302 炎の開幕
ちょい長めです
《――さあ、始めようか……人の娘よ――》
「ええ……始めましょう」
暗闇の中、くぐもった低い声のような思念に、静かに……でも確かな覚悟を秘めた少女の声がそれに応える。
その瞬間、炎が噴き上がる。篝火のような小さな炎ではない。触れたら即座に万物を滅ぼし、焼き尽くすかの如き熱量を放ちながら、その炎は鮮烈なまでの輝きと生命力に満ち溢れて天に噴き上げた。
その炎と共に飛び立つ巨大な鳥……いや、真紅の鱗に巨大な翼をはためかせた、一体の〝竜〟が、炎を纏いながら星空を舞う。
そしてその背に……。
「ああ、良い月ね……」
真紅のドレスを纏う、うねる黒髪を靡かせた一人の少女を乗せて……。
***
「いつまで、こんな場所に閉じ込めておくつもりだ」
豪華な室内の中で、苛立ちを隠すこともなく低い唸り声のような声が響く。
ファンドーラ法国、聖都ファーン。
このサース大陸における最大宗派、『聖教会』を統括する本殿がある場所で、見方を変えれば〝聖都ファーン〟そのものが〝聖教会〟の施設そのものであった。
その都市の中で一際大きな建物が、サース大陸聖教会の本殿である神殿であり、ファンドーラ法国の城であると共に、教皇のおわす場所である。
教皇は齢九十を超えるとされ、存命ではあるが数年ほど公に姿を見せていない。
ゆえに現在は数名の枢機卿の意思決定によって、サース大陸聖教会は運営されており、その一人である枢機卿クロフォードは、勇者死亡の〝原因〟を特定するまで関係者を外に出そうとはしなかった。
「すまない、ドルトン殿……。私も今は権限を剥奪され、今はまだ貴殿らを自由にさせることができない」
関係者の一人、勇者に同行していながら、その場に立ち会うことのできなかった、神殿騎士のヴィンセントが眉間に皺を寄せながら謝罪する。
「…………」
ドルトンも山ドワーフながら貴族の一人だ。内部のしがらみで動くことのできないヴィンセントの事情も理解している。
だが、ここで彼の謝罪を受けることはできなかった。謝罪を受け入れることは、仲間が受けている状況を容認することになりかねないからだ。
仲間であるアリアは現在、重要参考人として軟禁されている。
彼女がそれを受け入れているのが、国家の……王太女殿下のためであると分かっている以上、ドルトンも下手に動くことはできない。
この状況を一番納得していないのはアリアのはずだ。アリアが行動するには何かしら事態が動く必要があった。
それと他の仲間のためでもある。アリアが軟禁され、スノーが行方不明となっている状況で、焦燥感を覚えているのはドルトンだけではない。
同じ部屋で武器を取り上げられ、ただひたすら傷と疲労を癒している仲間たちの我慢も限界であり、ドルトンが確固たる意思を示さなければ、フェルド、ミランダ、ジェーシャの三人は、聖教会と事を構えてもアリアとスノーのために行動を始めるだろう。
「もう少し待ってくれ……」
ヴィンセントもそれが分かっているからこそ、ドルトンの態度に思うところはなかった。彼自身も勇者の死亡原因はその性格にあると感じており、それを証言しようにも、彼は今、その機会を奪われている。
勇者の死の原因が本人にあるとすれば、彼を自由にして、好き放題させていた世話役である枢機卿クロフォードの責となるからだ。
クロフォードは自分以外に責任の所在を求めており、彼と同様に信仰ではなく権力によって重職に就いている貴族たちは、彼に同調し、クレイデール王国と険悪になってでも、強引な手を打とうとするだろう。
希望はある。彼の人物がいれば、それらを覆すことができるかもしれない。しかし、ナイトハルトの態度を見ればその望みも叶うか定かではなかった。
このままでは、クロフォードの意思を無視して、保身に走った貴族たちが、勇者の同行者たちを手に掛けてでも事を無かったことにしかねない。
聖教会がそこまで愚かではないと思いたいが、貴族派の上層部ほど腐った者が多いのは確かだった。
神殿騎士は中立の者が多いが、貴族出身の神殿騎士の思想までは分からない。
権限を奪われてもヴィンセントには名声があり、彼がこうして〝虹色の剣〟の所へ通っていれば、最悪の事態を防ぐことはできる。だがそれも長い時間ではない。邪魔となれば、ヴィンセントも暗殺されるかもしれないからだ。
いっそのこと、危険を承知でこちらを襲わせるか、とヴィンセントは考えるが、彼はすぐに自らの愚かな考えを否定する。
その襲撃が公になれば、アリアも〝虹色の剣〟も外に出ることができる。他国の貴族を襲ったとなれば、クレイデール王国を批判することも難しくなるだろうが、それは危険な賭けだ。
自分だけ死ぬのなら諦めはつくが、それに〝虹色の剣〟を巻き込むことはできない。
ドルトンたちの実力は知っているが、サース大陸最大宗派である聖教会の保有戦力は大国に劣らず、信仰のためなら命を捨てるような〝教育〟をされてきた、実戦部隊も存在するからだ。
聖教会の歴史は暗闘の歴史だ。正しい教えを広め、人々を導くためならあらゆることが認められるのだ。
