143 旅路
サース大陸にも四季がある。春が終わり夏が近づいても北方のメールス国家連合ではようやく短い春が来たばかりだが、南方のクレイデール王国では、北にあるセイレス男爵領でも汗ばむような陽気になった。
そんな土地の森深くで、普段使いの簡易的なローブを着た一人の女性が、庭に植えていた野菜や薬草などを摘み取り篭に入れると、しゃがんだままで凝った身体を伸ばすように立ち上がり両腕を上げる。
「ん~~」
身体を伸ばすと銀の髪が流れて陽の光にきらめき、まだ三十前後に見えるその女性の肌は、艶やかな黒曜石のように黒く輝いていた。
闇エルフ。このサース大陸の西の奥地に住むとされる種族で、森エルフと同様に長い寿命を持ち、整った容姿をしている。
数こそ少ないが、人族の先住民族であるクルス人より前からこの大陸に存在したと言われており、彼らはクルス人などと細々とした交流をしていたが、千年前に移住してきたメルセニア人の〝聖教会〟が、クルス人との戦争を避けるための共通の敵として闇エルフを邪神の使いとして貶め、全ての種族から迫害されることになった彼らは、その恨みから、自ら人の敵である『魔族』を名乗るようになった。
だが千年も経てば戦う理由も変わってくる。当時は全ての種族を敵として恨みを晴らすために争っていたが、今は、その敵愾心は人族より聖教会に向けられるようになり、聖教会の力を削ぐために、国家という枠組みを崩そうと度々人族国家との戦争を起こしていた。
その戦争で人族だけでなく魔族からも『戦鬼』と呼ばれ恐れられた女魔族セレジュラは、戦いしか知らない人生に嫌気が差し、自らの死を偽装して魔族軍を抜け、この地に身を潜めている。
庭から戻ったセレジュラは、摘み取ったばかりの野菜と作り置きのシチューで食事を摂り、数少ない知己である行商人に渡すためのポーションを作る。
そんないつもと同じ生活の中で、最近は他にやるべきことが増えてきた。夜になり、今日はもう多くの魔力を使わないと判断した時点で、セレジュラは新たな日課となった〝実験〟を行う。
「――【鉄の薔薇】――」
その呟きと共にセレジュラの銀の髪が風に吹かれたように巻き上がる。
【セレジュラ】【種族:闇エルフ♀】【ランク5】
【魔力値:387/425】【体力値:215/250】
【総合戦闘力:2006(特殊身体強化中:3786)】
【戦技:鉄の薔薇 /Limit 38 Second】
「……くっ」
見る間に減っていく魔力に、セレジュラは鉄の薔薇を解除して、疲れた溜息をつくようにして思わず愚痴を漏らした。
「あの無愛想弟子は、よくこんなモノを使えるね……」
一年前に一度戻ってきた愛弟子であるアリアから、ダンジョンの精霊に名付けられたという戦技、【鉄の薔薇】の原理を聞いた。
戦技であるからには条件さえ満たせば誰でも使用できる。実際にセレジュラも時間こそ掛かったが発動だけなら可能になった。
だが、その条件である体内の魔素を純魔力に変換することが障害となり、レベル5の魔力制御である程度の魔力純化が可能になったセレジュラでさえも、1秒間に10以上の魔力が消費された。
これではまともに使えない。原因は魔力の純度だと仮定したが、おそらくそれだけではない。アリアと違って髪色が変わらないことも要因の一つと考え、セレジュラは無茶ばかりをする弟子のために、実験結果と考察を紙にしたためた。
セレジュラが自分が編み出した魔法を無愛想弟子に伝えているように、アリアが創造した魔法も師匠に伝わっている。
【触診】や【幻痛】のような比較的無害な魔法はともかく、【影収納】のような体内の影を利用した魔法は今までに無かった魔法で、習得難易度も高いが人体にどのような影響があるのか分からないため、セレジュラも自分の身体を使って【影収納】の研究も行なっている。
