会うたびに、華はその美しさが増しているように思える。



背中まで伸びた、色素の薄い髪は、歩くたびにサラサラと揺れ、日本人離れした、大きな鳶色の瞳は、憂いを帯びて、私の姿を捉えると、伏し目がちになり、すぐに逸らされてしまう。



ぐっと女性らしく見えて、声をかけるのにも、躊躇してしまう。



中学生とはかけ離れたその佇まいは、あたかも神話の世界の人物のように思えた。




そんな中でも萃とは、むしろ以前よりも仲が良くなったようで、華の近況は、萃から聞くことが出来た。



まるで妹の反抗期のようで、その成長過程は、真っ当なものであると思いながらも、やはり寂しく、萃が羨ましかった。




高校2年生の夏休みが来た。



夏休みは、萃とは私にとっては、ひたすら労働の時間である。



萃は例によって、畑で作業。


夏は野菜が笑うほど収穫できるらしく、ハサミを持って、夢中で野菜と向き合っている。



一方、私は客室のシーツ類を取り替える作業にかかっていた。



なかなかの重労働で、夏場に毎度汗だくになる作業だ。



新しいシーツに全室取り替えて、回収したシーツ類を抱えて、布団部屋に入りクリーニングに依頼するものをまとめている最中の事だった。



背後でバタンと、扉が閉まる音がした。


次にガチャリと鍵の掛かる音がした。



振り返った瞬間に、私の体は、シーツの山の上に落ちた。



と同時に、口が手で塞がれて、両手は頭の上にまとめて押さえつけられていた。


太ももの付け根の部分に誰かが乗っている。



薄暗い布団室の中で、私は目を凝らして、相手の顔をはっきりと見た。


それは、この春から入った教会幹部で、茉莉花さんの「会議」の相手の一人だった。



痩せて整った端正な顔立ちで、茉莉花さんのタイプだな、と思ったのと、なんだか蛇っぽいと思う程度の印象しかなかった。



名前すら知らない男だった。



相手の顔と状況を把握したと同時に、耳の中に男の舌がナメクジのように這ってきた。息荒く、熱く執拗に耳を舐められる。



全身に悪寒が走り、冷たい汗が背中を流れる。



口と手の自由を奪われている為、膝で男の背中を蹴り上げるが、男はまったく怯まない。


押さえつける力は圧倒的に強かった。



鈍い私でも、これから自分がどうされてしまうかくらいは分かる。


泣きたくないのに、涙が次々と流れてくるのがわかる。


叫び声はただ、ウーウーという呻き声にしかならない。



男の舌が耳から首筋に届き始め、私の作務衣の上着の紐を口を押さえていた手で解き、胸を弄り始めた頃、男の舌は私の口の中を這っていた。



絶望、17年間生きてきて、初めてこの二文字が、頭をよぎった。


無駄に抵抗しすぎて、疲れ、体の力は抜けて、抗う力も残っていなかった。



目を閉じると、そこに母の顔がぼんやりと浮かんだ。


朦朧とした意識の中で、お母さん、今頃何をしているだろう、と考えた。



と、急に押さえつけられていた体がふっと軽くなり、男の体が離れた。



男が下を向いてカチャカチャという音を立てながら、ズボンのベルトを外し始めたのだった。



キーンと氷水をかぶったかのような感覚がしたかと思うと、冷静さが私に戻った。


瞬時に、一か八か、やるしかない、と思った。



頭の下にあったシーツを、男の頭に被せて、狙いを定め、渾身の力で、頭突きをした。



こちらの頭にも火花が飛んだが、視界を奪われて不意打ちを受けた男は、頭をおさえて後ろに倒れた。



攻撃の手を、今緩める訳にはいかなかった。



私はよろよろと立ち上がり、「半分剥き出しになったもの」に、狙いを定めて、文字通り、力一杯踏みつけた。何度か的を外したが、何度かは成功したと思う。


執拗に何度も何度も、私は踏みつけ続けた。



全身が震えているのがわかった。


握りしめた拳の中で、爪が掌に刺さる。


痙攣するようにピクピクと、私は震えていた。



それは恐怖からなのか、怒りなのか、自分でもよくわからないが、震えは一向に治らず、早くここから立ち去らなければならないのに、動くことが出来なかった。



グェッと、声にならない叫び声を上げて、男は股間を押さえ、もんどりうって、床を転げ回り続けている。



バンッと大きな音がして、扉が蹴破られ、そこに血相を変えた萃が飛び込んできた。


後ろに華の姿もあった。



萃はカッと目を見開いて、床に転がる男を見た。そしてゆっくりと視線をあげて、私を見た。


そして、動画の静止画像のように、固まってしまった。



ハッと、上半身ほぼ露わになった自分に気がついて、慌てて服を胸の前でかき集める。


顔に全身の血が一気に集結したような気がして、汗がどっと吹き出す。


出来れば、二人の記憶から今の私を消し去ってしまいたかった。



居た堪れなくなり、二人を押しのけて、部屋の外に走り出た。



どこをどう走ったかもわからないまま、階段をオタオタと走り降り、どうにか屋敷の外に出た。


雨の匂いがした。

土の匂いもする。



昼まではカンカン照りだった夏の畑に出ると、先ほどまでけたたましく鳴いていた蝉が、ピタリと鳴くのをやめた。


一瞬の静寂の後、やがて雨がぱらつき始め、ザーッという音と共に、あっという間に、土砂降りの雨となった。



私は雨の中、ぼんやりと立ち尽くしていた。













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しばらく呆然とした後に、慌てて瞳子の後を追う。


気ばかりが焦り、脚がもつれ、思うように動かない。


途中で何人かにぶつかった気がするが、謝る余裕もなく、ひたすらに後を追う。



扉を力任せにバーンと開けると、畑の前で、瞳子が振り返った。


バケツの水をひっくり返したような雨の中、ずぶ濡れになっている。



目がカチッと合った。



声を掛けようとした瞬間に、瞳子が走り出した。


反射的に、自分も走り出す。


水溜りに足を入れる度に、大きく水飛沫が上がる。



背高く生い茂ったとうもろこし畑の畝の間で、ようやく、瞳子の肩を掴むと、瞳子は観念したかのように、地面に両脚を投げ出して座り込み、やがて、大の字になって寝転んだ。



大学時代はアメフトの選手だったと聞く、瞳子のおそらくは父親譲りのすらりと伸びた長い手足は、裸足のまま、泥だらけだった。



肩まで伸びた艶やかな真っ黒な髪からは、水が滴り、本人はコンプレックスだという意思の強そうなはっきりとした太い眉や、真っ黒な瞳を縁取る長い睫毛に、雨粒が宿り、瞬きをする度に頬に転がり落ちる。



