141 砂漠の町
第二部第二章『砂漠の薔薇』の始まりです。
少し長めです。
クレイデール王国の主な貴族子女たちが集まる、安全であるはずの王立魔術学園において、エレーナ・クレイデール第一王女が襲撃され、行方不明となった。
目撃証言から主犯は、数十年前に人族と戦争状態にあった魔族と呼称される闇エルフの一派と思われるが、王女の護衛に倒され外部に放置されていた死骸が朝日を浴びて灰になったことから、宮廷魔術師と王宮医師団が室内に残された死骸を調べた結果、吸血鬼であることが判明する。
魔族の政治的犯行か、吸血鬼という魔物の襲撃か。王女派ではない一部の者からは、王女は死亡したのではないかという憶測も流れたが、重傷を負った王女の側近や側仕えたちはそれは正しくないと証言していた。
主犯格の魔族の目的は王女の誘拐であり、その目的のためにダンジョンから得られる魔術を封じ込めた玉を使用し、封じ込められた『空間転移』の魔術が発動する瞬間、王女の専属護衛をしていた冒険者の男爵令嬢により主犯格の魔族は倒され、王女の誘拐は妨げられた。
だが、王女と男爵令嬢はすでに発動していた空間転移に巻き込まれて何処かへと消えたという。
側近や護衛である騎士たちにも魔術を使った聞き込みと調査が行われたが、その証言に差違は無く、それにより王国の指針は魔族の調査から王女の探索へと変わる。
状況はどうあれ、現状で王女が行方知れずになったと分かれば、王家派へ傾きかけていた貴族派の一部がどう動くか分からない。すでに学園内は学園長により戒厳令が発せられて情報が生徒たちに伝わっていなかったことが幸いし、国王陛下は学園の安全補強を目的として三ヶ月から半年の休校を命じ、宰相の下、暗部を含めた調査部門に国内外の探索を命じた。
王女は生きている。そう信じる者は多くとも、情報を封じ込めておけるのは三ヶ月から半年程度だろう。
国王は、最大半年までに王女の安否が不明の場合は、混乱を避けるために王女を病死として、王太子エルヴァンを正式な次期国王として告知することを決断する。
期限は半年。その半年の間にできることをするために動き始めた者たちがいた。
王城にある執務室にて、宰相であるメルローズ辺境伯ベルトは、諜報担当の暗部の騎士たちに王女の探索を命じ、それと同時に国内に魔族を引き入れた貴族の調査を進め始めた。
「ベルト様は、何処かの貴族家が魔族を引き込んだと思われているのですか?」
「そうだ。裏切り者がいたとしても、貴族でなければ学園内の警備情報を知ることはできない。だが貴族家とは限らん。古い貴族ほど魔族に恨みを抱いているからな」
前の戦争時、ベルトはまだ少年だったが、それでも魔族の強さと戦いにおける冷酷さは恐怖と共に記憶に焼き付いていた。
貴族家でも家長や古い時代の者はまだそれを忘れられずにいる。だとすれば魔族を国内で匿っていた者は、貴族家ではなく個人。それもまだ若い貴族の可能性が高い。
その話を聞いてベルトの専属執事であるオズは、静かに頷きながら主のために新しい茶を煎れた。
「招き入れた者と匿っていた者が同じとは限りませんね。そちらの方面からも調べさせます。それと殿下の探索ですが、国外はいかがいたしましょう? 空間転移に巻き込まれたとなれば、国外の可能性が高いと存じますが」
「……その可能性は高いだろうな。他国で公に調査はできないが、殿下は優秀な方だ。それにあの者もいる。おそらく二人はこちらへの連絡を試みるはずだ。噂話程度でも良い、その方面からも調べさせろ」
「……かしこまりました」
主であるベルトのある想いを察してオズは頭を下げ、そのまま執務室を後にした。
「…………」
微かに軋む音と共に深く椅子に背を預けて、軽く息を吐いたベルトは虚空を見上げながら、一人の少女の姿を思い浮かべた。
それは亡き娘の忘れ形見である、数年前に見つかった孫と名乗る娘のことではなく、王女と共に行方不明になった冒険者の少女のことだった。
暗部騎士であるセラの養女となっても、王女の警戒が厳しく、学園関係者以外の貴族が彼女に近づくことはできなかったが、一度だけ王女の護衛として見ることができたその姿は、今もベルトの瞳に強く焼き付いていた。
輝くような桃色がかった金の髪。その色もふとした一瞬に見せる表情も、亡き娘の面影を見出すには充分だった。
歳も同じ。面影もある。だが証拠がない。状況証拠だけで孫としたあの娘と違って、彼女を孫とするだけの状況証拠が何もなかった。
その歳であれほどの力を得るのにどれほどの苦労をしたのだろう? だが、今の彼女は実力で王女の護衛となり、下手にベルトが手を出そうとすれば、冒険者である彼女はあっさりとどこかへ消えてしまう可能性があった。
