騙されやすい公爵令嬢は、幸運の女神に愛されている
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王都で、一つの商会が摘発された。
きっかけは、輸入品の申告と帳簿の数字が合わなかったことだった。そこから調査を広げてみれば、二重帳簿に関税逃れ、商品の産地偽装。貴族家や商会の証文を仲介する際にも、買い手に不利な事情を意図的に伏せていたことがわかった。
王宮の執務室で報告書を読んでいたセオドアは、商会の名を見て顔を上げた。
「ここ……リリアが高い香油を買わされそうになっていたところか」
「ご存じでしたか」
「よく覚えているよ。ヴィオラ嬢がものすごい勢いで怒っていたから」
今ではベルク伯爵夫人となったヴィオラが、金貨五枚ほどの香油に三十枚もの値をつけた商人を問い詰めていた光景は、セオドアの記憶にも残っている。
報告書をもう一枚めくったところで、その眉が寄った。
「リリアはそのあともこの商会と取引していたの?」
「はい。ベルク伯爵家の証文のほかにも、北部の鉱山商会、ルドヴィク子爵家、それから南方航路を持つ海運商会の証文を購入されております」
「三つも?」
「はい。それだけでなく、いずれも後に資金難へ陥り、追加の融資を求めております。リリア様は三者すべてに資金を出されました」
セオドアは額へ手を当てた。
「……僕がもう少し見ておけばよかったな」
担当官は何とも言えない顔をしたが、話には続きがあった。
北部の鉱山商会は、新しい坑道の開発に失敗していた。
資金が尽きかけたところへリリアが融資したことで、一度は持ち直したように見えたという。
ところが経営陣は、その金を事業の立て直しではなく、過去の損失を隠すために使った。
採掘量を水増しし、価値の低い鉱石を優良品として帳簿に計上し、見かけだけを整えて新たな融資まで受けようとした。
「その後、粉飾が発覚いたしました。経営陣は排除され、採掘権と精錬所、関連する運送部門は売却されることになっております」
「リリアが貸したお金は?」
「債権者として回収の対象になっております。それから、事業の買収についてはベルク伯爵が名乗りを上げております」
「クラウスが?」
「はい。既存の事業とも相性がよく、再建計画にも問題はないとのことです」
セオドアは少し安心したように息をついた。
「クラウスなら大丈夫そうだね」
ルドヴィク子爵家も、似たような経過をたどっていた。
リリアから受けた融資は、本来なら果樹園の立て直しと加工場の整備へ使われる予定だった。けれど子爵は、その一部を別の借金の穴埋めと私的な支出へ流していた。
古い債務を隠したまま新しい借金を重ねていたことも発覚し、返済のため、果樹加工場や穀物倉庫、王都への販売部門をまとめて手放すことになった。
「こちらも、ベルク伯爵が取得なさる予定です」
「クラウス、ずいぶん忙しくなりそうだな」
「採算は合うとのことです」
「ヴィオラも張り切りそうだね」
セオドアは少し笑った。
あの負けず嫌いな伯爵夫人なら、夫の新しい仕事にも喜んで首を突っ込んでいるに違いない。
最後に残ったのが、海運商会だった。
武装した船を何隻も持ち、沿岸で海賊との交戦記録も多いことから、王宮でも一時は海賊とつながっているのではないかと疑われていた。
ところが調べてみると、実態は逆だった。
海賊被害の絶えない南方航路で、小さな商船や漁船を護衛していた。
大手の船会社が採算を理由に寄りつかない港にも船を出し、冬になれば孤立する島へ食料や薬を運ぶ。武装船を持つのも、自分たちの船だけでなく、同じ海域を行く者たちを守るためだった。
「商会主は、『俺たちまで船を出さなくなれば、あそこの連中は冬を越せない』と話していたそうです」
セオドアが笑った。
「いい人なんだね」
「ええ。ただ、そのために経営はかなり苦しかったようです」
リリアから追加で借りた資金は、船の修繕と護衛船の増強に使われた。
さらに南方の国へ人を送り、正式な交易許可を取りつけ、現地の港と長期契約を結んだ。
現在ではリリアの交易商会から出資を受け、南方航路を担う商会として事業を広げている。
南から運ばれる砂糖、茶葉、香辛料、果実。
北へ運ばれる金属や農産物。
以前より多くの船が、少しずつ安全になった航路を行き交うようになっていた。
「リリア様は、提携がまとまった際に、『これなら遠くまでお砂糖を運んでいただけますわね』とおっしゃったそうです」
