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第15話 あなたが死ぬかもしれないと思った瞬間

 墓地を出た瞬間、ユリウスの歩調が、ほんのわずかに乱れた。


「……静かですね」


 俺がそう言うと、ユリウスは頷いた。


「この時間帯は、人の流れが変わる」


 歩調は一定。

 でも――


 どこか、注意が外ではなく「背後」に向いている。

 俺は気づかないふりをして、あえて聞いた。


「……誰か、います?」


 ほんの一瞬だけ、ユリウスの足が止まった。

 それは、ほとんど誤差みたいな動きだったけれど、確かに、止まった。


「……どうして、そう思った?」


「なんとなく」


 嘘だった。

 本当は、空気が変わったから。

 ユリウスは、少しだけ考えるように沈黙してから言った。


「……今は、まだだ」


 否定でも肯定でもない言い方。

 その曖昧さが、妙に現実的で、胸の奥がひやりと冷えた。


(……そんな世界か)


 それでも。

 隣を歩く背中は、少しも揺れていなかった。


 まるで最初から、この道を歩く覚悟を決めている人のように。

 王城の外門を抜けても、ユリウスの歩調は変わらなかった。


 背後を気にしていることも、周囲に神経を張り詰めていることも、もう隠そうともしていない。


(……やっぱり、危ないんだ)

(それでも、この人は――)


 ふと、胸の奥が静かに熱くなった。


 理由は、分かっているのに。

 認めるのが、少しだけ怖い。


(……やっぱ、好きだ)

(気持ちを、止められない)


 思った瞬間、身体の方が先に動いていた。


 そっと、彼の腕に触れる。


 ユリウスの歩みが、わずかに止まった。


 驚いたようにこちらを見た、その一瞬だけの隙。

 俺は逃げるように視線を逸らしたまま、静かに腕を絡める。


 言葉は、何も言わない。

 ただ、夜の中で。


 一拍。


 ユリウスは、何も言わずに歩き出した。

 ただ、歩幅が――ほんの少しだけ、俺に合わせられていた。

 ユリウスは、数秒だけ何も言わなかった。


 誰にも見えない夜道で、俺たちはただ、腕を組んで歩き続けた。


***


 その知らせが届いたのは、数日後。

 夜も更け始めた頃だった。


「……宰相閣下が、襲われたそうです」


 侍女の声は、できるだけ整えられていた。

 それでも、その言葉が持つ意味までは隠しきれていなかった。


「……何て?」


 聞き返した声が、自分のものだと分かるまで、ほんの一拍かかった。


「宰相邸へ戻る途中、何者かに襲撃を受けたと……。

 幸い、命に別状はないとのことですが……」


 命に別状はない。

 その言葉だけが、妙に現実味を欠いて聞こえた。

 気づけば、俺は立ち上がっていた。


「……馬車を出して」


「リーゼロッテ様――」


「今すぐです」


 それだけ告げて、俺は部屋を出た。


 胸の奥が、やけに静かだった。

 代わりに、指先がひどく冷たい。


(……なんで)

(なんで、俺は、そばにいなかった)


 分かっている。

 立場上、そばにいられるはずがない。


 それでも。


(……もし、死んでいたら)


 その想像が、あまりにも容易に浮かんでしまって、喉の奥がひりついた。

 血の色。

 冷たくなった手。

 動かなくなった身体。


 ――いやだ。


 胸の奥で、はっきりと拒絶の声がした。


 まだ何も始まっていない。

 何も言えていない。

 何ひとつ、伝えられていない。


 なのに、もし。


 もし、このまま失ってしまったら。


(……そんなの、耐えられない)