瞳子が深い呼吸を繰り返す度に、肩から胸、腹と大きく波打った。


さながら、サバンナの草原に横たわる草食動物のようだ、と思った。



「なんで逃げるんだ。」


と、少し離れた所に腰を下ろし、肩で息を切りながら尋ねる。



「じゃ、なんで追ってくるの?」


と、同じく、息を切らしながら、瞳子が答える。



「脚、速くなったねぇ。前は私よりずっと遅かったのに。悔しい。」


と言って、首を少し起こしてにっこりと笑ってみせる。


何か答えようと、思った矢先に、瞳子が続ける。


「見て?おでこ、頭突きしてやったの。」


目を閉じて、額を指差して、笑う。


額が少し切れて、血が滲んでいた。




「あのね、本当に。本当に何もなかった。」


少しの沈黙の後、瞳子は両手で顔を覆い、小さい声で呟いた。



「だから、どうか、お願いだから、私を嫌いにならないで。どうか、お願い…。」


そう言うと、声を押し殺して、肩を震わせて小さく泣き始めた。



「嫌いになんて、ならない。」


乾いた声をようやく絞り出した。



体を起こして、抱きしめてやりたい、と思ったが、触れようとして、寸前で、手が止まった。



ゴロゴロゴロ、遠くに雷鳴が聞こえた。










ずぶ濡れになって、二人で屋敷に戻り、別れて、それぞれ風呂に入った。



風呂の入り口で、瞳子が、


「風呂上がりに髪を切ってほしい。」


と言うので、先に風呂から上がって、入り口の壁にもたれかかって、瞳子が上がるのを待っていた。



たまに板前のおっさんが、風呂を覗こうとする事があるので、出来るだけこうやって風呂の前で待つのが習慣のようになっていた。



普段より随分長く時間を掛けて、瞳子が風呂から出てきた。



俺を見ると、にっこりと笑って、じゃあ髪よろしく、と言う。



母親の美容師の仕事をよく見ていたので、見様見真似だが、そこそこ上手い方だと思う。


最近では華の髪も切っている。



脱衣所の鏡の前に椅子を据えて、瞳子が腰をかける。


髪を切るために、上はグレーのタンクトップに、下はジャージー姿だった。



上から見下ろすと、タンクトップの下に、「サラシ」が巻いているのが、見えて、一瞬息が止まった。



何も気がつかないふりをして、ハサミと櫛を持ち、



「どれくらい切るんだ?」


と聞くと、瞳子はくるりと振り向いて、高校球児くらいの丸刈りで、と言う。



「はっ、バリカンがいるぞ?」と笑うと、



瞳子は真剣な顔をして、


「バリカン、持ってない?」


と聞いてきた。



「真剣に言ってるのか?」


「五分刈りか三分刈りか、そこらへんは任せるから」



そして、前を向いて、膝の上で両手をキュッと握りしめて、目を伏せたまま


「お願い、丸刈りにして。」と言う。



そして、か細い声で、


「私、女、やめる。」


と呟いた。



一瞬、空気が固まったが、黙って瞳子の髪を左手にまとめて持ち、櫛で梳かし始める。ハサミも櫛も、母親のお下がりだ。



髪を持ち上げると、艶々とした後ろ髪が、サラサラとうなじに溢れ落ちる。



思っていたより、真っ白で華奢な首だ、と思った。


男の手でなら、軽く掴めてしまう。


青く血管が透き通って見えた。



「それは…それだけは、勘弁してほしいなあ。」


思ってもいないような震えた声が思わず、口から漏れた。



ハサミを持ちながら、こっそりと右手で鼻水と涙を拭う。



自分が、何のためにここに残ったのか、瞳子がここまで追い込まれる前に、どうして守ってやれなかったのか、それでは、どのように守ればよかったのか。



瞳子の髪にハサミを入れながら、延々と答えの出ない事をぐるぐると考える。



そうして自分を責めながらも、今、瞳子に欲情している自分に、反吐が出そうだった。


結局のところ、俺もあのゲスな男と同じ生き物なのだと。


瞳子にとっては、嫌悪の対象の一人にしか過ぎないのだと。



そう絶望した。





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丸刈りにして欲しい、と頼んだにも関わらず、萃はバリカンがないと言って、ハサミだけで髪を切ってくれた。



いわゆる、ベリーショートと言うのだろうか。


萃の髪の長さよりも短くなった。



自分の部屋に戻ると、箪笥の引き出しの奥から、オババの遺品をしまってある箱を、丁寧に出した。


べっこう縁の、大きい眼鏡をゆっくりと持ち上げて、匂いを嗅ぐ。


オババの匂いがまだ残っている気がする。


どうにかこうにかいじりながら、分厚いレンズを外すことに成功し、早速かけてみる。


鏡を覗くと、ふはっ、と思わず吹いてしまった。


そこには、ちょっと勉強が出来そうな、田舎の小学生男子が映っていた。虫取り網でも持てば、完璧だ。



小さい頃から大柄で、いつも二歳くらい歳上に見られてきたし、初潮も早かった。


発育も早く、体操服に着替えると、クラスの男子がコソコソと笑いながらこちらを見ていた事も知っている。


テストで良い点数を取り、「地味な優等生」という鎧を着て、中学時代は息を潜めるように過ごしてきた。



だが、女として見られないように、さらに意識しなければ、ここでは生きてゆけないのだと、悟った。


いっそのこと、存在を消す事が出来ればいいのに、とさえ思う。



再び、拝借した古いシーツをハサミで一定の幅に裂く作業に戻る。


夏場はきついだろうが、冬にでもなれば、このサラシ、は暖かいだろうな、と思う。



布団部屋での出来事の後、あの男の消息は分からなくなってしまった。


自らの意思でここを去ったのか、茉莉花さんの逆鱗に触れて追い出されたのか、それは分からなかった。


が、理由はどうであれ、少し安堵した。



ほぼ坊主に近いくらいの散髪と不恰好な眼鏡姿が功を奏したのか、板前先生の、あからさまなセクハラも少し治った気がする。


髪を切った翌日に、台所で私をみた板前先生は、一瞬、私が誰だか認識が出来なかったらしく、ポカンとした顔をした。そして、その後に驚いて、私をもう一度みた。



そして、


「不細工になった。」と渋い顔をした。

































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程なくして、10月になり、センター試験の願書受付期間に入った。



実は、学校のサテライト授業では全く足りないと思われたので、教会に通いでやってきている勤務医、御歳70歳のじいちゃん医師に、薬学科入学について相談をしていた。



信者の知り合いの知り合いくらい、の付き合いの浅さで、世間に疎く、ただ近所に住んでいるくらいという理由だけで、週二くらいのペースで、通いで勤務しているらしい。



たまにボケているかなあと、思う事もあるが、それも渡世の為の演技なのかどうなのか、掴めないところもあるじいちゃん先生である。



じいちゃん先生の家は開業医をしており、同じく医者になった息子さんが今は後を継いでいる。


その息子さんのお古の問題集を譲り受け、独学でセンター入試の為に、暇を見つけて勉強していたのだった。


教会内の仕事との両立は体力的にきつかったが、暇な時間があると、次から次へとネガティブな発想が湧いて出てくるので、一心不乱に勉強に打ち込める環境としては、ある意味では理想的だったかもしれない。



「あれ」以来、眠れない夜が増えた。


横になると、鼓動が速くなり、目を閉じると、フラッシュバックが起こる時もあった。

発作のように耳や首筋を、歯を気が狂ったように洗いたくなる衝動に駆られた。



そんな時は、問題集を開いて、ひたすらに問題を解いた。


まだ見ぬ新しい自由な世界を想った。


それから、母を想った。



体重がガクッと減り、じきに生理が止まった。



朝顔を洗ってふと顔を上げた瞬間に、鏡に映った自分を見て、誰かと思う事もあった。


肌は荒れて、頬はこけ、目の下にはクマが濃く出ていた。



そんな折、センター試験の申し込みのために、茉莉花さんの部屋を訪ねた。



茉莉花さんの部屋は、「会議室」の1つ手前にある、かつて応接間にあった。


ふかふかの絨毯の上に、いかにも高級そうな重厚な家具が並んでいた。


昼食の前を狙って、部屋の扉をノックすると、茉莉花さんの、どうぞ、という声がした。




「失礼します。」


と、私は身だしなみを気にしながら、部屋に入った。



「あの日」以来、茉莉花さんとは、直接会った事はなかった。どんな反応をされるかと、緊張しながら、一礼をする。



顔を上げると、茉莉花さんが、こちらを一瞥して、笑って言った。しかし、笑っても顔には皺一つ寄らない。



「みっともない姿ね。まるで生まれたての雛鳥みたい。」


「はい。」



何に対しての、はい、なのか自分でもよく分からないまま、返事をする。



「で?何の用?忙しいの。手短におねがい。」


といいながら、すでに彼女の視線は私から外れて、手元の書類に移っている。



「はい、センター試験の申し込みをさせて頂きたいのです。」


「へぇ、どこの大学を狙っているの?」


全く興味がないとばかりに、書類をめくり続けている。



「大まかには、決まっているのですが、まだはっきりとは。あ、でも担任の先生が、国公立のある程度のところなら大丈夫だと。あと、良いところに合格できると、高校としても箔がつくから、特待生として頑張るように、とおっしゃっていて。」



