第8話 抱かれなかった夜のほうが、忘れられない
正直に言えば、もう、抱かれたいほどに熱くなっていた。
なのに、彼は――触れようともしなかった。
彼の瞳は、氷のように冷たいままだ。
けれど、その奥で、何かが揺れたように見えた。
微かに、息が乱れているのがわかる。
「……リーゼロッテ」
低く、抑えた声で呼ばれる。
俺はベッドに上体を起こし、外套を握りしめたまま、視線を合わせた。
身体はまだ熱い。
媚薬の残滓が、肌の下を這うように疼く。
息が、浅く、速い。
ユリウスは一歩近づき――
しかし、決して触れようとはしない。
彼の指先が、わずかに震えているのが見えた。
「今、君に触れたら……
俺は、理性が保てなくなるかもしれない」
声は、いつもより低く、掠れている。
普段の冷徹な宰相の仮面が、ほんのわずか、剥がれかけていた。
俺は、喉を鳴らす。
(……もう抱いて欲しい)
頭のどこかで、そう思ってしまう。
媚薬のせいだと、自分に言い聞かせる。
けれど、心の奥底では、違う声が囁いた。
(この男だから、抱かれたい……?)
俺は唇を噛んだ。
視線を逸らそうとして――逸らせなかった。
「ユリウス……お願い……私……」
(待て待て、俺は何を言おうとしてる?)
ユリウスは、ゆっくりと息を吐く。
喉仏が、上下に動く。
「君の身体が、求めているのはわかる。
だが……それは、君の本心じゃない」
彼は、ベッドの端に腰を下ろす。
距離は、触れられるほど近く。
それでも、決して触れない。
「今、俺が手を伸ばせば、
君は受け入れてしまうかもしれない。
だが、明日の朝……。
君は、俺を憎むだろう」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
彼の瞳が、初めて見るような、苦しげな色を帯びる。
「俺は……君を、そんなふうに奪いたくない」
声が、わずかに震えた。
俺は、思わず手を伸ばしかける。
だが、ユリウスは静かに、その手を避けた。
触れさせない。
「今は、待つ」
それだけ言うと、ユリウスは立ち上がった。
踵を返し、そのまま扉の方へ向かう。
「……?」
声を出す間もなく、扉が静かに閉まった。
一人きりになった部屋は、急に広く感じた。
さっきまで確かにあった気配が消えて、
胸の奥に、言いようのない不安が残る。
(……どこへ行った?)
(……まさか、俺を置いていく気じゃ……)
ほんの数分のはずなのに、時間がやけに長く感じた。
やがて、扉が再び開く。
ユリウスが戻ってきていた。
手には、新しい水差し。
何も言わずに卓上に置き、新しいグラスに冷たい水を注いで、差し出してくる。
「これを飲め。
少しずつ、熱を冷ませ」
俺はグラスを受け取り、ゆっくりと口をつける。
冷たい水が、喉を滑り落ちた。
少しだけ、熱が引く気がした。
ユリウスは、再びベッドの端に腰を下ろしていた。
けれど、その距離は、さっきよりわずかに遠い。
それでも、すぐ隣にいることに変わりはない。
その存在が、なぜか胸の奥を強く締めつける。
(……この男)
「……ありがとう、ユリウス」
彼は、わずかに目を細めた。
氷の瞳に、ほんの少しの柔らかさが混じる。
「礼はいらない。
俺は……ただ、君を守りたいだけだ」
その言葉が、胸の奥に温かく染み込んだ。
夜は、まだ終わっていない。
だが、今、この部屋にいるのは――二人だけ。
そして俺は、少しだけ、彼に近づきたいと思った。
――身体ではなく、心で。
俺は、少し迷ってから、ユリウスに向かって手を伸ばした。
ユリウスは一瞬、迷うように視線を落とした。
それから、ゆっくりと手を伸ばす。
「……ここまでなら、いいか」
指先が触れ、ためらいがちに絡む。
握るというより、確かめ合うみたいな強さで。
(なんでだ)
(この温度が、落ち着くなんて)
ユリウスの手は、熱くも冷たくもない。
ただ、逃げ道を塞ぐように、そこにあった。
指先が触れ合ったまま、
俺たちはしばらく黙っていた。
部屋の空気が、まだ甘く重い。
ユリウスは、俺の手を握ったまま、
視線を窓の外の闇に投げている。
その横顔が、いつもより少しだけ脆く見えた。
