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クリーム

作者: とろろ昆布2

毎朝のルーチンは地獄への片道切符。

せめて糖分ぐらいは多めに摂らないと…。

味覚という感覚は、そのほとんどが舌の表面に存在する蕾状の組織に存在する感覚細胞によって司られている。どんなに贅を凝らした料理であろうと、その辺に生えている野草であろうと、この感覚細胞によって感知される微弱な電気信号により知覚判断される物なのである。その信号はそもそも細胞表面に配置されるレセプタにより感知されるが、その形状により異なる信号を発する。

細胞膜の表面の僅かな分子配列の違いが、でっぷりと皮下に脂肪を蓄えたグルマンの連中の舌であろうと、化学調味料や合成食品添加物の塊を主食にしているジャンクフード中毒者であろうと、甘酸辛苦に旨味の味を感知するのだ。


まあ詳細は解剖学や生理学の見識に任せるとするが、この味蕾細胞。比較組織学の分野では、人以外の種にも同様の構造を有する組織が数多くの事例として報告されている。しかし、ゲノム的に我々に最も近い種であるボノボやマウンテンゴリラでさえその組織数は多くなく。しかも、そのうちの多くの細胞は致死性のアルカロイドが発する渋味に反応するものであり、可哀想なことに食物の甘味に反応できる細胞数はごくごく限られている。

と言う事は、人という種以外の生物は食事に於いての味覚という概念は、摂取してはいけない物を感知することが主体で、食物の甘露を味わうという意識は低いということになる。つまり、口に入るものがどんな味がしようが、毒でなければ問題ないという事なのだ。だからこそ他の生物の排泄物であろうと、腐敗していようと代謝できればそれを主食にしていけるのである。またそうでなければ、サバンナの掃除屋ハイエナやフンコロガシはその命をつなぐ事はできないであろうし、この惑星が屍の星になってしまう。掃除屋である彼等にとって、腐った肉や便がこの上ない美味な物なのであるのだから。


朝が来て寝床から世界を呪う悪態を呟きながら、彼はのろのろとキッチン…、かつてそう言われていたが今は書類や分子メモリーが詰められた多くのダンボール箱に占領されてしまいその形状さえもはっきりと分からなくなってしまった所で、昨夜寝込む前にカップに注いだ飲み残しのコーヒーをひと口身体に入れる。

泥水のような茶色い液体は香しいアロマなどとうの昔に揮発してしまい、カフェインやタンニンのしぶみが凝縮された物になっていた。舌根部から発せられるインパルスが、彼の覚醒野に突き刺さる。

「クソまず…。」

毎朝の光景。この一連の儀式が、彼を現実の世界へと呼び戻すルーチンなのである。

「ドロ水コーヒーの淹れ方なら、俺は世界を狙えるかもな…。」

苦味により活発に動き出した唾液腺が口腔内に潤いをもたらし、粘着く不快感を洗い流してくれると、記憶の方も鮮明になってくる。

「レポートの返信は…。」

昨晩コーヒーを入れる前に上司に送信した文書のチェックをすると、案の定細かい注文を山のように付けたファイル添付で返信されていた。

「一体あの人は1日何時間仕事をしてるだ?こいつは今日も早出だなぁ…。」

彼は残念そうに呟くと素早く身支度を整え、偏執的に几帳面な上司に立ち向かうため仕事場へ向かった。


貪欲に自分の体よりも大きなコロイド粒子に果敢に飛び付くミクロな資料を顕微鏡で観察しつつ、彼は朝食をとっていた。

小倉あんとクリームのたっぷりと挟まった柔らかなパン、研究所の裏門近くにある小さなパン屋で作られている「クリーム入りあんぱん」を。

この「クリーム入りあんぱん」。フワッフワのパンの中、とろけるクリームの中にガツンとパンチのある小倉あんが仕込まれているのだ。自分のげんこつよりひとまわりほど小さなこのパン、仕込まれたものの密度が高いためか不意に手に取るとその重みにトングから落としそうになる。しかも一噛みすると溢れ出るクリームに時間差でやって来る濃ゆい餡と皮にあたるパン生地に練り込まれた塩気が、口腔内に甘味塩気旨味にパン生地の焦げめから発せられるのであろう渋味と酸味が、今欧米で第六の味覚と騒がれている脂味と混然一体となり味覚野に楽園を形成するのである。


