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第16話 そして誰も、悪人にはならない――ただ一人の不幸を除いて

 証言をしたために、行方不明になった令嬢がいる。

 それを知った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。


 ヴァルデン伯爵夫人の私室は、昼でも薄暗かった。

 重いカーテンが光を遮り、甘い香の残る空気が、妙に落ち着かない。


「また来てくださったのね、リーゼロッテ嬢」


 夫人はソファに腰を下ろしたまま、紅茶を勧めてくる。

 いつもの優雅な仕草。

 けれど、その視線は、前よりも少しだけ鋭い。


「今日は……社交の話ではありません」


 俺がそう言うと、夫人はカップを置いた。


「でしょうね」


 微笑みは崩さないまま、続きを促す沈黙。


「……裁判で証言してくれた令嬢たちのことです」


「……ええ」


 答えは短い。


「……一人だけ、連絡が取れない令嬢がいます」


 俺がそう言った瞬間、

 ヴァルデン伯爵夫人の指先が、ほんのわずかに止まった。


「……誰かしら」


「エルミーネ嬢です」


 名前を告げたとき、

 ヴァルデン伯爵夫人は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。


 それは、答えだった。


「……やはり」


 ひどく静かな声だったのが、逆に怖い。


「……どういう意味ですか」


 夫人はしばらく黙っていたが、やがて視線を窓の外に向けたまま言った。


「……あの子は、教会に預けられました」

「預けられて……?」


「保護という名目で」


 嫌な予感が、確信に変わる。


「その後、縁組が決まりましたわ」


「……縁組?」


「東方辺境伯領の、三男と」


「……三男?」


 思わず、声が低くなる。


 夫人は、淡々と続けた。


「素行が悪く、賭博癖や暴力癖があり、過去に婚約破棄が二度。

 それでも、家柄だけは立派ですから」


 吐き気がした。


「……本人は?」


 問いに、夫人はほんの一瞬だけ、視線を伏せた。


「……泣いて、拒みましたわ」


 胸の奥が、ひどく冷たくなる。


「ですが、教会はこう言ったそうです。

 神の導きです。

 あなたにとって、最も相応しい道ですと」


 俺は、しばらく言葉が出なかった。

 ようやく、かすれた声で呟く。


「……教会に、そんな権限があるなんて」


 夫人は、ゆっくりとこちらを見る。


「名目上は、ありません」


「名目上は?」


「ですが現実には、身寄りのない娘を保護し、縁を結ぶことは、美徳とされていますわ」


 つまり。


 誰も止めない。

 誰も責任を取らない。

 けれど、誰もが当然のように受け入れている。


(……それって)


 俺は、心の中で静かに結論を出していた。


(もはや、人身売買じゃないか)


 しばらく、言葉が出なかった。


 夫人が、静かに紅茶に口をつける。


「……教会は、仲介料を受け取ります」


「仲介料……」


「家は、面倒な娘を処理できる」


「……」


「嫁ぎ先は、持参金付きの若い花嫁を手に入れられる」


 淡々と語られる言葉が、ひとつずつ胸に突き刺さる。


「そして誰も、悪人にはならない」


「……」


「教会は慈善を行い」


「家は家の名誉を守り」


「嫁ぎ先は縁を得ただけ」


 夫人は、静かに言った。


「……綺麗な言葉で、すべてが覆われていますわ」


 俺は、膝の上で指を強く握りしめた。

 あまりにも、整いすぎている。

 教会には金が入り、家は体裁を保ち、男は若い妻を得る。


 ――犠牲になるのは、いつも声を上げにくい娘だけだ。


(……俺も)


 背筋が、ぞっとするほど冷えた。


(もし、ユリウスに選ばれていなければ)

(もし、婚約がなければ)

(もし、問題のある令嬢として処理されていたら)


 今ごろどこかの教会に預けられ、

 知らない男に神の導きとして差し出されていたかもしれない。


 ――自分の意思とは、無関係に。


「……私も」


 ぽつりと、声が漏れた。

 夫人が、静かにこちらを見る。


「……私も、そうなっていたかもしれない」


 空気が、ひどく静かになった。

 夫人は、何も否定しなかった。

 それが、答えだった。


 その代わり、夫人はこう聞いた。


「どうなさるつもりですの?」


「……わかりません。

 でも……見殺しにしたくありません」


 胸の奥が、静かに定まっていく。


(前世で死ぬとき、そう決めた)


