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「お前との婚約は解消する」と義妹を選んだ王太子から離れたら、今度は私個人へ王宮監査局から声がかかりました

掲載日:2026/03/19

私が席を降りると決めたのは、婚約破棄を告げられた瞬間ではない。


 もっと前から、ずっと考えていた。


 王太子セドリック殿下は、何かあるたび義妹のマリアンヌを庇う。


 茶会で失礼があっても、夜会で手順を違えても、報告書を落としてインクをぶちまけても、決まって言うのは同じ言葉だ。


「彼女はまだ若い。寛容になれ」


 そのたびに私は黙って後始末をした。


 茶会の招待客には手紙を書き、夜会の配置は引き直し、報告書は徹夜で作り直す。


 王宮内の贈答目録が合わなければ私が補助線を引き、南方諸侯との会食順が揉めそうなら私が水面下で順を整える。


 視察の日程が季節祭とぶつかれば、警備側へ余白を作るよう先回りして伝え、予算が足りなければ無駄な飾りを削って体面だけは守れる形へ直す。


 王太子教育の進捗報告ですら、実際には私が関連書類を束ねて「殿下の判断」として出せる形へ並べ替えていた。


 表に出る人は一人でも、その背後で順序と辻褄を合わせる手は何本も要る。


 私はずっと、その見えない手の役をしていた。


 そして翌朝には何事もなかった顔で、王宮の業務を先へ進める。


 典型的だったのは、冬至祭の晩餐会だ。


 マリアンヌは卓上花の色味が地味だと気に入りませんでした。そこで私に一言もなく、前夜になって飾花の大半を白薔薇へ差し替えようとしたのだ。


 だが白薔薇はその時期、北部貴族の喪章色と重なる。


 もしそのまま出していれば、二家は露骨に顔を曇らせただろう。


 私は夜更けにその報告を受け、慌てて温室側へ使いを走らせ、白を減らして淡金と薄紅へ組み直させた。


 当日、殿下はただ「見映えが良くなったな」と笑っただけだった。


 もちろん、誰が夜中まで花材表を引き直したかなど知らないままに。


 秋の狩猟祭でも似たことがあった。


 マリアンヌは来客の休憩幕舎へ、思いつきで菓子卓を増やしたがった。


 だがその位置では、獲物搬入口とぶつかる。


 私は侍従長へ掛け合い、卓を一つ減らす代わりに給仕の巡回を増やす形へ直した。


 殿下はその場で義妹へ「気が利くな」と褒め、私は背後で幕舎配置図を持ったまま立っていた。


 殿下はそれを、空気のようなものだと思っていたのだろう。


 あるいは、誰がやっても同じだと。


 だから春の夜会で、彼はあまりに軽く言った。


「エリシア、お前との婚約は解消する」


 隣には義妹のマリアンヌがいて、わざとらしく肩を震わせている。


 周囲の貴族たちは息を呑んだ。


 私は一歩だけ頭を下げる。


「承知いたしました」


 それだけ言って、手袋の指先を整えた。


 殿下は拍子抜けした顔をする。


「……随分あっさりしているな」


「長くお仕えしましたもの。最後くらいは見苦しくなく致します」


 会場が静まった。


 マリアンヌが勝ち誇ったように顎を上げるのが見える。


 けれど私は、もう彼女を見ていなかった。


 見るべきなのは、次の手順だけだ。


 今夜で、王太子婚約者としての席は終わる。


 ならば明朝からは、私個人として動けばいい。


     ◇


 翌日、私は王宮へ上がらなかった。


 代わりに、執務室へ一通の書状を送った。


『婚約解消に伴い、これまで私個人の裁量で補っていた非公式業務を本日付で終了いたします』


 文面はそれだけだ。


 余計な恨み言は書かない。


 だが、その一文で十分だった。


 昼を過ぎる頃には、王宮の中が目に見えてざわつき始めたらしい。


 まず、南方諸侯との贈答品の調整表が見つからない。


 次に、来月の税収見込みをまとめる予定だった補助帳簿が、誰にも読めない。


 さらに、王太子主催の視察予定に、同日に二つの会談が重なっていることが発覚した。