彼は初見の時からこのパンのネーミングに興味を持っていた。

「普通、この手のパンはクリーム入りあんぱんなどという、傷病名のような名前ではなく、もっとスッキリした形にしたほうが良いのではないか?」

「漢字が入る事で野暮ったく感じるのだが、どうなんだ。」余計な事と思いつつも好奇心を抑えきれずパン屋の主人がレジ打ちをしているときに聞いて見た。

主人曰く、このパンは単にホイップクリームがたっぷりと入れられたアンパンなのであるが。「クリームアンパン」という名をつけず、「クリーム入りあんぱん」としたのは、飽くまでも餡の味を。北海道は十勝産の大納言小豆を大鍋で、3日かけてゆっくりと丹念に仕込んだ自信の物で、その味を殺さないように配分にもこだわりを持って作られた商品、だからなんだそうだ。確かパン屋の屋号も「十勝屋」であった。

彼にとっては「入り」という単語が入ろうと入らなかろうが大きな問題ではないのだが。そんな話を聞いてしまったら餡の出来を気にしてつい週に何度も買ってしまうのである。まぁここの戦略的商法にまんまと洗脳されてしまったのであるが、今日もこだわりの「クリーム入りあんぱん」を口いっぱいに頬張りつつ、食へのこだわりなど先天的に欠けているのではないかと思える上司の注文を一つずつ仕上げていくのであった。

しかし今日は何かと神経を使う事になりそうなので、お気に入りを3つも購入して襲い掛かられるであろう禍に備えた。


「君、レポートの手直しはいつ頃に出来上がるのですか。」

お気に入りのパンを全て味わう暇もなく、出勤と共に彼のデスクに上司は摺り足でやって来た。まぁ、3つ総てを一度期に胃袋に収められる程体調がいいわけでは無いので、予想通りの文言に何の感慨も湧くわけがなくあらかじめ用意しておいた台詞を吐こうと口の中の炭水化物の食塊を飲み込もうとしていると。上司は剣道でも嗜んでいるのだろうか、上体を振らさず各デスクの資料を掻き分け直進して来た。おいおい、示現流の荒業でも始めるつもりなのか、立木打ちをする気なら人気の無い道場でやってくれよ。

そもそもここの不文律を知らないわけでは無いだろうに…。デスクに近くを通る際は、振動を微妙な調整を必要とする機器に与えることのないように移動するのが鉄則なのだが。室長でもある此奴、いや失礼上司様は、お構いもなく最速で移動してくる。摺り足が上司の最後の良心なのかもしれないが、上司が移動するたびにモニターを覗き込んでいるそこかしこから批難を込めた視線を浴びせるのだが。毎朝繰り返されるご視察の際、一向に踏み足の移動速度を緩めようとしないのである。

「昼前には何とか…。」

「では、11時30分に拝見しましょう。」

実際には早出をしているので、午前中の再提出は問題ないのだがそんな事をおくびにも見せれば、要求がエスカレートする事は火を見るような事実と先輩達から口伝されているので、自分の能力を過小評価するように心がけている結果の報告なのだ。

「拝見、次、君は?」

次々と研究員のデスクのすり寄っていく上司の後ろ姿に、彼は諦めに似た視線を送っていたが、時間がない事に変わりがない事を自覚しデイスプレーの作業に戻った。


癌患者の尿に効果的に反応し得る線虫のゲノム配列は何か?彼らの課せられて研究課題は、今後の癌治療に大きな一石を投じるものであることには間違いがないのであるが、研究員達のやる気を見事なまでに削いでくれる達人により、この研究は着実に足踏み状態で何時になったら結果が得られるのか。はたまた他の研究所に美味しい所を攫われてしまうのではないか…、今は誰にも予見出来ない状況に、陥ってしまったいた。


「今日は昼抜きだ…。」

ため息混じりに囁く同僚に、流石に1日3個の『クリーム入りあんぱん』を消費する事に臓器の限界を感じていたので残りを譲ると、血糖の維持を維持する為に清涼飲料水でも手に入れようかと白衣を脱ぎ去り彼はラボを出た。予定通りにレーポートを提示したのにも係わらず室長はあれこれと粘りなかなか受け取ろうとしなかったので、気分転換を兼ねて研究棟を出ると、他の職員たちはすでに食事を終え思い思いの午後のひと時を過ごしていた。