その少女が王女と共に行方不明となったことで焦燥感が募る。今までは二人の娘が成人する前に調べればよいと考えていたが、もしかすれば娘と同様に二度と会うことができないかもしれないのだ。
(いや、あの娘は生きている)
王女の運も強いが、あの少女の実力を考えれば異国の地でも生き残れるはずだ。
必ず王女と共に少女も見つける。そして今度こそ娘のように選択を間違わない。王女の庇護下にある彼女を穏便に囲い込むためにベルトは、どうやらあの娘に好意を持っているらしい孫のために力になろうと心に決めた。
そして王女が護衛と共に行方知れずになったと一報を受け、ある少女も動き出す。
クララ・ダンドール辺境伯令嬢。王太子エルヴァンの筆頭婚約者であり、王家のためにダンジョンの加護を得て体調を崩していた。
「エル様……」
でも、その婚約者が最後に顔を見せたのはいつだっただろうか?
王族の冷徹さがないエルヴァンの朗らかさと優しさに絆されたクララは、乙女ゲームの攻略対象というだけでなく、一人の男性として愛してしまった。だが今のクララの顔色が悪いのは、エルヴァンの心が離れてしまっただけでなく、王女エレーナが行方不明になったことも関係していた。
乙女ゲームのシナリオと同じく魔族を国内に引き入れたのはカルラだが、放置されていた魔族にグレイブが拠点を与え、情報と資金を提供していたのがクララだった。
グレイブと接点はなくても、クララは加護による未来演算で、魔族の目的はある程度予見できていた。
それでもクララはその危険をエレーナに伝えることはなかった。以前は姉妹のような関係だったが、前世の感覚を思い出したクララの心は弱くなり、王女として強い心を持つようになったエレーナとの間には、更なる大きな溝が生まれていた。
クララもエレーナたちの命まで奪おうと思ったわけではない。少しだけこの舞台から離れてもらいたかっただけだ。
今でも彼女の命が失われてしまったと考えると吐きそうになる。けれど、今の状況はクララにとって絶好の機会だった。
学園は休校となったが、事情を知る主立った貴族と上級貴族家の一部は学園内に残っている。上級貴族家とその関係者だけなら、下手に領地に戻すよりも纏めて近衛騎士による警護ができると王家から通達があり、王家派の上級貴族は学園内に残ることを選んだ。王族とその婚約者だけでも王宮に入るという案もあったが、クララとカルラが学園に残ることを望んだためにその話はなくなった。
厳しいエレーナとあの恐ろしい少女がいないだけで、心が病んだクララでも自由に動けるようになる。
クララは【加護】を使い、全ての選択肢の未来を覗いてでもエルヴァンの心を取り返すと自分に誓う。
今まではヒロインの存在を呪っても、他人頼りで自分では何もしていなかった。だから今度は――
「私がこの手でヒロインを殺す……」
一人の少女がそんな決意をしている中で、アーリシアを名乗る少女は、三人の男性と優雅にお茶を愉しんでいた。
「リシアは本当に優しいね。あの子たちは危険なことばかりしていたから、少し痛い目に遭ってすぐに戻ってくるよ」
「そうですね。私のことも気遣ってくれるなんて、アモル様のほうがお優しいです」
「あの護衛は野蛮な子だったよね。人の命を簡単に奪えるような人だから、こんな目に遭うんだよ」
「そんなことは言わないで、ナサニタル。みんながあなたのように心が綺麗なわけじゃないのよ」
「そ、そうかな。ごめんね、リシア」
同じテーブルに着いた王弟アモルと聖教会神殿長の孫であるナサニタルに、アーリシアはニコリと子どものような笑顔を浮かべる。その笑顔は貴族令嬢の作り物めいた笑顔を見慣れていた二人には新鮮であり、純粋さの象徴のように見えていた。
桃色髪の少女によってそれまでの価値観を破壊され、それでも凝り固まった概念で受け入れられず、トラウマを負った二人に、アーリシアは彼らの主張を全て受け止めることでその心を絆した。
近寄りすぎず、離れすぎず、必要なときにそっと手を握る。彼女の幼い外見も相まって警戒心を抱かせることなく、彼らの全てを肯定することでその心の隙間にくさびのように入り込んでいた。
「…………」
そんな二人をエルヴァンは複雑な面持ちで見つめる。
異母妹であるエレーナの行方不明を一番心配しているのは彼だろう。成長して彼から離れてしまったエレーナだが、中級貴族程度の感性しかない彼にとっては、いつまでも可愛い妹でしかなく、彼らのように割り切ることができなかった。
アモルはエレーナを可愛がっていたはずだが、エルヴァンのような家族愛は無いのだろうか? ナサニタルは神の教えに従い人を殺めることをあれほど嫌悪しながら、人の不幸を喜んでいるように見える。
誰も彼らに苦言を呈することはない。そして彼らの思いは一人の少女に肯定される。
アーリシア。彼女は本当に正しいのか?