 西棟で予定されていた茶会は菓子の搬入刻限が記されておらず、侍従たちが朝から走り回る羽目になったという。


 来客用馬車の待機順も崩れ、表門で二家が鉢合わせしかけたと後で聞いた。


 極めつけは、その週末に予定されていた辺境伯家との会談だった。


 殿下は外交上の順列を軽く見ていたが、あの家は座席一つ、入室順一つで機嫌を損ねる。


 本来なら副宰相家との面会を先に置くべきではないのに、誰かが帳面へ逆順に記してしまっていた。


 その「誰か」が私でない以上、修正案を事前に回す者もいない。


 結果、辺境伯家からは不快の意をにおわせる書状が届き、王宮は火のついたような騒ぎになったらしい。


 それらはすべて、本来なら表向き担当者が別にいる仕事だ。


 だが実際には、誰かが穴を埋めなければ回らなかった。


 そしてその誰かが、私だった。


 翌々日には、さらに分かりやすい形で影響が出た。


 王太子名義で地方へ送るはずだった慰問物資の一覧に、肝心の封印番号が抜けていたのだ。


 そのままでは途中検閲で止まり、王家の面目に関わる。


 以前なら私が夜のうちに気づき、誰にも騒がせず差し替えていただろう。


 だが今回は違う。


 書類はそのまま差し戻され、王宮内で誰の責任かを押しつけ合うことになった。


 ようやく皆が知ったはずだ。


 今まで止まらなかったのは、もともと整っていたからではなく、止まる前に誰かが拾っていただけなのだと。


 しかも拾うだけではない。


 揉めそうな相手の機嫌、書記官の癖、侍従たちの手順の抜けやすい箇所まで見て、火が上がる前に湿らせていた。


 それを誰も仕事と呼ばなかっただけで、実際には一番面倒な仕事だった。


 人は派手な采配だけを見たがる。


 けれど実際に場を支えるのは、誰がどの扉から入り、どの順で頭を下げ、どの紙へ先に印を押すかといった、小さく見える段取りの方だ。


 私はその小さな段取りを、ずっと一人で拾っていた。


 拾って、整えて、何事もなかったように消してきた。


 だから、消えると困るのは当然なのだ。


 今さら慌てられても、私の役目が軽かったことにはならない。


 むしろ、遅すぎるくらいだった。


 気づくのが、やっと今だっただけだ。


 夕方、父が珍しく慌てた様子で私の部屋へ来た。


「エリシア、お前、王宮で何をしていたんだ」


「いろいろと」


「曖昧に言うな。殿下の執務室から使いが来たぞ」


「そうでしょうね」


 私は紅茶を置いた。


「帳簿の補助線、諸侯家との順番調整、夜会後の礼状の振り分け、式次第の差し替え、予算の不足分洗い出し。全部、婚約者として『ついでに』しておりました」


 父が絶句する。


「そんな話は聞いていない」


「聞かれませんでしたもの」


 父は額を押さえた。


 その顔を見て、少しだけ可笑しくなる。


 みな同じだ。


 私が黙っているから、そこに何もないと思い込む。


 王宮にとって私は、王太子の婚約者であると同時に、丁寧で便利な緩衝材でもあった。


 表向きは殿下が采配したことになり、その裏で波立つものを私が均している。


 誰もそこを役割として数えない。


 数えないまま、ある日当然のように切り離す。


 それで回ると思っているのだから、滑稽ですらあった。


     ◇


 その夜のうちに、王太子本人が訪ねて来た。


 無礼とまでは言えないが、婚約を切った相手の家へ即日乗り込んでくるあたり、かなり切羽詰まっている。


 応接間に通された殿下は、昨日の余裕が綺麗に消えていた。


「エリシア」


「ご用件は」


 私が促すと、殿下は一瞬だけ言葉に詰まった。


「王宮の業務が混乱している」


「それは大変ですね」


「他人事のように言うな」


「他人事ですもの」


 そこで、殿下の顔が強張る。


 ようやく分かったのだろう。


 婚約者の席を失った時点で、私はもう当然のように穴埋めを続ける立場ではない。


「お前が支えていたのなら、なぜ先に言わなかった」


「言っても、殿下は『彼女はまだ若い。寛容になれ』とおっしゃるでしょう?」


