210 悪魔の影 前編
「結果から申しますと、学園の閉鎖はなく、様子を見るということになりました」
「……そうですか」
城から学園にあるエレーナの屋敷に戻ってきたミハイルの報告に、エレーナが静かに頷いた。
王女の側近となったミハイルは、エレーナの政治面の補佐をするため、月の半分を城で宰相から学びながら情報収集をしている。
今回、学園の周辺で『悪魔』らしきものが目撃されたが、その情報をミハイルが城へ持ち帰った結果、宰相と国王陛下との間でどのような協議がなされたのか、そのような返答を持って帰ってきた。
「国王陛下がそのような判断をされたのも、仕方のないことでしょう」
「私もそのように思います」
「いや、殿下もミハイルもそれでよろしいのですか?」
エレーナとミハイルのやり取りに、それを聞いていたロークウェルが腑に落ちないような顔で口を挟む。
彼の気持ちも理解できるが、そうなることはある程度予想されていた。
悪魔が現れたという情報が重要視されなかったのは、目撃者である私やヴィーロの報告が軽視されたのではなく、現状、学園の閉鎖をできないという単純な理由だ。
以前、魔族の襲撃により数ヶ月も学園を閉鎖したことで、貴族の中に学園の警備状況を問題視する声が挙がっていた。それが今また閉鎖することになれば、学園の存在意義自体が怪しくなる。
魔術学園は、上級貴族に専門的な学問と政治的な目線を養わせ、ばらつきのある下級貴族の知識と教養を上げて、王国貴族の平均値を底上げする目的がある。生徒たちが重視する、貴族間の顔合わせや婚約者捜しなど、あくまで余録だ。
中央の貴族はともかく、地方の貴族が跡取りを学園に通わせるのは、学園を卒業すること自体が成人の目安とさせていることもあるが、この学園なら安全に学べると考えるからこそ嫡男を通わせ、それを王家への忠誠の代わりとしている。
王立魔術学園は王の威信の下に、王都と並んで安全な場所と思われていた。それが立て続けに閉鎖する事態となれば、王家に対する不信にも繋がりかねない。
「ミハイル、悪魔がいることを黙っていれば、生徒を危険に晒すことになるぞ」
「それは分かっているんだよ、ロークウェル。問題は、悪魔が現れた理由が分からないことだ。この学園にいる誰かを狙ったものか、それとも自然発生したものか……。狙いは学園ではなく王都や聖教会という線もある」
ロークウェルの疑問にミハイルが答えると、ミハイルから渡された書類を読んでいたエレーナが顔を上げてそれに続けた。
「ダンドール総騎士団長も了承しているようですよ。学園の警護を増やす予定もあるそうですが、ダンドール殿は王都と王城の警備を優先させたいようです」
「父上が……」
この世界は魔物や危険で満ちている。知恵のある上位の魔物ほど人里には近づかず、人は集落を作ることで生活をしているが、一度そこから離れたら、簡単に命を失う世界なのだ。
だからこそ人は武器を作り、魔術を学び、戦う術を身に付ける。それをしなければいけないほど、この世界では命の価値は低かった。
最悪の場合、貴族などいくらでもすげ替えはできるのだ。そのためにエレーナのような貴族は私のような護衛を側に置くのだから。
「それに……」
エレーナは読んだ書類を傍らにいた私へ手渡し、ゆっくりと息を吐く。
「悪魔という存在は、私たちが考えている以上に民たちを恐れさせます。国王陛下とメルローズ、ダンドールの両家は、悪魔の目的が分かるまでこの事態を公にはしない、と決定しました。……アリア、ジェーシャ」
「はい」
「おう」
エレーナはいまだに言葉遣いが直らないジェーシャにクスリと笑いつつも、すぐに表情を引き締めて私たちの顔を碧い瞳に映す。
「ジェーシャはロークウェルやヴィーロと協力して、学園内の警戒と探索をお願い」
「いいけど、姫様の警備はどうする?」
「三人のうち誰かは交代で残ってもらうことになるわ。普通の騎士に相手は難しいと思うから、頼りにしているわね。ジェーシャ」
「まあ、頑張ってみるさ」
