211 悪魔の影 中編
中編です。
カカカッ――と、ビビの貌をした〝悪魔〟が嗤う。
生きる者の声ではなく、まるで髄の詰まった骨を打ち鳴らすような嗤い声に、クララと側近たちは怖気が奔るような感覚を得た。
悪魔とは生きる者の天敵だ。亡者のように生者を恨み、生きていることへの妬みで生者を襲うのではなく、悪魔は生者の負の感情と負に染まった魂を食らう。
故に生者は悪魔を恐れる。それは生や死の問題ではない。尊厳ごと貶められることへの本能的な恐怖に魂が怯えるのだ。
「皆、離れなさい! 【火矢】――っ!」
全員が怯えて硬直する中、異界の魂を持つクララだけが行動を起こせた。
ただの転生ではなく、異界から記憶を失わずにいた魂は、その知識ゆえに人を殺せないなど弊害が出るが、二つの異なる人生を経験した魂はそれだけ柔軟性があった。
ボォンッ!
――カカッ――
クララの放った【火矢】を受けた悪魔がビビの貌を歪ませて嗤う。
悪魔は精霊と同じ精神界の住人だが、精霊がその属性である水や土を依り代にするのと違い、人の血肉を依り代とする悪魔は、精霊よりも物理攻撃が効きやすいと言われている。
それでも魔力が伴わない攻撃は効果が薄く、それに物理と魔力の破壊力が高い火魔術を使ったクララの判断は間違っていないが、ランク2程度の魔力では悪魔を傷つけることもできなかった。
だが、それでも――
「――このクソやろう……っ」
最初に窓ごと吹き飛ばされたドリスが、自らの怯える魂を鼓舞するように吼えた。
それに呼応するようにヒルダとハイジもクララを庇うように立ち上がり、クララの起こした行動は、人の心に悪魔の畏怖に対抗する意志を取り戻した。
「ハイジっ!」
ヒルダの声に頷いたハイジが魔術の詠唱を始める。
だが、行動そのものが魔法的要素を持つ悪魔に対して『詠唱』という行為そのものが致命的だ。それ以前に三属性である魔力値の高いクララの火魔術が効かない状態で、何ができるというのか?
――カカカッ――
悪魔が黒い靄の身体を広げるようにして、もう逃げ場はないとハイジたちの行為を嘲笑う。まだハイジの詠唱は終わっていないが、それでも悪魔が魔術を無視しきれず、ビビの歪んだ貌をハイジに向けたそのとき――
「――【浄化】――っ」
ヒルダの陰で魔術の構成をしていたクララの光魔術が悪魔に放たれた。
光魔術の【浄化】は穢れた魔素である〝瘴気〟を浄化する。それを力の元とする悪魔は一瞬怯んだ様子を見せたが、即座に光の魔力ごと引き裂こうと黒い靄を巨人の腕の形にして殴りつけた。
「させるかぁああっ!」
クララを襲った巨人の腕からドリスがクララを抱えるようにして飛び退き、悪魔の攻撃がテーブルを床石ごと粉砕する。
ドゴォオン!!
光と瘴気がせめぎ合い、打ち砕かれた粉塵が晴れると、悪魔の前にクララたちの姿はなく、ただ破壊された扉だけが揺れていた。
『…………』
それを見て悪魔はビビの顔をぐにゃりと歪ませると、黒い靄を再び巨人の腕に変え、壊れた扉と壁を粉砕して外に出た。
*
「――くっ」
「――【浄化】――」
悪魔の攻撃を受けたドリスの腕をクララが水魔術で洗い流し、すぐさま【浄化】で傷を清める。
「……なんて酷い」
ドリスの腕は悪魔の攻撃が掠めただけで焼け爛れていた。おそらくは瘴気の影響か、一度の【浄化】では瘴気を浄化しきれず、その状態では治癒魔術の効果も薄い。
触れただけでダメージを受けるような悪魔を相手にして、それだけの被害で済ますことができたのは、各自が自分の役割に徹したからだ。
ハイジが呪文を唱えていたのは悪魔を攻撃するためではなく、初めから退路を確保するため扉を破壊することだった。それを〝予見〟によって理解したクララが、気を逸らした悪魔に浄化を使い、その隙にハイジが【石弾】で破壊した扉から退避した。
「ダンドール様っ!」
「何事ですか!?」
物音を聞きつけた第五騎士団の女性たちが駆けつけてくる。派手な音を立てたのも彼女たちに知らせる理由があった。
「悪魔が現れましたっ。至急、近衛騎士団に連絡を。すぐにあれが来ますっ」
いまだこの王太子妃宮の主ではないが、筆頭婚約者であるクララの言葉と、その側近であるドリスの怪我を見て女性騎士たちが息を呑む。