用意していた言葉をつらつらと並べる。



新設されたばかりの、この教団の高校は進学率と有名大学合格の実績が欲しい事を、私はよく知っていたのだ。



案の定、茉莉花さんの手が止まり、顔を上げてこちらを見た。




「分かりました。許可します。センター試験の申し込み書類を取り寄せておきましょう。」



そう短く言うと、茉莉花さんは、もう出ていけ、と言わんばかりに、私をちらっと見て、そして出口を見た。



「ありがとうございます。それでは失礼します。」


小躍りしたい気持ちを抑えながら、私は努めて静かに部屋を出た。



こんなに気分が高揚したのはいつぶりだろうか。



試験を受けるためには、敷地の外に出なければならない。



十五歳の冬から、一度も外へ出る事は許されなかった。


下界は汚れ、メディアは嘘しか報道しないから、という理由で、テレビも書籍も何一つ許されてはいなかった。



外が今、どのようになっているのか知りたい、とは思った事ももちろんあったが、最近ではその好奇心や興味さえ、忙殺されていた。



屋敷内では、平静を装っていたが、庭に出ると、畑で作業中の萃に、思わず駆け寄って話しかけてしまった。



「萃!聞いて!私、センター試験受けられる!大学へ行ける!」



萃は丁度、収穫の終わった作物の後処理をしている最中のようだった。



私の声を聞いて、ゆっくりと萃は振り返った。



「お、マジか?すげえな!よくあのババアが許したな!」


萃は、真っ白な綺麗な歯を見せて笑った。



「お前の事だ。まず問題ないだろう。頑張れよ!」



そう言って、萃は手についた土をパンパンとズボンで払うと、片手を軽く上げて、私とハイタッチした。


パチンと音がして、萃の手に残っていた土がふんわりと小さく舞った。



悪い、と萃が小さく笑った。



私はその時、気持ちがこれまでにないくらい昂ぶっていて、萃の小さな変化には気がつかなった。




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1月の初旬、センター試験の受験日。



やはりというか、案の定、私一人での外出は許可されなかった。



板前先生が、俺が行く、と言い張って聞かなかったが、その日は大きなセミナーが入っていて、持ち場を離れる訳にはいかず、私にとっては幸運な事に付き添いは却下された。



それなら、わしが行こう、暇だ、ということで、勤務医のじいちゃん先生がご同行してくれる事になった。



幸先のいい事尽くしで、私はホクホクした気分でいっぱいだったが、ここで試験をしくじっては元も子もない、とばかりに、両頬をパチンと自らの手で叩いて、気合いを入れた。



萃が門のところまで、見送りに来てくれた。



ちゃんと戻ってくるんだぞ?頑張れよ?腹は壊すなよ?受験票は持ったか?筆記用具は?、といちいち言うことが、保護者のようなので、可笑しかった。



試験会場はバスと電車を乗り継いだ、駅近くの大学を指定されていた。



試験会場の門のところまで来ると、じいちゃん先生は、頭をふわっと撫でて、集中できるおまじないじゃ、と笑った。


近くの喫茶店やらで、時間を潰しているから、頑張っておいで、と、じいちゃん先生は言い、私はぶるっと武者震いを一つして、試験会場に入った。



おまじないが効いたのか、試験の間は、緊張することもなく、かなり集中する事が出来て、見直しする余裕もあり、かなりの手応えを感じた。



試験を終えて、門の前まで行くと、じいちゃん先生が待っていた。



「どうじゃったか?首尾よく運んだか?」


心配そうに、聞いてくるので、私はにっこり笑って親指をグッと立ててみせた。



「そうかー、よかったよかった。頭を使うとの、脳が糖分を欲するようになっとるんじゃ。うまい飯でも食べに行こう。」


と、駅前の洋食レストランに、半ば強引に連れて行かれた。



うまいかどうかは、わからんぞ?と店の人に失礼な事をいいながらも、テーブルまで案内されて、メニューを開く。



「なんでも好きなものを頼め。」


わしは、海老フライがええかなあ、と指差しながら言う。



「でも教団のルールでは、こう言うところで食べてはいけないって…。」


と、私が躊躇していると、



「わしが強引に食べさせた、とでも言えばええ。それに誰も腹のなか開いてまで確認はせんから、黙っとればええ。」


と、ガハハと豪快に笑って、店員を手招きする。




「はよ、決めえ、もう頼むぞ。」




店員がやってきて、オーダーを取る。




「わしはこの海老フライ定食。ほんで、ほれ。」




促されて、私は慌てて、ハンバーグ定食を指差す。




「そんで、これも2つ頼むわ。」




と、じいちゃん先生が、チョコレートパフェを指差す。




「あ、でも…。」



焦る私に、じいちゃん先生が言う。




「じじいは、一人ではこう言うものは食べられんので、よろしくお付き合い、お頼み申す。ガハハ。」


しばらくすると、店員が熱い鉄板の上に乗ったハンバーグ定食と、エビフライを器用に両手に抱えて運んできた。

そして、水を注ぎ足して、去っていった。


おずおずと、ナイフとフォークを両手に持ち、塊をカットする。


最初の一口では、濃厚なデミグラスソースが、塩辛くさえ感じた。教団内の食事は、塩分が極端に少ないせいかも知れない。

二口目で、ハンバーグの熱い肉汁が、ジュワッと口の中に広がって、口の中を火傷するかと焦り、ハフハフしながらも、気がつくと、あっと言う間に平らげてしまっていた。




じいちゃん先生も、アツアツの海老フライをゆっくり堪能しながら、時折私の方を見て、ニカニカと笑っている。




定食の皿が下げられると、順次、チョコレートパフェが運ばれてきた。




ウェイターが目の前でアイスクリームの上に、熱いチョコレートを流しかける、正式にはチョコレートファッジ、という食べ物らしい。



流しかけられた部分のアイスクリームが少し溶けて、チョコレートとバニラのマーブル状の川が流れ出した。



「ほほう。甘いものが大好きなんじゃけどな、これはそうそう食べる機会がない。見ていても楽しいのう?」



私はきっと間抜けな顔をしていたに違いない。



じいちゃん先生が、私の顔を見て、ブハッと吹き出したからだ。



「さ、冷めないうちに、違うか、はよ食べようや。」


じいちゃん先生に促されて、ハッとなって、長いスプーンを手に取り、パフェの山に取り掛かる。



じいちゃん先生は、目を細めて、私がパフェを頬張る様子を見ていた。



「そうやってみると、まだまだ子供じゃなあ。」



私は夢中になってアイスを掘っている最中だった。



顔を上げて、じいちゃん先生の顔をみると、こう続けた。



「あのなあ、高校生は英語では、ハイスクールキッズちゅうぞ?瞳子ちゃんは、まだまだキッズじゃ。」



そこで、じいちゃん先生もチョコレートアイスをひとすくいして、口に運ぶ。



「大人になったら、もう、死ぬまで大人じゃ。無理して早く大人になる必要はない。子供を十分に楽しまんと。のう?」



私は言葉に困ってしまって、黙ったまま、口元を紙ナプキンで拭う。



永遠になくならないのではないか?と運ばれてきた時は思えたパフェの山は跡形もなくなり、店員が手際よく片していった。



じいちゃん先生は、わしはちょびっと大人じゃから、と言って、追加でホットコーヒーを頼み、私はミルクティーを頼んだ。




紅茶にミルクを入れてかき混ぜていると、センター試験の時間がずいぶん昔に思えてきた。


どれも今日一日で起こった事とは思えないくらい、楽しい一日だった。


試験でさえも、ワクワクして嬉しかった。



砂糖を入れて、さらに混ぜながら、これから帰る場所を思い、すこし切なくなった。


じいちゃん先生も、黙ってコーヒーを啜っていた。



会計に並ぶと、目の前の中年女性達が、私が払う、いやここは私が、と支払い権獲得の為に、ガヤガヤとしていた。



じいちゃん先生がトイレはええのか?と聞くので、私は慌ててトイレに走った。



トイレから出てくると、さらっとじいちゃん先生が会計を済ませていて、私は慌てて、ご馳走さまでした、とお礼を言った。



鞄をキュッと握り締める。


教団内のルールとして、高校生の私にはお金を持つ理由も権利もないのだ。



暗くなった駅前の街に出ると、じいちゃん先生が、気になる本がある、と私を本屋に誘った。



そこは比較的大きめの書店で、結構な客数で賑わっていた。


じいちゃん先生は真っ直ぐに、参考書のコーナーまで私を連れてきた。



「足りない本があれば、ここで選んでおきよ。」



目の前に広がる参考書の数々に、圧倒されて、私はゴクリと唾を飲んだ。



「本当に?」


と掠れた声が思わず出てしまった。



「遠慮せんでもええよ。」


とじいちゃん先生が答える。



手持ちの参考書、問題集はもう何度も繰り返しし尽くしてしまっていたので、ここに来て総まとめ的な問題集が新たに手に入るのは、心から嬉しかった。



謙虚という言葉を頭から振り払って、私は遠慮なくこれ、と思う問題集を何冊か手に取り、じいちゃん先生と共にレジに並んだ。



合計金額を書店の店員が告げた時、書籍はかなり高価な買い物だ、とつくづく思い、申し訳なさで、小さくなってしまった。



「ごめんなさい。高くなってしまって…。」


俯いて、私が謝ると、



「違うなあ。そこは、ありがとう!で、ええ。よう勉強して、希望の学校に受かること。それがわしへのお返しっちゅうことで。辛気臭いのはなしやぞ?」




財布を鞄に仕舞うと、じいちゃん先生は、からりと笑ってみせた。








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 それから、二次試験の受験申請、国公立大学の前期試験と、瞬く間に月日が経った。必要な書類が無事に高校から手配されているのかと、内心はヒヤヒヤしていたが、特に問題なく、二次試験に漕ぎ着ける事が出来た。


前期試験もじいちゃん先生が付き添ってくれ、試験終わりには、また美味しい洋食屋で、定食と、パフェを食べさせてもらった。



試験終わりは、開放感で、頭がおかしくなりそうだった。


張り詰めていた緊張の糸がブチンと切れて、大声で叫んで走り回りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。



あの時に買ってもらった問題集は端から端まで、繰り返し何度も解いた。


寝る間も勿体無かったが、睡眠不足は頭が回らないから、と自分に言い聞かせて、参考書を布団の中に抱えて眠った。



2月の前期試験後、帰ってから、自己採点をしてみると、少なからず手応えはあった。



そわそわしながらも、学校と教団の毎日の仕事をこなしていた。


相変わらず、板前先生のセクハラは健在だったし、毎日寝る時にはクタクタになったが、それでも全てのことが瑣末な事に思えた。



これまでに感じた事がないくらい、恐ろしくも、穏やかで希望に満ちた一か月だった。



そして、とうとう合格発表の日がきた。



教団住所宛に来る郵送物は、個人宛のものでも全て、一度茉莉花さんの目を通ることになっている。事実上の検閲、と言えるのだろう。プライバシーの侵害、であるとか、そういうものはここでは通用しない。