その時、居間のテーブルで魔術の研究をしていたセレジュラが不意に顔を上げた。
「……誰か来たね」
灯していた【灯火】を【暗闇】で消し、セレジュラは【影収納】から鉈を出しながら立ち上がる。
外に何者かがいる。だが、人の気配ではない。その気配から敵愾心が感じられないことに気づいたセレジュラは、鉈を肩に担ぐようにして玄関に向かい、扉を勢いよく押し開けた。
「さすがに幻獣は行儀がいいねぇ。……あんた一人かい?」
――是――
耳から伸びた触角から火花を散らし、夜に潜むその姿が一瞬浮かびあがる。
そこには暗い森の闇に溶け込むような漆黒の毛皮を持つ、黒豹のような姿の巨大な幻獣、クァールが静かに佇んでいた。
アリアと行動を共にしている幻獣クァール――ネロは一度だけ、アリアと共にここへ来たことがあったが、ネロがセレジュラに歩み寄ることはなかった。
人に心を開かず、人よりも上位に存在する幻獣であるクァールがどうしてここにいるのか? このクァールが唯一心を開き、ネロという名を与えたアリアの姿が見えないことを不審に思いながらも、セレジュラは嫌な予感を感じて、一定の距離を空けながら意思の疎通を図ることにした。
「それで? あんたが何の用だい? うちの無愛想な弟子はどうした?」
――月――
――闇――
――戦――
――魔――
――移――
「ちょ、ちょっと待ちな」
セレジュラは何かを伝えようとするネロの思念を止めて、頭痛がしたように眉間を押さえた。
クァールは触角から微弱な電気を発して魔術を阻害し、その意志を伝える。だが、異界から現れたと言われるクァールとは言語体系が違いすぎて、一気に伝えられると意味が分からず、電気信号のせいで頭痛も起きる。
(あの無愛想弟子は、よくもまぁこれを理解できるね……)
以前来たときも、ネロの意志はすべてアリアが通訳してくれた。そのアリアなしでネロと意思疎通をするのは困難に思えたが、ネロから〝焦り〟のようなものを感じたセレジュラは溜息をついて目の前の巨獣を睨む。
「最初から話してみな」
それからネロの理解困難な説明を聞いて、朝日が昇りかけた辺りでようやく言いたいことが理解できた。
「……あの無愛想弟子が、魔族の吸血鬼と戦って、王女と一緒に魔術で転移されたってことかい?」
――是――
簡単に要約するとそれだけだが、その他にも様々な情報が伝えられ、それを理解するために膨大な労力が消費された。
ネロが実際に現場を見ていないことも要因の一つだが、幻獣であるネロが検知した魔力の流れを解説されたセレジュラは、朝までかかってやっとその事情を把握する。
「あの無愛想弟子は転移に巻き込まれた。だが、あんたの感覚では空間転移に違和感を覚えた……。多分、魔族国から少しズレているね。あの子も空間系を使う術士だから抵抗はしたと思うけれど……過去の事例からすると、転移地点がズレた可能性が高い」
元魔族軍人であるセレジュラは魔族の行動を推測する。
魔族国の宝物庫には、空間転移を使える道具が確かにあったと記憶している。セレジュラの記憶でもランク6の魔術師がいた憶えはなかったので、おそらくはその道具を利用したのだろう。
セレジュラも実際に使ったことはないが、空間系を操る闇魔術師ならともかく、それ以外の者では使用できても、転移地点の明確なイメージが出来ずに問題が起きる可能性は高かった。
「……落ちたのは砂漠か、カルファーン帝国か。それで? あんたは私にそれを伝えて、どうしてほしい?」
――乗――
「…………」
ネロが背を向けて体勢を低くしたことでセレジュラが絶句する。
