第7話 媚薬を盛られた夜に
――あの気取ったクソ女。
ハインリヒは、ワイングラスを強く握りしめた。
指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥の苛立ちはまったく収まらない。
主役は、僕のはずだった。
リーゼロッテは泣いて、縋って、最後には僕に選ばれる側の女だったはずだ。
それがどうだ。
今夜、皆の視線はあの女に集まり、僕は、ただの背景に押しやられた。
(……調子に乗りやがって)
優しくしてやれば、すぐ勘違いして、
少し触れれば、すぐ顔を赤くして、
「君だけだ」と言えば、簡単に縋りついてきた。
そういう女だったはずだ。
僕の言葉一つで、感情も、態度も、簡単に変わる――
都合のいい存在だった。
(それが、何を勘違いしている)
宰相?
所詮は平民上がりの理屈屋だ。
権力はあっても、人の扱い方は知らない。
女なんて、怖がらせて、依存させて、「自分にはこの男しかいない」と思い込ませれば、それで終わりだ。
今まで、全部そうしてきた。
リーゼロッテも、例外じゃなかったはずだ。
ハインリヒは、内ポケットに忍ばせた小瓶に指をかけた。
(……もう一度、思い出させてやる)
誰の言葉に震えるのか。
誰の前で、顔色が変わるのか。
誰の前で、声が掠れるのか。
あの澄ました顔が崩れる瞬間を、
今度は、最前列で見せてもらう。
***
夜会の余韻が、ようやく引き始めたころだった。
ヴァルデン伯爵夫人の屋敷は、来客の波が引き、静けさを取り戻しつつある。
俺は客用の私室に通され、椅子に腰を下ろして、深く息を吐いた。
「今夜は、ご活躍でしたわね」
夫人はそう言って、静かに立ち上がる。
「少し休みなさい。
使用人に、飲み物を持ってこさせますわ」
それだけ告げて、扉の外へ出ていった。
しばらくして、控えめなノック。
夜会用の制服を着た若いメイドが、銀盆にグラスを載せて入ってくる。
「お疲れでしょう。お水を」
差し出されたグラスに、俺は礼を言って口をつけた。
――その瞬間、違和感が走る。
(……変な味がする)
舌に残る、かすかな香り。
不自然なほど、後を引く。
……少したってから。
喉を滑り落ちる液体が、熱い塊のように、胸の奥へ落ちてきた。
思考が、わずかに遅れる。
身体の内側が、じわりと熱を帯び始める。
頰が火照り、首筋が熱くなる。
息が、浅く、速くなった。
(……なんだこれ)
(身体が変だ)
立ち上がろうとして、足元がふらつく。
膝が震え、視界がわずかに揺れる。
ドレスの布地が肌に擦れるだけで、ぞわぞわとした感覚が背筋を駆け上がる。
そのときだった。
――扉が、静かに開く。
「リーゼロッテ」
低く、粘ついた甘い声。
ハインリヒ・フォン・クラウスが、そこに立っていた。
彼はゆっくりと扉を閉め、鍵をかける。
音が、静かな部屋に響く。
「リーゼロッテ……今夜の君は、本当に綺麗だったよ」
彼は一歩近づき、無遠慮な視線を俺の身体に這わせる。
視線が、胸元に落ちたのがわかる。
腰のあたりを、なぞるように追われているのも。
……気持ちが悪い。
頰が熱いのも、呼吸が乱れているのも、
そんなことまで、見透かされている気がした。
視線が肌を這うだけで、吐き気がする。
なのに、首筋に落ちた視線だけで、ぞわっと鳥肌が立つ。
……嫌だ。こんな男に、反応なんかしたくない。
ハインリヒの手が、ゆっくりと肩に触れる。
ただ置いただけなのに、肩がびくりと跳ねる。
「触るな……っ」
小さな拒絶の声。
それでも彼は笑って、指を鎖骨に滑らせる。
まるで自分の所有物を確かめるように。
「あっ……」
息が漏れる。
自分でびっくりするくらい、震えてる。
「嫌がってる顔が、一番そそるよ」
(くそ、この男)
(殺したい)
腰に回された手が、布越しに臀部を軽く掴む。
「ほら、見てごらん。
もう、身体が正直になってる」
ハインリヒはベッドの端に腰を下ろし、俺の手首を掴む。
指が、熱く、ねっとりと絡みつく。
「今夜は、僕が全部癒してあげる。
あの宰相に縛られた身体を、自由にしてあげるよ」
「やめて……!」