 沈黙が落ちた。


 私は静かに続ける。


「マリアンヌ様を庇うこと自体を責めるつもりはありません。ですが殿下は、庇うたびに、その後ろで誰が片づけていたかを一度も見ようとしなかった」


「……」


「それで婚約を解消なさったのです。でしたら、私は席を降りるだけです」


 殿下は唇を引き結び、視線を逸らした。


 昨日までなら、この人はもっと強く言い返してきただろう。


 だが今は違う。現実に王宮が回らなくなっている以上、私の言葉をただ感情論として切り捨てられない。


「戻ってくれ」


 やがて、絞り出すようにそう言った。


「婚約者としてでなくともいい。手伝ってくれれば……」


「お断りします」


 私は間を置かずに答えた。


「エリシア」


「私は補助線ではありません」


 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。


「殿下が義妹様を選ぶのなら、それはそれで結構です。けれど、私の仕事まで当然のように持っていけると思わないでください」


 殿下は言葉を失った。


 そこへ控えていたマリアンヌが、初めて怯えた声を出した。


「お義姉様、そんな……わたくし、そんな大事になるとは」


 私は彼女を見た。


 悪意だけの人ではないのだろう。けれど、軽く思いついたことの後ろで、誰が何を支払っているのかを知ろうとしない点では殿下と同じだった。


「大事にしていたのは、最初から王宮の方です」


 私が言うと、彼女は口をつぐむ。


「失敗しても、次の紙が出てきて、次の席次が整って、次の礼状が届く。そう見えていただけでしょう」


 マリアンヌは顔を伏せた。


 責め立てたいわけではない。


 ただ、もう見えない仕事として扱われるつもりがないだけだ。


 そこへ追い打ちのように、侍従が慌てて入ってくる。


「で、殿下、南方諸侯の順番が確定せず、先ほどの使者たちが……」


 殿下は顔色を変え、思わず振り返った。


 私は見てしまった。


 権威ではなく、単純な焦りの顔を。


 その瞬間、何かがきれいに終わった気がした。


 私は立ち上がり、一礼する。


「どうぞ、お急ぎくださいませ」


 殿下は何か言いたげだったが、結局何も言えずに去った。


 扉が閉まる。


 しばらくしてから、私はようやく息を吐いた。


 胸が軽い。


 痛みがないわけではない。


 けれど、それ以上に、ようやく自分の席へ戻れた感覚があった。


     ◇


 三日後、王宮から正式な文書が届いた。


 婚約解消の受理と、これまでの王宮補助業務への謝意。


 父は目を丸くし、母は珍しく機嫌よく笑った。


「結局、向こうも認めたのね」


「ええ」


「これからどうなさるの?」


 私は窓の外を見る。


 春の光が庭を照らしていた。


「まずは、私の名で仕事を受けます」


「王宮から?」


「ええ。でも、今度は補助線ではなく」


 必要なら、条件を出す。


 必要でないなら、受けない。


 それだけのことなのに、今まで一度も許されていなかった。


 そんな話をしていた翌朝、我が家へ別の使者が来た。


 王宮の紋ではない。王家直属の監査局、その印だった。


 応接間で文書を開いた父が、今度は本気で目を見張る。


「エリシア。監査局長からだ」


「監査局長?」


 私は手紙を受け取り、目を走らせた。


 文面は簡潔だった。


『王宮内の記録統制と調整業務について、貴女の手腕を高く評価する。婚約関係とは独立した条件で、期間限定の監査補佐官就任を打診したい』


 思わず、指先が止まる。


 婚約者としての情けでも、王太子の手足としての呼び戻しでもない。


 私自身の仕事に対する依頼だった。


 同封された別紙には、権限範囲と報酬まで細かく記されている。


 ずいぶん誠実な書式だ。


 しかも末尾には短い追記があった。


『貴女が引いていた補助線は、王宮にとって既に骨組みであった』


 私はしばらくその一文を見つめた。