それに、茉莉花さんが検閲しようとしまいと、私宛の手紙はこれまで一通も来たことはなかったのだ。



中学の同級生とは縁が切れ、友達らしい友達はいなかったし、“家族”は、もういない。



しかし、夜になっても、私に郵送物が届いたという知らせは一向に来なかった。



合格であれ不合格であれ、受験生にはかならず結果は届く筈なのだから、いくらなんでもおかしい。


痺れを切らした私は、夕食の後片付けの後、茉莉花さんの事務部屋を訪ねた。



何度かノックをしても応答はない。


ドアノブをゆっくりと回すと、鍵はかかっておらず、重い扉が少し開いた。



隙間から中の様子を確かめると、事務室は既に薄暗く、デスクライトのみが点いていた。



茉莉花さんは、デスクに腰を掛けて、書類を見ているようだった。


既に寝間着姿だが、パジャマと呼ぶにはおおよそ相応しくない、ほぼ下着のみのような寝間着だった。



大きく開けられた胸元と、組まれた太ももが露わになり、白く発光していた。



私の母より五歳は若かっただろうか、恐らく34、5歳になるだろう茉莉花さんは、年相応には全く見えなかった。



お相手の男性は今日は誰だろうか。


もう既に奥の部屋で待機しているに違いない。



空気を読むとすれは、ここは一番入ってはいけないタイミングだ、流石に私もそれはわかった。



この場から立ち去ろうとは、思ったが、ただ、私はどうしてもすぐに、試験の結果が知りたかった。その気持ちを抑えることが出来なかった。



奥の個室から、男が出てきた。


今まで見たこともないような、若い男だった。


歳は恐らく20代前半だろうか。



既に上半身は裸だった。


ここ最近、茉莉花さんのお気に入りの男性が、あからさまに若くなってきている、という噂は、板前先生のぼやきによって、知っていた。


男が後ろから、茉莉花さんの身体に両手を回して、耳元で何か囁き、茉莉花さんが甘い笑みを男性に返す。



ここまでだ。



私は諦めて、思いドアから手を離し、静かにその場を去ろうとしたその瞬間、部屋の中から声がした。



「覗き見するくらいなら、入ったら?」



ビクッとするが、深く深呼吸をして、覚悟を決めた。


「失礼します…。」



ドアを開けて、一礼し、ゆっくりと顔を上げると、茉莉花さんは、男に奥の部屋に戻るように、手で合図をした。



「で?何の用?手短にしてね。忙しいの。」


苛立ちを隠す様子もなく、茉莉花さんは言った。



「合格通知書、きていますよね?」


負けじと、私も淡々と言う。



「合格?ああ、このこと?」


茉莉花さんが、厚めのA4サイズの封筒をバサッと机の上に投げ出した。


既に開封されている。



弾みで、中身が机の上に飛び出る。


合格、という文字と、入学、という文字が目に入った。



慌てて、机に駆け寄り、封書をかき集める。



「おめでと。合格通知書はコピー貰ったわ。もう用は済んだ?早く出て行って。」


面倒臭そうに髪の毛をかきあげながら、茉莉花さんは言った。



「あの、ありがとうございます。大学へ行かせてくださって。感謝しています。」


書類を胸に抱きしめて、私は深々と頭を下げた。



「は?大学?進学ってこと?」


頭を上げると、茉莉花さんは、涼やかに笑っていた。



「あんたにはセンター試験は受けさせてやった。国公立大学合格の実績を我が校は手に入れた。それだけの話よ?あんたを大学にいかせる、とは一言も言ってはいないわ。」



「え…。」


絶句した。



そして、やられた、と思った。



ここ数ヶ月の平和な日々は、この結末の為だったのだ。



「厚かましいのね。高校に行けただけでも感謝しなさい。それから、頭が良いからって人を見下すあたりが、あんたの母親そっくり。あ、その母親からも見捨てられたんだわね。」


クックッと心から楽しそうに、茉莉花さんは笑った。



「あんたがここで生活するにあたって、家賃、食費、全て、あんたへ貸しがあるのよ?」


「でも、それはここで私が働く事で…。」


途中で私の言葉を遮る。



「冗談でしょう?あんなアルバイト程度の労働で人一人が生活できると思うの?」


目を大きく見開いて、茉莉花さんが大袈裟に驚いてみせる。



「あんたはね、一生ここでタダ働きする運命なの。ここで結婚して、ここで子供を産んで、その子供もここでずっと暮らしていくの。」


「ちょ、ちょっと待って下さい!」


「心配しなくても、男は私のお古をあげる。なかなかよく仕込んであるから、きっと愉しめると思うわ。」



愉しそうに、茉莉花さんが言う。


私は、震えが止まらない。



「あ、そうそう。萃くんはダメよ。誰に似たんだか、いい男に育ってきたんだけどねえ。華が、萃くんと結婚出来なければ、ここを継がないとか言い出すもんだから。婚約したの、あの子達。可哀想ねぇ、ひとりぼっちの瞳子ちゃん。さあ行って。」



茉莉花さんが、ピシャリと私を廊下に締め出した。



華が萃と、婚約?



私は合格通知書の封筒を抱きしめたまま、呆然と廊下に出た。


頭の中が整理出来ずに、力が抜けてヘナヘナとそのまま座り込んでしまった。



ふと、見上げると目の前に華がいた。


廊下の壁にもたれて、両腕を組み、上から私を見ていた。



ふらふらとなんとか立ち上がって、華の両手を無理矢理引っ張って、廊下の奥まで連れて行く。



離して、手が痛い、と、仏頂面の華の顔を両手で包み込み、まじまじと見つめる。


久しぶりに、華と目が合った、と思った。



「華、よく聞いて。私、ここを出て行こうと思う。」


「は?」


と、華が、呆れたような顔をした。



そして、私の両手を顔から解いて、下を向いた。



「華は、ここにいて幸せ?こっち向いて、私を見て。」


怯まないで、私は再び、華の顔をこちらに向ける。



「一緒に逃げよう、華。私が何とかする。」


「やめてよ!」


と、華が私を突き飛ばした。



「いつまで、お姉ちゃん気分?私も萃も、もうあんたの事、お姉ちゃんだなんて思ってないよ。家族ごっこはとうの昔に終わってるの。」


一気に吐き出すように、華が叫ぶ。



「華、よく考えて。萃にも後から話す。3人でここを出よう。」


尚も、私は華の手をつかみ直した。



「甘いねぇ…。」


華が、手を振りほどいで、せせら笑う。



「華、あのね。」


私の言葉を遮り、華が続ける。



「外出て、どうすんの?お金は?お金がなければ、生きていけないんだよ?お金のない生活、あんたしたことあるの?どうやって、暮らすの?」


「お金は…働く。なんとかしてみせる。」



「はっきり言っとくわ。私、貧乏は二度と嫌。んで、どうやってお金稼ぐ?フリーター?やっていける?それとも、大事にしているあんたのその身体でも売る?」


「やめて。」


私は駆け寄って、華をぎゅっと抱きしめた。


「離して。離してよ!」


再び、華が、私を払いのける。


私は体のバランスを失い、後ろに倒れた。



ゴン、と鈍い音がして、今度は壁に頭をぶつける。


ハッと、華が息を飲む音が聞こえた。



よろよろと立ち上がりながら、私は華を捕まえようとするも、華はスルリと腕から逃げた。


「私はここに残る。貧乏は絶対にイヤ。」



苦々しく、華はそう言い、ゆっくりと立ち去ろうとして、くるりと振り返ると、



「残念だねぇ、お金さえあればねぇ。お、か、ね。」



と、にっこりと笑うとそう言った。


鳶色の目がキラキラと輝いていて、こんな時でさえも、華は美しい、と思ってしまった。



「待って、華、考え直して。このままではダメになる。」


必死に立ちあがり、華の肩を掴んで、引き戻そうとするが、手を払われてしまう。



「本当にしつこいよ。うざい。あ、ババア、やる前は必ず薬やってるから、しばらく出てこないよ。じゃあ、まあ、よろしくやんなよ。バイバイ。」



今度は振り返らず、手を腰あたりでひらひらと振りながら、華は去っていった。



「お金?お金がそんなに大事?」


私は廊下にぺたりと座り込んで、呟いた。

























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瞳子から、ここを出て行く、と聞いた時は、然程の驚きはなかった。


やっぱりか、と思ったし、ようやくか、とさえ思った。



今、俺と瞳子は、茉莉花さんの事務所の隠し金庫の前にいる。



茉莉花さんは、最近たまに事務所の鍵をかけ忘れる事があり、夜は奥のプライベートルームに一度篭ると、しばらくは出てこない。



部屋を隔てる重い扉は、防音タイプの物で、遮音力は半端ない、と以前、噂好きの教団関係者に聞いた事があった。




日付が変わってから、瞳子が事務所の扉に手を掛けると、ガチャリと開いた。



重い扉を慎重に開けると、暗がりの中、非常灯の緑の光だけが照らしていた。



窓からは、月明かりが淡く差し込んでいた。



しんと静まり返った中、瞳子は堂々と部屋に入っていた。



隠し金庫はデスクの後ろの壁にはめ込め式で設置されており、その前を隠すように、大きめの絵画が飾られていた。



金庫も絵画は以前、オババの持ち物だったものが、そのまま教団に買収されて、そのまま使用されているので、俺たちにとっては、隠し金庫、の意味は全くなかった。



躊躇することなく、瞳子は絵画に手を掛けると、俺に無言で合図をして、2人でゆっくりと床の上に下ろした。



年季の入った古いデジットタイプの金庫である。


鉛色の大きな塊を目の間にして、瞳子はさて…と両腕を組んだ。




「萃、おばばの暗証番号なんだったか知ってる?」



と、瞳子が小さな声で、俺に聞くが、さっぱりわからない。



「知らない。それに知っていたとしても、教団が絶対に変更してるだろう。」


「それはそうか。」


「華なら分かるかも知れないけど、流石に聞けないな。」


あーあ、とため息をついた。



出て行くと、話を聞いたまではよかったが、まさか金庫内のお金を拝借する、などという発想が、あの瞳子から出てくるとは思っていなかったので、今、真剣な眼差しで暗証番号の数字を見つめているこの状況が、にわかには信じがたい。