頭では拒否しているのに、身体が、熱に負けていく。
視界が霞み、息が、熱く、浅くなる。
ハインリヒは、俺の肩を押して、ゆっくりとベッドに倒し込む。
「ほら、いい子だ。
もう、抵抗しなくていい」
「いやだ……!」
声が震えて、思わず手が彼の胸を押す。
力が入らない。
なのに、必死に。
「やめろっ……やめろって言ってるだろ!」
言葉が荒くなる。
普段の丁寧さなんて、どこかに吹き飛んでる。
ただ、逃げたい。
触られたくない。
なのに、身体は逆らって、熱を溜め込んでいく。
ハインリヒの目が、愉しそうに細まる。
「ふふ……そんな声、出されると、もっとしたくなるよ」
彼の指が、鎖骨をなぞりながら、さらに下へ。
俺は必死に首を振る。
「いや……っ、やめろ! 触るな!」
声が上擦る。
息が切れて、言葉が途切れ途切れになる。
それでも、止まらない拒絶の言葉が、喉から溢れ出る。
(いやだ)
(それなのに)
その瞬間。
扉が、勢いよく開いた。
ユリウス・フォン・アイゼンが、そこに立っていた。
氷のような瞳が、部屋全体を一瞬で凍らせる。
「俺の婚約者に何をしている」
「違う、誘われたんだ。
このふしだら女に」
ハインリヒが、俺を指さした。
そう言われて、顔が熱くなる。
(……違う、ただ)
(身体が、勝手に……)
喉が詰まる。
反論の言葉が、遅れる。
その沈黙を、ハインリヒは都合よく笑った。
「ほらな。
俺を誘惑して――」
「……違う」
自分でも驚くほど、声が冷たく出た。
まだ身体の奥に、熱の名残がある。
それが、悔しい。
「……薬……媚薬を盛られた。
だから、私……」
言い切った瞬間、空気が凍った。
ユリウスの瞳が、完全に色を失う。
「……誰に」
たった二文字。
それだけで、背筋が粟立つ。
「――こいつに」
俺が視線で示すより早く、ユリウスが一歩踏み出した。
「……俺の婚約者に、何をした」
声は低く、抑揚がない。
しかし、そこにあったのは、静かな、しかし確実な殺意。
ハインリヒが言い訳を探す間もなく、
ユリウスは一瞬で距離を詰め、拳を振り抜いた。
ゴッ、という鈍い音。
ハインリヒはベッドから転げ落ち、床に倒れ込む。
鼻血が、絨毯に落ちる。
「貴様……!
平民上がりが貴族に向かって……」
ハインリヒが起き上がろうとするが、ユリウスは冷たく見下ろすだけ。
「薬物の不法使用。貴族令嬢への暴行未遂。虚偽の証言による名誉毀損。
王国刑法第十七条、二十三条、四十一条」
視線だけが、鋭く細められる。
「――すべて、死刑または終身刑に該当するが。
出るところに出たいか?」
そこで、初めて感情が混じる。
ほんのわずか、声が低く沈む。
「……次に彼女に触れたら」
ユリウスは一歩だけ距離を詰めた。
「――俺が、殺す」
空気が、完全に凍る。
ハインリヒは床に這いつくばったまま、震える声で呟く。
「……お前ら……覚えてろ……」
ユリウスは、ただ静かに。
「覚えているのは、こちらだ」
ハインリヒは、這うように部屋から逃げ出した。
部屋に残ったのは、静かな沈黙。
ユリウスは外套を外し、触れずに俺の肩にかけた。
熱くなった身体に、冷たい布地が触れる。
それだけで、少しだけ、熱が引く気がした。
「呼吸を整えろ。
意識はあるか?」
俺は、かすかに頷く。
喉が熱く詰まるが、ようやく息が、整い始める。
「……ごめんなさい、怒ってます?」
ユリウスは一瞬、視線を落とした。
ゆっくりと息を吐き、静かに言葉を返す。
「……君に、じゃない」
低く、抑えた声。
だが、次の言葉は、ほんのわずかな間を置いて続いた。
「……君が奪われると思った瞬間、抑えが利かなくなった」
氷のような瞳が、俺をまっすぐ捉える。
そこにあったのは、いつもの冷静さではなく、
――確かに、感情だった。
……それ以上、何も言われなかったのに、胸の奥だけが、ひどくうるさかった。
普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。
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