セオドアの表情が緩んだ。
「それはよかった」
「結果として、いずれもリリア様に大きな損失はございませんでした。不幸中の幸いでございました」
「うん。幸福の女神は、リリアにはよく微笑んでくれるね」
そう言ってから、セオドアは少し考えた。
「でも、これから大きなお金を動かすときには、王宮からも一人つけようか」
「補佐役を、でございますか」
「うん。投資先のことをきちんと調べられる人がいいな」
セオドアは次の報告書へ手を伸ばした。
◇
リリア・エルフォードには、一年に一日だけ、誰にも会わない日があった。
茶会も、夜会も、訪問も受けない。
その日だけは何の予定も入れず、朝から自室へ入り、翌朝になるまで出てこない。
何年も続いている習慣で、これまで一度も例外はなかった。
理由を尋ねられれば、リリアはいつも微笑んで答えた。
「昔、とても悲しいことがあった日ですの」
リリアは幼いころに母を亡くしていた。
母の名は、エレノア・エルフォード。
美しく、そしてひどく頭のよい女性だった。
若いころのエレノアは、自分が人より早く答えへたどり着くことを、特別なことだとは思っていなかった。
間違いがあれば指摘した。
よりよい方法を思いつけば提案した。
知らないことは尋ね、知っていることには正確に答えようと努めた。
十六歳のころ、ある晩餐会で、領地経営を自慢していた伯爵が穀物の備蓄について話していた。
エレノアは途中で計算が合わないことに気づいた。
「その数字ですと、三年目の冬を越せないと思います」
伯爵は笑った。
「お嬢さんには少し難しい話だったかな」
「いいえ。こちらを二度数えていらっしゃいます」
実際、その通りだった。
場が静まり返った。
伯爵は何事もなかったように話題を変えたが、翌週から、エレノアの耳には妙な言葉が入るようになった。
「あの方、殿方のお話に割って入ったのでしょう?」
「ずいぶん自信がおありなのね」
「奥方になったら、ご主人は大変でしょうね」
面と向かって責める者はいなかった。
笑顔で挨拶をしたあと、少し離れたところで囁かれる。
別の会合で意見を求められたときも、尋ねられたからと答えた。
すると年上の令嬢が、扇の向こうで笑った。
「まあ。それほどお詳しいなら、もう全部エレノア様に決めていただけばよろしいのでは?」
周囲に小さな笑いが起きた。
帰り際には、「冗談も通じないのね」という声が聞こえた。
次に意見を求められたとき、エレノアは一度、周囲の顔を見てから答えた。
その次は、少しだけ短く答えた。
さらにその次には、「私にはよくわかりませんわ」と笑った。
ある年長の婦人が、親切そうな顔で言ったことがある。
「あなたほど聡明なら、黙って微笑んでいるほうが得だということも、おわかりになるでしょう?」
若きエルフォード公爵と出会ったのは、そんなころだった。
ある会合で、新しい水路の計画が議題になった。
資料を一目見ただけで、エレノアには問題がわかった。
このままでは、南側の土地まで十分な水が届かない。
けれど何も言わなかった。
会合が終わり、人が減ったあとも、若き公爵だけは資料を持ったまま首を傾げていた。
「エレノア嬢」
「はい」
「これ、少し見てもらってもいいかな」
差し出された紙へ目を落とす。
「この水量で、本当に南まで届くと思う?」
エレノアは口を閉じた。
言わないほうがいい。
何度もそう学んできた。
それなのに、彼があまりにも真剣な顔で資料を見ていたから。
「……届きませんわ」
つい答えてしまった。
すぐに視線を落とす。
「申し訳ありません」
「どうして謝るの?」
「余計なことを申しました」
「でも、届かないんだろう?」
「……はい」
「どこが悪いのか、教えてくれる?」
エレノアは彼を見た。
からかわれているわけではない。
本当に知りたいのだとわかった。
「こちらです。この勾配ですと、数年もすれば土砂がたまってしまいます。南へ十分な水を送るのでしたら、こちらを少し下げたほうが……」
そこまで話して、エレノアは彼の顔を見た。
「……申し訳ありません。また余計なことを」
「まだ途中だったでしょう?」
「でも」
「よかったら、最後まで教えてくれる?」
エレノアはしばらく彼の顔を見つめたあと、もう一度資料へ視線を戻した。
「では……こちらの水路を少し狭くすると、水の勢いを保てます。そうすれば、南側まで届くはずです」
若き公爵は熱心に頷いた。
「なるほど」
「本当に、ご不快ではありませんの?」
