母へのささやかな復讐
母を看取った。
少しずつ呼吸が弱くなり、最後は息をしなくなった。
高齢。大往生と言っていいだろう。
「お前なんか。」
「お前なんて。」
こんな言葉を何度母から浴びせられただろう。
簡単なことだ。
地方のそこそこの旧家なのに、3人姉妹の3番目だったから。
男ではなかったから。
姉二人より勉強ができなかったから。
ピアノが下手で、習字が下手で、絵を画くのも下手だったから。
「お母さんは女学校でいつも一番だったのよ」
母はいつも自慢げに言っていた。当時は戦時中だから、授業なんて
ロクになかったと思うけど、私は黙っていた。
小学校の時、テストで98点を取った時、母は吐き捨てるように言った。
「なんで100点じゃないの」
ピアノの発表会の時、出番を終えてホッとして母のところに駆け寄ったら
「あんた、間違えたでしょ」と睨まれた。
運動会のかけっこで一番だった時もほめてはくれなかった。
やがて姉二人は東京の有名大学に進み、私はやはり東京の短大に行った。
母のまわりに娘はいなくなった訳だ。
母は恥ずかしがって、親戚には私の進学先を言わなかった。
姉二人は早くに嫁ぎ、私は東京の企業に就職した。
私は仕事と東京の生活を謳歌し、初めて母から解放された気がした。
母からは時々手紙が来た。
呪いの手紙だ。
「なぜみんな私を捨ててしまったの。あなたたちの小さい頃が懐かしい。
これからどうしたらいいの」
私は帰省するたびに少しずつお金を渡した。母は生活に困っていたわけでは
ないが、嬉しそうに受け取っていた。
「お前なんか、お金を稼がなければなんの値打ちもない女」
そう言われた。
そのくせ、私が役員の秘書になったことを伝えると、親戚に自慢していた。
70歳を過ぎた頃から、母には認知症の兆候が見え始めた。
「お前なんか、どうってことないのよ。
お前なんか、末っ子で何もしてくれてないんだから」
産んで育ててくれた恩と、長い間浴びせられた言葉を、私はどうやって
消化したらいいのだろう。
母を看取ったあと、母が大事にしていたダイヤ、真珠、高価なものは
すべて姉たちにすでに譲っていたことを知った。
残った少しばかりのアクセサリーをを3姉妹で分けた。
私は母が生前つけていた指輪と金のネックレスをもらった。
四十九日が終わった次の日、貴金属の買い取り屋に向かった。
大股で歩いていった。
そして形見というべき指輪とネックレスを売り払った。
これが私のささやかな復讐だ。
産んでくれてありがとう。
一度でいいからほめてほしかったよ。