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第18話 君が傷つくかもしれないと思うだけで……俺は、正気でいられなくなる

 ヴァルデン伯爵夫人は、紅茶をひとくち飲んでから、しばらく何も言わなかった。


 ただ、俺をじっと見ている。


 値踏みではない。

 同情でもない。


 ——決断を測っている目だった。


「……あなた、本気なのね」


 静かな声だった。


「ええ」


 俺が頷くと、夫人はわずかに口角を上げた。


「困った令嬢ですこと。

 持参金制度の次は、教会とか」


 責める調子ではない。

 むしろ、呆れと、ほんの少しの感心が混じっていた。


 夫人は、しばらく俺を見つめてから、ふと、何気ない調子で尋ねた。


「……宰相閣下は、ご存じなの?」


 その一言で、胸の奥が、きしりと鳴った。


 ——閉まる扉の音が、はっきりと思い出される。


『……今は、この話を続けるべきじゃない』


 あの、冷えた声。

 俺は、ほんの一瞬、息を止めた。


「……いいえ」


 そう答えるまでに、わずかな間があった。


 夫人は、すぐには何も言わなかった。

 ただ、俺の表情を見て、すべてを察したようだった。


「……そう」


 それだけ言って、視線を紅茶に落とす。


 責めるでもなく、詮索するでもなく。

 ただ、静かな理解だけがあった。


 それが、余計に痛かった。


 俺は、膝の上で指を強く組み直す。


(……それでも)


