119 貴族派の陰謀 ⑤
その頃の王太子側
「エル様っ、あれを見てくださいっ、山があんなに遠くに見えますよっ」
今回、魔術学園新入生による騎士団演習視察が行われ、新入生たちを監督する役目を受けた王太子エルヴァンの馬車に乗った少女が、満面の笑みで振り返る。
「そ、そうだね……」
まるで幼児のようにクッションの利いた座面に膝を乗せて、とりとめのない話をしながら窓を覗き込んでいた少女の言動に、それに答えたエルヴァンの顔も微妙に引き攣っていた。
新入生による国家施設の見学は毎年行われているが、下級貴族を除いた中級以上の貴族に参加資格があるのは、領地を持つ次代の貴族当主やその妻となる生徒たちに国家の運営に何が重要なのか、そのために税金がどう使われているのかを知ってもらうためにある。
クレイデール王国内には、騎士爵などを含めれば約六千を超える貴族家があり、中級貴族家が五百八十九家、そして上級貴族三十五家を含めれば、中級貴族家以上の子弟だけで一学年で六十名を超えている。それほどの貴族子弟が移動するだけでも大掛かりとなり、そのために二年生の王太子が監督役として出ることになったが、蓋を開けてみれば参加者は六割程度しかいなかった。
通常の王都内重要施設の見学ならともかく、王都から離れた騎士団の演習となれば領地経営に興味の無い女生徒は参加を見送る傾向にあり、実際に今回参加をする女生徒はたった五名しかいない。
今回のように馬車で三日も掛かるような移動の場合、生徒たちはある程度纏まって行動する。
大部分は上級貴族の寄子同士で移動することになるが、今回のような女生徒が少ない場合は、たった一名とはいえ従者を連れて行ける上級貴族の令嬢が、地域に関係なく自分の馬車に乗せて中級貴族の令嬢を連れてくる事が暗黙の了解になっていた。
だが、今回参加する上級貴族家以上の令嬢は、王女のエレーナと伯爵家のカルラだけで、カルラと共に旅をしようという者は誰も居らず、残り三人の中級貴族令嬢のうち二人は王女の馬車に同乗している。
そして最後の女生徒であるその少女は、孤児院で同じ孤児の女児に苛められていた経験から女生徒だけの馬車に乗ることを拒み、寄子同士の馬車に乗るとしても男子生徒ばかりの馬車に侍女も連れずに一人で乗せるわけにもいかなかったので、最終的に彼女は寄親であるメルローズ家嫡孫が乗る、この馬車に同乗することを希望した。
ガンッ!
王太子の側近として馬車に同乗しているダンドール辺境伯家嫡男ロークウェルが、友人でもある隣に座っているメルローズ辺境伯家ミハイルの脚を無言で蹴る。
「(何をする、ロークウェルっ)」
「(あの娘の家は、お前の所の寄子だろう、さっさと黙らせろ)」
「(お前だって、王太子の専属護衛として付き添っているんだろ。さっさと彼女をエルから引き離せ)」
「(嫌だ。あの娘は面倒だ。それに俺は、危険が迫った時の護衛だ)」
「(私だって面倒だ。何を言っても聞かないし……)」
「ミハイル様っ、ウェル様っ、こちらで一緒にお話ししましょうっ!」
「「っ!」」
小声で責任を押し付け合っていた二人は、その少女――アーリシア・メルシスに突然声をかけられて同時に息を飲み、その視界の片隅で、二人に押し付けたらしいエルヴァンが安堵したようにこっそりと息を吐いていた。
「あ~…アーリシア嬢?」
「なんですか、ミハイル様っ! 私のことは、そんな他人行儀に呼ばず、『リシア』と呼んでくださいっ、親戚なんですからっ」
「……君は、それをどこで聞いた?」
アーリシアの発言にミハイルの目が細められる。彼女がメルローズ家の直系である姫であることは、ある程度の情報力を持つ貴族家には公然の秘密とはいえ、中級貴族家では知ることのできない事柄だった。