「どうして? 僕は助かったけど」
「……本当に?」
「うん。教えてくれてありがとう」
エレノアはしばらく彼を見つめた。
「変わった方ですのね」
「それは、褒められているの?」
少し迷ってから、エレノアは小さく笑った。
彼は花が好きだった。
甘い菓子も好きだった。
悲しい物語を読めば泣き、長年飼っていた犬が死んだときには三日ほど目を腫らしていた。
けれど、人の才能を怖がらなかった。
エレノアが数字の間違いに気づけば、素直に聞く。
知らなかったことを教えれば、楽しそうに続きを尋ねる。
ある日、二人で帳簿を見ていたとき、エレノアが恐る恐る口を開いた。
「こちら、数字が一つ違うようですわ」
「本当?」
「ええ。たぶん、前の頁から写すときに」
「ああ、本当だ。ありがとう」
何の迷いもなく書き直す。
エレノアは彼の横顔を見た。
「……気になりませんの?」
「何が?」
「何でもございません」
そう答えたものの、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
二人が親しくなるにつれて、周囲からは遠回しな忠告が増えた。
「あまりに才気の勝ったご婦人を奥方になさると、ご当主として気苦労も多いでしょう」
ある年長の貴族がそう言ったとき、若き公爵は少し考えた。
「彼女が聡明であることも、私は誇らしく思っています」
相手がわずかに目を見開く。
「私が気づかないことに彼女が気づくこともあるでしょうし、私より早く答えへたどり着くこともあるでしょう。それを教えてもらえることを、私は幸せなことだと思っております」
穏やかな声だった。
エレノアは何も言わず、壁際でその言葉を聞いていた。
帰りの馬車で、しばらく窓の外を見ていたエレノアが口を開いた。
「あなたは、本当に変わっていますわ」
「また?」
「ええ」
「嫌かな」
エレノアは少しだけ視線を伏せた。
「……いいえ」
それでも、一度だけエレノアは身を引こうとした。
昔の彼女を知る者から、公爵家にはもっと控えめな女性のほうがふさわしいという声が出始めたからだった。
「あなたまで、私のことで悪く言われています」
そう告げると、若き公爵の目にみるみる涙がたまった。
エレノアは困ったように微笑んだ。
「また泣いていらっしゃるの?」
「君がそんなことを言うからだよ」
「私は、あなたを困らせたくないだけですわ」
「僕は困っていない」
「でも」
「僕が困るのは、君がいなくなることのほうだ」
エレノアは黙った。
若き公爵は涙を拭った。
「君と結婚したいんだ。そこだけは、僕に決めさせてくれないかな」
翌日、彼は国王の前でも同じ気持ちを口にした。
「彼女が聡明であることも、私は誇らしく思っております。私が気づかないことに気づいてくれる人が隣にいてくれることを、私は幸せなことだと思います」
その年、二人は結婚した。
◇
結婚後のエレノアは、以前ほど誰にでも自分の考えを話さなかった。
けれど夫の前ではよく話した。
領地のこと。
読んだ本のこと。
新しく思いついたこと。
夫はそれを聞くのが好きだった。
やがて、娘が生まれた。
リリアは驚くほど母に似ていた。
言葉を覚えるのが早く、数字にも強い。
四歳になるころには、父の机に広げられた領地の地図を見て、
「こちらへ道をつないだほうが、荷馬車が早く着きますわ」
と言った。
父は目を輝かせた。
「すごいね、リリア!」
母も笑った。
けれどその夜、エレノアは眠る娘の顔を、長いあいだ見つめていた。
病が見つかったのは、それから間もなくのことだった。
最初は、少し長引く熱だと思われていた。
けれど熱は下がらず、エレノアが起きていられる時間は少しずつ短くなった。
夫は王都中の医師を呼んだ。
外国から薬を取り寄せた。
効く可能性があると聞けば、どれほど遠い場所へでも人を走らせた。
やがて医師から、もうできることはほとんどないと告げられた夜にも、彼だけは首を振った。
「まだ何かあるでしょう」
「旦那様」
「別の薬は? ほかの国には? まだ試していないものがあるはずだ」
「あなた」
寝台から呼ばれ、彼はすぐに振り返った。
エレノアが手招きをしている。
「少し、お休みになって」
「君が治ったら休むよ」
「それでは、ずっと休めないかもしれませんわ」
「そんなことを言わないで」
声が震えた。
「お願いだから」
エレノアは痩せた手を伸ばし、夫の頬へ触れた。
「本当に、よく泣く方」