事態が動くのが先か、こちらが先に動くべきか、ヴィンセントは悩みながらも保険を掛けておくことにする。
「この館の警備状況はどうなっている?」
「ハッ。通常の警備に加え、神殿騎士と警備兵が配置についておりますっ」
ヴィンセントの問いにこの部屋の監視役である、若い神殿騎士が答える。
この神殿騎士は、ヴィンセントや〝虹色の剣〟に敬意は払っていても味方ではない。彼は聖教会の信奉者であり、ヴィンセントの問いに答えても、ドルトンたちの前で人数や配置までは話そうとしなかった。
その模範的な騎士の言葉にヴィンセントは難しい顔で頷く。
「見たところ、二つ下の階は窓がなく暗いな。重要なところはランタンを増やしておいたほうが良かろう」
「ハッ。了解であります」
そんな彼らのやり取りを見て、ドルトンが無言のままソファーで菓子を齧っていたミランダを見ると、彼女は目配せだけで合図をして、指先を小さく動かした。
フェルドは目を閉じて腕を組んだまま動かず、部屋の隅で腕立て伏せをしていたジェーシャは話を聞きながらも運動を続ける。
いつでも動ける準備はできている。
何か切っ掛けがあれば、彼らはすぐにでも行動を始めるだろう。
そして、それは唐突に始まった。
「……伏せてっ!」
部屋にあるランタンの〝炎〟が揺れると同時に、何かに気づいたミランダが声を張り上げ、ソファーから滑り落ちるように身を伏せる。
反射的にフェルドとドルトンが頭を下げ、彼らを信じたヴィンセントが咄嗟にしゃがみ込むと同時に、室内の北側にあるロンデル窓が割れ飛んだ。
その一瞬後に響く破砕音と振動。揺れる室内を熱気を帯びた突風が吹き荒れ、唯一躱すことのできなかった若い神殿騎士が、玻璃片をもろに受けてのたうち回る。
「何があったっ!」
突然の事態にドルトンが声を張り上げる。
直接攻撃を受けたわけではない。もし火魔術の攻撃を受けたのなら、伏せる程度で躱すことはできないはずだ。
「窓の外を見ろっ!」
フェルドが武器代わりに叩き折った椅子の脚を構えて、窓のほうを向きながら声をあげる。
その言葉に腕立て伏せをしていたため、直撃は避けられたジェーシャが背中や頭に被った瓦礫を払うように飛び起きて、窓の外を見た。
「なんだ、ありゃ……」
離れた場所に見える聖教会の本殿が燃えていた。
その瞬間にも巨大な建物から何かが炸裂するように炎が噴き上がり、真っ赤な翼を広げた〝竜〟が飛び上がる。
その背に……真っ赤なドレスと黒髪をはためかせた一人の少女を乗せて。
***
それが来襲する少し前、枢機卿クロフォードは自派閥の貴族や高位神官たちを集めて、会議を行っていた。
「ナイトハルトが生き残ったゆえ、すでに勇者死亡の件は、エルド大陸の〝聖域〟に伝わっていると考えたほうがよかろう」
「いずれは知らせないといけないとは言え、時間がないのは厄介ですな……」
「それよりも責任問題を……」
彼らはずっと埒が明かない議論ばかりを繰り返していた。
〝聖域〟とは千年前にサース大陸に渡ってきた聖教会、その宗派が始まった場所を指す、この世界すべての聖教会を統括する総本山の総称だ。
このサース大陸のファンドーラ法国がこちらの宗派を統括しているが、あくまでサース大陸の本殿であり、それは大陸ごとに存在する。
千年も経てばもはや別の宗派となってもおかしくはないが、〝聖域〟はそれを認めることなく、影響を及ぼし続けてきた。
それは、『勇者』や『神聖騎士団』という戦力による粛正だった。
勇者クラインがサース大陸に送り込まれたのは、確かにクラインの受けた神託が理由ではあるが、サース大陸聖教会が独自の教義を作ってないか、独立する気配はないか、〝聖域〟が牽制する意味もあったはずだ。
勇者の死が勇者個人の暴走であったとしても、戦力を殺された〝聖域〟はそれをサース大陸聖教会の叛意と捉えかねない。
レベル4以上で構成される神聖騎士団が派遣されることになれば、実際には違ったとしても、他の大陸聖教会への見せしめとして、クロフォードとその派閥の者は粛清されることになるだろう。
それを防ぐためには、〝聖域〟より神聖騎士団が派遣される前に、枢機卿クロフォードの一派が、勇者殺害の犯人を倒す必要があった。
アリアを軟禁しているのも彼女を犯人にするためではない。
初期の頃なら目撃者を犯人に見立てて処刑する方法もあったが、ナイトハルトが真犯人を目撃したことでそれはできなくなった。
そこでクロフォードの一派は、アリアという勇者クラインが仲間候補として認めた〝英雄級〟の戦力を当てにしはじめた。
アリアの身柄と引き換えに〝虹色の剣〟に協力させ、ナイトハルトが犯人を倒す前に戦わせる。だが、それも確実な策ではない。政治面で枢機卿となったクロフォードの派閥は、保有する戦力が足りていなかったからだ。
いっそのこと英雄級であるアリアを〝聖域〟に献上することで、粛清を免れるかもしれないと考える者もいて、何も決まりそうになかった。
――……ドンッ!!
