06、兄は絶句し、見ない振り
あの日、ハロルドと予想外の対面をしてから数週間の月日が経っていた。
昔の俺なら仕事に追われて気付けば季節が変わっていたということも多々あったけれど、今のメローダの体では体感速度が違うらしい。
(まあ、メローダにはやることがあんまりないんだけど。執務もさせて貰えないみたいだし)
2階の居住スペースの大きな窓枠に腰を掛け、ぼんやりと空を見上げて秋の風に流れる雲の様子を瞳に映す。
白い柔らかな素材で織られた簡素な七分丈のワンピースに身を包み、胸元に施されているレースの模様を指先でなぞって、溜め息を吐いた。
(どこで失敗したというのか…)
そう、それはハロルドと会話をしていたあの瞬間のことだった。
きっと、俺と同じ立場であろうハロルドに出会えたことで舞い上がっていたのかもしれない。
それとも、初めて降りた城下町の喧騒に揉まれて疲労が溜まっていたのかもしれない。
とにもかくにも、あの瞬間のことだった。
(気が進まない、ものすごく…)
室内の掛け時計の秒針の音に重なって、螺旋階段を上がってくる足音が2つあった。
1つはヴィリネラ、言わずもがなメローダの侍女だ。脱走したメローダが塔に戻った時、顔色を無くしたヴィリネラがいた。力んで血の浮かんだ唇を見て、彼女にとても申し訳なく感じたものだ。あの日を境に、只でさえ円滑とは言い難かった侍女との付き合いの歯車は噛み合わないままだ。
そしてもう1つの足音を律儀に拾う猫耳はしなだれる。
朝一番に見るには胡散臭くて裏を読まねばならない気がするし、夜寝る前に見るには多分眩し過ぎて結局意図が読めないのだろう。彼がそういう笑顔をするようになったのがいつからだったのか、メローダには思い出せないようだった。
「メローダ様」
控え目なノックの音とヴィリネラの声に、俺はまた溜め息が出た。返事をするのは癪だと思い、せめてもの当て付けで首を振る。
チリチリと可愛らしい鈴が鳴り、扉が開いた先に立つ忌々しい首輪を付けた犯人を睨み付けた。
「お迎えに参りました、メローダ様…いえ、アリア、ですか」
糸目を更に細めて笑う、公爵家の次期当主。
いつもの軍服ではない城下町でも溶け込み易そうな若者の服に身を包むのは、メローダのお目付け役と建前上の婚約者であるパトリックである。
今朝方の挨拶と同時に渡された服に素直に袖を通していることが意外だったのか、少しだけ笑みが深くなっている。
一礼して下がるヴィリネラが扉を閉めたのを皮切りに、饒舌な賛辞が降り注がれた。
「とてもお似合いです」
「嫌味は要らないから、いい加減にコレ外しなさい」
目尻が痙攣してしまうのは、苛ついた時のメローダの癖らしい。ピクリピクリと2回引き攣ったまま噛み付いた返事は、何事もなく無視される。
「流行の服はそのままでは安っぽかったんです。やはり貴方に合う生地で仕立て直して正解でしたね。チョーカーも他に仕立てた服に合わせて数種類用意してみたので、後日是非試着して下さい」
「却下よ、こんなものを私の首に繋げるなんて…何度も言わせないで、今すぐ外して!」
「何故です?こんなによくお似合いなのに」
パトリックという人物は、こうも楽しげにメローダをからかう性格だった記憶がない。
おぞましい婚約者からの贈り物と賛辞に、メローダの背中に悪寒が走る。ワンピースの下の尻尾は毛羽立って今にも窓から逃げ出したかった。
「先に逃げ出したのはご自分なのですから…自業自得でしょう?」
優雅に逆向きの月の杯がきゅうっと、細まる。
先程から扉の前から一歩も動いていない癖に、強烈に発せられた威圧感に気圧されてしまうメローダは、まるで捕食者の牙がいつ食い込むのか待つしか出来ない餌の気分だ。