第五騎士団は建国時より存在する由緒ある騎士団だ。騎士団と言っても過去はもとより現在でも百名足らずの騎士しかいないが、それは騎士団の全員が女性騎士であり、要人警護を主な任務としていたからだ。
だがそれは、下卑た貴族が想像するような騎士爵令嬢の腰掛け的な意味ではなく、王妃と王女を護り、賓客を警護する王国の顔として全国から選抜された、戦う女性たちの憧れの部署であった。
実力で選ばれた彼女たちの総合的な戦力は近衛騎士に迫るとされ、近衛騎士や暗部騎士と並ぶ、王国の虎の子とも言える存在だった。
「「「はっ!」」」
女性騎士たちがクララの意志に応える。王太子妃宮を護る彼女たちは、クララが婚姻前にここに滞在している原因が魔物であると聞かされていたが、情報漏洩を恐れた上層部により『悪魔』であるとは知らされていなかった。
だがそれを知ってなお、第五騎士団の彼女たちは未来の王妃を護るため、顔色を悪くしながらも、その命を懸けると覚悟を決めた。
「来るぞっ!」
誰かの声に隊長らしき女性騎士たちが前に出て、片腕で短剣を構えるドリスに並び、彼女の前を遮るように声を掛けた。
「そちらの方! この事を私たちの団長と近衛騎士にっ。装備は大盾と槍、光魔術師を全員招集とお伝えくださいっ」
「私もまだ――」
「ドリスっ、その怪我じゃ邪魔よ! 私たちもクララ様をお守りしながら下がりますから、あなたが騎士団に伝えなさい!」
「く……分かったっ」
ヒルダの言葉に、戦力としての優先度を理解したドリスが反対側へと走り出す。それと同時に通路の向こう側から、廊下を埋め尽くすようにビビの貌を張り付かせた黒い靄が迫ってきた。
「撃て!」
「――【跳水】――!」
「――【火矢】――っ」
「――【風刃】――っ」
その黒い靄に向けてクララたちや騎士たちから攻撃魔術が放たれる。次々と撃ち出される魔術が悪魔を撃ち、一瞬怯んだように動きを止めた悪魔の顔が、ビビの顔からひび割れた石の仮面に変化した。
「効いているわっ!」
「待ちなさい!」
クララの制止を聞かず、一人の若い騎士が剣を構えて飛び出した。だが――
「団長っ!?」
悪魔の仮面が再び人の顔になり、それを見て驚きの声をあげた女性騎士を、悪魔の豪腕が壁に叩き付けるように押し潰した。
――カカッ――
おそらくは第五騎士団の団長の顔をしているのだろう。その顔が粘土のように歪んだ笑みを作ると、押し潰した壁の隙間から大量の血がこぼれ落ちた。
『――カンロ――』
「下がりますっ、急いで!」
その〝食事〟に硬直する騎士たちにクララが叫ぶように命じた。
「で、ですが、あの悪魔が――」
「すぐに追ってはきません! 早く!」
「……ハッ! 総員、ダンドール様をお守りしつつ撤退!」
仲間を殺した悪魔を睨みながらも、最初に前に出た隊長らしき女性騎士が他の騎士たちに指示を出す。
足止めをしなければ追いつかれる。――そう考えて騎士の誰かが犠牲になることも考えたが、実際に撤退を始めても悪魔はすぐに追ってこなかった。
「ダンドール様……」
撤退しながらその理由を隊長が問うと、クララが血の涙を流した片目を押さえながら言葉を漏らす。
「あの悪魔は、私たちで〝遊んで〟いるんです。人の恐怖を食らうために……」
悪魔は人間の負の感情を食らう。正当な術者に召喚された悪魔なら『制約』があり、仕事を優先するためそんな真似はできないが、もしクララの〝予見〟どおり、【加護】として使役するだけの力を与えられたのなら、最終的な目的以外、ほぼ制御されていないことになる。
「王太子妃宮の中庭へ! そこで応援が来るまで対処します!」
「ですが、追ってこないのならこのまま騎士隊の所へ向かっては?」
そちらなら近衛騎士もいる。おそらくは完全ではないとしても、対悪魔用の備えも始めているはずだ。
だがクララは隊長の言葉に小さく首を振る。
「たぶん、そこが限界です。それ以上離れると、あれは本気で襲ってくるでしょう」
クララは〝予見〟にて複数の未来を演算したことで、悪魔の動きやその行動原理までも演算できていた。
あくまで確率の高い答えでしかないが、あの悪魔が『招かれる』ことで王太子妃宮に侵入できたのなら、それが簡易的な『契約』と仮定すると、あの悪魔が万全の力を振るえるのは王太子妃宮の敷地内に限定されるはず。