 指先が、震えていることにようやく気づく。

 自分が思っていた以上に、俺はもう深いところまで来てしまっているのだと、遅れて理解した。


***


 宰相邸は、いつもよりも明らかに空気が重かった。


 門の前に立つ衛兵の数が、普段の倍近い。

 敷地のあちこちに、緊張が張りついている。


 案内されるまま、執務室の前へ。


 扉の前で、ほんの一瞬、足が止まった。


 怖い。


 中に入って、もし。

 もし、取り返しのつかないことが起きていたら。


 それでも、ノックをする手は止まらなかった。


「……失礼します」


 少し間を置いて、返事があった。


「入れ」


 低く、聞き慣れた声。

 扉を開けた瞬間、最初に目に入ったのは、机の上に無造作に置かれた外套だった。

 布地が、深く裂けている。


 視線が、自然とその裂け目に吸い寄せられる。

 縁に、うっすらと濃い色が残っていた。


 ――血。


 息が止まった。


「……ユリウス」


 ようやく、それだけが口から出た。


 椅子に腰掛けたユリウスは、こちらを見上げていた。

 顔色は、普段とほとんど変わらない。


 それが、かえって異様だった。


「……来たのか」


 声は静かだったが、どこか少しだけ掠れている。


「……何が、あったんですか」


 問いは、思ったよりも低く出た。


 ユリウスは、ほんの一瞬だけ視線を逸らしたあと、淡々と答えた。


「帰路で、何者かに襲われた」


「……どこを」


 間髪入れずに聞いていた。

 ユリウスは、わずかに沈黙してから言う。


「……肩を、掠っただけだ」


 掠っただけ。

 机の上の外套を見れば、それが「掠っただけ」では済まなかったことくらい分かる。


「……それで済んだのは、偶然だ」


 ぽつりと落ちた、その一言。

 それが、すべてだった。


 ――運が悪ければ、死んでいた。


 その事実が、ようやく、胸の奥に届いた。

 足の力が、抜けそうになる。


「……」


 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。

 ただ、胸の奥が、ひどく痛い。

 ユリウスは、そんな俺を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。


「……心配させるつもりはなかった」


 その言葉が、ひどく胸に刺さった。


(……一人で、抱え込むつもりだったんだ)

(何も言わずに)

(俺には、知らせないまま)


 胸の奥で、何かが、静かに音を立てて崩れた。


「……どうして」


 気づけば、声が出ていた。


 自分でも驚くほど、低くて、硬い声だった。

 ユリウスは顔を上げる。


「……何だ」


「どうして、私に知らせなかったんですか」


 問いというより、ほとんど責めるような口調だった。

 ユリウスは、わずかに目を細めた。


「知らせる必要はなかった」


「……なかった?」


 思わず、笑いそうになった。


 いや、実際には笑えなかった。

 喉の奥が、ひりつくように痛い。


「……私は、当事者です」


 自分でも意外なほど、はっきり言えていた。


「あなたが狙われた理由の一端が、私にあるなら。

 それを『関係ない』なんて言われる筋合いはありません」


 部屋の空気が、張り詰める。


 ユリウスは、しばらく何も言わなかった。

 その沈黙が、逆に答えのようだった。


「……君を、巻き込みたくなかった」


 やがて、低く落ちた声。


「これ以上」


 その一言が、決定打だった。


 これ以上、って何だ。

 もう十分に巻き込まれているのに。


「……最初から、巻き込まれてます」


 俺は、ゆっくりと彼に近づいた。


 一歩。

 また一歩。


 机の前まで来て、ようやく足を止める。


「あなたが私を裁判の前に立たせた時点で。

 世論の矢面に立たせた時点で。

 もう、私は安全圏なんかにいません」


 ユリウスの視線が、じっと俺を捉えている。


「……それでも」


 俺は、続けた。


「それでも、私は逃げなかった。

 あなたが選んだ道に、ついてきた」


 胸の奥が、少しだけ震える。


「なのに……危なくなったら、全部一人で背負おうとする」


 言葉が、思ったよりも鋭くなっていた。


「……そんなことしてほしくない」


 ユリウスの表情が、わずかに揺れた。


 本当に、ほんのわずかだったけれど。

 それでも、俺は見逃さなかった。


「……君を、守りたいだけだ」


 その言葉が、優しくて。

 でも、どこか独りよがりで。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


「……守られるだけの立場じゃ、ありません」


 俺は、視線を逸らさずに言った。


「あなたが覚悟しているなら……

 私だって、覚悟くらい、あります」


 しばらくの沈黙。

 ユリウスは、やがて小さく息を吐いた。


「……君は、変わったな」


「……え?」


「最初に会った頃は、もっと……遠慮していた」


 それは、責める声ではなかった。

 むしろ、どこか柔らかい。


「今は、私を真正面から見ている」


 その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。

 でも、同時に思ってしまう。


(……違う)

(俺は、まだ、全部は言えていない)