幻獣が人間を背に乗せることはない。幻獣をテイムすることすら不可能だ。ネロはアリアだけ仲間と認めて背に乗せることを許しているが、それ自体常識的にはあり得ないことだった。しかもネロはアリアの救出に向かうため、アリアの発見率を上げるためにもセレジュラさえ背に乗せると言っているのだ。
「『…………」』
二人が無言のまま睨み合う。
ネロはどうしてアリアのためにそこまでするのか? でも、それを自分に当てはめてみたセレジュラも言葉で説明できないことに気付いて自嘲気味に頬を緩めた。
アリアのことを気にしているのはセレジュラも同じだ。アリアなら王女を護って無事に帰還すると信じてはいるが、それと同時にアリアを娘のように心配している自分がいることにも気づいていた。
その瞬間、セレジュラとネロの間に何かが繋がった気がした。理由は違う。でも目的は同じだ。
「わかった。行こう」
そうして闇エルフと幻獣クァールの二人は、西方の地に旅立った。自分たちの心に従って。
***
「エレーナ。まだ平気?」
「……ええ、まだ平気よ。アリア」
夕方まで仮眠を取った私とエレーナは、気温が下がった頃を見計らって移動を開始した。
心臓の魔石が小さくなって身体が丈夫になったエレーナだが、それでもまだ体力は健常者に及ばない。ここで時間を掛けて砂漠を渡る準備をするよりも、食料も体力も余裕があるうちに、遺跡を避けて人の居る集落を目指すべきだと私たちは考えた。
でも適当に動いているわけじゃない。エレーナがこの大陸の地理情報を地図として覚えていたので、そこから人の居る場所を推測した。
古代の都市遺跡から南に下ればカルファーン帝国がある。だが、そこに行くには歩いても数ヶ月はかかるはずで、そこまでの移動は無謀と考えるしかない。
私が思ったのは、遺跡があるのだから、そこに素材と魔石を求める冒険者が集まる場所がある可能性が高いということだ。こればかりは賭けになるが、無闇に探し回るよりマシだろう。
その場所がどこにあるのか? 遺跡は広いがそこで全て自給自足でないかぎりは、遺跡とカルファーン帝国の直線上、平地があり水がありそうな岩場に近い場所だと、二人で考察した。
エレーナの体力を考えれば昼の移動は危険だ。夜は魔物に襲われる可能性もあるが、遺跡から離れればそれほど強い魔物は現れない。
『ギィイイ!!!』
体長1メートルもある甲虫系の魔物を、エレーナの水魔法が動きを止めて、飛び込んだ私が殻の隙間にナイフを突き立てて頭部を斬り飛ばす。
ランク2ほどの魔物だが、初見の敵は油断できない。昆虫系は頭を斬り飛ばしてもしばらく生きているが、とりあえずそれで脅威はなくなるはずだ。
本来なら解体して素材や魔石を得るところだが、今は移動することだけに集中して先に進むことを優先した。
目標を定めたエレーナは前向きになり、戦いにも護られるだけでなく、私の指示を仰ぐようになった。それがただの強がりだとしても……。
私だけなら魔物の肉を食ってでも生き残ることはできる。でもエレーナはそうじゃない。彼女もそれが分かっているからこそ、エレーナは生き延びるために必死に足掻き始めたのだ。
「行こう」
「はい」
エレーナの顔にわずかな疲労の色が見える。
エレーナは強い……けれど儚い。
彼女は弱者や足手纏いとして手を差し伸べられることを嫌うだろう。それを分かっていながら後ろを歩く彼女に差し出した私の手に、エレーナも小さな笑みを浮かべながら手を伸ばし、私たちは雲ひとつ無い星空の砂漠を手を繋いで歩き始めた。
夜に移動して昼間は岩陰で休む。偶に岩トカゲを狩って肉を食べ、そうして進んでいくと出発して四日後、移動していた岩場の上からようやく小さな町を発見した。
町に着いた時点で章の冒頭になります。
ちょっと進行が遅い気もするので、次はがっつりとアリアとエレーナを書きたいと思います。