「……ユリウス」
俺は、静かに名前を呼んだ。
彼の指が、わずかに強くなる。
「どうして……?」
言葉が、出てしまった。
ユリウスは、ゆっくりと息を吐く。
「……君を、俺の欲望で汚したくない」
声は、低く、抑えたまま。
「一度……同じ過ちを、許したことがある」
俺の胸が、どくんと鳴る。
「過ち……?」
ユリウスは、視線を落とした。
「姉が……甘い言葉で騙されて、捨てられて……死んだ」
一瞬の沈黙。
彼の声が、かすかに震える。
「だから、君に……同じことを、させたくない」
俺は、息を詰める。
「……そうか」
俺は、握った手を、そっと強くした。
ユリウスは、わずかに目を細める。
夜は、まだ終わっていない。
でも、今、この瞬間だけは二人だけの時間だった。
俺は、目を閉じた。
(……少しずつ、この男の過去を、知っていきたい)
それは、俺の「俺」が、少しずつ、変わり始めている証だった。
***
夜が、ゆっくりと深さを変えていった。
外はまだ暗い。
けれど、闇の質が、少しずつ軽くなっていくのがわかる。
ユリウスはもう立ち上がり、外套を整え直していた。
俺はベッドに腰掛けたまま、毛布を肩にかけている。
同じ部屋にいる。
それだけで、不思議と落ち着いていた。
さっきまで残っていた疼きは、もうほとんど感じない。
媚薬の熱は、完全に引いた。
代わりに残っているのは、静かな疲労と――確かな現実感。
しばらく、言葉はなかった。
ユリウスは書類に目を落とし、俺は窓の外を眺めていた。
それでも、互いの存在を、はっきりと感じている。
夜明け前の空が、ほんのわずかに白み始めたころ。
ユリウスが、静かに口を開いた。
「……送る」
それだけだった。
問いでも、確認でもない。
当然のことのように。
俺は小さく頷く。
「お願いします」
立ち上がると、少しだけ足が重い。
ユリウスは、自然に歩調を合わせてくれた。
玄関へ向かう廊下は、ひどく静かだ。
屋敷の中の気配が、すべて眠っているように感じられる。
外へ出ると、冷たい朝の空気が肌を撫でた。
それが、心地いい。
馬車に乗り込む直前、ユリウスが、ふと足を止めた。
ほんの一瞬だ。
でも、その沈黙に、意味を感じてしまう。
「……リーゼロッテ」
低く呼ばれて、俺は振り返った。
朝の光が、彼の輪郭を柔らかく縁取っている。
夜の氷は、まだ完全には戻っていない。
言葉が、続かない。
代わりに、俺のほうが一歩、近づいていた。
ユリウスの肩に触れる寸前で、ためらう。
彼もまた、同じように動きを止めている。
――近づきたい。
――でも、壊したくない。
その葛藤が、痛いほど伝わってくる。
「……今なら」
ユリウスが、掠れた声で言った。
「今なら……君を、奪わずにいられる」
俺は、思わず笑ってしまった。
小さく、息が漏れる程度に。
「……ずるい言い方だ」
そう言ってから、逃げ場を与えないように、自分から、ほんの少し背伸びをした。
唇が触れるまで、ほんの一瞬。
触れて、離れる――そのはずだった。
けれど。
ユリウスの手が、ためらいがちに俺の背に回る。
強くはない。
引き寄せるというより、支えるみたいに。
キスは、深くない。
唇が触れて、互いの呼吸が混ざって、それだけで、十分すぎるほどだった。
すぐに、離れる。
額が触れるほどの距離で、二人とも、少し息が乱れている。
「……これは」
ユリウスが、苦笑する。
「約束違反、かな?」
俺は、首を振った。
「いいえ。
これは……確認です」
彼の瞳が、わずかに揺れる。
「……そういうことに、しておこう」
それ以上、何も言わなかった。
でも、その沈黙は、拒絶でも、保留でもない。
始まったという静かな合図だった。
馬車に乗り込んでからも、俺はしばらく、唇に残る感触を消せずにいた。
(……男なのに)
そう思って、でも、もう否定する気にはならなかった。
普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。
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