木陰で週末の計画を練っているのだろうか、楽しげに談笑する二人組。資料を片手に持論をぶつけ合う仕事熱心な奴ら。ゴム製の球でバレーボールの真似事を行い賑やかに今を謳歌するグループ。

何処に身を寄せるつもりもなく自販機で目的の物を手に入れ一人何処か落ち着けるところは無いかと思い、彼が中庭を徘徊していると。達人歩行の奴が視覚に入って来た。

『大地を仇敵の如く踏み込む奴は、休息時間に何をしているのだろう。』

先程まではそんな感覚にとらわれることもなかったし、嫌味しか口から吐かない生理的にダメな人間に対して興味を抱くことなど過去に一度も彼にはなかったが。裏門に向かう奴の進路に気が付き、急に何処に向かうのか気になり悟られぬように充分な距離感を保って後を追う事にした。


彼以外の職員にも無理難題を吹き掛け続けていた室長様だから、当然昼飯はまだだろう。後から同じ店に入ってやって定食の一つも奢らせてやるか、と思うと探偵気分で彼は後を追ったが思惑とは違った結果になってしまった。室長は裏門を出ると例のパン屋に入って行ったのだ。

「おいおい、室長さんもここがお気に入りなんですか?」

思わず彼は声に出してしまったが、それを聞きつけた年輩の守衛さんが話しかけて来た。

「室長さんはほぼ毎日、お昼はそこのお店の包みをお持ちになられて戻られますね。朝は貴方が同じ包みをお持ちですが…。」


いつも通い慣れている筈なのに、初めて店の入り口に立ったときのような妙な緊張感を覚えつつ彼は本日2度目の来店を果たした。するとそこには仕事場では見せたことの無い笑顔で、店主と談笑している室長がいた。

「オォ、君も来たのか。今日は朝と昼、2回目になるんじゃないのかい。」

語りかける口調まで柔らかで、些か表紙抜けた表情でいると、室長は店主に彼のことを事細かに紹介しだした。

「彼はこう見えても我が研究室のエースなんですよ。しっかりしていて、几帳面で、私も彼がいるから仕事を続けていられるんですよ。」

「そんな彼がいつも此方の包みをぶら下げて来るので、興味を持って来させていただいたら。私までご主人の仕事に魅了されてしまって…。」

「特にこのクリーム入りパンのシリーズ。秀一です。今日は彼が多めに買っていったみたいで小倉は味わうことはできませんが、新シリーズのクリーム入りウグイスアンパンに出会うことができたので大変満足ですね。」

「朝からお昼まで先生方にご利用いただき、ありがとうございます。」

無骨な職人の手をレジカウンターにちょこんと乗せ、主人は愛嬌良く頭を下げた。

「ウグイスパンですか、、、。」

思い掛けない出来事の連続に彼の反応が遅れると、室長は彼の肩を軽く叩くと一言かけて出た行った。

「クリーム入りカスタードパンも美味いぞ。小倉あんも良いが冒険するのも食事の醍醐味だ。しっかり食べて、午後も頼むぞ!」

嵐のように去って行った室長に毒っ気を抜かれてしまった彼は、店主に暴君オススメのクリーム入りカスタードパンを注文しミクロの世界を覗く作業に戻ることにした。焼きたてのパンはクリームの甘い香りと芳ばしい小麦の匂いがして、何時もの小倉あんとは異なる世界を見出せるような予感を与えてくれたのだった。


食事。

この甘美なひと時はヒトにとって単なる捕食ではなく、心を紡ぎ精神を満たすものでなければならない。

贄を掻き込む暴食ではなく。飢えを満たす摂取ではなく。

他者の命を以て自らの命を繋ぐ尊い儀式なのである。

さあ戴こう、感謝を込めて…。

「いただきます。」


終わり




「食=死への片道切符」と言う事実を行間に込めたのですが、上手く表現できず、課題が残る一作になってしまいました…。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 味覚に関するウンチクが豆知識となり、パンを食べる行為ひとつにしても裏側にはこんな背景があるのだなぁ、と感じさせてくれたところが良かったです。 [一言] 個人的には「食=死への片道切符」では…
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