 まだ、隠していることがある。

 一番大事な部分を。


 前世のこと。

 自分が男だったこと。

 それが、今も心の奥に残っていること。


 言うべきだと、分かっているのに。

 怖くて、まだ言えない。


 その葛藤を、見透かしたわけでもないはずなのに。


 ユリウスは、ふいに視線を落とした。


「……今日のことは、警告に過ぎない」


 低く、現実的な声。


「本気になれば、次は……もっと確実な手を使ってくる」


 その言葉が、胸の奥に重く落ちた。


 ――次がある。

 ――これは、始まりに過ぎない。


 俺は、ゆっくりと息を吸った。


「……それでも」


 視線を上げる。


「私は、ここにいます」


 ユリウスの目が、わずかに見開かれる。


「あなたのそばにいることを、選びました」


 静かに、でもはっきりと言った。

 逃げ道は残さない。


「だから……一人で抱え込むのは、やめてください」


 その瞬間、部屋の空気が、確かに変わった。

 ユリウスは、しばらく何も言わなかった。

 ただ、俺を見ている。

 まるで、何かを決めかねているような目で。


 そして、ようやく、ぽつりと。


「……分かった」


 短い一言。


 それだけだったのに、

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「……顔色が悪い」


 彼の声は、低く、静かだった。

 俺は無理に笑おうとして、失敗した。


「大丈夫です。ただ……少し、疲れただけで」


 ユリウスはゆっくりと近づいてきた。

 視線が、自然と上から落ちてくる。

 その距離が、妙に近い。


「……俺を、心配してくれたんだな」


 その言葉に、心臓が跳ねた。


「……当たり前じゃないですか」


 声が、自分でもわかるほど震えている。

 ユリウスは、わずかに目を細めた。


「恋愛は……しないと、言っていたはずだ」


 一瞬、息が止まる。

 俺は視線を落とし、膝の上で指を絡めた。


「……ごめんなさい」


 沈黙が落ちる。

 暖炉の火が、長い影を揺らしていた。


 逃げ道は、もうない。


「……実は」


 声が、ぽつりと零れた。


「前世の記憶があるんです」


 ユリウスは、わずかに瞬きをした。

 その表情に、はっきりとした戸惑いが浮かぶ。


「……どういう意味だ」


 低い声が、静かに落ちた。


「向こうでは、男でした。

 ただの市民で……働いて、働き続けて……気づいたときには、死んでいました」


 喉が、ひどく乾く。


「死んで……気づいたら、この体でした。

 女の体で、生まれ変わっていた。

 毒を飲んだ彼女の代わりに、目を覚ました」


 言葉を、ゆっくり選ぶ。


「最初は……受け入れられなかった。

 でも、生きるしかなくて……。

 この人生を、女として生きてきました」


 指先が、かすかに震える。


「でも……心のどこかに、前の自分が、まだ残っているんです。

 男だった頃の感覚が、消えなくて」


 息を吸う。


「だから、あなたに触れられると、嬉しいのに……

 同時に、怖くなる」


 ユリウスの瞳が、わずかに揺れた。


「女として愛されることが、怖い。

 でも……それでも、あなたを好きな自分が、いて」


 ようやく、顔を上げる。


「……だから、逃げていました。

 恋愛をしない、と言ったのは……あなたのためでもありました」


 ユリウスは、何も言わない。

 ただ、ゆっくりと、俺の頬に手を伸ばした。

 指先が触れるだけで、息が止まりそうになる。


「……それでも」


 低い声だった。


「今、ここにいるのは……君の意思か?」


 逃げ場のない問い。

 俺は、わずかに頷いた。


「……はい」


 はっきりと。


「私は……あなたのそばにいたいです」


 ユリウスの指が、わずかに震えた。

 まるで、それを聞く覚悟を、ずっと持てずにいたみたいに。

 しばらくの沈黙のあと、彼は小さく息を吐いた。


「……なら」


 ゆっくりと、言葉を選ぶように。


「俺は……待つ」


 その一言が、胸の奥に深く落ちる。


「君が、自分を受け入れられるまで。

 君が、自分の意思で……俺を選ぶと言える、その時まで」


 逃がしてくれる言葉なのに。

 なのに、なぜか、胸が熱くなる。


「急がせない。触れない。求めない。

 ……だが」


 視線が、まっすぐに俺を射抜く。


「君が、こちらへ踏み出すのなら。

 俺は、もう……引かない」


 その声は、静かで、でも決定的だった。


 俺は、しばらく言葉を失っていた。


 ――この人は、本当に、俺を尊重しようとしている。


 欲望でも、義務でもなく。

 支配でも、同情でもなく。


 ただ、「俺自身」を見ようとしている。


 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。


(……こんなの)

(……好きにならない方が、無理じゃないか)


 俺は、そっと手を伸ばした。

 自分でも驚くほど、自然に。


 指先が、彼の手に触れる。

 ユリウスが、わずかに息を止めた。

 俺は、小さく笑う。


「……待つって言いましたよね?」


「……ああ」


「じゃあ……少しだけ、触れるのは……許可、ください」


 一瞬、時が止まったようだった。

 それから、ユリウスの唇が、ほんのわずかに緩む。


「……それくらいなら」


 そう言って、今度は彼の方から、俺の指を包み込んできた。


 強くはない。

 けれど、確かに、そこにいると伝わる温度。


 心臓が、静かに、でも確かに跳ねた。


(……ああ)

(やっぱり、俺は)

(この人が、好きだ)

普段はBLを書いていますが、今回はNL(TS要素あり)に挑戦しています。

少しでも楽しんでいただけたら、本作はネトコン14応募作品ですので、ブクマや★で応援していただけると励みになります!

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