「君のことになると仕方ないだろう」
「ええ」
エレノアは優しく笑った。
「そういうところも、好きでしたわ」
夫はとうとう俯いて泣いた。
数日後、エレノアは朝からほとんど目を開けられなくなっていた。
昼を過ぎたころ、少しだけ意識がはっきりすると、夫へ頼んだ。
「リリアと、二人で話してもいいかしら」
夫はすぐには答えなかった。
「……僕もいては駄目?」
「少しだけですわ」
「すぐ呼んでくれる?」
「ええ」
彼は何度も振り返りながら部屋を出た。
「リリア」
「はい、お母様」
幼い娘を寝台のそばへ呼び、エレノアは細くなった指で頬を撫でた。
「あなたは、とても賢い子ね」
リリアは嬉しそうに笑った。
「お父様も、いつも褒めてくださいます」
「そうね」
エレノアも微笑んだ。
「でもね、リリア。人は、自分より賢い人を見て、必ず喜んでくれるわけではないの」
リリアは少し考えた。
「お父様も?」
「いいえ」
エレノアは優しく笑った。
「お父様は、あなたが何かをわかるたびに、とても嬉しそうになさるでしょう?」
「はい」
「だから私は、お父様を愛しているのよ」
リリアは母の言葉を聞いて、小さく頷いた。
「でも、世の中の人がみんなお父様のような人とは限らないわ」
「変ですわ」
「ええ。変ね」
母は小さく笑った。
「だから、覚えておいて。賢いことを、みんなに知ってもらう必要はないの」
「隠すの?」
「隠してもいいわ」
「わからないふりも?」
エレノアは少しだけ考えた。
「してもいいわ」
「嘘をつくの?」
「嘘をつかなくてもいいのよ」
娘の淡い金色の髪を、ゆっくり撫でる。
「人は、自分が見たいものを見るから」
「見たいもの?」
「ええ。本当のあなたを、誰にでも全部見せなくていいの」
幼いリリアには、その意味のすべてはわからなかった。
けれど、母が自分だけへ話してくれたことだった。
だから、忘れなかった。
母が亡くなってから、リリアは自分を見せる相手を選ぶようになった。
わからないふりをする。
気づかないふりをする。
相手が、自分をどう見たいのかを邪魔しない。
すると、人は不思議なほどよく喋った。
この娘ならわからない。
この娘なら騙せる。
そう思った人間ほど、聞いてもいないことまで自分から話してくれた。
最初は、母に言われたとおりにしていただけだった。
いつしか、それを見ること自体を少し面白いと思うようになった。
数年後、市場の商人から、ただの川石を「世界に一つしかない幸運の石だ」と勧められたときも、リリアは目を輝かせてその話を聞いた。
そのころにはもう、相手が自分に何を見ているのか、よくわかっていた。
◇
それから長い年月が過ぎた。
アルベルトは王太子の座を失い、弟のセオドアが新たな王太子となった。
そして、その婚約者に選ばれたのがリリアだった。
王太子妃となる日はまだ先だったが、社交界ではすでに次代の王太子妃として見られている。
ある夜会で、オフィーリア・グランヴィル公爵令嬢がリリアへ声をかけた。
王家とも遠い血縁があり、家格も高い。
アルベルトが失脚してセオドアが王太子となった直後には、一時、彼女との縁談もあるのではないかと噂されたことがあった。
本人も、そのつもりでいたらしい。
「リリア様は今年も、あの日にはどなたともお会いにならないの?」
「ええ。そのつもりですわ」
「毎年、同じ日なのでしょう?」
「そうですわね」
オフィーリアは扇の向こうで笑った。
「王太子妃になられても、同じようになさるのかしら」
「そのときになってみないと、わかりませんわ」
「でも、国のお仕事には待っていただけませんでしょう?」
周囲にいた令嬢たちが、わずかに視線を交わした。
「それは、今考えることではないでしょう」
鋭い声を出したのは、ベルク伯爵夫人となったヴィオラだった。
「まだ起きてもいないことを心配して、本人へ嫌味をおっしゃる必要がありますの?」
「まあ、ベルク伯爵夫人。嫌味だなんて」
「では、何なのかしら」
ヴィオラがもう一歩踏み込もうとしたとき、背後から穏やかな声がした。
「その日は今のところ、公務の予定はないよ」
セオドアだった。
オフィーリアの表情がわずかに固まる。
「殿下」
「リリアは毎年かなり前からその日を空けている。誰かとの約束を突然断っているわけでもないし、今のところ困っている人もいないよ」
「私はただ、将来のことを心配して――」
「心配してくれてありがとう」
セオドアは微笑んだ。