でも、ここまで来たらやるしかない、とも思う。




「何回まで間違えて大丈夫だっけ…。」



「さあ、普通は3回くらいじゃないか?」



「間違え過ぎたらどうなるっけ…。」



「警報機がなるらしい。ここに書いてある。」




まずは、教団の設立記念日でやってみることにしたが、失敗に終わった。



落胆しているかと思ったが、瞳子は寧ろ面白がっているようで、一度で開くとは思ってなかったよ、と飄々としている。




「そもそも暗証番号って、どうやって決める?自分の生年月日は普通、使わないでしょう?そうかと言って、あまり脈略のない数字は、日常開けるときに覚えにくくて不便だし。」




瞳子が首をひねりながら、呟いた。




「うーん。やっぱり大切な誰かの誕生日とか、忘れられない記念日とか、だろうな。よく分からんが。」


「ふむ。世の中、お金が、あれば、ね。」


と瞳子が小さく呟き、再び暗証ダイヤルに手を伸ばした。



カチカチカチカチ、迷いなく8桁の数字を打ち込むと、カチッと錠の外れる音がして、ふわりと金庫の扉が開いた。



俺は呆気に取られて、金庫を見て、それから、瞳子の顔を見た。


瞳子は深く息を吸い込み、そして、金庫の扉をゆっくりと開けた。



その瞬間、遠くで人の声が聞こえてきた。


俺は音をなるべく立てないように、入り口に駆け寄り、扉に顔をくっつけて、耳をすませた。



教会幹部の男の声だ、と思った。


それから、それを追いかけるように華の声が聞こえた気がした。



ここに長居は禁物だ。



「瞳子、急いで。早くここを出よう。」


と、身振り手振りで、促す。



瞳子は金庫の前に立ち尽くしていた。


窓からうっすらと初春の月の光が差し込み、瞳子の横顔を照らし、陰影が美しく室内に落ちていた。




瞳子、と再び声をかけると、瞳子ははっと我に帰ったように、こちらを見た。



そして、落ち着いた様子で、金庫の中身を確認して、ふぅっと大きなため息を一つつき、用意していた大きめの鞄に次々と詰め込んだ。



そして絵画をまた元の場所に戻し、事務室を後にした。




事務室を後にした約30分後、遅れて警報機がけたたましく屋敷全体に鳴り響いた。


既に屋敷の外に出て、農作業用具入れに潜んでいた俺と瞳子に、窓を開けて絶叫している華の



「あのバカ女!!」


というハッキリした声が聞こえてきた。



瞳子は、と言えば、膝をぎゅっと抱え、両膝の隙間に顔を埋めて、黙っていた。



農機具を入れている物置は、今日のために予め準備していたもので、一見人が隠れるスペースはないようにカモフラージュしてあった。



でも、だからと言ってここが完璧に安全かと言われたら、決してそうではなかった。



茉莉花さんを始め、教会関係者は必ず探しに来るだろう。犯罪者でもないのに、ここは刑務所のようにセキュリティが厳しい。


自由はない。自由の代わりに、神のご加護を、と、いう訳だ。



辺りの様子を伺いながら、俺と瞳子は少しずつ移動を開始した。



ここの庭は、教会関係者より断然俺たちの方が詳しい。防犯カメラの死角になる位置も、事前に調べ済みだった。



旧邸宅の塀は、分厚く、そして高い。が、その向こうには、自由があった。




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金庫を開けた瞬間に、まず目に入って来たものは、札束ではなく、おびただしい数の封書の束だった。



全て私宛のものだった。


差出人は、裏面を読まずとも瞬時に分かった。



泣きたいような、お尻の辺りがくすぐったいような、そんな奇妙な気持ちになり、しばらく呆然としていると、萃の声で、現実に引き戻された。




金庫の中の物を、急いで鞄に詰め、萃が脱出用のボストンバッグを抱えて、二人で慌てて外にでた。



防犯カメラの死角になる逃げ道は、何度もシュミレーションしていた。正面玄関には、もちろん警報システムがついていた。



オババの邸宅だった頃から、洗濯物干し場へ繋がる裏戸は、ずっと使われておらず、物置きとなっていた。



かくれんぼをするには、絶好の隠れ場所だったが、それが今ここに来て、役立った。



萃が感心したように、お前、こんなところに隠れていたのか、と今更言うのが、こんな状況でも、いやこんな状況だからこそ、面白かった。



華の激しく私を罵倒する叫び声は、私にもはっきりと聞こえた。



その声は、私の心臓をキュッと締め付けて、痛かった。




私たちは、その時は萃が準備していた農作業道具入れに身を小さくして、隠れていた。




私は目をぎゅっと瞑り、黙って、その叫び声を聞き続けた。




二月の寒空の下、厚着をしてきたとは言え、流石に寒さは堪えたが、これからでて行く世界を思うと、寒さなど遥かに超越してしまうほどの、高揚感があった。



午前3時を回った頃、私たちは、そろそろと移動を開始し始めた。



物置小屋の屋根に登り、そこに隣接する塀に登って、そこから出る予定だった。



植栽が鬱蒼と生い茂るところを敢えて選び、草木を掻き分けながら、まずは荷物を屋根の上に放り投げた。



瞳子、いけるか?と萃が言い、うん、と私は萃の肩に足を掛けた。肩車の状態のまま、萃はゆっくりと立ち上がった。



広い肩、だと思った。


小さい頃は、私の方が何もかも大きかったのに。



萃は、顔立ちと、小さな体のせいで、よく女の子に間違われていた。


彩さんが、必死に男の子っぽいレンジャー物の洋服を着せたりしていたが、それでも女の子に間違われる事が多かった。



からかわれるとすぐ泣いて、私の後ろに隠れて、私の上着をぎゅっと握りしめる。



指のしゃぶり癖も小学校に入るまで、なかなか抜けず、で、よく彩さんがやく嘆いていたものだ。



成長期、中学から高校にかけての萃の身長の伸びっぷりは、凄まじかった。



初めて私の身長を抜かした時は、死んだ親父がデカかったらしいんだ、だからまあ当然だ、と、わざわざ意気揚々と報告しに来た程だった。



学年が上がるにつれて、女子から声をかけられる機会も増えてきたようだが、萃がどう対応して来たのかは、分からない。



あの時、私に付き合って、教団に残りさえしなければ、もしかすれば、普通の高校生で、いわゆる、充実した青春を満喫できていたかも知れない。



萃に肩車をしてもらいながら、靴を脱ぎ、屋根の上に靴を落ちないように気をつけながら、放り投げる。そして、壁を伝って伸びている排水管に掴まりながら、萃の肩の上にそろそろと立った。



よし、立ち上がるぞ、と萃がゆっくりと立ち上がる。



視界が広がり、物置小屋の屋根が私の腰丈くらいになったところで、屋根の上に上がり、腰を低くしたまま、鞄と靴を回収する。



外塀は屋根から50cm足らずの距離にあった。



幾分高さはあるが、足を掛ければ、なんとかよじ登れるだろう。



「萃、早く。」


私は手を萃に差し出した。



「足を壁に掛けたら、なんとか登れると思う。」



萃が両手を伸ばしきて、がっちりと私の手を掴んだ。



引っ張り上げようとした瞬間、萃がこう言った。



「瞳子、俺はここに残る。」


「え…?」


「俺はここに残る。今、華を一人残しては行けない。」



微かな月明かりの中で、萃は笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。



暗がりの中、何かを読み取ろうと、萃の目をじっと見つめてみても、そこには私しか映っていなかった。



でも、根っこにあるのは、いつものあの優しい笑顔だった。



「ここでお別れだ、瞳子。」



両手で私の右手をぎゅっと握りしめたまま、萃は言った。


瞬きもせずそんなにも真っ直ぐな萃の黒い瞳が、こちらをじっと見ていた。



もう、何も言うことは出来なかった。



「早く行け。あとは俺が何とかする。」



覚悟が決まった、清々しい顔だ。



今、日に焼けてパサパサの色素の薄いその髪を触りたい、と無性に思った。


優しいその目尻を指でなぞってみたい、とおもった。


農作業で節くれ立ったこの指を、何とか離したくない、と思った。



でも、全てはもう叶わない。


その時、そう悟った。



「分かった。華を、頼むね。」


自分でも、意外なほど、はっきりと声が出た。



「瞳子、生きろ。」


茶化す事なく、萃が真剣に言った。



「萃も。」



私たちは手をゆっくりと離し、短い別れの言葉を交わした。


私はもう後ろを振り向かなかった。



靴を履き、鞄を1つずつ、大きく振りかぶって、外塀の向こうに飛ばした。


そして、勢いをつけて、塀に飛び移り、鞄目指して飛び降りた。



ドスン。



自由が、鈍く音を立てた。





********************************************



先生、まもなく面談のお時間ですので、そろそろご準備をおねがいします。



と、女性信者の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。


はーい、と生返事をしたが、目は新聞に釘付けのままだ。



親から虐待を受けた未就学児が、病院に搬送されたが、間も無く亡くなった、と書いてあった。体重は通常の発育の二分の一しかなく、栄養失調からの肺炎を拗らせたようだとある。