 誰かが、見ていたのだ。


 殿下ではなくても。


 義妹を庇うかどうかとは別の場所で、私の仕事を仕事として数えていた人がいた。


 母がそっと尋ねる。


「受けるの?」


「受けます」


 答えは、驚くほどすぐに出た。


「ただし、条件は確認します。今度は曖昧なまま働きません」


 父が複雑そうな顔をしてから、やがて小さく頷いた。


「……その方がいい」


 数日後、私は王宮の監査局へ足を運んだ。


 迎えに出た局長は、年配の厳格そうな人物だったが、私を見るなり単刀直入に言った。


「王太子殿下の婚約者としてではなく、エリシア嬢個人へ来てもらった」


「承知しています」


「我々は、貴女が何を片づけてきたか把握している。むしろ把握が遅れたことを恥じるべきだ」


 私は少しだけ眉を上げた。


 王宮へ戻るのに、胸が重くない。


 それどころか、ようやく正面の扉から入れたような気さえした。


 局長は机上の書類を私へ差し出す。


「まずは南方諸侯まわりの記録統合から頼みたい」


「条件を確認してからでよろしいでしょうか」


「もちろんだ」


 即答だった。


 私は書類をめくる。


 権限範囲、担当補佐官の人数、閲覧可能な帳簿群、臨時差し戻し権まで、驚くほど明快に記されていた。


 曖昧な美徳ではなく、仕事としての線引きが先にある。


 これだけで、この席が以前とはまるで違うものだと分かる。


「一点、確認を」


「何だ」


「私は殿下の顔を立てるための緩衝材にはなりません」


「そのつもりで呼んではいない」


「必要であれば、記録不備や手順違反は王太子系統にもそのまま戻します」


 局長は一拍置いてから、むしろ満足そうに頷いた。


「それでいい。戻せる者がいないから困っている」


 私はそこで、ようやく肩の力を抜いた。


 仕事の話が通じる。


 たったそれだけで、こんなにも息がしやすい。


 局長は最後に、執務机のある一角を示した。


「そこを使ってくれ」


 窓際の机だった。


 広すぎず、狭すぎず、必要な帳簿をすぐ広げられるだけの幅がある。


 付属机ではない。訪問客用の椅子でもない。


 最初から私が使う席として、用意されている。


「……ありがとうございます」


「礼は成果で返してくれればいい」


 その言い方に、私は少しだけ笑った。


 今まで欲しかったのは、大げさな謝罪でも惜しむ声でもなかったのだと思う。


 ただ、座るべき席があること。


 そこに座る資格を、言葉ではなく役割で示されること。


 その日のうちに、私は試しに南方諸侯の順列表を一枚見直した。


 案の定、二家の訪問順が逆になっている。しかも理由欄は空欄のままだ。


 私は赤で修正を入れ、必要な根拠を書き添えて局長へ戻した。


 局長は一読しただけで短く言う。


「十分だ。明日から正式に回す」


 それだけで話が通る。


 驚くほど簡単で、少しだけ笑ってしまった。


 今までは、見えない場所で整えた結果だけが当然のように消費されていた。


 けれどここでは違う。


 私が引いた線が、そのまま私の名で残る。


 その瞬間、私は確信する。


 ここは、以前の席とは違う。


 誰かの気分で付け外しされる位置ではない。


 役割が先にあり、その役割に対して私が呼ばれている。


 婚約者の王太子は義妹ばかりを庇い、私は黙って席を降りた。


 けれどその結果、ようやく空いたのだ。


 誰の付属品でもない、私自身の席が。


 今度その席に座るのは、もう私自身でいい。

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― 新着の感想 ―
個人の地位の向上なのはわかるのですが、 これだと仮に主人公一人が病に倒れただけで全て瓦解してしまうような状態なのに、正式な役職に就任したから良しってなってるのは問題の先送りのように思えました。 業務の…
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