「それに、奴隷の躾は主人の義務です」
「お前…!この私を奴隷扱いする気なの!?」
窓枠から降りるだけで、チリチリと鳴る鈴のなんと耳障りなことだろう。
猫の血に任せて、パトリックの喉元を噛み千切ってしまいたい衝動を抑える為に拳を握る。
「だから、そういう設定にしておけば、城下に降りても不自然ではないと提案したではないですか」
「獣人奴隷の振りなんて、」
「なら、恋人の振りになさいますか?若い世代はその辺りの貞操観念が大らかですし」
「…そうして」
「では、そのように」
大袈裟に恭しく一礼をするパトリックの思考を読むのは難しい。怒りは素直に表すようだが、その他の感情は胡散臭い笑顔に隠されて読み取る自信は、メローダにも俺にもない。
馬車の準備を待つ間、近くのソファに体を沈み込ませながら俺は、あの日の自分の失敗を呪った。
*****
「取り敢えず、初めまして」
「初めまして…」
ユールとディアールの結婚披露宴があったあの日。ディアールのファンで結成されたデモ隊に巻き込まれていたあの時のこと。
背後では、先程と変わらずデモ隊の女性達と冒険者の男達の戦いが続いていた。まるでそうなることが予め取り決められていたかのように、面白いように簡単に冒険者の男達に摘み上げられ揉み合いの渦中から追い出されては、女性達は最後尾まで走って礼儀正しく並んで順番待ちをしている。列からはみ出そうものならば、他でもない同志から厳しい注意が落とされている。何故彼女達は徹底してお行儀がいいのだろうか、という疑問はさて置き。紳士的なのは、手慣れた動作で女性達を捌いている冒険者の猛者達が、決して傷付けるような振る舞いをしていない点である。実に紳士的である。これでは、間違いが起きてうっかり恋でも生まれるのではなかろうか。
背後の行儀の良い戦いについて考える俺の目の前に立つのはハロルドだった。俺の知るハロルドは男勝りで血気盛んな冒険者の男達と肩を並べても遜色ない、粗暴なハロルドだった。こんな風に色気と母性を兼ね備えた女性とは違う。
「あの…」
「ん?」
思いがけない遭遇にどう心情を述べるべきか言い倦ねて居ると、困ったように眉を下げるメローダの様子を見ていたハロルドが右手を胸の前で挙げ、左手を自分の顎の下に寄せた。
「待って、何も言わないで」
「え?わ、分かったわ」
「…そうね。確か…」
慎重に言葉を選びながら、ハロルドは首を傾げて俺に言葉を投げ掛ける。
「ねえ、お嬢さん。そんな上等な身なりをしてちゃ、ここら辺では悪目立ちしてすぐに恐い人達に捕まっちゃうよ…?だったかしら」
「あ…!」
ハロルドの紡いだ言葉は、メローダと主人公の出会いの場面で交わされる最初の台詞だ。思わずか細く漏らした声に、心が震える。沸き上がる疑問を問う前に、俺はハロルドに伝えなくてはならない。メローダだけれど、メローダではない俺が居ることを。
「あら、こんな小汚い路地裏に正しい価値が分かる輩が居るだけで驚きだわ」
震えた頭の一言から一句違わず返した俺の言葉を受けたハロルドは、得心したように頷いていた。
「やっぱりそうか。貴方も中身がちょっとややこしい感じなのね」
「ふふ、そうみたい。そういう貴方も同じなのね?」
「ええ、そうだったわ。でも今は案外ハロルドを楽しんでるわよ。ユールもリアリーも、似たような感じ。私は真エンド見る程やり込んでないから王都組の他の子全員を把握している訳じゃないけど」
「そうなの…」
ハロルドの口から出てきた言葉はとても懐かしさを含んだ用語も織り交ぜられていてとても大きく安堵した。この世界に俺以外に同じ立場の人間がいたことが心強くて嬉しかったからだ。