エレーナは彼女のことを良く思っていないようだった。クララも彼女が危険だと言っていた。
(……そういえば何日もクララの顔を見ていない。いつから? 僕を縛るようになった彼女が怖くなって……でも、クララは僕のために……)
「エル様?」
「リシア……」
考え込んでいたエルヴァンはアーリシアの声と、テーブルの下でそっと手を握ってくる彼女の温もりに現実に引き戻された。
「無理をしないで……。エル様は間違ってない。少し疲れているだけだから、少し休めばきっと上手くいくわ」
「うん……そうだね」
納得はしていない。けれども彼女の言葉は王太子という重責と難題に苦しんでいた彼に、心地のよい“逃げ場”を与えてくれて、エルヴァンはそっと彼女の手を握り返した。
アーリシアと名乗る少女は彼らの全てを愛している。けれどその愛情は、自分が愛されるためだけの自己愛の裏返しに過ぎない。だから男たちは誰よりも自分が愛されていると錯覚する。
彼女の目的は愛されること。全てに愛されることだけが彼女の心の“飢え”を満たしてくれた。愛されるためなら死んでもいい。全ての男性に愛されるのなら、この国の滅びと引き替えにさえするだろう。
誰にも愛されない、何もない孤独と恐怖を感じていた孤児であった頃の想いが、何の力もないただの少女を傾国の妖女と変えていた。
そして今日もアーリシアと名乗る少女は、心から自分だけを愛して満面の笑みを浮かべるのだ。
そんな少女たちの様子を心から愉しむ一人の少女がいた。
筆頭宮廷魔術師の令嬢カルラは、王女たちが消えた二日後に目を覚まし、側仕えから彼女たちの話を聞いて、体力が半分になるほど笑い転げた。
「……本当に面白いわ、アリア。でも早く戻ってきてね。あなたが戻らなければ、彼らも彼女たちもみんな燃やしちゃうから」
動き出したのは学園と貴族だけでなく、回復したヴィーロを含めた冒険者パーティー虹色の剣は、あらためて宰相から依頼を受けて王女と仲間の探索のために行動を始め、幻獣クァールであるネロは相棒である少女のために、彼女と一度だけ共に赴いたことのある少女の師匠のいる場所へ駆け出した。
王女は生きている。王女の近くにいた者ほどそれを確信していたのは、彼女の側にその少女アリアがいることを知っているからだ。
***
サース大陸南西に、死の砂漠と呼ばれる生き物を拒む砂の大地と、それに隣接する巨大な古代遺跡があった。
その遺跡がいつの時代の物か分かる者はいない。この大陸の先住民族であるクルス人より以前にいた民族の名残とされ、小国ほどの広大な都市そのものが全て遺跡であり、砂嵐がその都市を霞ませて見せることから、その古代遺跡の都市はレースヴェールと呼ばれるようになった。
その古代遺跡の都市に住む者はいない。その都市には砂漠に生きる甲虫系の魔物や、レイスやスケルトンなどのアンデッドで溢れかえっていたからだ。
だが、魔物がいれば素材や魔石が取れる。それらが取れるのなら冒険者が集まる。
遺跡に残った金品を夢見て盗掘する者もいるだろう。そんな者たちが集まれば、金銭の匂いを嗅ぎ取った商人たちが集まり、次第に集落が形成されていく。
古代遺跡から数km離れたその町は、そんな者たちが作り上げた集落だった。
片道一ヶ月ほどの位置にカルファーン帝国はあるが、この町は帝国に属していない。
治める領主もなく、治安を護る兵士もなく、生きるも死ぬも自己責任。二つの商家と二つのマフィアのどれかに属することだけが身を守る術であり、この町は力のある者だけが生き残る無法地帯として知られていた。
そんな町だからありとあらゆる人種が共存している。