 ――俺はもう二度と、

 不条理に流される側には、ならない。


***


 宰相邸の執務室は、いつもよりも静かだった。


 俺は、すべてを話した。

 ヴァルデン伯爵夫人の言葉も。

 エルミーネ嬢の行方も。

 教会の仕組みも。


 話し終えたあと、ユリウスはしばらく沈黙していた。


 やがて、低く言う。


「教会のことは、もちろんわかっている。

 ……君の気持ちも、理解できる」


 その声は、感情を削ぎ落とした宰相の声だった。


「だが……今、動くべき案件ではない」


 俺は、わずかに眉を寄せる。


「……なぜ」


「教会に手を出せば、貴族だけでなく、民衆の反発も招く。

 これは司法ではなく、政治の問題になる」


 正しい。

 完璧に、正論だった。


 だからこそ、胸の奥が冷える。


「……つまり」


 俺は静かに言った。


「今は見捨てろ、と?」


 ユリウスの眉が、わずかに動いた。


「そうは言ってない」


「いや、言ってる」


 俺が即座に返すと、空気がぴり、と張り詰めた。

 ユリウスは、しばらく俺を見つめていたが、やがて口を開く。


「……どうして、そこまで肩入れするんだ」


 声が、少しだけ低くなっていた。


「エルミーネ嬢とは……数回、会ったことがある程度だろう」


 俺は、息を止めた。


「あなたがここまで感情的になる理由が、俺には分からない」


 机の上の書類に視線を落としたまま、ユリウスは続ける。


「……あなたは、宰相の婚約者だ。

 一人の令嬢のために、国を揺るがすような行動を取る立場ではない」


「……っ」


「それが分かっていながら、なぜ、そこまで——」


 俺は、思わず一歩、彼に近づいていた。

 ユリウスの言葉を遮るように、口を開く。


「……あなたが、それを言うのか、ユリウス」


 ユリウスの目が、確かに揺れた。


「あなたの言うことは正論だ。

 でも……見捨てたくない」


「彼女は、怯えていた。

 でも、最後は私たちのために証言してくれた」


 一瞬、別の光景がよぎる。


 俯いて、唇を噛みしめていた少女。

 「……言えません」と、小さく首を振っていた姿。

 それでも最後には、震えながら前に出て、必死に言葉を絞り出していた。


「それを簡単に見捨てろと?」


 ユリウスは、すぐには答えなかった。

 ほんのわずかに、眉が寄る。


「それに……私は、運が良かった。

 あなたに見つけられたから。

 たまたま、助かる側に回れた。

 もし、ほんの少しでも歯車が違っていたら」


 ――その立場になるのは、俺だった。


 そう思うと、背筋がぶるりと震えた。

 

「もう後悔はしたくない」


「後悔?」


「私は」


 唇を噛みしめる。


「ずっと、見ないふりをしてきた」


「……?」


「前世で。

 理不尽だと思うことも、仕方がないと流してきた」


 視線を逸らさずに、続ける。


「でも……それで、誰も救われなかった。

 私自身も」


 空気が、重くなる。


「だから」


 俺は、はっきり言った。


「もう、流されたくない」


 ユリウスは、何も言わなかった。

 ただ、じっと俺を見つめていた。

 けれど、その沈黙は、どこか苛立ちを孕んでいた。

 やがて、彼は椅子から立ち上がる。


「……分かった」


 声は、冷えていた。


「……今は、この話を続けるべきじゃない」


 一瞬だけ、声がわずかに掠れた。


「あなたも、俺も……」


 それだけ言って、ユリウスが踵を返そうとした。


「……ユリウス」


 思わず、名前を呼んでいた。

 彼が、わずかに足を止める。


「……今まで」


 声が、思ったよりも低く出た。


「……あなたは、私と同じところを見ている人だと思っていた」


 ユリウスの背が、ほんのわずかに強張る。


「……なのに」


 言葉が続かなくて、俺は一度、息を吸った。


「……どうしてですか」


 返事はなかった。

 ユリウスは振り返らないまま、しばらく立ち尽くしていたが、やがて何も言わずに歩き去った。


 扉が閉まる音が、思ったよりも重く響いた。

 俺は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


(……信じていたんだ)

(なのに)


 この人は、自分と同じ場所を見ているのだと。

 理不尽を嫌い、弱い者を見捨てない人だと。


 だからこそ、理解してくれると――思っていた。


 胸の奥が、じくじくと痛む。

 怒りよりも、もっと鈍くて、厄介な痛み。


(……私が、間違っているのか?)

(感情に流されているだけなのか?)


 そんな考えが、頭の奥で渦を巻く。

 どれだけ考えても、答えは出ない。


 それでも――


(……見捨てる、という選択肢だけは)

(どうしても、選べない)


 ゆっくりと、息を吐いた。


(明日、教会へ行く)

普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。

少しでも楽しんでいただけたら、本作はネトコン14応募作品ですので、ブクマや★で応援していただけると励みになります!

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