虐待の疑いで実の母親と、内縁の夫が逮捕されたらしい。



震える手で、新聞を畳む。


動悸が激しい。



この手のニュースを目にすると、もう忘れてしまいたい、と思っているのに、嫌でもあの日々がフラッシュバックする。



当時、私は3歳くらいだったと思う。


幼かったが、今でも記憶ははっきりと残っている。



あの人は、文字通り、酒と男に溺れていた。



元々は、地方のホステスをしていたところ、由緒ある神社の跡取り息子と出会い、私が生まれたと聞く。



子供を産めば、結婚してもらえると思ったが、生憎跡取りにもならない女児だったため、いとも簡単に捨てられて、シングルマザーとなったらしい。



学生時代から、外見の美しさだけは群を抜いていたそうなので、プライドは高く、当初はモデルや芸能人を目指したらしいが、そんなレベルの女は世の中にゴロゴロいるわけで、せいぜいローカル紙の冴えないモデル止まりで、早々に水商売に切り替えたようだ。



まあ、そんなわけで、あの人は私が3歳くらいには、ろくに家にも帰らず、店と男の家を転々としており、一度児童相談所に目をつけられ、体裁を繕う為だけに、毎朝家に戻り、何とか保育所に預け、出勤前に迎えに来て、家に置き去りにし、という毎日を送っていた。