ランク4のジェーシャでも精霊や悪魔との戦闘経験はあまりないはずだ。それでも私やジェーシャの持つ魔鋼の武器は、ある程度、精神生命体にもダメージを与えられる。それでも微々たるものだが、特殊なミノタウルスの角のような素材――生体金属で加工すれば、ヴィーロが持つミスリルの短剣並みにダメージを与えられるようになる。
ジェーシャの武器もドルトンの判断により、虹色の剣保有の黒竜の鱗で加工している途中だ。それが出来れば、大きな戦斧を持つジェーシャは、攻撃面でも守護面でも要となるはずだ。
「そしてアリアには、ミハイルと協力して王都を探ってもらいます。本当はヴィーロのほうが、市井に慣れているのでしょうけど、戦力の分散を考えるとアリアに頼むしかないの」
「うん。分かっている」
王都だけでなくその他も調べようとすれば単独で動くことになる。
戦力面で虹色の剣を頼ることもできるが、ドルトンもミラも情報収集に動くには目立ちすぎる。人族であるフェルドは、まだ大剣製作から戻っていないので、単独で悪魔と戦える私が一人で動くしかなかった。
正直に言えば、私がエレーナの側を離れることが敵の策略かもしれないが、エレーナの〝囮〟である私が単独で動くことで、そこを狙ってくれることを祈るしかない。
悪魔がどこから現れたのか? 誰かの意思によって動いているのか? 悪魔の強さがどれほどのものなのか……私が身を以て確かめるしかないだろう。
下級悪魔なら私でも問題なく倒すことはできる。でも……もし『上級悪魔』なら、今の私で勝てるのだろうか?
***
「……ビビの行方はまだわかりませんか」
「申し訳ございません、クララ様」
夜が更けた王城内にある『王太子妃宮』にて、専属侍女であるヒルダの報告にクララは静かに息を吐く。
本来ならここは、王太子と成婚後の妃に与えられるものだが、クララが筆頭婚約者であることと、学園で悪魔が確認されたことで、総騎士団長であるダンドール辺境伯が陛下に保護を願い出たことにより、仮住まいとして貸し与えられた。
今の正妃が王妃宮に移ってから十年ほど使われていなかったが、清掃は行き届いており、特に不自由はない。今も王太子妃宮の専属メイドたちと、クララの配下が周りを固めているが、今この部屋にクララの他に側近しかいないことで、クララは三人を労うように笑みを零した。
それを見て、元暗殺者であるヒルダとハイジが勢いよく頭を下げる。
「すみません、クララ様っ。ビビの奴が……」
「あの子、仕事を放棄しただけでなく、なんてことを」
「あなたたちの責任ではないわ。おそらくはあの娘も【加護】を得ていた。それを先に確かめなかった私の失態よ」
クララの〝予見〟で再演算した結果、あの子爵令嬢だけでなくエルヴァン、アモル、ナサニタルの三人も【加護】を得た可能性が高いと分かった。
あのダンジョンは王家が所有しているが、精霊が気まぐれで高い能力が得られない場所であった。それ故に油断した。クララが乙女ゲームの知識を持っていたせいで、補佐系の能力しか得られないと、勝手に思い込んでいたからだ。
「おそらく、精神系の能力でしょう。他者の意思をねじ曲げるほど強力な加護は得られないはずですが、敵意を弱める。もしくは敵意の方向を、どこかへずらす程度なら可能なはずです」
「ではビビは、あれを敵ではないと思い込まされた?」
「分かりません。明確な敵意を持っていれば無効にできるかもしれませんが、言葉巧みに誘導されることもあるでしょう」
「なるほど……」
クララは言葉を濁したが、ヒルダはビビがクララに絶対の忠誠を誓っていたのではなく、復讐のためにクララに従っていたことを思い出す。それでもビビはクララに恩を感じており、裏切るような大きな問題はないと思われたが、その心の隙を突かれた形になったのだろう。
「闇属性である精神系の対策として、光系の魔石を所持しておきなさい。気休め程度ですが、多少の効果はあるはずです」
「かしこまりました。聖教会に依頼をしておきます」
「あ、あの……」
その時、ビビとドリスが子爵令嬢暗殺に向かっていた際も、クララの警護をすることを望んだハイジが小さな声をあげた。
「あの娘の対策は分かりましたが、あちらはいいのですか……?」
その発言に、ヒルダとドリスが非難するような視線をハイジに向ける。