「必要になったら、僕とリリアで考えるよ」
それ以上、オフィーリアが続ける余地はなかった。
けれど彼女はやめなかった。
ある茶会では、慈善事業の話をしている最中、突然リリアへ話を振った。
「リリア様は王太子妃になられるのでしょう? こういうことにもお詳しいのでしょうね」
周囲の視線が集まる。
「孤児院への支援額を増やすお話ですの。リリア様でしたら、いくらくらいが適切だと思われる?」
金額だけを尋ねれば、答えにくい。
オフィーリアはそう思っていた。
リリアは少し首を傾げた。
「私でしたら、先に冬までに必要な食料とお薬の量を伺いますわ」
「まあ」
「お子様が何人いらっしゃるのかもわかりませんし、暖房に必要な薪の量も地域によって違うでしょう? それから決めたほうがよいのではなくて?」
「そうですわね」
リリアは素直に感心したように笑った。
「オフィーリア様は、こういうことをいろいろお考えになっていらっしゃるのね。本当に思慮深くていらっしゃるわ」
「……ありがとうございます」
褒められたはずなのに、少しも嬉しくなかった。
別の日には、オフィーリアは白い花束を用意した。
人の多い場所で、わざと手渡す。
「毎年、亡きお母様を偲ばれるころだとうかがいましたので」
リリアは花束を受け取った。
「まあ。とても綺麗ですわ」
「……お気に召して?」
「ええ。ありがとうございます」
本当に嬉しそうだった。
悲しそうな顔もしない。
困った様子もない。
オフィーリアは、笑顔のまま扇を握りしめた。
やがて彼女は、リリアが一年に一度だけ必ず誰とも会わないことを、あちこちで話すようになった。
悪口を言うわけではない。
「私は心配しているだけですの」
と前置きして、
「王太子妃になられても、毎年お休みになるのでしょうか」
と首を傾げる。
それだけで、周囲が勝手に続きを話してくれた。
前王太子との婚約中にも、リリアは騙されやすい、王太子妃など務まらないと言いたい放題に言われていた。
そのころの空気を覚えている者は多い。
同じような声が、少しずつ増え始めた。
そんなころ、グランヴィル公爵家が大規模な慈善祝祭を主催することになった。
王家の後援を受け、地方からも多くの貴族や商人が集まる。
オフィーリアは日程を決める席で、一つの日を強く希望した。
リリアが、毎年誰にも会わない日だった。
王太子と、その婚約者であるリリアにも正式な招待状が届いた。
日付を見たセオドアは、しばらく黙っていた。
「行かなくていいよ」
リリアへ招待状を見せたとき、最初にそう言った。
「僕一人で出席する」
「でも、王太子殿下と婚約者としてご招待いただいておりますわ」
「だから?」
「参ったほうがよいでしょう」
「リリア」
セオドアの声が少し低くなる。
「その日は、君にとって大切な日なんだろう」
リリアは答えず、わずかに目を伏せた。
セオドアはそれを肯定と受け取った。
「なら、休んでいい」
「お優しいのね」
「一年に一日くらい、誰にも会いたくない日があってもいいだろう」
リリアは少しだけ考えたあと、いつものように微笑んだ。
「私は大丈夫ですわ」
「……本当に?」
「ええ。参ります」
セオドアは、それ以上止めなかった。
◇
祝祭が近づいたある日、王宮の廊下で、オフィーリアの侍女がミーナへ声をかけた。
「祝祭の日は、王宮で殿下と合流なさるのでしょう?」
「ええ。ですが、詳しい予定は――」
「西の大通りは、当日ずいぶん混むそうですわ」
そこへリリアが戻ってきた。
「そうなの?」
「はい。商人の荷車も多いそうですから、東街道から回られたほうが早いと思います」
「まあ。では、そちらから参りましょうか」
ミーナが振り返る。
「お嬢様」
「王宮には、午前の鐘が三つ鳴るころまでに着けばよいのよね?」
「はい、ですが」
リリアは少し考え込むように首を傾げた。
「でしたら、何時ごろお屋敷を出ればよいのかしら」
オフィーリアの侍女がすぐに答えた。
「午前の鐘が二つ鳴るころでしたら、余裕があるかと」
「まあ。では、そういたしますわ」
リリアは嬉しそうに笑った。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「とんでもございません」
侍女は丁寧に頭を下げた。
二人きりになると、ミーナはすぐに眉を寄せた。
「お嬢様。あまり簡単に道順やお時間をお話しになってはいけません」
「でも、親切に教えてくださったのでしょう?」