「お姫様歴はまだ浅い?」
「ええ、まだ右も左もよく分かってなくて…」
「私、今は子供も居るから冒険者は引退しているんだけどね。月曜日から金曜日の午前中はギルド会館で事務作業のバイトをしてるのよ」
「え?ええ…」
「もし貴方が助けが必要なら、手を貸してあげられる部分もあるかもしれない」
「え?は、はあ…」
「…だーから、そんな物騒な視線を送らないでってば。別に捕って食いやしないって!」
ハロルドが両手を胸の前で挙げて降参の意志を体で表している。突然の一方的な会話に付いて行けずに瞠目していると、強引に肩を掴まれて体が後ろに引かれた。見覚えのある背格好の軍服がメローダを庇うようにハロルドとの間に立った。
その後ろ姿を見た瞬間、俺は愕然とするしかなかった。
「その判断をするのは此方だ」
最近は朝の挨拶やメローダを律する為の定型文しか発せられていなかった口からは、軍人らしい威厳を含んだ言葉が紡がれた。
「な、なな、なんで?」
メローダ然すら忘れて素っ頓狂な驚きをした俺は、微笑みながら怒る器用なパトリックに肩を抱かれる。いつもは優しくエスコートする手のひらは、逃がさないと言わんばかりに強く食い込む。
「駄目じゃないか、アリア。寄り道は程々にしなさいっていつも言っているだろう」
(なんでアリアと名乗ったことも知っているんだ!)
驚いたまま固まる俺を見ているハロルドは苦笑いをしながら、足元に絡み付いていた自身の子供を抱き上げている。パトリックが威圧したお陰か少々涙の膜が張っている。
可愛らしい、きっと触ったら天上の幸福に浸れるであろう頬にうっすら涙の筋が出来ていた。謝り倒して是非笑顔が見てみたくなる。
「あー…アリア?助けはもう、いらないのかしら」
子供をあやしつつ、言葉を選んでくれたハロルド。大いに助けを求めたかったが、パトリックがいては無策で飛び込む訳にはいかない。それ位の判断はこの時の俺にも可能だった。賢明である。
「え、ええ…助かったわ、親切な冒険者さん。お礼は後日…また、必ず」
「楽しみに待っているわ」
肩を竦めて子供の手を取り別れの仕草をしてくれたハロルド。一応は侍女の体で頭を下げようとするが、空気の読めないパトリックに肩を抱かれたまま急かされて歩き出すしか出来なかった。
「アリア、この件はじっくりお話しましょうね」
「…黙秘、」
「ほう?」
(あ、すごくいい笑顔!…いや、違う。これは黙秘は駄目なやつだ)
こうして、メローダの人生初の果敢なる冒険は終了となった。
周到な婚約者はさすがであった。
一体いつ用意されたのか分からない、目立たぬ一般馬車によく似せられた軍用のそれに揺られながら、行きにあった高揚感の残滓を探す。
しかし、余韻に浸ることも許してくれない無慈悲な言葉に頭を抱えるしか出来なかった。
「エルドゥード殿下が、首を長くしてお待ちです」
こうして脱走の罰としてメローダは数週間の軟禁と、鈴付きの首輪の装着が余儀無くされたのだった。
見舞いにやって来たエルドゥードの何か言いたげに逸らされた視線は気になったが、落ち込む妹の傷口に塩を摺り込まずに流行りの恋愛小説を差し入れしてくれた。
そして軟禁最終日、メローダは何故か再び城下に降りる許可が出たという眉唾物の報せを受けて、振り出しに戻る訳である。
数日後、
「お灸は必要かなって思ったから提案に乗ったけど、冗談だと思ったし、実際見たらこれは駄目なやつだった。どうしてこうなったか分からない。だけど足枷よりは多分まし、多分」
と、いうニュアンスの手紙が送られてきた。