冒険者や盗掘者、犯罪者や追放者。多くは人族のクルス人だが、犬種猫種の獣人やドワーフだけでなく、数こそ少ないが魔族と呼ばれる闇エルフの姿さえ見られた。
彼らに過去の因縁は関係ない。この町では強ければ生きる資格があり、弱ければ死に砂漠で骸となるだけだ。
そんな雑多な者たちが輪切りにした古木のテーブルで酒を呑み、酔って武勇を語っていたとある酒場に二人の人影が足を踏み入れると、がらの悪い男たちが一斉に静まりその者たちを値踏みしはじめた。
革のブーツが砂混じりの石床を踏んで、微かな音を立てる。
二人とも全身を外套で隠しているが、その身長や歩幅から察するに女……それも若い女だと分かる。この町にも女はいるが、そのほとんどは荒くれ男どもに色を売る女たちで、こんな『お上品』な歩き方をする女は滅多にいない。
そんな遠慮もない視線の中を、二人は酒場のマスターが居るカウンターまでやってくると、背の高いほうの女が手袋のまま数枚の小銀貨をカウンターに置いた。
「軽い食べ物と酒精のない飲み物を二人分」
「おいおい嬢ちゃん。酒場に来て酒を頼まないなんて、どういう了見だぁ?」
その声から相手が本当に若い女だと知り、無精髭を生やした四十がらみのマスターは口の端を上げるようにして軽口を叩く。それでも商売人なのかカウンターのテーブルに置かれた小銀貨に目を移し、少しだけ目を見開いた。
「こいつは……クレイデールの金か?」
「使えない?」
「いや、クレイデールの金なら使えるぜ? だがな、嬢ちゃん」
マスターは小銀貨を見ただけで受け取りはせず、テーブルに片手を乗せるようにして身を乗り出した。
「あんたらメルセニア人だろ? こんな土地で、珍しいメルセニア人の女が無事でいられると思ってるのか? 分かったらさっさと出ていきな。ここはお上品な衛兵なんていないんだぜ?」
「そういうこった」
いつの間にか二人の背後に五人の男たちがニヤついた顔で立っていた。
「お前ら、どこから来たのか知らないが、この町の流儀を教えてやる」
「いい店に売り飛ばしてやるから安心しろよ」
「……あんまり店を汚すなよ」
半分諦めたように溜息を吐いたマスターが女たちに目を向けると、最初に話しかけてきた女がまた口を開いた。
「こんなことをして問題にならないの?」
「そうだ。この町では力ある奴だけが――」
その瞬間、振り返った女が腕を振ると、ニヤついた顔で立っていた男の咽に線が奔り、次の瞬間ドロリとした赤黒い血を零した。
周囲の仲間どころか本人でさえ死んだと気がつく前に、流れるように隣の男の咽も斬り裂き、ようやく女の手に黒い刃が握られていると気づいて、声をあげようとした男の眉間にダガーの刃が突き刺さる。
声をあげさせる間さえ与えることなく残り二人を斬り殺し、血を噴き出しながら同時に崩れ落ちる男たちの前で、一滴の返り血さえ浴びなかった女のフードがずれて、その素顔を光の下に晒した。
しっとりとした白い肌。輝くような桃色がかった金の髪。
まだ幼いともいえる異国の少女だったが、数人の男を斬り殺して尚、自然体にも見える美しい立ち姿に、それを見た他の客たちはあまりにも違いすぎる“格の違い”を感じて声を漏らすこともできなかった。
「軽い食べ物と酒精のない飲み物を二人分」
「……果実水とモロコシ粉の焼き物でいいか?」
「構わない」
最初と全く変わらない声で注文する少女に、マスターはこの地で起こるだろう惨劇を想像して、ぶるりと身を震わせながら血臭の中で二人分の食事を丁寧に作り始めた。
説明文が長くなりましたね。今後の課題です。
基本はアリアたちの二人旅パートですが、たまに学園パートが入ります。
次回、少し戻って転移直後からのお話です。