酒場の灯り
第45話 酒場の灯り
北区の外れ、小さな酒場。
煤けた天井に吊るされた灯りが、黄色く揺れている。
夜も更け、客はまばらだった。
販売課長の男は、乱暴に杯を置いた。
「社長は慈善家だ。まったくもって慈善家だ。」
酒が跳ねる。
向かいに座る三人は、黙って聞いている。
「北区だけだってよ、最近は減ったが、昔は浮浪者がごろごろいたろ? 街全部なら数千はいるかもしれねぇ。」
ぐい、と酒をあおる。
「やるならよ、寄付でも集めて救済団体でも作りゃいいんだ。貴族に頭下げて金出させるとかよ。」
鼻で笑う。
「なのに、うちの社長さんは会社か自腹でやっちまう。」
机を指で叩く。
「ヒヤヒヤするんだよ。」
沈黙。
酒場の奥で皿の当たる音がした。
「慈善活動で会社が潰れたらどうする。俺も、家族も、おしまいだ。」
声が少し低くなる。
「ありがたいさ。俺は拾われた。盗みで解雇されかけた俺を、あの人は残した。」
昔の自分を思い出す。
金に困り、倉庫の品をくすねた。
見つかり、終わったと思った。
だが社長は言った。
「次やったら切る。今度は売り上げで返せ。」
それから必死に働いた。
今では販売課長だ。
家もある。妻も子もいる。
「ありがたいよ。だがな……。」
拳が震える。
「やりすぎじゃねぇか?」
誰も目を合わせない。
「浮浪者雇うのはいい。孤児院も素晴らしい。だがよ、弱って倒れてる奴まで抱え込むって……。」
喉が詰まる。
「社長が拾って助かった奴、いるか?」
沈黙。
杯を置く音だけが響く。
「いねぇよな?」
向かいの男が、わずかに視線を逸らす。
全員、元浮浪者だ。
全員、拾われた側だ。
だが“死にかけ”から救われた者はいない。
皆、まだ動けた。
働けた。
使い道があった。
だから生き残った。
課長の声が少し荒くなる。
「俺らはよ、使えたから残ったんだ。あの人は情だけじゃねぇ。ちゃんと見てる。」
そこまで言って、口をつぐむ。
本当は分かっている。
社長は情だけで動いていない。
計算もしている。
だが最近は違う。
弱っている者まで抱え込む。
医者を回し、薬を買い、厨房を開ける。
売り上げは伸びている。
だが支出も増えている。
綱渡りだ。
「……なぁ。」
課長は小さく言う。
「ちょっとはよ。社長さん、自分や会社も大事にしてほしいよなぁ。」
誰も返さない。
返せない。
愚痴を言えば裏切りになる。
誰かが「そうだ。」と言えば、それは不満の証になる。
もし耳に入ったら?
もうここで働けないかもしれない。
沈黙は忠誠ではない。
恐れだ。
灯りが揺れる。
酒場の空気が重い。
返さないのではない。
誰も、返せないのだ。
課長は最後の酒を飲み干す。
目の奥には、感謝と不安が同時に揺れていた。
マルペン商会は今日も成長している。
だがその土台の下で、
小さなひびが、音もなく広がっていた。
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引っ越し準備進まない。あちこちから電話やメールが来るし、対応もしなければならない。仕事行きながら引っ越し準備はなかなか大変だ。