 あの人に否定されたから、やめるのか。


 ——違う。


 むしろ、あの扉が閉まった瞬間から、

 俺は、もう戻れなくなっていた。


「教会に踏み込めば、あなたはもう客人ではいられなくなります」


「……分かっています」


「表から抗議しても、扉は閉ざされるだけ。

 内部に入れば、今度は簡単には抜けられない」


 紅茶の表面が、わずかに揺れる。


「それでも?」


 俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 正直に言えば、怖い。

 俺には何一つ身を守るすべはない。

 教会という「聖域」に、自分から踏み込むなど、正気の沙汰ではない。


 ……でも。


「それでもです」


 声は、思ったより静かだった。


「見なかったことには、できません」


 夫人は、ふう、と小さく息を吐いた。


「……やれやれ」


 そして、ついに言った。


「方法が、ひとつだけありますわ」


 胸が、かすかに強く打った。


「教会に預けられる側になれば、あなたは守られるだけの存在になります」


「……はい」


「ですが、管理する側として入るなら——話は別です」


 俺は、思わず夫人を見た。


「管理、する側……?」


「見習い修道女。

 あるいは、保護院の監督補佐」


 夫人は淡々と続ける。


「身内の娘を信仰のために差し出した、という形でなら、教会は拒めません」


「……身内、ということにして?」


「ええ。遠縁の娘として」


 軽く言うが、それがどれだけの政治的意味を持つか、俺にも分かる。


 教会の内側に、貴族の血を持つ人間を送り込む。

 しかも、ただの寄進ではなく、「中に入れる」。


 夫人が、少しだけ目を細めた。


「……正直に言いますわね、リーゼロッテ嬢」


「はい」


「これは、危険です」


 はっきりとした口調だった。


「あなたが見るものは、きっと綺麗なものではありません」


「……」


「見てしまえば、戻れなくなる」


 俺は、静かに頷いた。


「……それでも、行きたいです」


 少しの沈黙。


 夫人は、しばらく俺を見つめていたが——

 やがて、ほんのわずかに笑った。


「……本当に、厄介な子」


 それは、もう完全に褒め言葉だった。


「分かりましたわ。

 では、私の名で、教会に申し出ましょう」


 俺は、息を吸って、ゆっくりと吐いた。


「……ありがとうございます」


「礼はまだ早いですわ」


 夫人は静かに続ける。


「入るだけでは、何も変えられません」


「……はい」


「中で、何を見るか。

 何を掴むか。

 何を持ち帰れるか——そこからが本番です」


 俺は、しっかりと頷いた。


「覚悟は、できています」


 夫人は、わずかに目を細めた。


「……そうでしょうね」


 その目には、もう迷いはなかった。


***


 数日後。


 鏡の中には、見慣れた令嬢ではない自分がいた。

 栗色に染めた髪。控えめな化粧。わずかに柔らかく整えられた輪郭。


「……別人ですね」


 呟くと、背後で夫人が満足そうに頷いた。


「これなら、しばらくは誰も気づかないでしょう」


 そのとき、扉が静かに叩かれた。


「……お入りなさい」


 空気が変わった。


 振り返る前から、分かってしまう。

 振り返った瞬間、そこにいたのは——ユリウスだった。


 一瞬、息が止まる。


「……どうして、ここに?」


 問いかけると、彼は視線を逸らしたまま答えた。


「……夫人から、連絡を受けた」


「……止めに来たんですか?」


 わずかに間があった。


「……止めたかった」


 低い声だった。


「……でも、君を止められそうにない」


 胸の奥が、わずかに揺れる。


「この間は、すまなかった」


 俺は、思わず瞬いた。


「……君の言っていることは、正しい」


「……本気で、そう思ってるんですか?」


 問い返すと、ユリウスはわずかに眉を寄せた。


「教会のやり方は歪んでいる。

 だが俺が動けば、あの連中は必ず改革派ごと潰しに来る」


「……やっぱり、立場の話ですか」


 そう言うと、ユリウスの目がわずかに揺れた。


「……それだけじゃない」


 声が、少し低くなる。


「教会を見るたび、思い出す。……姉のことを」


 俺は、息を呑んだ。

 彼が止めていた理由に、姉のことが絡んでいるなんて、想像もしなかった。


「泣きながら、俺の袖を掴んでいた。

 行きたくない、と……言い続けていた」


 指先が、わずかに強く握られている。


「だが俺は、何もできなかった」


 静かな告白だった。


「……だから、また同じことが起きるのが怖かった」


 しばらく、言葉が出なかった。


「……それで、私を止めたんですか」


「……ああ」


 肯定だった。


「……でも」


 俺は、小さく息を吸った。


「私は、あなたに守られている側でいるだけじゃ……嫌なんです」


 ユリウスの視線が、はっきりと俺を捉えた。


「……君は、強いな」


「強いわけじゃないです。ただ……もう、逃げたくないだけで」


 沈黙が落ちる。

 やがて、ユリウスが静かに言った。


「……それでも、君を危険にさらしたくない」


「……分かっています」


「失うことに、耐えられない」


 胸が、はっきりと鳴った。


「……それでも、行きます」


 しばらく、何も言わなかった。

 やがて、ユリウスは小さく息を吐いた。


「……だろうな」


 そして、低く続ける。


「……だから、一人では行かせない」


 顔を上げる。


「俺の側近をつける。名はセイン・クローディア」


「……側近?」


「情報収集と潜入に長けた者だ。必要なら、身分も顔も変える」


 短い言葉だったが、重みは十分だった。


「君の傍に置く。……それが、俺にできる最低限だ」


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「……ありがとうございます」


 そう言ったあとで、俺は一瞬だけ言葉に迷った。


「……それから」


 ユリウスが、わずかに目を細める。


「……ごめんなさい」


 口にした途端、胸の奥がきゅう、と痛んだ。


「理想ばかり押しつけた。

 あなたの立場も、怖さも……分かっていたはずなのに」


 言い終える前に、ふいに、視界が近づいた。

 ユリウスの腕が、俺を引き寄せる。

 強くはない。けれど、逃げ道を与えない抱き方だった。


「……これ以上、心配させるな」


 低い声が、耳元に落ちる。


「君が傷つくかもしれないと思うだけで……俺は、正気でいられなくなる」


 胸に額が触れて、心臓の音が、はっきりと伝わってきた。

 俺は、何も言えないまま、ただ指先を彼の背に置いた。

 そのときだった。


「……こほん」


 振り返ると、夫人は紅茶を片手に、どこか愉しげな目でこちらを見ていた。


「失礼いたしました。……邪魔でしたかしら」


「……いえ」


 ユリウスがわずかに視線を逸らす。

 夫人はそれを見て、ふっと微笑った。


「なるほど」


「……何が、ですか」


「いいえ。ただ……宰相閣下が、これほど分かりやすい表情をなさるとは思いませんでしたわ」


 ユリウスの空気が、一瞬だけ固まった。

 夫人は楽しげに続ける。


「ご安心なさい。今のことは、私の胸にだけ仕舞っておきます」


 そして、静かに視線を細める。


「……この子を、本気で守るおつもりなら」


「ええ」


 即答だった。

 夫人はその様子を見て、満足そうに微笑った。


「……面白いものが見えましたわ。お招きして、正解でした」

普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。

少しでも楽しんでいただけたら、本作はネトコン14応募作品ですので、ブクマや★で応援していただけると励みになります!

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