食料はあの人の気が向いた時に、コンビニの弁当や、パン、おにぎりなどを与えられた。



分量を調整しながら食べる事を、当時から身につけていたように思う。


保育所では、給食が毎日出たので、それをお代わりさせてもらい、飢えを凌いだ。



あの人は、「いい子にしていないと、もう二度と戻ってはこない」という言葉で、私をがっちりと縛っていた。


今となれば、どうして早々に捨てなかったのだろうか、とさえ思う。



あの人を好きだとか、嫌いだとか、思った事はない。


あの人は、母親で、それだけの存在だった。


ただ子供心に、母親を失う事だけは、とても恐ろしかったのだ。



電気は点けてはいけない、部屋は綺麗に片付ける、外に出てはいけない、先生に家のことを言ってはいけない、このように何点か、守るべきことが、当時の私にはあった。



家賃の支払いすらも、時折滞っていたように思う。


電気を点けてはいけない、は、守らずとも、ある日自然に電気は点かなくなった。


冬は、ありったけの毛布や布団に包まって寒さに耐えたが、厳しかったのは夏の暑さだった。


風呂場の窓を開けて、なんとかそこで暑さを凌いだ。



あの人は、いつも香水をつけていて、いい香りがしたが、家に帰ると、いつも、私を臭い、と言った。



当然だ。


とっくにガスも点かなかったし、お風呂にはもう長い間入っていなかった。



子供ながらに、水で頭や体を拭いたり擦ったり、臭いと叱られないように努力したが、その水道もとうとう止まってしまった。



髪はもつれ、顔は薄汚れていたが、子供ながらに考えに考えて、とうの昔にサイズアウトした、洗濯もしていない洋服を代わる代わる着て保育所に向かった。


子供ながらに、なんとなく、そうした方がいい気がしたからだ。


保育所のトイレで顔を洗い、体をトイレットペーパーで拭った。



昼寝の時間に、先生がヒソヒソと私の相談をしていることも知っていたが、私が先生に話したとあの人に思われたどうしようと、怯えた。



そのうちに、同じ組の子供たちにも、臭いと言われ始め、一緒に遊んでもらえなくなった。



何もかも限界が来ていた頃、彼女に出会った。



学年が違う彼女は、園庭で遊ぶ時は必ず、私の側で遊んでくれるようになった。



トイレでは、さりげなくハンカチを貸してくれ、もう着られないから、とそっと着替えをくれた。



ほかの女の子達みたいに、高い声を上げて、引っ付いたりしてこないし、口数も少なく、穏やかでいつも少し離れた所から、私を見守っていてくれていた。



あの日。


あの人の迎えが遅かった、あの日。



彼女は、明らかに怒っていた。


大人たちをぐっと上目遣いで睨ミツコけて、怒りを隠そうともしなかった。



保育所の延長組の一室で、私をぐっと抱き寄せて、離さなかった。



そんなに人とくっついた事はこれまでなかったので、私は臭いのではないかと思って、心配していたのだが、彼女は、私の頭に鼻を埋めるくらいに強く抱きしめてくれた。



そして、絶対一緒に帰る、と大人たちに言い切ったのだ。



それから、彼女のお母さんが、携帯を持って外に出て、事が一気に進んだ。



夜、初めて、彼女と一緒に寝た時、あんなにゆっくり安心して眠れたことは、それまでなかった。


人肌に包まれて眠るということが、こんなにも幸せなものか、と思った。



あの柔らかい体の感触や、立ち昇る健康的な太陽の香りも、艶々とした黒い髪の毛も、凛々しい眉毛も、長い睫毛も、私を優しく見守る漆黒の瞳も、全てが私を虜にした。



その時からずっと。


私は彼女の一部になりたい、と思った。


世の中には、彼女さえいればよい、と思った。


執着、と言ってもよい。


ハウスで、オババが亡くなるだろうと、何となく思った時、私が真っ先に考えた事は、彼女と離れ離れになったらどうしよう、だった。



オババが入院したとき、ひどく胸騒ぎがした。


言うまでもなく、オババの事は大好きだった。


足の骨を折ったくらいで、命まで落とすとは誰も考えていなかっただろう。


ただ、いつのまにか、オババの目にはもう生気が感じられなくなった。



人間、目を見れば、大抵のことがわかるものだ。



怖かった。



彼女と離れて、またあの人と2人きりの生活になることが、途方もなく恐ろしかった。


もう彼女のいない世界は、想像がつかないほどだったのだ。



あの日、彼女が、彼女のお母さんと決別して、ここに残ると決めた時は、世の全ての神様に、お礼を言って回りたいくらい嬉しかった。



が、彼女の本心を見た瞬間、その喜びの一部は懺悔に変わった。



だから、せめて、私はここでは彼女を守るためだけの存在になろう、と誓った。


そして、彼女を守れるのは私だけだ、という優越感にしばしば浸った。





彼女のお母さんとは、ずっと連絡を取り合っていた。



おばさんは、しばらくの間、彼女の気持ちを変えようとずっとここに通い続け、その度に私が会い、話を聞き、彼女宛の手紙を受け取った。



生活の中で起こる細やかな出来事も、報告すると、喜んでくれた。


穏やかで、ユーモアもある。


おまけに私のことまでいつも気にかけてくれていて、会うたびに、この人が私の母親だったら、という気持ちになった。



いけないことだとは分かっていたが、手紙をこっそりと読ませてもらったことがある。


がしかし、読んでから、激しく後悔した。


そこには、ただただ母親の愛情しかなかった。


自分宛の手紙ではないという事実は、私を改めて惨めにした。


そして同時にこれを読むと、彼女は確実にここを出て行ってしまう、と焦った。


だから、どうしてもそれを彼女に渡すことは出来なかった。


罪悪感はいつもチクチクと胸を刺したが、それでも渡す事は出来なかった。



なんらかの事情で、間が空くこともあったが、それでも大量の手紙がコンスタントに届いた。


それらの手紙を時系列順に並べて、束にして、丁寧にリボンをかけた。



彼女はこれをいつか読むのだろうか、その時、私たちはどのようになっているのだろうか、と不安が頭を過ぎったが、それを振り払うようにして、毎日を過ごした。



時間が経ってからも、私はおばさんとは、定期的に携帯のメールでやり取りをしていた。


日々のことを報告し、彼女の写真などを添付すると、待ち受け画面に使うと丁寧なお礼がきた。



ある日、おばさんから私宛に手紙が届いた。


中には彼女名義のキャッシュカードが入っており、いつか機会があれは、彼女に渡して欲しい、と書いてあった。



私はそれも、手紙の束と一緒に保管することにした。



逐一報告してきていたが、それでもおばさんに報告出来ない事もあった。


あの日、彼女に起こった忌まわしい出来事もその1つだ。



あの男は、自分は誘惑されたのだ、といけしゃあしゃあとシラを切った。


痛みで顔をしかめながら、そのお粗末な股間を抑えつつ、被害者なのだ、と言い張ったのだった。


あの場であいつを殺さなかった、私の理性を褒めてもらいたい。



しかもあの女は、私の言う事には耳も貸さず、あのクズ男の話を全て信じたのだ。



生まれてから初めて私は、あんな大声を出した。


あんなにも怒りを露わにした事も、初めてだった。



私は、怒りに任せて、ここでの権力を最大限に使い、身包み剥がして、あの男を教団から追い出した。


彼女を守る為に、私はここで最強にならなくてはならない、とその時に気付かされたのだ。



あの日以来、私はあの女を、母と呼ぶ事を止めた。


もう誰かの陰に隠れて、コソコソと生きる事はやめたのだ。


最強になる為に、彼女を守る為に、ありとあらゆる手段を使おうと誓った。



公にはされていないが、現教祖の意識はもうない。


もうずっと植物人間状態で、屋敷の一室にて、ただ機械に繋がれて死を待っている。


私に初めて出会った時には、すでに目には光も力もなく、死相が出ていたのだ。


そして、彼自身も死期を既に悟っていた。


彼にとっては、教団を存続させる事が最後の望みだった。



皮肉な事に、私が強くなればなるほど、彼女との距離は遠くなっていった。


高校には通えず、教団の後継者としての役割が増えた。


それも大いに利用して、あの女の取り巻きの男たちを排除していった。



大概の男は、あの女よりも私を選んだ。


権力と若さ、が私にはあったからだ。



最も、あの女は薬物摂取の為に、既に脳が機能していなかったように思う。


薬物、酒、男、整形、ありとあらゆる物に依存していた。



なるほど、あの女はとても美しかったが、既にもう腐敗していたのだ。



あの日。


あの月の美しい、凍てつくように寒い二月のあの晩。



私は時間稼ぎの為に、見回り担当の男を、離れに連れ込んでいた。


ここでは話せない大事な話がある、と、困り顔で話しかけたら、ホイホイと着いてきた。


そして、強い酒をしこたま飲ませると、後ろ向きにバタンと倒れて、寝こけてしまった。



それから、本館に戻り、確実に彼女が屋敷を出た事を確認すると、警報ベルを鳴らした。


常駐している信者が複数駆けつけてきたので、事務所の奥の扉を指差した。



なかでは、薬漬けの女が、事の真っ最中だろう。


拘束して、中毒患者向けのリハビリ施設に連行するように指示した。


勿論、警察に連絡はしない。


教団のスキャンダルになる事は、揉み消す、これが今、代表としてのやるべき事だ。



薬と酒と大勢の男を繋ぎとめる為に、あの女は一体どれくらい使い込んだ事だろうか。



あの女が、母が。


とうとう萃にまで、粉を掛けてきたと知った時、心底ゾッとした。



萃がある日、お前の母ちゃんに呼び出し食らった、と言うので、嫌な予感がした。


そして、その予感は的中した。



指定された時刻に、萃の代わりに事務室まで出向いたら、ほぼ全裸に近い服装をした母が、机に腰掛けていたのだった。



私を見て、少しでも罰が悪そうな顔でもしてくれれば、まだ良かったのだ。


母は、涼しい顔をして、萃を呼べと言った。



もう、限界だ、と思った。



咄嗟に、萃との婚約をその場で決めた。


それから、あんたを追い出してから、自分も教団を出ると言い放った。



あの日、がっしり拘束されて連れてこられた母が、私を見たときの、あの顔を、あの言葉を、私は一生忘れる事はないだろう。



私には、もう母はいない。


とっくの昔から、いない。



あの女が勝手に私用していた金庫の暗証番号を、男から聞き出して、勝手に変えたのも、私だ。



金庫の中身を確認したところで、想定外の事に気がついた。


金庫内の現金が、そのまま残っていたのだ。



封筒の束と、彼女の母親が用意したキャッシュカード、そして卒業証書の筒のみが、持ち去られていた。


せっかく用意しておいたのに。



最後まで、瞳子ちゃんは、瞳子ちゃんだった。


不器用で、バカみたいに真面目で、だからこそ愛おしい。



腹が立って、思わず怒鳴ってしまったが、私の苛立ちは、彼女に聞こえただろうか、伝わっただろうか。



あの日、彼女に一緒にここを出ようと、と強く言われた時、嬉しさで打ち震えそうだった。


反射的に頷きそうになるのを、必死で堪えた。


ずっと一緒にいたかった。



彼女は、瞳子ちゃんは、私の全てだった。



でも、ここを出たところで、私は学歴もない、ただの“オカルト少女”に過ぎない。


彼女はきっと、私の為に懸命に働くだろう。



そして、それは誰も望む未来ではない。



萃も同じ思いで、ここに残ったのだと思う。



あの脱出の晩、再びこの魔の巣窟のような場所に、戻ってきた萃に驚いて、何で一緒に行かなかったのか、と尋ねると、萃は強い眼差しで、私にこう告げた。



今はその時ではないから。


独り立ちして、瞳子の隣に対等に立てるようになった時、俺は自分の意志でここを出て行く。


それまではここに、お前と一緒に、何とか踏みとどまる。



華もそうだろう?と言われている気がした。



そうだ。


私もいつか、ここを出て生きていける力を十分につけたら、その時は。


きっと。





因みに、金庫の暗証番号は、極めてシンプルだ。


なんて事はない。



瞳子ちゃんの生年月日。



そして、彼女は「金庫を開けた」のだ。


それが私にとって、どのくらい大きな意味を持つのか、きっと誰にもわからない。



コンコン、と扉を叩く音がして、



せんせーい、信者さん個室に入られました。


そろそろご準備をお願いします。


と、声が聞こえてきた。



はーい、参ります、と大きな声で返事を返して、新聞を畳み、立ち上がる。



やれやれ。


こんな20歳そこそこの小娘に、その倍以上生きている人間の人生、一体何がわかると言うのだろう。


と、つくづく思う。



入り口の向かいに立てかけてある大きな鏡の前で、軽く化粧を直して、部屋を出る。



一瞬、くるりと振り返り、鏡に映る自分を見た。




私は私の”強み”を知っている。





************************************************



「それにしても、すごい食べっぷりだな。」




繁華街を抜けて、ファミリーレストランに入った私たちは、着席するや否や、私はオムライスを、萃はシーフードカレーを注文し、私は、あっという間に、平らげてしまった。



萃のカレーはまだ半分くらい残っている。



「ここんとこ財政厳しくって。バイト代減っちゃって、貧しい食生活していたから。」



水をぐいっと飲み干して、空になったグラスに残った氷もガリガリと噛み砕いて、はははと笑ってみせた。



「バイトって、あの店の?」


萃は肘をテーブルについて、両手を組み、こちらをじっと見ていた。



「うん、そう。お客さん減っちゃって。ペナルティつけられちゃった。ははは。」


萃の視線に耐えかねて、私は視線が定まらない。



「おばさんのお金、ほとんど手をつけてないのか?」


ピクリとも動かず、萃は直球を投げ続けてくる。



「うーん、まあ…出来るだけ自分で、と思って…。」


私はなんだか、父親に叱られる小さな子供になった心境になり、うなだれて、視線をテーブルに落とした。


私には父親の記憶は全くないのだが、ふと、父親がいたら、こんな感じであっただろうと、思った。



お待たせしました、アイスコーヒーです、とウエイトレスが、食後のコーヒーを運んできた。



萃がコーヒーグラスを手に取り、ストローを使って一気に吸い上げた。



「ブラックで飲めるんだ。」


私が驚いて、素っ頓狂な声を上げると、



萃はぶっとコーヒーを吐き出しそうになり、俺を何歳だと思っているんだ、と笑いながら言った。



「あ、俺ね、今度兄弟が出来た。弟。まだ2歳。めちゃくちゃ可愛い。」


キラキラした目をして、萃が言った。



「え、もしかして、彩さんと佐々木くんの?」


思わず前のめりになってしまう。



「そうそう。お袋もようやく観念して。誰がどう見ても幸せにしかなれないのにな。」


そう言って、笑った目が優しい。



萃は続けて、今二人は、彩さんの故郷の瀬戸内海の島に帰り、佐々木くんは小さな診療所を開き、同じ軒下で、彩さんがこれまた小さな美容室をやっていることを教えてくれた。



医者も美容師も少ない、小さな島で、結構重宝がられているらしい。



「島のな、子供らが、びょういん?びよういん?どっち?って、何度も面白がって聞くんだ。」


笑いながら、萃が話すのを見ていると、この世はシンプルに平和で溢れている、そんな気持ちになる。



「お前の母ちゃんは、相変わらず意地っ張りだな。どう見てもお前とおばさんは、親子だよ。」


と、自然に、その優しい目のまま続けるので、そのまま素直に聞くことにした。



母は、今も独身のまま、一人で暮らしていること。


母の相手は、相変わらず、でもあくまで友人として、母の側にいようとしていること。



どちらの味方でもない、という風に、萃は淡々と話し続けた。


私は、黙って俯いたまま、それを聞いていた。



ストローの細長い袋は、持て余した手の動きに従い、幾重にも折りたたまれた。


萃は、私にどうすべきだ、とは言わなかった。



そのうちにどのタイミングで呼吸をすべきか、よく分からなくなって、私は度々、息を深く吸い込まなければならなかった。



もう限界、という絶妙なタイミングで、萃は今の自分の話をし始めた。



「俺ね、あれから猛勉強して。じいちゃん先生に教えてもらいつつなんだけど。今の大学に入ったんだ。」



あの勉強嫌いの萃が!などと、茶化そうかと思ったが、とてもそんな言葉は出てこなかった。


反対に頑張ったんだねぇ、という言葉も出てこなかった。


彼の頑張りが、薄っぺらくなってしまう、と、なんとなく思ったからだ。




萃は、私の大学から電車で1時間くらいのところにある国公立大学の農学部で、遺伝子を専攻しているとポツポツと話した。



そこは、なかなかの難易度の高い大学と学部で、居眠りの常習犯だった萃が、どれくらい必死だったのか、本当のところ想像がつかない程だった。



教会で農作業をしているうちに、農業や植物について興味が湧いたのだ、と、萃はとても饒舌に語った。



「今俺たちが食べている野菜なんかはさ、元々は野生の品種で、固かったり甘くなかったりしたんだろうな。それを長い年月かけてさ、今のように柔らかくて糖度の濃い品種に変えてきた訳だ。植物は奥が深い。人間ごときがその進化に手を出していいのか悩ましい。」