「そういう問題ではございません」
「難しいのね」
「本当に……」
ミーナはため息をついた。
リリアは、にこにこ笑っていた。
その数日後には、オフィーリアの側には、リリアが当日使う馬車のことまで伝わっていた。
驚くほど簡単だった。
少し尋ねれば、誰かが答える。
リリア本人も、疑う様子すらない。
何時に屋敷を出るのか。
どの道を使うのか。
どの馬車を使うのか。
王宮のどの門へ向かうのか。
知りたいと思ったことが、次々に手に入った。
オフィーリアは最初、遅刻させるだけのつもりだった。
あれほど大きな祝祭で、王太子の婚約者が遅れて現れれば、少しくらい評判に傷がつく。
それでよかった。
けれど、机の上に集まった情報を見ているうちに、別の考えが浮かんだ。
こんなにも簡単なのだ。
王太子の婚約者だというのに。
誰かを疑うことも知らず、自分がどこを通るのかまで教えてしまう。
もし、遅れるだけではなく。
あの馬車が王宮まで来なかったら。
リリア・エルフォードがいなくなれば。
セオドアの隣は、もう一度空く。
一度浮かんだ考えは、消えなかった。
むしろ時間が経つほど、それ考えが惜しく思えてきた。
「当日、馬車を止められるかしら」
オフィーリアは侍女へ尋ねた。
「道を塞ぐのでしょうか」
「それでは騒ぎになりますわ」
「では、馬車のほうに」
侍女も少し考えた。
「工房へ出入りしている者を、従者が一人知っております」
「そう」
オフィーリアは扇を閉じた。
「確実に止めてちょうだい」
「どの程度まで?」
ほんの一瞬、答えを迷った。
「……多少、馬車が壊れても構わないわ」
◇
祝祭当日の朝、リリアはミーナへ言った。
「あなたは先に会場へ行ってくださる?」
「私が、でございますか?」
「ええ。控室を見ておいてほしいの。セオドア様と合流してからでは慌ただしくなるでしょう?」
「ですが、お嬢様のおそばには」
「御者も護衛もおりますわ」
「……本当に大丈夫ですか?」
「もちろん」
いつもの笑顔だった。
ミーナはしばらく迷ったものの、一足先に祝祭会場へ向かった。
その少しあと、リリアを乗せた馬車が、エルフォード公爵邸を出た。
予定どおり東街道を通り、王宮へ向かう。
けれど、馬車は王宮へ到着しなかった。
「殿下」
執務室へ入ってきた側近の顔を見て、セオドアはすぐに立ち上がった。
「何があったの?」
「エルフォード公爵令嬢の馬車が、東街道で事故に遭いました」
セオドアの表情が消えた。
「リリアは?」
「まだ詳細が届いておりません」
「原因は?」
「走行中に車輪が外れたとのことです」
「工房と整備担当者を確認して。今日の経路を知っていた者も」
「はい」
そこへ、別の衛兵が駆け込んできた。
「現場から追加報告です。車軸の留め具に、人為的な細工があった可能性が高いと」
セオドアは数秒、何も言わなかった。
「ミーナは?」
「先に祝祭会場へ向かったと」
「呼び戻して。すぐに」
ミーナは王宮へ戻されると、数日前にオフィーリアの侍女から道順を尋ねられたことを話した。
「名前は?」
「マリエルです」
「ほかには?」
「西の大通りは混むから東街道へ、と。お嬢様は、その場で出発のお時間まで……」
ミーナの顔色が悪くなる。
「私、止めたのです。あまり簡単にお話しにならないでくださいと。でも、お嬢様は……」
セオドアは最後まで聞いてから、側近へ向き直った。
「まず、その侍女を確保して。グランヴィル家から外へ出る手紙も確認を」
「はい」
「昨日から今日にかけて、グランヴィル家からまとまった現金を受け取った者を調べて。馬車工房に出入りした者は、別々に話を聞いて」
「承知しました」
「工房の帳簿も押さえて。関係者同士を会わせないように」
侍女を押さえると、金を渡した従者の名が出た。
従者の出入りを調べれば、馬車工房の職人へつながった。
工房には金の受け渡しを見ていた者がいて、職人もほどなく口を割った。
日が傾くころには、オフィーリアまで一本の線でつながっていた。
◇
そのころ、グランヴィル公爵家の祝祭は予定どおり開かれていた。
王太子もリリアも姿を見せない。
事情を知らない客たちはざわついた。
オフィーリアは、心配そうな顔をしていた。
「やはり、いらっしゃらないのですね」
周囲に聞こえるように、小さくため息をつく。
「これほど大きな催しなのに……」
「王太子殿下までお見えにならないとは」
誰かが言った。
オフィーリアは悲しそうに目を伏せた。
