私が鬱と言われた時
高校を卒業と同時に介護士として働き始めました。
仕事をやめてから半年経ち、先日やっとバイトを初めることができたのでなんとなくかきました。
私が鬱と医者に言われたのはまだ夏にも梅雨にもならない中途半端な涼しさと寒さがある5月のことだった。
当時の私は介護福祉士としてグループホームに勤め、その施設のグループ自体なら五年ほど勤めていた時期だった。
その日は私は朝番と呼ばれ、午前七時に夜勤の職員と交代して利用者様のお世話をする勤務であり、私はそんなときはたいてい五時半から六時の間に起床しなければ時間に間に合わないという距離に職場があったのだ。
朝おきて、一番の異変は身体が動かないことだった。
心臓がひどく鼓動を鳴らしているのがわかった。
言いようのない不安が体中を包んで痛いほど叫びたかった。
まるで真冬のように寒さを感じて、しかし身体からは真夏のように汗が出ているように感じる。
体調を崩したのか、そう思ったが実際は汗も出ていなかったし頭痛や咳もなかった。
体温を測っても平熱であり、特に異常なく私は無理やり身体を動かして仕事に向かおうとした。
朝食を食べる時間もない、どうせその頃は職場で出る昼食だけの生活のようなものだったからまあ関係ない、と私は部屋を出た。
私の部屋の前には母の部屋に通じる扉があり、そこから横を向くと一階へ降りる階段がある。
母が中学の時に引っ越してきたこの家は二階には私の部屋と母の部屋以外無く、廊下もなにもない。
踊り場と呼ぶにも小さなその階段の前のスペースで私は唐突に吐き気を訴えたくなったのだ。
と言っても吐いたわけではない。
むしろ吐けた方がずっと楽だっただろう。
ただ気持ち悪さから腹部を抑え、私はしゃがみこんだ。
気持ち悪さからか、この状態の苦痛からか目からは涙が溢れてきて止まらなくて、私はただその狭い空間で身体を小さくしていた。
それ以外のことをする考えもなかったし、できる気すらしなかったのだ。
気がつけば私の出勤時間は大きく過ぎていた。
きっと携帯を見たら職場からの連絡がたくさん来ているのだろう。
どこか他人事のようにそう考えながら、私は涙を流し続けていた。
もうからからになってもおかしくないのにまだ流れる涙と身体の奥底からあふれる不快感を我慢していると母の部屋の扉が開いた。
母が部屋から出てきた、ということはもう時間は九時を過ぎている。
職場に謝罪の電話をして状況を説明して、必死に頭の中で考えていると朝食を準備して部屋に戻ってきた母は階段の前でうずくまってる私が泣いていることにやっと気付いて珍しく慌てた様子を見せた。
私は昔はよく泣きすぎる子供だったと理解している。
小学校の頃のあだ名は「一日一回泣く女」だったのだ、理解していないほうがおかしい。
しかし当時はもう殆ど泣かなかった。
最後に泣いた記憶があるのは…残念ながら小学校まで遡らないと思い出せなかった。
とりあえず母は驚いた表情で私にヤクルトを差し出してきた。
「水分はとっときなさいよ」
そう言って部屋に帰った母は慌てて飲み物を取りに一階へと戻っていった。
むしろヤクルトだけでパンとバナナを片付ける気だったのか、今考えるとそう思うが当時はただ泣くだけしかできなかった。
母が部屋に戻ったあとも泣き続けて、次に部屋から出てきた母は仕事着だった。
これから顔を洗って化粧をして仕事に行くのだろう。
しかし母も私を見て予想外、という顔をしていた。
もう仕事にいったのだと思っていたのだろうか。
「仕事は?」といつもの声で聞かれた。
「行けない、動かない」と私は泣きすぎて痛くなった喉で答えた。
「じゃあ部屋で寝ておけ」と母は職場からもらったというパンを私に押し付けて仕事にいった。
私はそこで初めて部屋に戻るという選択肢を与えられて部屋に戻った。
そして眠って、母に渡されたすっかりぬるくなったヤクルトと押し付けられたパンを食べてすこしスッキリした頭で携帯を見た。
携帯の待受は予想通り、職場からの着信の知らせで埋まっていた。
しかし私はそれが何かとても恐ろしいものな気がして、電話をかけ直すことすらできなかった。
その日の夕食はカレーだった。
母はカレーは普段より長い時間をかけて作る。
だから休みの日じゃないと作らないはずのカレーが夕食で、その日にパンしか食べていなかった私は当然お腹が空いていて、カレーを食べた。
その時、久しぶりに母の料理を食べた気がした。
次の日、やっぱり私は仕事に行けなかった。
仕事用にと就職した時に祖母が買ってくれたカバンを手にとることもできず、吐き気をこらえてベッドに横たわった。
携帯を見て職場からの連絡に気付くのが怖くて、携帯の電源を切った。
それを見た母に「寝るなら電気を消しなさいよ」と言われた。
しかし、当時の私は部屋の明かりを消して眠ることができなかったのだ。
明かりを消して眠ると仕事に遅れてしまうから、今の職場に勤め始めてから私が部屋の明かりをけして寝るのは夜勤明けの時くらいであった。
その日の夕食は私の好物のスペアリブで、テンションが上がった。
一緒に暮らしている祖父と私の食の好みは正反対で普段は祖父の好みが優先されるのだ。
なのにカレーとスペアリブ、私の好物が二日間も続いている。
祖父は不満げな顔をしていたが、私はとても嬉しかった。
母の作るスペアリブは少しあまじょっぱい、照り焼きのタレのような味で、やっぱりとても美味しかった。
仕事にいけなくなって三日目、とうとう職場から電話がかかってきた。
母の私を呼ぶ声に私は思わず隠れたが隠れたと言ってもカーテンの後ろにいただけだからすぐに見つかって母に電話を差し出される。
しかし私はその電話の子機がまるで恐怖を詰め込んだ箱のように思えて受け取ることができなかった。
そして母が対応して電話は切られた。
次の日、私は母に連れて行かれて近所の大きな病院へと行くことになった。
そこで私は医師から鬱と診断され、一年以上に渡る通院と五年ほど勤めたグループからの退職を経験することになったのだ。