隣の席に運ばれてきた、サラダの皿をちらりと見た後、萃が言った。


「でも外界の料理は味が濃いな。」


「確かに。」


と私が頷いた。



少しの沈黙のあとに、



「華は…。」



と、私が切り出すと、



「あのな、髪をバッサリと切ってやった。見てみろ。ショートヘアの華だぞ?」



と、スマートフォンの写真を見せながら、


萃が自慢げに言った。



その写真は、ある日たまたま目にした週刊紙に載っていた華の写真と、同じくらいの髪の長さだった。


肩よりも短い、ショートボブで、華らしくなくて、意外ではあったが、とてもよく似合っていた。



変わらず美しいが、何かが決定的に違うようにも見えた。



写真の向こうの華は、笑っていた。



水をガブリと飲み干してから、さてと、萃が伝票を掴んで席を立った。



教会のご飯は、なんやかんや言っても、繊細で美味しかった。板前のおっさんは、問題あったけど、料理の腕は本物だったよな、などと話しながら、私たちは店を後にした。






 外に出ると、すでに夜中を過ぎていた。



アスファルトは未だ熱を帯び、外気は湿気が多く含み、体に纏わりついた。


風でも吹いてくれるといいが、まだ生憎の凪状態だ。



前を歩いていた萃が、おもむろに私に手を差し伸べて、荷物を持つという。



そう言えば、今日はバッグが教科書と資料でパンパンだった。


レポートの締め切りが近いため、バイトの空き時間にこなそうと思っていたが、予想外に客入りが多く、今日の休憩時間はなかった。



大丈夫、と私は笑って断った。



この手のスマートな断り方を、私は知らない。



そうか、と言う言葉と裏腹に、萃は片手でバッグのハンドルを掴み、もう片方の手で、私の指を一本ずつ優しく外した。


そして、右肩に鞄を担ぎ、左手でそっと私の手を握った。



荷物と大差ないだろう?と、振り返って、笑う。



少しだけ、風が出てきた。


町外れの街灯には、無数の蛾が群がり、鱗粉が光に当たり、キラキラと光っていた。



10メートル程先の国道の横断歩道の信号がチカチカと点滅を始めた。



「走るぞ!」


萃が言い、私たちは走り始めた。



いつかとまるで逆だ、と走りながら、私はそう思った。



保育所の帰り、いつもは私が萃の手を引いていた。


そして…もう片方の手には、いつも華の手があった。



赤信号に変わり、後ろを車が走り始めた時に、萃が言った。



「俺、就職先決まったんだ。来年の春から社会人だ。」


少し息を切らせながら、おめでとう、と言おうとした瞬間、遮るように、萃が続ける。



「本当は会いに行くのは、華に…卒業まで待てって、言われたんだけど。でも、どうしても我慢出来なかった。」



萃は、少し笑いながら、途切れ途切れに話す。


今、彼はどんな顔をしているのだろう。


少し先を歩く、萃のその顔は見ることが出来ない。



「実は大学に受かったばかりの時も、瞳子に会いに行ったんだ。遠くから見るだけだったけど。」


と、今度は恥ずかしそうに、少し小声になって萃が言う。



あっ、と閃く。



「自転車のサドル?!」



萃がくるりと振り返り、親指を立てて、ニカッと笑った。


「大丈夫だ、合法に入手した」



あのな、俺な、と萃が早口で続ける。


「かなりバイトをしているから、少しは貯金がある。もちろん俺も奨学金の返済はあるが、早々に返せそうだ。」



そして、大きく息を吸って、一気にこう告げた。



「春になる前に、お前の大学に近くに、少し広めの部屋を借りる。まあ、なんとでもなるさ。」



そして今度は、立ち止まり、少し屈んで、私の顔をじっと覗き込んだかと思うと、真っ直ぐに私の目を見てこう言った。



「お前には、母ちゃんもいる。俺もいる。華もいる。お前は独りじゃない。瞳子、そうだろう?」



泣く予感など全くしなかったのに、不意を突かれて、思わず涙が溢れた。



あのね、私ね、お母さんを、誰にも取られたくなかったの。どうしても嫌だった。


でもね、お母さんには、幸せになってほしかったの。


あの時ね、どうしていいのか、わからなくて、逃げたの。



こんな子供のような事を言ったら、笑われるだろうか。



無言で、萃の手をぎゅっと握りしめると、萃が握り返してくる。


萃のカサカサの節の太い指が、しっかりと私の指を包む。



そして、私たちは、ゆっくりと歩き始めた。



足元がふわふわとしている。


まるで、夢と現実の狭間を歩いているかのようだ。


半歩先を行く萃の白いシャツが、暗がりにぼんやりと浮かんで見える。



私は、ゆっくりと後ろを振り返った。



不意に、瞳子ちゃん!おんぶ〜!と華の甘えた声に続いて、母親達の、子供達だけで横断歩道は絶対ダメダメ!という声が聞こえた気がする。



ジジジジ、と、寝とぼけた蝉が鳴いた。



私は前を向き、再び歩き始めた。






**************************************************

エピローグ





○月×日


瞳子へ。



元気ですか?


何はともあれ、高校入学おめでとう。



華ちゃんが、詳しく、貴方達の日常について、手紙で報告してくれています。


少し安心しました。


こちらは、桜がもう散りかけています。


まだ時折寒い日があるそうなので、油断せずに。


身体に気をつけて。



母より。




○月×日


瞳子へ。


元気ですか?


私は相変わらずですが、白髪をこの間何本も発見して、少しショックを受けています。


今は会社の独身寮に住んでいます。


私の周りは、見事に若い女性ばかりで、ジェネレーションギャップを感じざるを得ませんが、開き直って若者の文化を学んでいます。


雑誌とか、雑貨とか、ファッションとか。


いつか貴方と会えた時に、話が出来たらどんなに楽しいだろう、と思います。


だから白髪ごときに怯んでなど、いられないのです。


今は何が楽しいですか?


あっちゃん、華ちゃんとは仲良くしていますか?



もうこんな時間だ。


早く寝ないと、白髪どころじゃ済まないので、そろそろ休みます。


瞳子もよく休んでください。


母より。





○月×日


瞳子へ。


華ちゃんから、瞳子は今、少し元気がないと手紙を貰いました。


詳しくは書いてなくて、内容はよく分からなかった。


一人で解決しようなど、決して思わないで、信頼できる大人に相談しなさい。


きちんと食べていますか?よく眠れていますか?


心配しています。


母より。



○月×日


瞳子へ。


もう立春はとうに過ぎたというのに、まだまだ寒いですね。


こちらでも雪が積もりました。


風邪など引いてはいませんか?



そうそう、私はこないだようやくスマートフォン、なるものを入手しました。


まだまだ使いこなせてはいませんが、最近は専ら、華ちゃんとは携帯で連絡を取っています。


さて、華ちゃんから、瞳子が希望の◯◯大学に合格した、と連絡がありました。



心からおめでとう。


勉強が難しい生活の中で、難関を現役合格。


どれだけ努力をしたことか、と思います。


身体に気をつけて。


母より。




○月×日


瞳子へ。


今日は会社の飲み会に、珍しく参加して、今帰ってきたところです。


空きっ腹にアルコールを飲んだので、かなり酔ってしまいました。


私がお酒を飲む姿が本当に珍しかったらしく、その場にいた人が驚いていました。


と言うわけで、この手紙は酔っ払いの手紙です。



昨日、華ちゃんが、大泣きしながら電話を掛けてきました。


華ちゃんは、これまで私が貴方に宛てた手紙を貴方に渡せなかった事を私に謝ってくれました。


私はなんとなくそんな気もしていたし、寧ろその方が良かった、と彼女を慰めました。


実は彼女の気持ちもよく分かるのです。


それに、私の手紙なんて、日記のようなものだから。


酔っ払いなので、支離滅裂になっているね。


大丈夫かな。



私は、あの日の晩に時計を戻す事が出来たら、と何度も思ってきました。


もしも、やり直して、間違いを正す事が出来たなら、今もこの瞬間、あなたは私の元でスヤスヤと寝息を立て、眠っていただろうか、と。


そんな事を考えると、まだ小さかったあなたと、鼻と鼻を犬のようくっつけて、手を握り合って眠った事など、次々と思い出してしまうのです。



ああ、トコちゃんに会いたいなあ。会いたいなあ。


この両手であなたの頬を挟んで、しっかりと顔を見たいなあ。



さて…、酔っ払いは水をコップに一杯飲んでから、酔い覚ましに、近くのポストまでこの手紙を出しに行く事にします。


夜更けの、おまけに酔っ払いの手紙など、きっとろくな物ではありません。


そして、この手紙はどこに届くのでしょうか。



まあ、それもまた一興かな。


母より。




○月×日


瞳子へ。


大学入学、おめでとう。



怒らないで聞いてください。


今日、私はこっそりとあなたの大学の入学式に行ってきました。


寮に住む女の子に聞いたら、大学の入学式に親はあんまり来ないものだ、と聞いたのだけれど。


それでも、高校の入学式も卒業式にも行けなかったのだから、と、自分に言い訳しながら、会社を休んで行きました。


大勢の学生の中で、あなたをようやく見つけた時に、私は思わず叫びそうになり、慌てて口を押さえて堪えました。


そして、胸の前でぎゅっとハンカチを握りしめていました。



瞳子。綺麗になりましたね。



ほかのお嬢さんに比べて、普段着で化粧っ気も全くなかったけれど、私にはあなたにだけ、スポットライトが当たっているように見えました。


姿勢よく真っ直ぐに前を見つめる様子は、自信に満ち、とても凛としていて、本当に美しかった。



本当におめでとう。


まだまだ花冷えする季節です。


お腹を暖かくして、 風邪など引かないように。



追伸


この手紙は、萃くんに託す事にしました。


いつか、あなたの元に届きますように。


母より。





















私は、母である事を、諦めない。







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