「私には何とも申し上げられませんわ。ただ、殿下にもいろいろとお考えがおありなのでしょう」
「毎年、その日はどなたともお会いにならないのでしたね」
「ええ。私も何度か心配申し上げたのですけれど」
内心では、別のことを考えていた。
オフィーリアは、扇子で口元を隠した。
祝祭が終わりに近づいたころ、会場の大扉が開いた。
王宮衛兵が何人も入ってくる。
音楽が止まり、客たちが一斉に振り返った。
衛兵の隊長は、まっすぐオフィーリアの前まで進んだ。
「オフィーリア・グランヴィル公爵令嬢」
「……何でしょう?」
「王太子殿下の命により、身柄を拘束いたします」
初めて、オフィーリアの顔から笑みが消えた。
◇
王宮へ連れてこられたオフィーリアを待っていたのは、セオドアだった。
怒鳴らなかった。
机を叩くこともなかった。
むしろ、あまりにも静かだった。
「これは何かの間違いですわ」
オフィーリアが言った。
「私は何もしておりません」
セオドアは答えなかった。
机の上へ、一枚ずつ書類が置かれていく。
グランヴィル家から出た金の記録。
従者の証言。
侍女の証言。
工房への出入りの記録。
オフィーリアの顔から、少しずつ血の気が引いていった。
「私は……ただ、少し遅れればいいと思っただけです」
セオドアは黙っている。
「馬車を壊せとは命じておりません。本当ですわ。私は、ただ確実に止めてほしいと――」
「車輪に細工をした馬車が、どうなるか想像できなかった?」
声は低かった。
「私は、そこまでは知らされて――」
「想像しなかったんだ」
オフィーリアが口を閉じた。
「リリアが乗っていると知っていて」
「殿下、私は本当に――」
「君は」
セオドアが静かに遮った。
「リリアがいなくなればいいと思った?」
オフィーリアの唇が震えた。
答えはなかった。
けれど、その沈黙で十分だった。
いつも穏やかな灰色の瞳から、すっと光が消えた。
オフィーリアが息を呑む。
「殿下……」
「もういい」
声は静かだった。
「これ以上、君の言葉を聞いていると」
セオドアは一度だけ目を閉じた。
「僕は君を、法に渡せなくなるかもしれない」
オフィーリアの顔が強張った。
その意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「連れていってください」
衛兵へ向けた声には、もう何の感情もなかった。
「この先は正式な手続きに従って。僕の感情で刑を決めないように」
衛兵がオフィーリアの腕を取る。
彼女が何か叫んだ。
セオドアは振り返らなかった。
「僕はリリアのところへ行く」
◇
セオドアがエルフォード公爵邸へ到着したころには、すでに日が傾いていた。
王宮へ届いているのは、事故に遭ったリリアが公爵邸へ戻されたという報告だけだった。
「リリアは?」
玄関で迎えたエルフォード公爵へ尋ねる。
「自室におります」
「会えますか」
父は少し困った顔をした。
「申し訳ございません、殿下」
「具合が悪いのですか」
「安静にしております。それと、本人が今日は誰にも会いたくないと」
セオドアが黙った。
「顔を見るだけでも」
「殿下」
父の声は柔らかかった。
けれど、譲る気はない。
「リリアが会いたいと言えば、私は止めません。しかし、会いたくないと言っている娘を、王太子だからという理由で会わせるつもりもありません」
セオドアはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり息を吐いた。
「……そうですね」
持ってきた花と本、菓子を預ける。
最後に、一通の手紙を差し出した。
「これも、渡していただけますか」
「もちろんです」
その日は、それ以上求めずに帰った。
翌日も手紙が届いた。
その次の日も。
セオドアの手紙は、どれも穏やかだった。
王宮であった小さな出来事や、庭に咲いた花のこと、新しく見つけた本のこと。
返事は急がなくていい。
今はゆっくり休んでほしい。
元気になったら、また会いたい。
そんな言葉が丁寧な文字で綴られていた。
一方、ヴィオラから届く手紙は、毎回「無事ならまず返事をなさい」という言葉から始まり、そのあとには、食事はきちんと取っているのか、医師の言うことを聞いているのか、いつまで人を心配させるつもりなのかと、小言がびっしり続いていた。
◇
捜査が一段落し、事件が正式に裁判へ送られるころ、事故に遭った馬車が、公爵邸へ運び戻された。