だからこそクララが王太子妃宮にいるうちは、悪魔は本気を出さない。クララの魂が絶望に染まるまで、悪魔は虎がウサギをいたぶるような攻撃しかしないはずだ。
クララが悪魔から生き残るには、それだけが唯一の希望だった。
「来ましたっ!」
クララたちが中庭に辿り着くと、さらに途中でドリスが声を掛けたのか、平服ながら大盾と長槍を持って仮眠を取っていた騎士たちも駆けつけてくれた。
そのわずかに気勢があがる中で、わずかな魔術光の明かりだけが照らす中庭に、クララたちを追ってきた悪魔が闇夜から舞い降りる。
もはや騎士団長と認識できないほど歪んだ顔が嗤う。悪魔が触れた庭の草木が瘴気に腐って異臭を放ち、その瞬間に身じろいだ騎士の一人を悪魔が巨人の腕で掴み取る。
「ひっ――」
悪魔はそのまま、雑巾を絞るようにその騎士をねじり潰した。
「悪魔から目を逸らしてはいけませんっ!」
思わず目を背ける若い騎士たちにクララが声を掛ける。
悪魔と戦うためには恐れてはいけない。だが、そんなことは常人には不可能だ。それでもクララは〝時間を稼ぐ〟ために……そして自分を鼓舞するために声を張り上げた。
「あれはドッペルゲンガーです! あれの強さは普通の悪魔に劣りますっ!」
ドッペルゲンガー。二重存在、分身などと呼ばれる〝誰か〟の姿を真似る悪魔だ。人の不安と猜疑心を煽る悪魔だが、クララの〝予見〟は、あの存在をそう判断した。
ドッペルゲンガーの戦闘能力は擬態するものに依存する。だからこそあの悪魔は、簡易契約をして力を万全に振るえる状況を作り出した。
だが、ドッペルゲンガーが強くないとしても、それは他の悪魔に比べての話であり、その実力は普通の人間など歯牙にも掛けないほど掛け離れている。
クララは【簡易鑑定】を使えるが、悪魔の力を視ることができなかった。それはクララの戦闘経験が乏しいことで悪魔の力を測ることができなかったからだ。
だがおそらくは上級悪魔……。その戦闘力は最低でも2000、依り代を得て解き放たれた悪魔なら4000を超えるだろう。
「とにかく時間を――」
さらに指示を出そうとしたクララが目を押さえて膝をつくと、側にいたヒルダが慌てて駆け寄った。
「クララ様っ、それ以上〝予見〟をお使いになるのはおやめください!」
クララは片目だけでなく両目から血の涙を流しながらも、ヒルダの腕を強く掴む。
「まだ……です。もう少し、もう少しなのです」
クララの加護、【未来予見】は脳に異様な負担を強いる。
元々この能力は、戦況を視るための軍師に適した能力で、この状況では使い続けなければいけないが、本来の王弟であった元第二王子は、これと酷似した能力を得たせいで早世した。そこまでしなければ、王家派と貴族派で乱れた国をある程度まで纏めることができなかったのだ。
「で、ですがクララ様、そんな簡単に応援の騎士が来るとは……」
ヒルダの言葉に誰もが内心頷いた。元暗殺者のドリスが全速で駆けたとしても、数分で王城まで辿り着き、それを聞いた騎士団がそれを理解して装備を調え、到着するまでどれだけの時間が必要だろうか。
本体が到着するまでどれだけ急いでも四半刻……ドリスが第五騎士団の者だけとりあえず先に連れてきても、まだ到着までしばらくは掛かるだろう。
「ひぐっ――」
また騎士が殺された。いや、悪魔に捕まえられた騎士がその腕に抱かれて、声にならない絶叫をあげながら死んでいく姿を、クララたちは見ていることしかできなかった。
これであとどれくらい持つのか? 残りの騎士は隊長を合わせて五人しかいない。
「……耐えて……もう少し……」
それでも耐えろとクララは言う。彼女は〝予見〟に何を視たのか?
可能性の二つのうち一つは、ここには居ない。
でも――
ドォオンッ!!
突如として膨大な魔力が辺りを満たすと、騎士の死体ごと悪魔を爆炎が包み込む。
その炎に照らされ、白いドレスに漆黒の髪を靡かせた一人の令嬢が、浮かんでいた夜空から愉しげな声を零しながら、膨大な殺気を撒き散らしていた。
「――あら、わたくしの庭で何を〝遊んで〟いるのかしら?」
ついに来ちゃった、あの人と悪魔が戦う。
次回、悪魔の影 後編!