「な、何事だっ!?」
突如襲ってきた突き上げるような振動に、椅子から滑り落ちたクロフォードが喚き立てる。転げ落ちずに済んだ派閥貴族の一人が事態を把握しようと、何気なく窓のほうへ向かった瞬間……。
ゴォオオオオオオオオオオオッ!!
窓の外から吹きつけた炎が窓ごとその貴族を吹き飛ばし、一瞬で絶命した男だけでなく、すべての窓を粉砕して窓際の席にいた貴族や高位神官たちを炎が舐め尽くす。
「ぐあぁあああっ!?」
幸運にも上座にいたクロフォードは熱風に炙られるだけで命を拾い、吸い込んだ熱で焼かれる咽の痛みに苦しみながらも、涙で滲む彼の目は、窓の外を舞う真紅の〝竜〟の姿を映した。
***
「行くぞっ」
叫ぶことなく低く号令を出すドルトンの声に、仲間たちが無言で頷く。
部屋を出る寸前、倒れた神殿騎士を光魔術で治療するヴィンセントと頷き合い、ドルトンたちは真っ直ぐに階下へ向かう。
館の中は混乱して、ドルトンたちに構うどころではなかった。
竜が襲ってきたとの声が聞こえる。神殿騎士たちは外へ向かい、使用人の信者たちが慌てた様子で逃げ惑う中、おもむろに廊下を照らすランタンの一つに近づいたミランダは、そこから噴き上げた小さなトカゲのような火精霊に小さく礼を言う。
「ありがと……やっぱり二つ下の階、一番奥の部屋に私たちの装備があるわ」
「了解だ。急ぐぞ」
ヴィンセントの言葉から手がかりを得たミランダは、火精霊を通じて二階下の部屋を確認していた。
建物の中では風や土の精霊は使いづらい。森エルフは火精霊と親和性は低いが、百年も人族の中で暮らしていたミランダは、火の精霊魔法は使えなくても、焼き菓子屋の火精霊と懇意の仲にある。
「ジェーシャ」
「任せろ」
ドルトンやミランダたちが周囲を警戒し、山ドワーフのジェーシャが鍵の掛かった扉を前にして、力任せにノブを引き千切る。
「いいぜっ」
真っ先にそこへ入ったフェルドが、多くの武器が並べられている中で迷うことなく木箱へ向かい、そこに入った己の武器を掴み取った。
「暴れるな、こらっ」
闇竜の角から作られた大剣が同族の気配に振動し、フェルドを戦いに駆り立てる。
この部屋の前に来たときから竜角の大剣は、所有者であるフェルドへ殺意のような波動を送っていたのだ。
所有者以外は鞘から引き抜くことさえ出来ない闇竜の武器。
「アリアの所へ連れて行ってやる」
誰もが触れることさえ躊躇うような剣呑な気配を漂わせていた二つの短剣は、同じ種の武器を持つフェルドの言葉に、納得するように持つことを許してくれた。
各自装備を取り返し、外套を纏った〝虹色の剣〟は、誰にも咎められることなく館から出る。
「アイツが何処にいるのか分かるか?」
ドルトンがミランダに訊ねるが、彼女は小さく首を振る。
これだけ炎があれば火精霊なら分かるかと思ったが、ミランダが言うには火の精霊が溢れすぎて、ミランダでは判別できないらしい。
「あっちだ」
「分かるのか?」
フェルドの呟きにジェーシャが不思議そうに彼の手元を覗き込む。
「ああ、こいつらが教えてくれる」
フェルドの手の中では、布にくるまれたままの二つの武器が、震えるように〝主〟の方向を教えていた。
民が住む、街のある一般区域からは離れているが、聖山の麓には聖教会の施設や貴族の館があり、多くの人が暮らしている。だが、白を基調として造られたその区画は今、炎と煤で地獄のような有様に変わっていた。
茜色に染まる曇天の夜空を舞う真紅の竜。それが容赦なく炎を浴びせていく中、空より降る稲妻が狙い澄ましたかのように重要施設を撃ち抜いていた。
逃げ惑う人々の悲鳴。炎や稲妻に焼かれた騎士たち。飛竜を想定した弩弓や魔術も、空を舞う竜には届かない。
街のある区域へ逃げようとする人波を掻き分けるように、〝虹色の剣〟は神殿近くにある半壊した石造りの建物へ向かう。
そして……。
「アリアっ!」
半壊して壁が消失した部屋の中でアリアは怪我一つなく、遠くへ飛んでいく火竜……その背にいる〝少女〟を険しい顔で見つめていた。
「スノー……」
竜と共に聖教会を襲撃したスノー。
彼女と竜の思惑は?
次回、ようやくスノーパート!