護衛長が損傷を確認しながら、父へ報告した。
「それにしても、本当に幸運でした」
「何がだい?」
「馬車の車台です。公爵様が事前に補強をお命じくださっていたのでしょう?」
父の動きが止まった。
「私が?」
護衛長が不思議そうな顔をする。
「はい。お嬢様が前日に厩舎へいらして、『お父様が念のため補強するようにと』おっしゃいましたので」
父は黙って馬車を見る。
「御者も、元騎兵のロイドを使うようにと。あの者でなければ、車輪が外れた瞬間に馬を抑えられなかったかもしれません」
「……そうか」
「さすが公爵様でございます」
父は少しだけ笑った。
「ありがとう」
護衛長が去ると、父は壊れた馬車を見たまま、長い息を吐いた。
「エレノア」
額へ手を当てる。
「君の娘を、そろそろどうにかしてくれないかな。僕の寿命がなくなりそうだよ」
◇
オフィーリアの事件は正式な裁判へ移された。
馬車への工作に関わった者だけではなく、事故後に証拠を隠そうとした者や、捜査を妨害しようとした者についても調べられた。
グランヴィル公爵家からは、何度か王宮へ使者が来た。
「どうか、オフィーリア様にご寛大なご判断を」
深く頭を下げた使者に、セオドアは静かに答えた。
「刑を決めるのは法です。僕ではありません」
使者の肩から、わずかに力が抜けた。
「では――」
「ただし」
セオドアは穏やかに微笑んだ。
「彼女を拘束し、証拠を保全し、裁判へ送るよう命じたのは僕です」
使者の顔が上がる。
「そのことは、ゆめゆめお忘れなきように」
◇
それからしばらくして、裁判が始まり、王都の騒ぎも少しずつ落ち着き始めた。
エルフォード公爵は、娘の部屋を訪ねた。
今も、リリアの部屋には使用人を入れないことになっている。
父は自分で、二通の手紙を持って扉を開けた。
真珠色のシルクを張った長椅子の上で、リリアは軽い羽毛布団を腰までかけて寝転がっていた。
顔色はよい。
包帯もない。
傍らには読みかけの本があり、その向こうには、セオドアから届いた手紙が何通も重ねられている。
小さな銀の皿には、海運商会から届いた南方の柑橘蜜と、小ぶりな白いマシュマロが並んでいた。
新しい南方航路が正式に開かれ、最初の船が無事に戻った祝いに送られてきたものだという。
リリアは銀の串で、表面だけ軽く炙られたマシュマロを一つ刺し、琥珀色の蜜へ沈めていた。
「リリア」
「お父様」
「具合はどう?」
リリアは少し考えた。
「馬車のことを思い出しますと、今でも胸が痛みますわ」
父は娘の健康そうな顔を見た。
「そうかい」
「ええ」
父は何も言わず、一通目の封筒を差し出した。
「殿下から。今日も来たよ」
「まあ」
リリアは受け取った。
「毎日だね」
「お優しい方ですもの」
王家の封蝋を指先で撫でながら、少しだけ笑う。
「あんなに頑張ってくださったのですもの。そろそろ何か、ご褒美を差し上げないといけませんわね」
父は娘を見たが、何も尋ねなかった。
もう一通も渡す。
「こちらはヴィオラから」
「ヴィオラ様?」
「使者が言うには、明日の午後に来るそうだよ。もう君の返事は待たないって」
リリアはくすりと笑った。
「まあ。とうとう限界ですのね」
「だいぶ我慢したと思うよ」
「では、明日はお会いしないといけませんわね」
そう言いながら、リリアは少し名残惜しそうに羽毛布団へ身を沈めた。
父は向かいの椅子へ座り、しばらく娘を眺めていた。
「ところで、リリア」
「はい?」
「皆、お母様に関係する日だと思っているようだね」
リリアはマシュマロを柑橘蜜へ沈めたまま、顔を上げた。
「そうでしょうね」
父は少しだけ首を傾げた。
「本当は、ぴーちゃんの日だろう?」
「ええ」
ぴーちゃん。
リリアが幼いころ、庭で拾った小鳥だった。
翼を傷めて飛べなくなっていたので、毎日世話をした。
やがて傷が治り、元気になった。
そして、庭から空へ放してやった。
それ以来、リリアは毎年その日だけ、誰にも会わずに過ごしている。
「もうずいぶん昔のことなのに」
「お別れは悲しいものですわ」
リリアは真面目な顔で答えた。
父は娘を見つめた。
「お母様の命日は、いつも通りに過ごしているのにね」
そのときだけ。
リリアの指先が、ほんのわずかに止まった。
「皆様には感謝しているのですわ」
「何をだい?」
リリアは小さなマシュマロを琥珀色の蜜へ沈める。
「見つけやすいところに甘いものがあると、それで満足してくださるでしょう?」