彼女を養子にしたメルシス家も、アーリシアの護衛に就けた暗部の見習い騎士も、彼女にそれを漏らすほど愚かではないはずだ。
ならば、それを彼女に知らせたのは誰か? 暗部を束ねる上級貴族家の一人として声を低くするミハイルに、アーリシアは気にした様子もなく、自然な仕草で指先を唇に当てて小さく首を傾げた。
それはまるで、“誰か”が見た“一枚画”を切り抜いたかのように様になり、その可憐な容姿と相まって、彼女に興味の無かった彼らも思わず息を飲む。
アーリシア・メルシス。彼女は不思議な雰囲気を持つ少女だった。
見習い騎士と駆け落ちしたメルローズ家令嬢が市井で産んだ一人娘で、不幸な事故で両親を失い、酷い環境の孤児院で幼少時期を過ごした彼女を、ミハイルの祖父である現メルローズ伯が探し出して保護をした。
貴族としての教育が充分ではないので、上級貴族ではなく子爵家の養子としたが、実際には本当にメルローズ家の血を引いているのか見極めるためだった。
彼女は、メルローズ家の直系の証である“桃色の髪”ではない。
彼女は、メルローズ家に残されていた駆け落ちした令嬢の姿絵と似ていない。
それだけでもミハイルがこの“アーリシア”を疑うには充分な理由だった。でも、その想いの裏には、姿絵に描かれていたその令嬢の凛とした姿に、ミハイルは幼い頃から憧れがあったからだ。
ミハイルの叔母であるその令嬢は、暗部を束ねる家の者として武芸や馬術に秀でていたと聞いて、積極的にそれを学ぶほど、ミハイルは彼女とその一人娘に憧れと理想を抱いていた。
だけど、実際に叔母の娘である少女を目にした時、ミハイルが覚えたのは“違和感”であった。
メルローズ家の凜々しさも強さも感じられない、ふわふわとした愛されるためだけに生まれたような少女は、ミハイルが思い描いていた“アーリシア”とは違っていた。
それが自分勝手な理想を押し付けているだけだとミハイルも理解している。だがそれでも、それを思う度に彼の頭に浮かぶのは、王女の護衛に就いた、王都で出会った冒険者の少女だった。
まるで“月の薔薇”に愛されたような桃色がかった金の髪。その強さも凛とした美しさも、ミハイルが憧れて思い描いていた“アーリシア”そのものだった。
だが、目の前にいる“アーリシア”は、それとは正反対の存在だった。
貴族としての教育が不十分なのでその言動はおかしいが、貴族の令嬢が講師から礼儀作法を学ぶように、彼女のその仕草や立ち居振る舞いからは、最も良く見える“完璧なお手本”を何年もかけて完璧に模写したような、“完成された愛らしさ”があった。
子どもがそれを無意識ではなく意図的に身に付けたのなら、意欲さえ超えた“執念”に近いものだろう。
赤みのあるダークブロンドをふわりと揺らし、魔力がまだ低い12~13歳の容姿のせいか、16~17歳ほどまで成長している彼らの中にいると余計に愛らしく見えて、彼女を疑っていたミハイルでさえも一瞬目を奪われた。
「ん~……」
その“完璧な愛らしい仕草”で首を傾げていたアーリシアは、ミハイルと目が合うと他意のない心からの笑みを浮かべる。
「わかりませんっ」
「……は?」
一瞬虚を衝かれたミハイルに、アーリシアは身を乗り出すようにして顔を近づける。
「だって、貴族ならどこかで血は繋がっているのでしょ? 寄親であるミハイル様となら、親戚でもおかしくないんじゃないかしら」
「それは……そうだが」
確かにメルローズ家の直轄地を管理しているメルシス家は、メルローズ家の分家であり血は繋がっている。
だけど、この“アーリシア”は養子だ。彼女はいつ自分が貴族の血を引いていると知ったのか? その程度なら噂話で知っていてもおかしくないのだが、ミハイルは心の何処かに引っ掛かるような違和感を覚え続けていた。