あちら、とはエルヴァンを王太子から下ろそうとする王女殿下の動きだ。子爵令嬢も放置はできないが、王女エレーナが新たな王太子と国王陛下が認めれば、必然的にクララも王太子妃ではなくなる。
配下の誰もが思いながらも、主人の気持ちを慮って言葉にできなかったその問いに、クララは怒ることなく寂しげな笑みを浮かべた。
「もう……どうでもいいのかもしれないわ。思えば、最初から王妃になりたいなんて考えたこともなかった。ただ、あの人の側にいられたら……。ごめんなさいね、こんなわたくしを主人にしてしまって」
「何を仰いますか、我らはクララ様だからこそお仕えしておりますっ」
「私もですっ、ここに居ない者たちもそう思うはずです!」
「ずっとクララ様にお仕えします」
「あなたたち……」
子爵令嬢との【加護】の戦いにおいてクララ側は側近の一人を失った。だが、それは結果的にだが残った者たちの結束を強めることになった。
ならばこれ以上、ヒロインの位置にいるあの少女に好き勝手させないため、クララは自分の命を削るように〝予見〟を使う。
「……(あの娘は精神系として、他の三人は何の加護を得たのかしら)」
前の王弟殿下は加護の使いすぎで早世した。それを知っているはずのエルヴァンやアモルが危険な【加護】を望んだとは考えにくいが、あの子爵令嬢が油断できない能力を得た時点で、ゲームの知識とは異なっている可能性がある。
王都近くにあるダンジョンから得られる【加護】は弱い。だが、それは精霊の格の違いではなく人間に対する対応の違いではないのか?
人のことを何も考えてないような強い精霊の加護も、裏を返せば、人の望みを最大限に叶えているように思える。人を愛しているからこそ、願いを叶えるのだ。
逆に人のことをそれほど愛していない精霊なら、適当な加護を与えて放置するのではないだろうか? それこそ、願いを曲解してでも……。
時を同じくして学園に〝悪魔〟が現れた。もしそれが、精霊に叶えられた曲解した願いだとしたら……
コンッ。
「――!?」
突然窓を叩く物音に、クララ以外の全員が警戒するように身構えた。
「ビビっ?」
窓の向こう側、夜の闇に消えてしまったはずのビビの姿があった。顔色が悪く姿もよく見えないが、小さな玻璃をはめ込んだ窓の向こうで、室内の光に照らされた顔は確かにビビのものだった。
「お前、今までどこに行っていたんだっ」
同じ暗殺任務に就いていたドリスが、口が悪くも心配していたのか、怒りながらも嬉しそうに窓に手を掛けた。
クララはヒルダたちが庇ったことで彼女を見ることができなかった。ドリスが窓に駆け寄り、〝予見〟を使った頭痛に苛まれながらも、その空いた隙間から覗き込んだクララは、朦朧とした頭で一瞬〝それ〟に気づくのが遅れた。
「開けてはいけません!!」
「え……」
カチッ……。
『――オマネキ、アリガトウ――』
この声は、あきらかにビビとは――〝人間〟とは違っていた。
ガシャンッ!!
「ぐあっ!?」
半分開いた窓を破壊するようにドリスを弾き飛ばし、黒い靄の身体にビビの顔だけを貼り付けた存在が、ゆるりと流れ込むように室内に侵入すると、定命の者たちを嘲笑うように、ビビの顔を粘土のように歪めて嗤った。
「それから離れなさいっ!」
それを見て、〝予見〟の使いすぎで片目から血の涙を流したクララが、その正体を看破する。
クララの前世の知識に、吸血鬼は招かれなければ家に入ることができないという伝承がある。だがそれは、吸血鬼の力を恐れすぎた者たちや、後の世の作家たちが弱点として付与した、人に希望を与えるための追加の属性にすぎない。
古来より人は、夜に来る恐ろしい〝モノ〟を吸血鬼と呼んで同一視していた。
だとすれば、招かなければ入れないという話は、その存在が力を振るうために行う、簡易的な〝契約〟の儀式なのではないのか?
それを行う存在とは――
「……悪魔……っ」
現れた悪魔がクララを襲う。
悪魔や吸血鬼の設定は、独自のものが含まれます。
ご感想にもありましたが、ガチ悪魔です。
次回、悪魔の影 中編
悪魔が出るとウキウキしています(笑)