「ウェル様もそう思いま…きゃっ」
ガタンッと馬車が揺れて、ロークウェルに同意を求めようとしたアーリシアが、小さな悲鳴をあげて彼の胸に倒れ込む。
「おっと」
それでもさすがに武門の家系であるダンドールの嫡男は、倒れ込んでくる小柄な少女を軽く手を伸ばして受け止め、穏やかな口調で注意する。
「淑女が馬車の中で動き回ってはいけないよ。それに親しくもない男女が愛称で呼び合うことも良くないから、できれば止めてくれるかな?」
そんな窘める言葉に、アーリシアは自分の肩を支えていたロークウェルの手を、自分の小さな手で包み込むようにしながら、彼に真正面から微笑みを向ける。
「ふふ、そんなことばかり言っていると、怖い貴族様になっちゃいますよ。私たちはまだ学生なんです。貴族だからって愉しんではいけないって法はありませんから」
「そうか……」
ロークウェルは穏やかな微笑を崩さず、内心は初めて見る魔物にでも会ったかのように混乱しながら、擦り寄ってくる少女の肩をそっと押し返して自分で立たせた。
だがその少女の言葉は、彼女が向いていた二人とは違う方向へ波紋を立てていた。
「愉しんでもいいのか……」
三人の様子を見ていたエルヴァンが小さな声でボソリと呟いた。
自由に生きていた元子爵令嬢であった正妃は、王妃教育の厳しさから自分の子を王家の養育係ではなく自分で育て、その結果エルヴァンは次代の王として育てられながら、王族としての心構えを持つことができず、“自由”に憧れていた。
それでも彼なりに努力はしていたが、懐いていたはずの妹が王族としての威厳を持ち始め、婚約者となった上級貴族の令嬢たちも、浮世離れした年上の令嬢や、常に切羽詰まったような息の詰まる令嬢や、見た目も言動も危険な令嬢など、中級貴族程度の覚悟しか持たない彼にとって、理解のできない女性たちだった。
正妃に内定したクララは、【加護】を受けてから精神が弱くなり、エルヴァンにも縋るような姿を見せて愛らしく思えるようになったが、それでも息が詰まることには変わりない。
エルヴァンがどこかの子爵家の嫡男であったなら、領民から愛される立派な領主となっただろう。だが、彼はこの国を纏める王族なのだ。
そんな疲弊していたエルヴァンの心に、平民として育てられたという少女の言葉は、甘い毒のように染みこんで彼の心を痺れさせた。
「君、立っていたら危ないよ。こっちに来て座って。えっと……リシア?」
「はいっ、エル様」
エルヴァンが中級貴族の少女を愛称で呼び、アーリシアもそれに気づいて満面の笑みで彼の隣に飛んでいく。
そんな行動をした王太子に、“友人”兼“側近”兼“監視役”として付き添っていた二人は、互いに目配せをして諫めようと口を開こうとした瞬間、馬車が大きく揺れてその動きが停まると、外から怒鳴り声のような男の声が聞こえた。
『大人しく馬車の外に出てこいっ! 出てこなければ火を付けるぞっ』
***
「大人しく出てこいっ! 出てこなければ火を――」
その瞬間、馬車の扉を吹き飛ばすようにして膨大な炎が噴き上げ、口上を述べていた革鎧の男とその周囲を、悲鳴をあげる間もなく一瞬で骨まで焼き尽くした。
王太子たちから先行して一刻ほど進んでいたその場所で、同じように襲撃を受けていた黒塗りの豪華な馬車から、萌葱色のドレスにマント状の制服を纏った少女が姿を見せる。
漆黒の髪が森に燃え広がる炎に揺れて、乱れた髪を片手の指で掻き上げながら、濃い隈のある病的に白い顔を炎に照らされたその令嬢は、炭化した骨を拾い、指で砕きながら、狼狽えて唖然とする襲撃者たちに花のような笑顔を向けた。
「上手に灼けました?」